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そして扉は開かれた  作者: 柴咲遥
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パンデミック

北鎌倉の暗闇に建つ一軒のアパート、カギを差し込んで左に半回転させるとカチャっと音がしてゆっくりとドアが開いた。

「ただいま・・・」

誰もいない暗闇に向かって小さな声で呟いて玄関に入る。

冷え切った部屋に入り電気をつけて、テレビの前にある小箱の中に部屋の鍵とスマートフォンを入れる。

コートと今日着たスーツをハンガーにかけて、ファブリーズを振りかけると部屋は一瞬でジンジャーレモンの香りに染まった。

あるのは引っ越しの時に持ってきたシモンズのベッドと10年前に買ったビンテージのチェストとパソコンデスクだけ。

「少し寒いな・・・」

エアコンのスイッチを入れて、キッチンでやかんに水を入れて火にかける、テレビをつけると2020年夏のオリンピックの1年延期と、イタリアでの新型コロナウイルスの死者数が5000人を超えロックダウンを継続するニュースが流れていた。

「さすがに今年は無理だよな・・・オリンピック」

そう言って、帰る途中大船駅で買った唐揚げ弁当のパックのふたを外して、急須に熱いお湯を注いだ。


あれは昨年の夏、お盆を過ぎても残暑が厳しく夏季講習で娘の希実の帰りが遅くなる金曜日の夜だった。

出張先から直帰してめずらしく7時前に家に着いた日、秋田の実家に帰省する些細なことで妻と口論になった。

「私は今まで我慢してきた・・・今までずっと」

「・・・俺だって」

「なに?ハッキリ言ったらどうなの?」

「あなたは希実が生まれた時だって・・・何もしなかった」

「何もって・・・」

「都合が悪くなるとあなたは何も話さなかった・・・またそうやって黙り込む」

「・・・」

「希実の親権は絶対にわたさない」

「親権?」

「はい、これ」

妻は徐に立ち上がって、バックからクリアファイルに挟まれた一枚の紙を取り出し差し出した。

「離婚・・・届?」

薄い緑色に印刷された紙には黒いボールペンで高橋さおりと妻が親権を行う子の欄には高橋希実と書かれていた。

「いろいろ整理出来たら出しておいてよ」

「・・・本気か?」

「もちろん 本気よ・・・もうだいぶ前から考えていたの、自分の仕事も・・・」

「え?」

「あなたなにも知らないでしょ!」

「そうよね・・・希実が進学のことで悩んでいたことも・・・希実があなたのことどう思っているのかも」

(なんでこんなに偉そうなんだ?俺が何したっていうんだ!ちゃんと働いた給料だって・・・同期の中でも執行役員になっているのは俺だけじゃないか・・・家事だって、子育てだって俺なりにやってきた・・・マイホームだって・・・これ以上何を望むんだ?)

「バカヤロー」心の中でそう叫んでいた、心の中じゃ何も解決しないことがわかってるくせに。

妻は何事もなかったかの様に、冷蔵庫の中からキャベツとひき肉を出して台所に立った。

外からは僕の気持ちを代弁しているかのように悲しげに鳴くヒグラシの声が聞こえていた、そして僕は家を出た。


新型コロナウイルスで世の中がテレワークを推奨する中、医療機器業界は俗にいうエッセンシャルワーカーで、僕のような販売部門は毎日出社していた。

「ホントこれから世界はどうなるんだろ?」

テレビのニュース番組に向かって独り言を言うのも毎晩の日課になっていた。

シャワーを浴びて500mlの缶ビールを開け残っていた唐揚げを口に放り込んだ。


付き合いでやっていたゴルフも止めて、特に熱中する趣味もなく北鎌倉のアパートと溜池山王を往復する単調な日々が続いていた。

会社の半分がリモートワークで閑散としたオフィスでひとり報告書を作成していた時、総務部からの内線がなった。

「高橋部長、少しいいですか?」

総務の大谷部長が只事ではないトーンで電話をしてきた。

「少し別室で・・・直接話を」

総務部の応接室へ出向くと顔色が優れない大山部長がソファーに倒れ込むように座っていた。

「とうとう、うちにも出ました・・・コロナですよ!コロナ!コロナウイルス感染者が!」

「えっうちにも?」

「生産管理部の渡邊課長・・・確か高橋部長と同期?でしたよね」

「えぇ、私と大学も同じ・・・同期入社です」

「それが・・・今ICUに入ってるみたいで」

「ICU?ってそんなに?重症なのか?」

「詳しいことはわかりませんが・・・奥さんからの連絡では家族も面会できる状態じゃないみたいで」

「それで、渡邊はどこで?」

「いや・・・幸い今週はずっとリモートワークで」

「幸い?」

「いやぁそう意味じゃなくて、会社で濃厚接触者でも出たら大事で・・・」

「わかった、とにかくこのことは役員と社長には報告して・・・あとは」

「承知しました、それは私が・・・」

「渡邊の奥さんは学生時代から知ってるから、僕も連絡してみるよ」

「はい、お願いします・・・」

私はすぐに渡邉の携帯に連絡を入れた。

「やっぱ留守電か・・・」

「渡邊?渡邊 聞いてるか?コロナなんかに負けんじゃねえぞ!」

渡邉に聴こえているのか?わかない留守電を入れた。


渡邉のコロナ感染は社内でも噂になり、会社はビル全体のアルコール消毒を決めた。

その日の深夜、テレビ前の小箱に入ってるスマートフォンの振動で目が覚める。

「誰だ?こんな時間に・・・」

手探りでスマートフォンを手に取ると暗闇に「渡邊篤郎」の文字が浮かんだ。

「渡邊?渡邊大丈夫か?」

「高橋くん?・・・ご無沙汰しています」

「えっ三橋?」

「はい、旧姓で読んでくれるの、もう高橋くんくらいね・・・」

「渡邊は?」

「高橋くん、電話、ありがと・・・昨晩、逝きました」

「うそっ・・・だろ わたなべ・・・」

三橋は淡々とした口調で続けた。

「感染者は身内でもいろいろ制限あるみたいで・・・出来るだけ早く火葬して・・・葬儀も身内だけで、だから会社にも」

「わかった・・・それは僕の方で」

「ありがと、また連絡するね」

そう言って電話は切れた。


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