ショコラ・ショコラ8
「おばさんが母からこの漫画をもらったのは子供の頃だったって言ってました。
リフォームのために片付けしてる時に出てくるまで、自分がこの本を持ってたのも忘れてたって。
俺が高校を卒業して自立する時になって母親の形見だってこの本を渡されたのは、何か意味がありそうな気がします」
俺がそう言うと、水野さんは「君がそう思うなら、そうなんでしょう」と言ってくれた。
漫画の仕事は、細かい作業で思ったより緊張したけど、難しくはなかった。
最近は漫画はパソコンで描く人が多くデジタル漫画家と呼ばれる。
水野さんのように紙にインクで描く人はアナログ漫画家と呼ばれて少なくなってるんだそうだ。
「アシスタントは漫画家志望の人が仕事しに来る事が多かったんですが、最近の志望者はみんなデジタルでね。
私のようなアナログ漫画家のところにアシスタントに来る漫画家志望の人はあまりいません。
それでも東京や大阪に居れば給料さえ払えばアシスタントは探せます。
田舎でアナログアシスタントになろうとする人など、いないんですよ」
そんな説明を受けた。
「だから、君が手伝ってくれて助かってます」
俺はその言葉がとても嬉しかった。
ある日の風呂上がり、モロタを撫でながら俺が掃除して床が綺麗になったリビングで横になって船を漕いでいたら銀色の猫が俺の匂いを嗅いできた。
コウタだ。
ぼんやり見てたら、俺の手に鼻を擦り付けてくるので、撫でて欲しいんだなと思った。
撫でてやると気持ちよさそうに目を閉じている。
あんなに逃げてたのに三日泊まったらもうこれか。
可愛いな。
ああ、そうだ。
いつか猫を飼いたい。
一人で生きていくのなら、せめて猫と暮らしたい。
水野さんが原稿一枚分の人間を描くごとに呼ばれて、枠線をひいて消しゴムをかけて、セリフの清書をする。
トーンという、模様のシールを貼る。
仕事を手伝って、家事をして、ゴロゴロする。
何をしても水野さんは喜んでくれるしありがとうと言ってくれる。
おばさんも俺が家事をすると褒めてくれたし喜んでくれたのに、水野さんが褒めてくれると照れくさくて、もっと嬉しいのは何故だろう。
4日目に原稿が仕上がった。
その日の宅配便に出すのにギリギリの時間。
集配所まで原稿を持って行った水野さんは疲れ切ってた。
「明日なら送っていけるんですけど、今日はちょっと疲れてるから車の運転はもうしたくないなあ。
帰るならタクシー代出しますけど、明日までいませんか?
食事を作って風呂を入れて欲しいです」
本当に疲れ切ってる様子だ。
そう言われてもう一晩お邪魔する事にした。
早速夕食の支度をする。
帰りたくなかったので泊まれるのも嬉しいし、俺の事を送るよりは泊める方が楽だって思ってくれてるのが嬉しい。
俺はこの人にとって邪魔な存在じゃない。
水野さんに言われておばさんに「仕事がまだ終わらないのでもう1日帰らない」と電話した。
「そこのバイト、そのまま住み込みで雇ってもらえないの?」とおばさんに言われて、それはないと思うというと残念そうだった。
おばさんには水野さんの家の電話番号を知らせておいたけど、おばさんからは水野さんの家にいる間何も言って来なかった。
夕食はすき焼きにした。
一人だと食べないメニューだからと水野さんからのリクエストだ。
最後の晩餐。
明日にはおばさんの家に帰らなくてはならない。
それから、仕事を探そう。
それから。
カセットコンロに乗せたフライパンで作ったすき焼きを間に挟んでの食事。
俺は意を決して水野さんに、これからも遊びに来てもいいですか?と聞いてみた。
数日前に会ったばかりで、俺を子供だと思って優しくしてくれる大人。
子供の頼みを断りそうにない人。
断りそうにない人に頼み事をするのはずるいと思う。
でも断られたくない。
「押入れの漫画とか、読みたいし。
コウタとモロタも仲良くしてくれるようになったし。
これから仕事と住むところ見つけても、俺の一人暮らしじゃ猫を飼うのは難しいだろうから、この家で会えたらいいなって思って」
猫が好きですか、と聞かれて、そうみたいですと答えた。
水野さんとこのまま別れてしまいたくない。
俺を撫でてくれた人。
ひいばあちゃんが死んでから、俺をあやすために撫でてくれた初めての、たった一人の人。
俺は猫よりも水野さんに会いたい。