ショコラ・ショコラ4
ぼんやりと考え事をしていると、広太君、と水野さんの声がした。
「読むのに時間かかりそうなら、休憩してカレー食べませんか」
午前中にドーナツを食べたきりだ。
今は何時だろう。
カレーの匂いは俺の食欲を刺激した。
初対面の人の家で、カレーをご馳走になる。
「家に電話しておいてもらえますか。
未成年者を遅くまで引き止めてると面倒になりそうで怖いんです」
そう言われて電話を借りて洋子おばさんに連絡する。
今日は食事の支度をしていない。
怒られるかと思ったけど、友達の家で遊んでて遅くなったのでご飯を食べて帰ると報告すると「遅くならないように。ご迷惑をかけないように」と言われて終わった。
無断で食事の支度をサボった事は怒られなかった。
おばさんも俺に少しは悪いと思ってくれてるのかもしれない。
さっきまで漫画を読んでた場所に小さいテーブルを置いて水野さんの作ったカレーを食べる。
この人、変わってるんじゃないかな。
それともこんなものなんだろうか。
世の中の大人というのは。
そういえば、どこかに働きに行くのでなくて、家の中に仕事場がある人と知り合ったのすら、俺は初めてだ。
水野さんは今読んでるのが最終巻なら最後まで読んでいけばいいと言ってくれた。
読み終わったら車で送ってくれるそうだ。
それは悪いからと断ると「子供を一人で夜中に返すと心配だから」と言われた。
もう高校は卒業してるから子供ではないと返した。
これから就職か進学かと聞かれたので、就職先を探す予定だと答えた。
「今から?
在学中に就職先は探しておくものじゃないんですか?」
「実は先週まで進学する予定だったんです。
大学受験して、今は合格発表待ち。
合格できてたら進学の予定だったんですけど、家庭の事情で進学できなくなっちゃって」
俺は誰かに聞いて欲しかった話をした。
初対面で無関係なこの人なら、俺のどうしようもない不運な話を聞いても、実害はないように思ったから。
辛くなるので、なるべく軽く、明るく。
親を亡くして母親の従姉妹のおばさんに引き取られて育てられた事。
おばさんの二人の息子は高卒で大学進学してなかった事。
それでもおばさんは俺に家から通える地元の大学か専門学校になら行ってもいいって言ってくれた事。
「家には大おじさんがいたんです。
母の伯父でおばさんのお父さん。
まだ76歳だったけど、病気で心配で一人にできなくて。
大おじさんの世話を続けるなら、家に置いて進学させてくれるって。
俺嬉しくて。
大学行きたかったけど、行けると思ってなかったから。
その大おじさんが正月明けに急に亡くなったんです。
それでも、約束したから大学には行っていいって言ってもらえてたんです」
そこまで話終わった頃、カレーは食べ終わってた。
水野さんが入れてくれた熱いお茶を飲みながら、俺は話続けた。
明るく、軽く。
「でも、拓也兄ちゃんの彼女が妊娠したのがわかったんです。
彼女はまだ17歳で仕事なんてしてなくて。
拓也兄ちゃんもまだ21歳で給料安いって言ってて。
拓也兄ちゃん夫婦だけで子供育てながら暮らすのは経済的に無理だから、同居するってなって。
彼女と子供が一緒に暮らすには家が狭いから、俺に出て行って欲しいって」
高校卒業するまで育ててやったんだから、もういいわよね?
就職先なんて探せばいくらでも見つかるわよ。
すぐに出てけとは言わないけど、なるべく早く出て行ってね。
洋子おばさんにそう言われて、俺は出て行かないとは言えなかった。
洋子おばさんは言った。
「社員寮のあるところを探せばいいわ。
どうしてもなかったらアパート借りる時の保証人にはなってあげる。
今時他人の賃貸の保証人になってくれる人なんていないんだから、ありがたいと思ってよ」
拓也兄ちゃんは言った。
「お前の部屋、早く空けてくれよな。
子供産まれる前にリフォームしときたいんだよ。
爺さんの薬くさくて今のままじゃ嫌だってルナが言うからさ」
俺に個室はなかった。
俺は大おじさんの部屋で、大おじさんの介護ベッドの横に布団を敷いて寝ていた。
俺と大おじさんの部屋が拓也兄ちゃん夫婦の子育て部屋になるんだそうだ。
「だから俺、急いで就職先と住むところ見つけなくちゃいけなくて」
不合格だったら浪人はさせてもらえないのはわかってたけど、合格できる自信はあった。
俺は料理も掃除も洗濯も家事一切をやっていたから、すぐには追い出されないとも思ってた。
これから頼れる人もなく一人で生きていかなきゃならないんなら、せめて成人するまでは家に置いてやろうとおじさん(洋子おばさんの旦那さん)や裕也兄ちゃんが言ってくれてた。
拓也兄ちゃんの結婚が決まるまでは、そう思ってた。
だから就職活動はまだ考えていなかった。
家を出るように言われたのは、本当に最近の、卒業式の前々日だった。
彼女の妊娠はもっと早くにわかってたはずだし、同居の話ももっと前からあっただろうに、俺に知らされたのは本当に急で。
俺に言いにくかったんだろうとは思うけど、もっと早くに言っておいて欲しかった。
話しながら俺の声は震えてた。
目頭が熱くなって涙も出そう。
でもこらえた。
初対面の人にこんな面倒な重い話をして迷惑なのはわかってる。
でも吐き出さずにいられなかった。
この人なら大丈夫、そう思えた。
見ず知らずの無関係な人で、俺がどんなに辛い状況にあっても耐え難い痛みは感じないだろうと思ったから、だけでなくて。
ただ、なんとなく、この人は黙って俺の話を聞いてくれるような気がしたから。