一人のバラ
第五十一回開催は8月25日(土)第五十一回開催は
お題「涼しいね」/渦
作業時間
8/18(土)
20:32〜21:46(14分オーバー)
「一人のバラ」
――カランコロン。
他の人は声を潜めているのか、静かな喫茶店にその音だけが響く。彼女は四人掛けのソファの角に座って窓の方を、外を眺めていた。
夏の日差しは外に出れば未だに照りつけているけれど、冷房の効いた店の中では手出しも出来まい。ぼくは汗を拭うと、とびきりの笑顔で彼女に向かっていった。
「待った?」
彼女は長い睫毛を持ち上げて、ぼくを上目遣いに見ると、「そんなに」と静かに言った。
ウェイターにアイスコーヒーを二つ注文すると、彼女はおもむろに手のひらで隠すように持っていた文庫本の角を親指でぱらぱらと捲った。
「何読んでたの」
「アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ」
「星の王子さま?」
彼女はそう、と言って笑う。
「日本語訳はだめね、語学者がこねくり回したものだから、解釈がばらばらだわ」
運ばれて来たアイスコーヒーに彼女は人差し指と親指でミルクピッチャーを抓み、軽く小指を持ち上げて、つ、とクーレル製のグラスに注ぎ入れた。ミルクは静かに渦を描いて、くるくると黒からカフェオレ色に染まっていく。ぼくはブラックで。これはぼくと彼女が初めて喫茶店に二人で入った時から決まっている習慣のようなもので、ぼくは彼女のこの流れるような一連の動きに何度でも見蕩れてしまう。
「涼しいね」
そうね、と彼女はストローからミルク入りのアイスコーヒーを飲むと、首を傾げてストローでコーヒーをくるくると回し始めた。カラン、カラン、と氷がグラスにぶつかる音。
店内は小さな静寂の他には彼女の立てる音しかないような気がして、彼女のモノトーンのワンピースも相まってまるでサイレント映画を観ているようだった。
「ねえ、貴方が王子で私がもしキツネだったら、貴方は私を懐かせる事が出来るかしら」
形の良い唇を片方意地悪く持ち上げて、彼女はぼくに問う。彼女の左手は、また文庫本の角をぱらぱらと捲っている。
ぼくはゆっくりと彼女の手を取ると少し気障に彼女の指先にキスをした。誰も見ていないだろうし、構うものか。
「キツネ? 君はバラだよ。だってぼくは大切なものは目に見えない事を知っているからね」
彼女はくすくすと笑って手を引っ込める。二層に色の変わったコーヒーを再びかき混ぜると、汗をかいたグラスが、またカラン、カランと音を立てた。
「私はわがままを言って置いて行かれるのかしら」
「バラはきっと待っていてくれるよ。王子があらゆる欲望や困難を知っても、肉体を捨ててまでバラの許へ帰ったようにね」
ふうん。彼女は薄い唇をきゅっと一度引き締めると、『星の王子さま』を自分のバッグにしまった。
「わがままなバラは、そうね、映画が観たいわ。ラブロマンスなんかが良いかしら」
ぼく達は一頻り笑うと、コーヒーを終いまで飲んでしまって映画館に向かった。
美しいバラともう一歩仲良くなったら、電車に乗って海に行こう。爽やかな風に身を任せ、冷たい波に足をさらして。
大切なものは目に見えない――。