第五話「心の傷」
体育祭当日、グラウンドの隅で必死に競い合う生徒達を眺めていた。空は快晴で体育祭をするには打って付けの天気だ。正直雨になって延期になり、その延期日も雨になって中止になって欲しかったが、流石にそんな強欲すぎる願いは叶わなかった。出る競技は一つだけで楽なのだが、待っているこの時間が退屈で仕方がない。ぼんやりとグラウンドを眺めていると横から誰かに突かれた。案の定、東だった。
「なにぼーっとしてんのよ」
「いや、退屈だなって」
「....そうね、私も」
彼女はそっと俺の隣に座った。
「お前、何出るんだ」
「....ん、50メートル走。加藤くんは?」
「俺は障害物競走」
「お互いに楽なやつだね」
「そうだな」
他愛なくてつまらない会話だけど、いい退屈凌ぎになる。それは彼女も同じなのだろう。会話は止まらなかった。
「そうそう、この間あの喫茶店が新しい商品出したんだって」
「マジか、じゃあ今度一緒に行くか」
「うん」
この上なく嬉しそうに笑う彼女を見たのは初めてかもしれない。思わずその笑顔に魅せられそうになる程、素敵だった。俺はそっと彼女から顔を逸らしてグラウンドを眺めるふりをする。
「あ、もうすぐ私が出る競技だ」
「そ、そうか....頑張ってこい」
「勿論、なんか貴方と話したらやる気出てきちゃった」
無邪気な笑顔でそう言う。するとそっと俺に拳を向けてきた。それの意味が分からず首を傾げると彼女ははにかんだ。
「ほら、互いの拳を合わせるやつあるじゃない。あれだよ」
「ああ、あれか」
照れ臭く笑いながらそっと彼女の拳に自分のを合わせた。
「転ぶなよ」
「余計なお世話よ、じゃあまたね」
そう言って手を振り彼女はグラウンドへ向かって行った。今のは俺じゃなかったら惚れるな、とか考える自分を笑い彼女の勇姿を見届けた。次の競技が障害物競走だったので迎えは出来なかったが、すれ違う時に俺は彼女に親指を立てて微笑んだ。彼女は照れ臭そうに親指を立て返して笑った。
ーーー
喫茶店に入ると東が先に座って待っていた。店員さんがわざわざ案内してくれたが、終始浮かべる違和感を感じる笑顔の意味が気になって仕方がない。俺が椅子に座ると彼女は例の新商品を注文した。どうやら俺が来るまで待っていてくれたようだ。店員さんが去った後、俺は彼女に礼を言った。
「わざわざ待ってくれて悪いな」
「気にしなくていいわよ」
そう言う彼女に俺は頰を緩め、手元にあった飲み物を一口啜った。しばらく彼女と駄弁っていると例の新商品とやらが届いた。それは典型的なストロベリーパフェだった。
「今回からパフェのメニュー出来たんだって。だから早く全部食べてみたい」
「そりゃ楽しそうだな」
「でしょ?」
スプーンを手に取り一口掬って口に運んだ。予想以上に美味しさに普通に驚いた。高級とまではいかないけどその一歩手前程の美味しさだ。(食べたことないけど)
「これすっごく美味しいね」
そう言う彼女に俺は頷いてそれに同意した。何だろうな。彼女の側にいると嫌な事を忘れさせてくれて気が楽になる。彼女と友達になって本当に良かったと心の底から思った。
「なに、そんなに見つめないでよ」
そう言って彼女は恥ずかしそうに赤くした顔を逸らし照れ隠しにパフェを口に運ぶ。そこで俺は我にかえった。無意識に彼女を見つめていたらしい。
「ああごめん、ぼーっとしてた」
笑ってそう言うと彼女は少し睨んできた。そういう仕草はただの照れ隠しだと、今は分かる。俺はそんな彼女を微笑ましく思いながらパフェを頬張る。彼女は赤面のまま溜息をつき、渋々パフェを口に運んでいった。その後、特に会話をすることもなく(というか彼女が話しかけるなオーラを醸し出していたので)そのままパフェを食べ終えた。さっきからもそうだったが、会計を済ませる時もあの店員さんは終始営業スマイルとは言えない程笑っていたのが気になって仕方がなかった。外に出ると喫茶店に広がる濃厚で渋い香りとは打って変わって、都会の荒んだ冷たい空気が広がった。俺は振り返り彼女に向かって
「ありがとう」
と一言礼を言った。彼女はまた顔を赤くした。
ーーー
久しぶりに春香の見舞いに行こうと病院んへ向かう。しばらく顔を合わせてなかったからか、久しぶりに会うのが嬉しかった。少しは俺の事を思い出してくれているだろうか。それとも、相変わらず俺の事を“お兄ちゃん”と呼ぶのだろうか。それを知るのが少し怖いが、だからと言って彼女に会わないという理由にはならない。病院に着き、受付には予め伝えてあるのでそのまま春香の病室へ向かった。扉を二回ノックして扉を開ける。春香はベットの上で静かに読書をしていた。俺の存在に気付くと本を置いて満面の笑みを浮かべた。
「あ、お兄ちゃん!」
その言葉に心が痛む。でも、彼女が元気で無事だった事実に少し緩和された。彼女の傍にある椅子に座った。
「元気か?」
「うん、もう歩けるようになったよ!」
そう言って彼女は立ち上がって自慢するように小さく飛び跳ねた。その姿が何とも無邪気で可愛らしい。俺は彼女の頭をポンポンと叩いた。
「良かったな」
「うん、これでお兄ちゃんと遊べるね」
「....そうだな」
そっと彼女の頭から手を離す。彼女はその手を何処か名残惜しそうに見つめ寂しく笑った。時折見せる大人なびた彼女の姿に心が揺るがされる。俺を思い出すのは一体どれだけ先なのだろうか。もしかしたら案外早いかもしれないし、遅いかもしれない、最悪思い出さないかもしれない。彼女に忘れられた世界で彼女と生きるなんてどんなに残酷だろうか。撒菱が無数にある終わりのない道を裸足で踏み進むようなものだ。一番忘れられたくない人に忘れられることの苦しさは何処にも吐き出せない。ずっと俺の中で留まり増殖し続ける。彼女が俺を思い出さない限り、俺の心はどんどん廃れていく。だからと言って彼女に嘆願する権利はない。彼女の目の前で、彼女は知らないまま、彼女に傷つけられなければならない。
「お兄ちゃん....」
そっと春香が俺の名を呼ぶ。俺は何故かそれを俯いたまま無視した。今、彼女と目を合わせたら俺の傲慢な我儘を押し付けてしまいそうな気がして。突然、後ろから優しく抱き締められた。
「春香....?」
「そんな悲しい顔しないでお兄ちゃん、私で良かったら話し相手になるよ?」
俺は彼女の抱き締める腕にそっと手を添えた。
「ありがとう、春香。でも大丈夫だよ」
「そうなの....?」
「ああ、大丈夫。お前は自分の心配だけしとけ」
そう言って彼女の額を突いた。彼女はそっと俺から離れて安堵の笑みを浮かべた。今の春香にこの苦しみを押し付けるのも、同情させるのもいけないことだ。東が言ってたじゃないか。春香の記憶が戻ったら今まで我慢した分いっぱい我儘を聞いてもらえって。その言葉を思い浮かべて俺は春香に微笑んだ。その瞬間、病室の扉が開いて看護婦さんが入ってきた。
「春香さん、採血の時間だよ」
俺は立ち上がって春香に手を振って部屋を出た。去り際、彼女の寂しげに笑いながら手を振る姿を見て少し心が痛んだ。挫けるのは春香が記憶を取り戻してからだ。それまでは、ただ彼女の隣で彼女を支えよう。




