第四話「励みと慰め」
事故から数週間経った休日、春香の見舞いに行く。彼女はまだ歩くことは出来ないけど、それでも以前よりかは歩けるようになった。順調にリハビリをしていく彼女を毎日のように見るのが、最近の俺の日課だ。いつものように病室の扉を開けると春香はベットの上で小説を読んでいた。
「よう、春香」
「あ、お兄ちゃん。おはよ」
可愛げに手を振る彼女に手を振り返し、側にある椅子に腰をかけた。
「今日もリハビリか?」
「今日はしないよ。お医者さんからそろそろ休憩しなさいって怒られちゃったから」
「そうかそうか。まあ無理はしちゃいけないからな」
しばらく沈黙が生まれる。彼女の体にはまだ痛々しい包帯が巻かれているが事故当時よりかは数は少ない。順調に回復している証拠だ。ただ記憶の方は相変わらず戻らない。外からは小鳥の囀りが聞こえてくる。
「お兄ちゃん、一緒に散歩したい」
「散歩?」
そう言うと彼女はこくりと頷いた。俺は立ち上がって彼女を抱えて車椅子に乗せた。病院の中庭は狭くて居心地は良くないが、外の空気を吸うにはうってつけの場所だ。彼女の車椅子を押しゆっくり歩く。
「私ね、結構歩けるようになったんだよ」
「マジか、すごいな」
「うん、でもまだまだだってさ。杖で歩けるようになるまでは車椅子だって」
「そうか、無理しない程度に頑張れよ。応援してるぜ」
心地の良い風が吹く。木々が風に揺られる音が響く。その風に揺られ乱れた彼女の髪をそっと手で直すと彼女は照れ臭そうに笑った。彼女はいつ報われるのだろうか。誰よりも頑張り屋で誰よりも努力家の彼女に報いはいつ訪れるのだろうか。
「なあ春香、退院したら何がしたい?」
「え、なに急に」
「お願いの一つや二つ聞いてやろうかと思ってさ」
「ふーん、じゃあ....んー」
しばらく考える。その刹那、窓から風が吹き込む。その風に揺られる春香の髪に少し見惚れた。
「お兄ちゃんと一緒に遊びたい!」
意外と幼稚な返答に俺は微笑んだ。
「そんなんでいいのか?」
覗き込むように彼女を見つめそう言うと彼女はそっと優しく笑った。その大人びた表情に少し驚いた。
「何でかわかんないけど、お兄ちゃんがすっごく蓮くんにそっくりなの。だから、お兄ちゃんと一緒に居るとすごく楽しい」
「....そうか」
素直に喜ぶべきか否か。次第に記憶を取り戻しているが、一向に俺の事は思い出さない。彼女の記憶には、幼い頃の俺しか居ない。今の、恋人としての加藤蓮は、未だ彼女の記憶にはいない。その現実が、いつも俺の心を痛く縛り付ける。
「そうだな、退院したら一緒に遊ぼうな」
「うん!」
無邪気に笑う春香の頭を撫でる。今日は風がよく吹く。まるで穴が空いた俺の心を通り抜けるように。俺の心は、虚しいままだ。
ーーー
「加藤くん....?大丈夫?」
声がする。聞き慣れた声だ。ゆっくり顔を上げると東が心配そうに俺を見ていた。
「最近また不眠症が悪化してる気がするけど....何かあったの?」
俺はしばらく間をあけて首を横に振った。そんな応答を彼女は信じるわけもなく、少し怒った表情で
「自分で一人で抱え込むのは駄目よ。どんなことでもいいから私に相談してよ」
と言った。頑固に俺は黙り続けたが、彼女の圧に耐えられず素直に話した。
「春香が、いつまで経っても記憶が戻らないんだ....」
そう言った瞬間彼女は静かになった。見なくても分かる。彼女がどんな顔をしているのかなんて。俺は俯いたまま話を続ける。
「もう事故から一ヶ月だ。記憶喪失って、そんなに時間が掛かるものなのか?」
そっと手が優しく握られた。顔を上げると、東が少し躊躇いがちに俺の手を握っていた。
「記憶喪失のことはわからないから何とも言えない、でも大好きな人のことは絶対に忘れないと思う。きっと、心の奥底にずっと残ってるんだよ。今は時間が掛かっても、絶対いつか貴方を思い出してくれる日が来る」
不確かな理論に首を傾げたが、何だか勇気付けられた気がする。やっぱり、彼女は優しい。こんなにも俺を支えてくれている。彼女が居なかったら、俺はきっと諦めていただろう。捨ててしまっていただろう。俺は彼女の手を握り返した。
「ありがとう、東」
そう微笑むと彼女は顔を赤くして逸らした。
「当たり前でしょ....困ってたら助ける、それが友達でしょ」
「そうだな、その通りだ」
笑いながらそう言う。彼女も少し微笑み俺の手を離した。いつも彼女に励まされてるな。全く俺はいちいち情けない。
ーーー
月日が流れ季節はすっかり暑い夏になった。春香が事故に遭ってから二ヶ月経った。怪我は順調に回復し、今では杖がなくてもある程度は歩けるようになった。そのことに関しては嬉しいのだが、未だに記憶が戻っていないからか素直に喜べない。そんな自分が少し嫌に思えたが、今更何を言おうが事実は変わらない。蒸し暑い炎天下の中でそんなことを考えていた。
「加藤くん、おはよう」
後ろから聞き慣れた声が聞こえた。振り返るとやはり東がいた。長い黒髪を後ろで括っているせいか、何故か違和感を感じた。それに気付いたのか彼女は俺を少しだけ睨んだ。
「何よ、変な目で見て」
「いや、髪括ったら雰囲気変わるなって思ってさ」
素直に感想を言うと彼女は恥ずかしそうに顔を逸らした。
「そ、そう....かな?」
「うん、春香みたいに短くしたらどうだ?」
「....ばか」
彼女は俺を軽く叩いて早歩きし出した。その行動の意味が理解出来ず首を傾げながら彼女を追いかけた。
「おい、馬鹿ってなんだよ」
「うるさい、ばか」
拗ねる彼女に困るがこれ以上何か言っても無駄な気がして、俺は溜息を吐いて黙々と彼女の隣を歩いた。近々体育祭があるからか、この頃よく体育祭の練習をさせられる。学校の行事に興味のない俺はバレない程度で上手くサボっていた。腹が痛いと嘘を吐いて校舎裏へこっそり抜け出すと先客がいた。
「お前か」
「....加藤くんもサボり?」
「まあ、そんなとこだな」
そっと彼女の隣に座って呆然と空を眺める。何か会話でもするのかと思っていたが、互いに言葉を交わさず沈黙していた。外は相変わらず蒸し暑い。日陰でも大して変わらない。首筋に垂れる汗を袖で拭いながら横目で彼女を見てみた。目が合った。
「....なんだよ」
「別に....見てるだけ」
彼女は時折不思議だ。俺は素っ気ない返事をして視線を空に戻した。俺は本当に自己中心的な男だ。自分の事しか考えていない。自分さえ良ければ他はどうでもいい。いつもそうだ。昔はこれ程不真面目ではなかった気がするが、春香が事故に遭ってから明らかに俺は物事の殆どに興味を示さなくなった。無関心になった。俺が春香を想うのも、自分の為なのだろうか。彼女と過ごした幸せな日々は、確かに互いを思っていた。でも、今は本当にそうなのか言い切れない。それ程までに俺は腐ってしまったのかもしれない。
「暗い顔してるわよ」
突然彼女にそう言われて我にかえる。
「そうか....?」
「うん。何か考え事してたでしょ」
「別に....特にねえよ」
「自分は無関心な人間だ、なんて考えてたんじゃないの」
図星を突かれて驚きを隠せなかった。それを見て彼女は少しいじらしく笑った。
「私もそうだった。気が病んじゃうとそうなるよね。仕方ないよ」
「....春香を想う気持ちが本物なのか分からなくなったんだ。春香が事故に遭って、今はほぼ歩けるくらいに回復して、後遺症も記憶喪失だけで済んで、すごく良いことなのに....その現実に満足してない自分がいる。それを春香に押し付けているのをやめられない自分勝手さが嫌なんだよな....」
渋々語る自分の心中に彼女は同情しなかった。むしろ優しく微笑んで励ましてくれた。
「自分を忘れてしまった恋人といると誰でも複雑になるわよ。我儘を互いに押し付け合うのが恋人ってものでしょ。今は彼女の我儘聞いて、思い出したときは貴方の我儘をいっぱい聞いてもらいなさい」
はにかみながら話す彼女に心が安らぐ。
「だから貴方が彼女に我儘を押し付けるのは、春香さんのことが好きってこと」
またあの時のように励まされた。自分の事はなのに、それを彼女に気付かされてばっかりだ。情けないな。独りじゃ自分さえも理解出来ない馬鹿な男だ。俺はそっと彼女に微笑んだ。
「ありがとな、また励みになるよ」
「来月も同じことさせないでよね」
「また頼むかもな」
冗談半分でそう言うと彼女は笑った。
響子ちゃんがお気に入り、以上




