9話
マリアナは何とか、説明をした。普段は銀のフレームの眼鏡をかけている事やボロボロのシャツとズボンで過ごしている事などを洗いざらい話して聞かせた。シグルは驚きのあまり、黙り込んでいた。
「…あの。シグル様。私、本が好きですし。おしゃれには疎いですし。女らしくしようと努力はしていますけれど。大公妃にふさわしくないでしょうから。婚約を無理になさらなくても良いと思います。だから、私ではなくてもっと、ふさわしいご令嬢を選ばれた方が良いかと」
マリアナの「妃にはふさわしくない」という言葉を聞いてシグルは眉を吊り上げた。
「…マリアナ。誰が妃にふさわしくないって言った。わたし、いや。俺はそんな事は思っていない。もし、君がふさわしくないと思っていたとしても。婚約を破棄にはしないよ」
「どうしてですか。破棄にした方がシグル様にとってもいいのではないですか?」
「君はわかっていない。俺は君を初めて見た時から、妃にしたいと思っていた。だというのに、破棄にしろだなんてひどいことを言ってるって自覚はないのか?」
シグルは真顔でマリアナの腕を掴み、顔が触れんばかりに近づいてきた。至近距離で紫の瞳が自分の瞳を捉える。シグルの瞳は覗き込めば覗き込むほど、深い朝日が昇る前の空の色をしていて吸い込まれそうになるのだ。最初から、この紫に惹かれていた。
マリアナは途端に顔に熱が集まるのを抑えられなかった。シグルは掴んでいた腕を離すとマリアナの頬をそっと撫でる。撫でられたそこから、体中から熱が集まるような心地がした。
とにかく熱い。シグルが頬から目尻を指でなぞり、顎に到達する。そして、親指の腹で唇を撫でた。
ぞくりと痺れるような何かが背筋を駆け抜けた。マリアナはぼうとなってシグルを見つめた。
「…マリアナ」
いつもより、低く掠れた声で名を呼ばれてさらにぞくっと痺れが背筋を駆け抜ける。シグルの低い声は腰にくるとこの時、思った。
だが、マリアナは抵抗もせずにシグルの肩に手を置いた。彼も気づいたらしく、彼女の頬に手を戻すと己の顔をぐいともっと近づける。
気がついたら、温かくて柔らかなものが唇に触れていた。触れるだけのキスをされてマリアナは茫然としていた。
が、気がついてシグルはすぐにマリアナの体を離した。
「…あ、すまない。俺としたことが。王宮に来てもらうために迎えにきたのに。とりあえず、行こう」
「…え。はい。あの、行きます」
口ごもりながらもマリアナは頷いた。シグルは彼女の手を握るとゆっくりと馬車へと向かった。
マリアナは先ほどのキスのせいで口紅がはげてしまっている事に気がついていなかった。