35話
マリアナが居住まいを正すとウェルシスはまっすぐに彼女を見つめながら告げた。
「シェイドにスノーヴァ侯爵やユリアが近づくようになったのは今から八年前の事になる。あの子がまだ八歳くらいの頃だ。わたしは王宮にいなかったがシグルや他の兄弟たちと共にこちらへよく遊びに来ていた。そんな折に婚約者だと言ってユリアを連れてきていたな。二度か三度は話をしたことがあるが。ユリアはなかなかに気が強くて我が儘な娘だった。気位も高く傲慢な所があってな。よくシェイドを叱りつけていた。『グズ』とか『のろま』とか悪口も言っていたな」ウェルシスは一旦、言葉を切った。マリアナは頷きながら問うた。
「シェイド様は幼い頃からシグル様と比べられながら育ったと聞きました。ユリア嬢もあまり優しく接したりはしていなかったわけですね?」
「そうだ。ユリアはシェイドと二人だけでいる時には罵声を浴びせたり手をあげていたとさえ聞く。そのせいかシェイドは日に日に表情が暗くなっていき、王宮の自室から出てこなくなった。人と関わる事を嫌がり怖がるようになってな。しまいには侍女に当たり散らし辞める者が続出した。それが十歳くらいの時だったか」
マリアナはシェイドの過去を聞いて胸が締め付けられる思いだった。が、シェイドが何故このような事件を起こしたのかまだ真相には辿り着けていない。マリアナは一度深呼吸をしてから言った。
「シェイド様はユリア嬢に冷たく当たられて人間不信に陥ってしまわれたという事ですね。その後、兄君を狙うようになったのは何故なのでしょうか?」
「…シェイドにスノーヴァ侯爵は兄のシグルが自分を嫌っているとしきりに言って思い込ませていたんだよ。そして、皇太子に真にふさわしいのはシェイドだと吹き込んだ。弱い毒を何回も取り込めば命に関わるようにじわじわとシェイドは侯爵によって敵対するように仕向けられていった。六年という時間をかけてな。そして五日前に毒を盛る事を決行した」
ウェルシスはそこまで言うとふうと大きく息をつく。マリアナは嫌な汗が背中に流れるのを感じた。
シェイドは失敗したとなったらもう一度シグルを狙うだろう。今度は毒などというまどろっこしい方法ではなく確実な手段を以て行うはずだ。そこまで考えてマリアナはウェルシスとレイシェルに頭を下げる。
「あの。陛下、妃殿下。お願いしたいことがあります」
「いかがした、マリアナ殿?」
「今から王宮に戻らせてはいただけないでしょうか。何だか嫌な予感がするんです」
マリアナが言うとウェルシスとレイシェルは互いに顔を見合わせた。頭を下げていた彼女には見えなかったが。
「…わかりました。でしたら、馬車だと時間が掛かりますし。馬に乗ってお行きなさい。離宮に飼われている馬の中でも駿馬を貸しますから」
レイシェルがはっきりとした声で了承する。
「そうだな。では騎士の中でも馬術に長けた者を同行させよう。後、エルリックも連れて行きなさい。あいつは国でも五本の指に入る馬術や武術の使い手だ。マリアナ殿を抱えながら馬を走らせるくらいはできる」
「ありがとうございます。では、今すぐに支度をしますので。御前を失礼いたします」
マリアナが深々と頭を下げながら礼を述べるとウェルシスとレイシェルは無事でと言ってくれた。踵を返すとカリンと共に執務室を出たのだった。