五、寝返り
藩主暗殺の企みが露呈し、それを実行して居た者を捕らえた梅吉。
此処から形勢逆転の謀が始まる。
小者の誘いを受け、共に働く覚悟を決めた偽の赤川の縄を解きながら、此れ迄朧気であった主吉橋茂直の命を狙う者の存在が、目の前の男の口から語られる事で、その正体を聞き出し茂直へ知らせれば、此度の御家騒動も落着すると梅吉は考えた。
忍びの世界に於いて、与えられた勤めと言う物に疑いを持つ事は、雇い主や組織の長に逆らいかねないと疎まれ、そうした者からすれば迷い無く働く者を駒として使いたい。
重ねて言えば、疑問を持って働く者は、いつ何時手の平を返し裏切るか解らない⁉
そうした不安、いや問題を払拭すべく、絶対遵守の規律として掟が設けられた。
そして、それを破れば、抜け忍として秘密保持の為、幾ら逃げても命を奪われる迄続く逃亡劇が始まり、それは当人だけで済まず一族郎党に迄及ぶ事に成る。
そうした世界に生きる偽の赤川、その正体である野辺午吉は、その足枷がある為に一党を抜ける事に躊躇って居た。
そうした躊躇いが、弥次郎兵衛や雇い主には訝しまれる事に成り、一党の中での存在感を失しなったと言って良い。
そうした抜け忍の一歩手前とも言える立場に居るのは、紛れもなく今の自分自身であると午吉は解って居る。
粗方の忍びは、その組織の中で疑う事も無く与えられた勤めを漠然と行う。
そして、その内容に疑いを持つ事は無い。
それは何故か?
視点を変え、相手方の立場に立てば、そちらの思いが正しいと成るからである。
第三者が見れば、善悪や道徳的な事で判別を付けるのだが、当事者と成れば各々それぞれが正義だと疑う事は無い。
そうした中で、勤めを請負う弥次郎兵衛や午吉の様な忍びは、その雇い主が白で無くとも正義と割り切り働く。
が、午吉は茂直の人と形を知り、その勤めに疑いを持ったばかりに、何時しか一党から蚊帳の外へと追いやられた。
それも、一党を作った功労者だと言うのにだ!
そうした悔しさも相まって、自身を必要としてくれた目の前の小者と、自身が一角の人物と認識した茂直の為に働く事を決した。
そうした午吉へ、縄を解いた小者は、
「やはり、迷うわな⁉
じゃが、共に働かぬと申すなら……」
梅吉が此処迄言った所で、
「いや、そうでは無い。
この期に及んで、儂に迷い等と言う物はあろう筈も無い!」
そう言い切った午吉は、
「誠を申せば、儂は此れで良かったと思うて居るし、この方が儂らしいと嬉しくも思うて居る。
儂が今の一党を作ったのは、儂ともう一人の者であったが、近頃の一党にどうやら儂の居場所は無い様での。
もう一人の頭領、その者弥次郎兵衛と言うのじゃが、女子供でさえ造作も無く殺す残忍な奴で、その遣り方が儂にはどうしても気に食わんかった。
そこで、その様な真似をこの後も成すならば、共に勤めは出来ぬと申したのじゃが、それからは肝要な勤めから遠ざけられる始末。
斯様な甲斐無き役回りばかりでは、流石に嫌気も差そうと言う物。
それに、我らが此度請け負うた勤め。
儂は、どうしても合点が行かぬ!
あれ程のお方を亡き者にしようとは。
此れ迄、我らが遣って来た勤めは、商家やせいぜい武家の揉め事位であったが、此度の勤めは殿様を狙うと言う、儂らが此れ迄遣って来た勤めとは余りに桁が違い過ぎる!
儂が思うに、此度の勤めを受けたは金だけで無い様に思える。」
そう言った午吉を見て、
『殿を亡き者としようとするならば、御身内の仕業か何か恨みを買ったとしか思えぬが、その様な事、儂が知る限り殿の周りには見当たらぬのじゃが。
されど、この者が申す事に疑う余地は無かろう。
と成れば、その弥次郎兵衛成る者、何としても此度の勤めにて、己が値打ちを雇い主に知らしめたかったのであろう⁉』
そう思うと、その様な者ならば、目の前に居る人情味ある者とは、当然相容れぬであろうし煙たがるだろうと納得した。
「左様か。されば、その弥次郎兵衛を雇って居る者は誰ぞ⁉
その者が、弥次郎兵衛成る者へ、何ぞ大きな餌をぶら下げた様じゃな!」
問い掛けた梅吉へ、
「申し訳御座らぬ。
儂は先にも言うたが、ここ半年程は一党から爪弾きにあって居る身。
弥次郎兵衛に至っては儂に関わろうともせず、何時しか勤めは奴が仕切る様に成り、儂も一党から抜ける事を思案する様に成って、敢えて関わる事を避けて居った故、此度の勤めも手下から伝えられ、雇い主が誰なのかも一切知らされて居らぬのじゃ。」
言った午吉の言葉に、雇い主が解ると期待してた梅吉は思惑が外れ落胆した。
「左様か、お主も生中に辛い立場の中に居る様じゃな⁉
それで、一党を抜け様として居ったと申すのか?」
梅吉にこう言われ、午吉は自身の言葉を疑わない小者に、
「お主、誠に人が良過ぎるぞ。
されど、その疑う事を知らぬ心根が、却って恐ろしき物に映るのじゃ!
あたかも、何もかも見透かして居るかの様に思われてな。
故にこそ、儂も胸の内を語る気に成った。
正直な所、誰が依頼主かは未だ知れぬ。
されば、其方らと組むと決めたからには、この後は密かにその正体を探り出すつもりで居る。」
言った午吉の言葉を聞いて、
「誠か、誠に申して居るのだな⁉
されば主の覚悟、この儂がしかと受けた。
されど、お主。
万が一にも露見致せば追手が掛かり、命を狙われ討たれる事にも成り兼ねぬぞ!」
先にも記したが、忍びに於いての裏切りとは、一党からすれば組織や仕事内容など、重要な情報が敵方へ漏れる事を意味する、組織に取って最も重き罪と周知されて居る。
そうした危うさを解った上で、午吉が自身へ力を貸そうとして居る事に、午吉自身がその身を犠牲にしての覚悟を知り、改めて味方に成った危うさを疑う余地無しと決し、
「相解った。
お主の力を借りようぞ。
されば、某、名を新城梅吉と申す。
其方の名を聞かせてはくれぬか?」
聞いて来た梅吉へ、偽の赤川は正直に自身の名である野辺午吉と言う名を言った。
此処に来て、漸く二人は互いの名前を打ち明けた。
「左様か。
どうやら、誠の名の様じゃな!
されば、これより先、宜しく頼む。」
こうして、午吉は梅吉と共に茂直に仕える覚悟を決めたのだった。
梅吉が安易に午吉を信頼するのは、忍びの世界に於いては以ての外な話だが、梅吉には面前に座る午吉を疑う気は毛頭無かった。
それと言うのも、梅吉は幼き頃より人を見る目がある不思議な子であった。
相手の目を見れば、それと無くその者の奥底にある本心を感じ取る事が出来た。
そうした眼力は、凡そ外れる事無く今日迄続いて来て居た。
この時に梅吉が見た午吉の目は、余りにも晴れやかに澄んだ綺麗な物であった。
捕えた直後、午吉の目には迷いと言う物が多くを占めて居たのだが、梅吉の誘いに心を決した瞬間に目の濁りが一瞬にして消えた。
それ以降、梅吉と話す午吉の目が怪しく成る事は一度として無かった。
「お主、廻りの者から随分甘いと言われて来たのではあるまいか?」
尋ねた午吉に、
「ふっ!
かつては、その様な事を言われた事もあったが、これ迄儂の目に狂いが無かった故、近頃に至っては斯様な戯言を口にする者も影を潜めよったわ。」
そう言うと、梅吉は高らかに笑った。
その様子に、午吉は面前の男ともっと早く出会い組みたかったと思った。
もしそうなら、今自身が抱える事に成った裏切りと言う憂いを抱かずに済んだからだ。
だが、不安を払拭する事は出来無いが、もう自身に心の迷いは無い!
そう思うと、
「されば、儂が知る此度の勤めがどの様な物かを、儂が知る限りで話そう。」
この午吉の言葉に、梅吉は午吉の目をしっかり見返すと頷いた。
「梅吉殿。此度、其方が申される通り、藩内にて殿様の御命を狙う不届き者が居る事、疑い様も無く、某の勤めにて何を指図されたかと申せば、その者から我ら一党へ密かに頼み事が寄せられたと申す。
その話を承ったのが、儂らが一党のもう一人の頭目弥次郎兵衛と申す者にて、近頃はその者の采配にて一党は動いて居る。
されど、此度の勤めを果たすにあたり、初めて他の勤めを一切受けず、一党総出にてこれに臨む程に、肝要な勤めと見なされて居ると言う事で、儂も勤めに加わる事と相成った次第。
そして、儂へ割り振られた勤めが此度の道中に紛れ込み、殿様の御命を頂戴する任であったが、あからさまに御命を奪えば訝しまれると、毒を以て御身を弱らせ国元にて病に臥せ果てたと見せ掛ければ良かろうと注進し、その旨が雇い主に聞き届けられたと言う次第なのじゃ。」
午吉の話を聞き、暫く黙って居た梅吉であったが、
「されば、その勤め。
この後も続けてはくれぬか⁉
無論、誠の毒を盛れと言うのではのうて、お主の元へ来る指図を知らせて貰いたい。
その旨を心得た上で、殿を病に見せ掛け仇を欺きつつ国元を目指すと致そう。
さすれば、そなたも一党に怪しまれる事もあるまいし、我らも万に一つの隙も見せぬよう周到に立ち回る所存故、安心召されい。」
この心強い物言いに、午吉は例え命を落とす様な事と成っても、これ程の者と勤めが出来る成らば悔い無く死ぬる事が出来ると悦びを覚えた。
そうした梅吉を見る午吉へ、
「して、午吉殿よ!
誠の赤川殿は何処ぞ?
主の事ゆえ、命迄は奪っては居らぬであろう⁉」
言われた午吉は、
「あぁ、そうであった。
申し訳御座らぬ。
本陣の倉、其処の二階へ縛って御座る。」
そう言ったのへ、梅吉は午吉を運び込んだ田園の中に佇む納屋、その形をした梅吉一派の忍び宿の地下から出るや、二人して本陣へ戻るべく畦道を見附宿へ向け駆け出した。
梅吉が午吉を運び込んだ忍び宿は、矢奈比売神社と見附宿の間に位置し、かねてより東海道筋等の探索の為、尾張名護屋と江戸の間に梅吉は五か所程、この様な忍び宿を密かに置いて居た。
ともあれ、見附宿へ戻った二人は、納屋へ向かうと戸を開け階段を駆け上がり、薄暗い二階の奥、出格子窓から漸く届いた微かな光の中、梁から吊るされた縄の先に黒い人影らしき塊を見咎めた。
「そち、赤川殿を捕えし折、その面を見られはせなんだか?」
聞かれ午吉は、暗闇で不意に当て身を食らわせた上、忍び頭巾を被って居たから見られては居ない筈だと返した。
それを聞き頷いた梅吉は、成らば共に付いて来る様にと言うや、吊るされて居る人影の元へ近付いた。
二人が人影の側に来た時、暗闇の中に見えたその顔は紛れも無く、梅吉が知る御膳番頭の赤川馬之助その者であった。
すかさず、その躯を午吉に支えさせると、梅吉は吊るされた縄を切り赤川の躯を床へと下した。
床に横たわる赤川は、目を瞑り寝て居るかの様であったが、その姿は紛れもなく気を失って居るのが見て取れた。
梅吉は、赤川の頬を二度三度軽くはたくのだが目を覚ます気配は無く、
「そちは、赤川殿に何を致した⁉」
思わず問うたのに、猿轡をしているとは言え、呻き声一つ漏れてはと眠り薬を使ったと言った午吉に、それはどれ程前の事かと聞いたのへ、返って来た返答を聞くや赤川の半身を起こすし背中へ膝を当て瞬時力を入れた。
「むぅ~。」と言う呻き声と共に、赤川は意識を取り戻した。
何が起ったと言わんばかりに辺りをキョロキョロする赤川へ、
「大事御座らぬか⁉」
声を掛けた梅吉の顔を見て、
「おぉっ、そなた!」
と驚きの声を上げたのへ、梅吉は本陣に入り込んだ曲者を成敗した折、赤川が此処に閉じ込められて居る事を聞き出し救いに来たと話した。
これを聞いて赤川は、礼を言うと共に何とも情けないと恥じ、腹を斬ろうとするのを梅吉は押し留めると、赤川殿が居なく成った事で藩主暗殺と言う企みが発覚し、曲者を倒す事ができ企みをも阻止する事が出来たのだと告げ、どの様な形であれ殿様を助ける事が出来たのは間違い無い事であるから、決して恥じる様な事では無いと宥めるのだった。
そして、その事は家老も知って居る事だと告げたのに、赤川はホッとした表情を浮かべるのだった。
そうした赤川へ、既に一行は出立して居るが、この文を家老内藤玄番へ渡せば大事無いと直ぐに出立する様促した。
礼を言い、出立するべく階下へ降りて行く赤川を見送ると、
「そちの顔は、やはり見て居らなんだ様じゃな⁉」
この梅吉の言葉に、午吉はホッと安堵の表情を浮かべるのだった。
その顔を暫く見て居た梅吉は、
「されば、其方に改めて勤めを為して貰いたいと思うて居る。
其方は、雇い主が誰かとは知らされて居らぬと申して居ったが、されど雇い主は藩内の誰ぞであろうとも申した。
ならば、其方が言うておった、その雇い主が誰であるか探って貰いたい。
但し、決して深入りする事無い様にな!」
この梅吉の言葉は、午吉の双眸へ力強い光を差し込ませたのだが、
「も一度言う、決して無茶をするでは無い!
其方が言う弥次郎兵衛たる者、生中に感が良い者と思われる故に、余りに探りを入れれば、流石にそちの様子に可笑しな物を感じてしまおう。
ならば、今のまま成るたけ目立たぬ様、そっと探りを入れる様に致してくれ!」
と、釘を刺す事は忘れ無かった。
先にも言ったが、忍びの世界に於いての裏切り行為は御法度で、法度を侵せば抜け忍として死ぬ迄命を付け狙われる。
忍びとは、戦国の世よりそうした非情な世界として知られるが、太平の世と成り凡そ百五十年が過ぎたこの時代、一部の忍びが幕府や諸藩に雇われはして居る物の、甲賀忍びと呼ばれた甲賀侍衆等は、天正十三年の羽柴秀吉による侍衆改易処分で領地を失い没落、一方甲賀と共に名が知られる伊賀者達は、江戸時代に入り無足と言う武士身分を保証されるも、次第に士分を放棄し帰農する様に成った事で、抜け忍として処罰される事も無くなり自然消滅するに至った。
その様な、時代が忍びを必要としなく成った中だが、甲賀、伊賀や他の忍び衆の中に、忍びの技を密かに継承する梅吉の様な者達が居るのも事実で、そうした者達も又、代々諸藩に雇われ続けて来た者や、当ては無くともいつか日の目を見る事があると、一縷の望みを胸に密かに技を継承し続けて来て居た。
歴史上に於いても、江戸幕府が始まり徳川家光公の治世と成った頃、天草の乱等の一揆鎮圧に忍びが活躍した記録は残って居る。
がしかし、実際の所は、この頃の忍びは衰退の一途を辿るばかりであった。
故に、忍びの組織も公儀や諸藩で雇われて居る者以外、水面下で細々と生き残った者達が居る程度であった。
そうした事から、その昔にあった掟は、この時代にはあって無い様な物であった。
そうした生き残りとも言うべき忍びの午吉と同じ、戦国期の遺産とも言うべき忍びである弥次郎兵衛は、栄華を極めた戦国時代の忍び組織を再興させたい思いが強かった。
それ故、伝え聞いた忍びの仕来りや掟に執着する所があり、一党が大きく成れば成る程に一層それらに固執するのだった。
弥次郎兵衛のその様な気質を思えば、午吉の寝返りは死に値する物で、それ故に寝返りが露呈しない様にと梅吉は願うのだった。
御膳番頭の赤川を送り出し、梅吉は午吉と幾つかの事を取り計らうと、梅吉自身は一行へ戻るべく午吉はこれ迄通り、一行に付かず離れず帯同し国元へ向かう事にした。
一行より遅れる事一刻(凡そ二時間)。
梅吉と午吉は、一行に追い付くべく東海道を下って行った。
茂直一行が次の宿場、舞坂宿に着く前に二人は余裕で一行に追い付いた。
梅吉は自然と一行の中へ戻ると、口取りを行って居る善七と勤めを変わり、午吉は旅人として一行と一定の距離を取り付いて行く。
そうして、次の逗留予定である二川宿を目指す一行は、家老内藤玄番の指示により、通常より多く休息を取りながら先を急いだ。
それと言うのも、藩主茂直の体調が思わしく無いと言う体を為す為であった。
そして、その工作は側に仕える家臣達をも偽る事と成った。
午吉を仲間に引き入れたとは言え、その午吉に言わしめる程、弥次郎兵衛と言う者は用心深く疑り深いと言う。
故に、午吉の事を信じ切っては居ないと思える事から、午吉が気付かぬ内に他の者を密かに配して居る可能性は十分にある……と。
梅吉は用心に用心を重ね、敵を欺かねば成らないと玄番へ進言した。
それを聞き入れた玄番は、これ迄以上に茂直を病に見せる事にし、極力人目に触れぬ様にする事でそれを偽装しようとした。
二川宿迄の間、通常であれば休息は概ね一度しか取らないが、一行は小休止を含めれば全ての宿場で休息を取る事と成った。
実の所、一踏ん張りすれば、一行は吉田宿迄行けたであろう。だが、そうした思惑から緩々とした行軍を行う事と成った。
道中、梅吉は茂直が休む新居宿での御休所を密かに訪れ、敵方であった午吉との成り行きを話し、自身の手の者として使う事を説明し承諾を得た。だが、
「その様に、易々と信用して良いのか⁉
そちの人の好さに付け入り、謀り(たばか)を巡らせて居るのやも知れぬぞ!」
そう釘を刺す事を忘れ無かった茂直へ、常時動向を観察し、万が一にも裏切り、御家に迷惑を掛ける様な事があれば、自身が責任を以て処理した後、存分な処分を甘んじて受ける覚悟だと告げた。
これを聞き、梅吉がそこ迄言うのならと茂直は渋々許した。
人払いをされた御休所の一室、既に体調が良く成った茂直であったが、人目に付かぬ様に病気の体を装う事は続けて居た。
そうした茂直の元を離れる際、
「殿、御手数とは存じますが、未だ道中の安寧は定かでは御座りませぬ。
されば、敵方を味方に付けたとは言え、予断は許されませぬ故、御身くれぐれも御油断為されませぬ様、御心がけ下さりませ。」
と部屋を後にするのだった。
日も沈み掛けた頃、一行は目的地である二川宿へ入ると、玄番は二件ある本陣の内江戸屋へと草鞋を脱ぐや、直ぐ様茂直を奥座敷へ運ぶ様指図した。
そうして、主君を休ませると言う名目で、近衛の者数人と自身以外を人払いした。
そうした上で、自身が介助するからと小姓の芹川へ、茂直と自身の食事を運んで来る様言い付け、他の者達へはゆっくり息抜きでもして来る様にと送り出した。
一同が部屋を出ると、床に伏して居た茂直が勢い良く起き上がり、
「やれやれ、病を装うも、そろそろ骨身に堪えて参ったわ!」
余りに窮屈な道中に、うんざりと言った様相の茂直へ、
「誠に以て嘆かわしい事に御座りまするが、これもひとえに御家の難儀を救わんが為。
何卒、御堪忍下さりませ。」
申し訳無さそうに言う玄番を見て、
「心得て居る。
故に、儂の身を案じるには及ばぬ。
されどのぅ、狭き所も難儀とは言え、それにも増して口惜しきは、養生の膳ばかりで腹が満つるような飯にありつけぬ事よ。」
今にも、憤懣遣る方無しと言った具合に成りそうな主茂直を見て、
「殿、どうか辛抱して下され。
病を患う者が、余りに達者な姿を見せられては、敵も何やら不審に思うやも知れませぬ故に。」
そう言った玄番の言葉に、茂直は解って居ると自身に言い聞かせる様に言った。
何とも気まずい空気が流れる中、
「されば、殿には存分に召し上がって頂く事と致しましょう。」
突然、その様な声が聞えたかと思うと、座敷に面した廊下の障子が開き梅吉が姿を現わした。
その姿に、
「梅、お主何を言うて居る⁉
此度の策、そなたが言うた事ぞ!」
主の苦悩を十分承知して居る玄番は、何ともやるせないと言わんばかりに言い放った。
「承知致して居ります。
某とて、これ迄誠に心苦しゅう御座りました故、一計を案じて参った次第にて、御耳を御貸し下さりませ。」
梅吉の言葉に二人は顔を見合わせるや、寄って来た梅吉へ近付き耳を寄せ、梅吉はそれらの耳へ何事かを耳打ちするのだった。
これを聞き、茂直は驚いた顔を、玄番は、
「何と⁉」
と発したのへ、梅吉は言葉を続ける。
「某、殿に無理を申し上げて居った事、常々心苦しく思うて居りました。
御身が癒えれば、御膳を所望為さるは道理に御座いますれば、敵を欺く為とは申せ、殿にのみ御負担を御掛け申す事、誠に申し訳の無き事に御座ります。」
そう言うと、二人に向かい秘策とも言うべき策の詳細を聞かせた。
一方、時間は遡り、一行に付かず離れず帯同する午吉の元へ、
「よぉ、殿さんの加減は如何じゃ?」
突然掛けられた言葉に、その声が弥次郎兵衛配下の一人、トンビの辰吉だと既に解って居た午吉は、
「見れば良かろう。」
と顎をしゃくり、遥かに見える吉橋家一行の行列を見遣った。
この辰吉、何故にトンビかと言えば、元々が忍びの末裔と言う話しだが、午吉達同様に時代から置いて行かれた末、忍びの技を悪行に使い出してからは、油断した隙を付いて獲物を奪うトンビの如く、人を誑し込み騙し取る術を使う事から、仲間内ではトンビと渾名されて居た。
その辰吉は、午吉に促されるまま行列を見遣った。
午吉達が見遣る吉橋家一行は、今まさに遠江白洲賀宿にある笠子神社へ、休息を取るべく境内へ入ろうとして居る所だった。
午吉と辰吉は茂直の状態を確認する為、密かに神社へ潜り込むと、境内に生える欅の大木へ身を隠し庫裡の入口を見遣った。
二人が見る庫裡の入口へ、茂直が乗った駕籠が横付けされると、廻りに居た近衛の者達が駕籠口の前へ来るや、駕籠の戸を開け中から茂直を引き摺り出し、近衛の者が肩を貸し両側から抱え表へ出すと、用意された輿へ身を横たえさせ奥座敷へ運ぶのだった。
木の上から様子を見て居た二人の目に、痩せこけくぼんだ目には生気が無く、瘦せ細った腕と脚が着物の裾から覗いて居る姿が映って居た。
「あれなら、国元に戻ったとて、数日も持つ事はあるまいて!」
言った牛吉に、
「あんだけヨレちまってるんかい⁉
ならぁ、おめえの言う通り、態々手ぇ下さなくても、いずれ勝手にくたばっちまうってもんよなぁ。」
笑うと、午吉の言う事を疑いもせず、弥次郎兵衛へ知らせに向かうべく、意気揚々と裏道を国元へ向け掛けて行くのだった。
敵である午吉を味方に付け、まだ解らぬ黒幕を炙り出すべく、梅吉は茂直の傍に付き従う。




