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二、苦悩

東海道の難所と言われる箱根を越え、吉橋家一行は無事三島宿へ着く事が出来たが、家老内藤玄番が駕籠の中を見ると、大汗を掻きグッタリした藩主吉橋茂直の姿があった。

こうした藩主を、家臣達は無事国元へ連れて帰れるのか⁉

この先、一体何が起こるのか?

 夕刻より幾分早く、一行は無事三島宿に到着する事が出来たのだが、玄蕃が主茂直の駕籠へ向かい、

「殿、只今、無事に到着仕りました。

 御身の御加減、如何に御座いますか?」

 駕籠の中に居る茂直へ声を掛けると、返って来たのは幾分疲れた弱々しい声で、

「大丈夫じゃ。

 大事無い。」

 と言う言葉だったのに、違和感を覚えた玄蕃は咄嗟に、

「殿、御免!」

 言うや否や、駕籠の扉を開けた。

 其処には、大汗をかきグッタリした主茂直の姿があった。

 玄蕃は、その姿に、

「直ぐに床の用意じゃ!

 殿を休ませてさしあげぇ!」

 些か取り乱した玄蕃であったが、直ぐ様冷静さを取り戻すと、

「玄英殿、直ぐ様、殿の御身を診て下され!」

 藩医山東玄英へ茂直の容態を診る様頼み、陣屋の者へ茂直の看病に必要な物を運ぶ様頼むと、次に陣屋での宿泊等の段取りを指図、それを終えると奥座敷で横に成って居るであろう茂直の元へ向かった。

 襖の前に控える小姓を見咎め、

「如何じゃ!?」

 玄蕃の問いに顔を向けた小姓は、言葉を返す変わりに、今にも落涙しそうな顔を向ける事で玄番は容態を察する事が出来た。

 玄蕃はその様子に覚悟を決めると、襖の前に屈み心を落ち着かせるべく息を一つ吐き、

「御免、失礼仕る。」

 声を掛け静かに襖を開けると、中の様子を伺いつつ部屋へと入った。

 部屋中央に敷かれた寝具の中、大汗を掻き悪夢でも見て居るかの如くうなされて居る主の様子に、

「玄英殿、殿の御加減は如何に?」

 問うたのへ玄英は渋い顔と成り、昼とは打って変わった茂直の様子に、訳が解らないと言った具合に首を振り、今晩が山に成るやも知れませぬとうな垂れた。

 これに、玄蕃は医者の本分を全う為されよと発破を掛け、自身は用意された部屋へ一旦引取る事にした。

 部屋へ入った玄蕃は、行列で大名が駕籠に飽きた時や、気分を変える為に乗馬する牽馬の口取り(馬の世話をする者)をする、善七成る者を呼ぶ様に近衛の川内左内に言い付けると、自身は文机へ向かい一筆認めた。

「御呼びに御座いますか?」

 襖の向こうから声がしたのに、

「善七か、入れ!」

 玄蕃の言葉に返事を返すと、呼ばれた善七成る者が静かに襖を開け部屋へと入った。

 口取りを勤める善七を、家老内藤玄蕃が部屋に呼んで後、左程時を置かずして三島の宿外れに人影が現れるや、その影は疾風の如く東海道を一目散に下って行った。

 一方、善七が部屋を出て後、玄蕃は茂直の様子を見るべく再び奥座敷へ向かった。

 茂直が休む座敷へ入った玄蕃は、茂直の側に付き添って居た藩医玄英に様子を聞いた。

「今宵を越して頂ければ、何とか御命だけは持ち直すかと思われます。」

 玄英の言葉に頷いた玄蕃は、主の傍に居る事を決めると、玄英に何かあれば起こすから少し休む様にと言った。

 玄英が宛がわれた部屋へ引取った後、主茂直が眠る枕元に座り、玄蕃は茂直がまだ幼かった日々の事を思い起こした。

 茂直が産れた時、国中はお祭りの如く祝いの色に染められ、領民誰もがその誕生を我が事の様に喜んだ。

 しかし、それ迄には随分な時が掛かった。

 茂直が産まれる前、母菖蒲の方が子供を産ま無かった訳では無い。

 茂直が誕生する十年前、第一子と成る女子が産まれ、翌年には第二子と成る女児が産まれた。

 それから九年。

 皆が嫡子の誕生を諦め忘れ掛けた頃、突然菖蒲の方が懐妊し茂直を産んだ。

 その十年の間に、茂直の父吉橋右京亮茂由は、親族や家臣達から男子を産むべく側室や側女を薦められたが、茂由は頑としてそれらに一切応じる事は無かった。

 そうして、漸くに授かった茂直は、利発で聡明な優しさに満ちた子で、誰からも好かれる人物で跡取りとして申し分無かった。

 只唯一、幼い頃から病弱であったのが、欠点と言おうか将来的に憂う所であった。

 勿論、将来の藩主として健康である事が絶対条件であり、廻りの者達はこの先に若君の躯が健やかに成る事を祈るのだった。

 そして、その願いが届いたのか、年を重ねて行く中で茂直の躯は日増しに丈夫に成って行った。

 それには、茂直自身の努力と言おうか、鍛錬が実を結んだと言って良い。

 幼い頃、自身が病弱だと認識して居た茂直は、どの様にすれば人並の健康な躯を手に入れられるかと、当時用人で自身の守役であった内藤玄番に尋ねた所、藩の剣術指南役であった桂部春之心に指示する様言われ、桂部が指南する鹿島新當流を学ぶと共に、弓術や馬術をも修練し心身共に鍛えた。

 こうした事は、家臣をも安堵させ、将来的な不安をも払拭するに至った。

 そうした茂直が十五と成った時、父で藩主の茂由が病に倒れ、幕府へ隠居願いを届けると同時に相続の手続きをも願い出た。

 その後、病の父茂由の名代として叔父茂孝が江戸迄出向き、茂直の将軍御目見得を済ませると、家督相続をも認められ吉橋家当主として藩主と成った。

 藩主と成ってからの茂直は、病弱だった幼少期とは打って変わり、学問は元より武芸に勤しむ事で丈夫な躯と成り、それは風格や威厳と言う物迄もを体得させた。

 それから後、藩主として叔父茂孝をはじめ仕置家老の内藤玄蕃や、国家老佐久間喜平次

らと政を行い、国元では領民から慕われ名君として知られる存在に成った。

 そうした主に、十余年仕えて来た玄蕃にとって、意識無く目の前で大汗を掻き眠る姿を見るのは忍び無かった。

『何とか、持ち直して下され。』

 旨に秘め、傍に付き添うのだった。

 時折、うつらうつらしつつ、茂直が意識を取り戻す事を願う玄蕃は、

「内藤様、内藤様。」

 自身を呼ぶ声に、いつしか寝て居た事を悟り目を開けると、呼ぶ声の主を探すべく声がする方へ顔を向けたのに、面前で横に成る茂直を挟み自身の向かい側に座る玄英を見た。

「やや、何時しか寝入った様じゃな。

 されば玄英殿、殿の具合は如何かの⁉」

 尋ねたのへ、

「玄蕃よ、気を揉ませ済まなんだ。」

 未だ伏せって居る物と思って居た玄蕃は、その声に驚き、

「殿、御気付きに成られましたか⁉」

 てっきり、未だ意識無く眠っているとばかり思って居た茂直の声に、玄番は嬉しさの余り素っ頓狂な声を上げてしまった。

 すると、藩医山東玄英が、茂直の容態は山を越えはしたが、帰国するにしても今暫くは静養が必要だと言う。

 それを聞き、玄蕃は自身の用人である川内左内を呼ぶと、一行が逗留する樋口本陣の主へ逗留を伸ばす事が出来るか?

 出来るならば、何日程延ばす事が出来るのか尋ねて来る様指図した。

 左内が返事を持ち帰って来る迄の間、茂直と玄蕃は今後に付いて話しをする事にした。

 茂直は、江戸表へも届いて来る愁いの元である話しの真相を、どうしても確かめたく直ぐにでも帰国したく、半ば強引に江戸表を出立した経緯から、

「玄番よ、此度の儂が我儘、聞き届けてくれ恩に着る。

 されど、我が体たらく、何時に成れば国元へ戻れるやも解らぬ。

 加えて、金子も又、如何程掛かるやら見当もつかぬであろう。

 そこでじゃ玄番。

 物は相談よ。

 この先、儂は少人数の供を連れ、町駕籠なり馬なりを使うて密かに戻る所存にて、一行の者共はそのまま先に国元へ向かってはくれまいか⁉

 城下を抜ける折々には、儂に似せた者を身代わりに立て凌げば、さして怪しまれもせぬであろうて。」

 こう言った茂直の顔をジッと見据えて居た玄番は、

「殿、それは罷り為りませぬ!

 幾ら、露見せぬとは申せ、斯様な危うき振る舞い、某には到底承服仕れませぬ。

 されば、此処三島宿にて暫し御身を御労い為されませ。

 焦らずとも、ゆるりと国元へ御戻りあそばされるが宜しかろうと存じまする。

 加えて昨晩、国元へ助勢を請うべく使者を遣わしました故、せめて後二、三日ばかりは此処に御逗留下されたく、伏してお願い申し上げまする。」

 懇願する玄番に茂直は、助勢とはどう言う事なのか尋ねたのへ、玄番は此れ迄に御家の大事と成った時に、長年吉橋家に仕え数々の難儀を解決して来た一族の者を頼んだと話した。その心強い名前を聞いて茂直は、

「うむ、それは実に心強き事じゃ!

 されば、其方の進言、心得た。

 そちの申す通りに致すとしよう。」

 納得すると、悩みから解き放たれたのか薬が効き出したのか、茂直は静かに瞼を閉じると再び眠りへと落ちて行くのだった。

 その様な主を見ながら、

『大井川の川止めに遭ったと思えば、此処での逗留も致し方無かろうが、いざ島田宿で川止めに遭えば、誠、余分に見て居る路銀も心細く成ろうな。』

 主の心配は勿論の事、この先の道中に於ける諸事情に配慮し、今後の道中に於ける手配の練り直しを考え直さねばと玄蕃は思った。

 その後、戻って来た川内左内から、後五日は空いて居りますとの返事を受け、憂いが無くなった玄蕃は胸を撫で下ろすのだった。

 翌日早朝、未だ日も昇らぬ薄暗い中。

 一行が逗留する樋口本陣、それを囲む六尺六寸程の高さがある塀を、東の方角から駆けて来た二つの影が周りを一瞥するや、瞬時次々に地を蹴り塀を跳び越えるや本陣内へと姿を消した。

「御家老様、朝早くより誠に相済みませぬ。」

 未だ、雨戸が開かれぬ暗い廊下から掛けられた声に、

「おぉ、善七か⁉

 誠にご苦労であった、流石よのぅ。

 僅か一日ばかりで三島と近江を行き来致すとは、誠に見事なる物よ。

 さぁ、遠慮は要らぬ、こちらへ参れ。」

 促され、善七と呼ばれた者は襖を開けるや素早く室内へと入った。

 玄番が点けた蝋燭の火に照らされるその姿は、一見してクレ色の野良着を着た農夫に見えはするが、よくよく見ると何処と無く只の野良着とは違い、見る者が見れば一見して忍び装束と解る代物であった。

 善七が着る忍び装束は、大凡忍者の装束として知られる黒色とは違い、暮れ染で染められたクレ色と言われる色で、夕暮れ時の空に似た色からそう呼ばれ、忍者は黒装束と言う印象からすれば大きく違って居た。

 凡そ、黒色は闇に紛れる色と思われがちだが、実際の処は暗闇の中では輪郭が浮き彫りに成り易く、又黒色に染めるのには手間暇が掛かり実用的では無かった為、忍び装束はクレ色以外にも、柿渋や藍染めにグレーなどの色が使われたと今に伝わって居る。

 さて、話しを元の部屋へと戻そう。

 寝床から上体を起こした玄蕃の目は、部屋隅に控える善七を見咎めたが、その横にもう一つの影が座って居るのに気付いた。

 面を伏せ控える者を見咎めた玄蕃は、

「まさかに梅吉殿か?

 されば、態々出張って下されたのか⁉」

 玄蕃の言葉に、その者は面を伏せたまま、

「内藤様、御無沙汰致して居ります。

 御健勝の御様子、誠に喜ばしい事に御座ります。」

 言ったのへ、玄番が顔を上げる様声を掛けると、梅吉と呼ばれた者は伏せて居た顔を上げた。

 その顔を見るや否や、

「此度は、遠路はるばる足労を掛け申した。

 誠、相済まぬ。」

 と、それは申し訳無さそうな顔で梅吉を見るのだった。

 それから半刻程すると、陣屋内の雨戸が開かれる音が遠くに聞こえ出した。

 その音が近づく毎に、陣屋の中へ明るさが拡がって行き、玄蕃の前に座る二人の装束にも色を宛がって行く。

 部屋が徐々に明るさを取り戻す中、玄蕃の目にも暗闇に紛れて居た二人の姿が、ハッキリと目に映る様に成って行くと、正に二人の着る装束が忍び装束だと言う事が解った。

 そうした二人が持って来た話は、大凡次の様な物であった。

 昨晩、玄蕃が茂直の叔父である吉橋茂孝宛の文を善七へ託し送り出して後、同胞である梅吉を伴い戻って来た手には、茂孝から託された文を携えて居た。

 掻い摘んで、その内容を記せば、

(ゆるりと参られよ。

 急くには及ばぬ。

 何より、つつがなく殿を国元へ御連れ申すのが肝要。

 費えに関しても、気遣わずとも多少足が出ようが構わぬ。』

 その様な事が書かれ、更に梅吉からは茂孝の言葉として、手助けとして自身を遣わすから、何事も遠慮せず助力を賜れば良いと言う事だった。

 この梅吉と言う男は、善七の生国である甲賀の里に在る甲賀衆五十三家。

 その一つで、善七が家である土山家と古来より共闘する、代々吉橋家に仕える新城家の当主であり、此度、善七と共に陰と成り茂直を見守る事を指図されたのだと言う。

 二人の話を受け、玄番は、

「承知致した。

 さればこの後、殿にその旨伝えておく故、梅吉殿は密かに殿の元へおいでに成るが宜しかろう。」

 そう言った玄番の言葉は、梅吉なる者の吉橋家に於ける信頼度がどれ程の物か伺え様。

 夜が明け、玄番が茂直の元へ向かうと、其処にお粥を旨そうに喉へ流し込む茂直の姿があった。

「殿、御加減は如何に御座います?」

 問うた玄番は、随分と血色が良く成った茂直の顔を見て一安心し、更に大分と良く成ったと言った茂直の言葉に安堵した。

 ここ迄来ると、流石に忍耐強い茂直でさえも、無理する事は憚られたのであろう、

「玄番よ、して如何程、此処に逗留するつもりぞ?」

 聞いたのへ、茂直の容体によるが、早ければ明後日には出立したい旨を伝えた。

 これに茂直は承諾すると、何としてでも体力を回復させねばと笑うのだった。

 そうした遣り取りの中、玄番から梅吉が一行に加わった事を聞いた茂直は、

「左様か。

 されば、いずれ顔を見せに来るであろうから、その時を待つ事と致そう。」

 そう笑うのだった。

 その夜、寝所で横に成る茂直はうんざりして居た。

 参勤交代において、大名の寝所と言う物は常に明かりが灯り、警護役である不寝番の小姓が屏風を挟み、二名体制で戦記物等を読み聞かせる状態が続く。

 これは、夜襲等不測の事態に備える物であり、こうした事が毎夜続く大名は深く寝る事も出来ず、移動の駕籠の中で眠ったと言われるが、この時の病に伏せる茂直に取っては、

その様な寝不足とは比べ物に成らない程に苦痛でしか無かった。

『う~む、此れでは満足に眠る事も叶わぬでは無いか!

 されば、折角良う成り掛けた病も、治る所か却って悪く成ると言う物ぞ!』

 腹立たしさを覚えると、茂直は屏風の向こうに居る小姓へ玄番を呼んで来る様言った。

 容体が急変したのかと、急ぎ遣って来た玄番は、寝所で半身を起こし座る茂直を見るなり安堵しつつも、

「殿、如何為されました⁉」

 又何か、具合でも悪く成ったのかと案じて聞いたのへ、

「玄番よ、何とか成らぬか⁉」

 唐突に言われ、

「一体、何事に御座ります?」

 問うたのに、茂直は折角調子が良く成って来たと言うのに、この様に灯が明るく灯り、耳元で五月蠅くされれば、休む事も出来ず治る物さえ治ら無く成ると訴えた。

 これを聞いて、

「左様に御座いましたか⁉

 殿、誠に申し訳御座りませぬ。

 慣例とは申せ、御心を御察し出来ず、気の利かぬ振舞い、平に御容赦下さりませ。

 確かに、今は何より御躯の快復が肝要。

 されば、暫くは明かりを外に致し、読み聞かせも控えさせて頂きまする。」

 そう言うと、寝所警備を行う小姓達へ、読み聞かせはせずとも良いが、引き続き曲者などの警戒を怠る事無き様、寝ずの番は部屋外にて続ける様に指図した。

 翌日朝、茂直は玄番と朝餉を共にするべく取次役へ事付けると、縁側に立ち清々しい青空が広がる空を見上げた。

「殿、御呼びに御座りますか?」

 この声に振り向いた茂直は、遣って来た玄番の顔を見るなり、朝餉を共にする様言うや向かい合う形で上座へと腰を下した。

 これに向かい合い座った玄番は、主茂直から何かしらの話があるのだと心構えた。

 茂直は病み上がりと言う事で、粥を主とした消化の良い品々が並び、一方玄番の膳には御飯に味噌汁、焼き魚に香の物と、普段なら茂直が食す品々が並んで居た。

 これを見るなり、玄番は茂直と同じ物にする様、随伴の者へ言ったのへ、直ぐ様茂直がそれを制すると、取り替える事無くそのまま食べる様に言い、

「そなたは、何処も悪くは無かろう。

 それに、儂に気遣い取り替えるなどと手間を掛ければ、お百姓にも食材にも申し訳無き事と思わぬか!

 その様な罰当たりな事をすれば、後々我が身に必ず災いが降り掛かろう。

 故に、そなたは気にする事無く食せば良いのじゃ!」

 言った茂直の言葉に、有難く頂く事にした玄番は、

「それでは、遠慮のう頂く事と致しますが、某に飯を食わすが為に御呼びに成った訳では御座りますまい。

 されば、何事に御座りますか?」

 問うたのに、

「流石に感が良いな!

 されば、少し聞いて貰いたいのじゃが、本日もう一日ばかり休ませて貰えぬか⁉

 ならば、明日には出立出来ようと思うて居る。

 そちは、「無理を為さいますな!」と申してくれるが、此度ばかりは此れ迄の様な痩せ我慢ではのうての、何やらほんに心地良うて大事にしたいと思えるのじゃ。

 言うに及ばず、無用の金子を使わせとうは無い。それも又、道理ある訳の一つよ。

 じゃがの、儂の躯は此れより後、悪く成る事は無いのだそうじゃ。

 故にこそ、此れ迄の遅れを取り戻す為にも出立を急がねば成らぬ!

 そちも、そう思うて居ろう?」

 そう言われ、玄番はその様に思う事は勿論ではあるが、国の事を思えば先ずは主茂直の躯を思う事が最優先。

 そう思い、これ迄の道中を段取りして来たが、茂直の言う躯が悪く成る事は無いとは、何か確証があるのかと思うと、ふとある者の存在を思い出し、

「まさかに、あの者が訪れましたか?」

 尋ねた玄番に、茂直は笑みを浮かべ頷くのだった。

 その日、吉橋家一同はゆっくり休み翌日朝を迎え、玄番が見た茂直の顔色は良く、体調が悪かったのが嘘の様に元気に見え、これに家臣一同安心すると国元へ向け出立した。

 小雨が降る中の行軍であったが、茂直の胸中は実際の天候とは裏腹に、清々しく晴れ晴れとした物であった。

 駕籠に揺られ、手にした暇潰しの本が手から滑り落ちたのに、いつしか心地良く寝入って居た事に茂直は苦笑した。

「此度ばかりは、誠に儂の命運も此れ迄かと思うたわ。

 脂汗を滴らせ、息も絶え絶えの儂に、もはや先は無かろうとな。

 されど、どうじゃ。ここ数日と言う物、あれ程悩まされし我が躯が、まるで嘘の様に快方へと向こうて居る。

 これも、あ奴が傍らに居ると言う安堵の心持ちから来る物やも知れぬな。

 人の気と言う物、侮れぬ物よ。」

 思うと、此度の交代に於ける行軍では、苦痛に感じて居た駕籠での移動だったが、今迄行って来た何十回とも言える参勤交代と、何ら変わり無く行えてる事に喜びさえ覚えた。

 出立前、玄番が言ったこの日の逗留先は、江戸から上方方面へ向かう東海道で唯一、右手に見えて居た富士山が、街道が逆行する事で左手に見る様に成る事から、左富士と名付けられた名所が在る吉原宿であった。

 これを聞いた茂直は、出立を止めると、

「玄番よ、儂の身を案じての心配りと心得るが、端から定めて居った通り、此度は蒲原宿を目指すと致そう。

 幸い、この数日と言う物、苦しゅう成る事も無く過ごせて居る。

 さればこそ、遅れを取って居る羇旅(きりよ)を取り戻す為にも、一刻でも早う先を急がねば成るまい。」

 この提言に、玄番は無理をするべきでは無いと些か諫めるも、茂直の気力が充実した顔と言葉に折れる形で、皆へ蒲原宿目指し出立する事を触れた。

 三島宿を出立し、沼津、原、吉原宿と休憩を挟みつつ、目指す蒲原宿の木戸を潜ったのは、日が随分と傾いた中に響く刻の鐘が戌の後刻(午後七時頃)を告げる頃であった。

 蒲原宿平岡本陣に入り、大名駕籠から降りた茂直の様子は、此度の様な行列に支障をきたす程の疲れでは無く、これ迄何度も繰り返されて来た道中の疲れと変らなかった。

 玄番の心配を他所に、茂直の様子はこれ迄の不調が嘘の様に元気な物であった。

 この後、夕餉での食欲が旺盛であった事を見れば、玄番は後の工程に於いて憂う事は無いのではと思いつつも、一抹の不安を拭う事は敢えてしなかった。

 翌日の朝も茂直の顔色はすこぶる良く、体調は問題無く良さそうであった。

 この後、予定では気掛かりと成る大井川の袂、島田宿迄二日掛け目指すのだが、玄番が密かに憂う事を茂直も同じ様に憂いて居た。

『川止めに成らねば良いのだが!』

 二人の胸に去来する思いは、この時に二人が見た西の空に見える、分厚い灰色の雲が原因であった。

『儂の躯も、どうやら国元へ戻る迄はもってくれそうじゃが、実の所空元気もそこ迄長くはもつまい。

 梅が拵え(こしら)てくれた薬のお陰にて、今の所躯の調子も良いが、いつぞやの如く元の木阿弥と相成るやも知れぬ故、油断は出来ぬ。

 この上は、斯様な折に川止めにて足止め等喰らう事、誠に避けたい物。』

 と、馬上から望む西の空に広がる灰色の雲を恨めしそうに睨んだ。

 この茂直の姿を、町家の屋根の上から見咎める怪しげな双眸があった。

 そうした者の存在に気付く事無く、茂直一行は次の宿泊地である府中宿へ向け発った。

 蒲原宿を発ち、宿泊予定の府中宿へ入った頃には、今にも泣き出しそうな曇天が空を覆って居る。

「明日、少々の雨であれば出立致したいと思うて居りますが、如何に御座りましょう?」

 玄番の進言に、

「玄番よ、無理して発たずとも良い!

 川止めに成る様な雨の中、皆が濡れて風邪でもひいては難儀と成る。

 されば、無理を押さずとも、雨が止んだとて暫く島田は川止めに成って居ろう。

 されば、その間に島田宿へ入れば良いだけの事よ。」

 茂直は、そう言い空を見詰めた。

読んで頂き、ありがとうございます。

中々、盛り上がりませんが、下地を丁寧に書きたい思いでしたので御容赦下さい。

面白く読んで頂けるよう、この先徐々に盛り上げて行きます!

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