十二、帰国前日
帰国前日、坂下宿へ入った吉橋家一行。
其処へ、何者かが藩主茂直の命を狙うべく、カカシが刺客として現れる。
此れに対峙する梅吉。
果たして、梅吉と藩主茂直はどうなるのか⁉
吉橋家藩主、吉橋茂直が参勤交代の任を終え、帰国の途に付いて凡そ一月半。
出立時、危ぶまれた藩主茂直の体調も、代々吉橋家に仕える忍びの家系である新城家当主梅吉の調合した薬により、体調も道中を進むに連れ徐々に快復し、今では息災と見まがう程に快復して居た。
しかし、江戸屋敷を発つ前より重篤と成った主を、日々気遣い何とか道中を乗り越え東海道を下って来たが、道中に於いて主茂直を亡き者にしようとする輩の存在が知れ、その者らの謀と言うのが、道中に於いて茂直へ徐々に毒を盛り、弱り切った所で年が明けた頃合いを見計らい、密かに命を奪うと言う目論見を探り当てる事を得た。
茂直の体調が良く成ったとは言え、その命を狙う者の企みで体調を崩したのを知り、その首謀者を探るべく茂直の替え玉を据え、重病を装いながら帰国の途を采配して来たのだが、ここ坂下宿に於いて突如、敵は茂直の命を奪うべく毒を盛った。
それは主一人に留まらず、家臣や宿の者達をも巻き込む物であった。
幸い敵の動きを察知した梅吉が、配下の善七へ対処の指図を送った事で、誰一人毒に侵される事は無かったが、引き続き敵を欺く為に皆へ毒に侵された振りをする様、家老の内藤玄番を通じて指図して貰い、自身は黒幕の正体を掴むべく、国元へ向かう下手人カカシを追い鈴鹿の山へ入った。
梅吉がカカシを追って一刻(凡そ二時間)
程が経った脇本陣小竹屋。
母屋に併設される厩の陰で、梅吉配下である土山善七が、
『あ奴、生中にしつこいのぅ!』
と、厩の影から覗く露路の先、其処に潜む団子屋の主人捨八を見咎め舌打ちをした。
団子屋笹路屋の主人である捨八は、表の顔を団子屋の主としながらも、その実、弥次郎兵衛率いる一党の忍び宿を預かる草と呼ばれる忍びであった。
カカシを追う前、梅吉は家老である玄番へ後の対策を託し、善七には玄番を助けるべく動く様頼んだ。
その一つが、小竹屋に居る者達が七転八倒する姿を、必ず様子を見に来るであろう敵に見せる事。そして、その者が離れる迄は皆に芝居を続けさせる事であった。
藩主の替え玉である作十をはじめ、宿の者達へ食あたりの振りをするべく指図した後、直ぐに藩医山東玄英が皆を診るや食あたりの診断を下し、薬を処方するも数が足りないと動ける者に近隣へ調達させる芝居迄させた。
それでも足らない分を、他の宿に逗留して居た薬の行商人から買い受ける事で乗り切ったと、心配し見に来た街の者達へ触れた。
そうして二刻が経ち、水を飲んで居なかった体の者が病人を装う者達を介抱する中、徐々に薬が効いて来た体の者をも仕立て、脇本陣の中は峠を越したと言う具合に成った。
しかし、ここ迄手の込んだ策を打っても、見張る捨八は実にしつこかった。
この時迄、一瞬たりとも見張る場から離れる事無く、小竹屋の中から聞える様子を探りつつ、時には隣家の屋根へ飛び乗り眼下に見える様子を探るのだった。
だが、流石に病人達の病状が沈静化し、小竹屋の様子も落ち着きを取り戻した頃、
「どうじゃ、皆様の御様子は?」
庭に面した縁側を、水桶を手にし歩く女中へ問うた小竹屋の主清右ヱ門へ、
「へぇ、随分と落ち着いてきなさいました様子に御座います。」
女中の言葉に、「して、殿様は?」と重ねて問うたのへ、近衛の者達が付いて居て様子は解らないが、漏れて来た話からすると殿様の意識は無い様で危うい様だと答えた。
此れを聞き、清右ヱ門が困ったと言わんばかりに気落ちした様子で奥へと消えて行ったのを見て、捨八は漸くほくそ笑み一つ二つ頷くや、己の団子屋がある方へ歩き出すと闇の中へ姿を消した。
それを見て善七は、漸く肩の力が抜けたのか、一つ大きく息を吐くや、
『一先ず、此れで良いな。
じゃが、明日を如何致すかじゃのう⁉』
思うと、後の事を伺うべく小竹屋の中へと入って行った。
そうした騒ぎの中、家老内藤玄番の部屋では、玄番の近衛を装う藩主吉橋茂直と玄番が難しい顔を突き合わせて居る。
「のぅ玄番よ、如何に思う?
よもや、見張りを騙し仰せて無いのやも知れぬのう?」
茂直が聞いたのへ、
「御安心召されませ、差支え無かろうかと存じます。」
言った所へ、「失礼、仕ります。」と声が掛かったのに、二人は善七の来訪に気付くや中へ入る様に促した。
襖を開け入って来た善七に、
「して、首尾は?」
尋ねた玄番へ、
「生中にしつこい者に御座いましたが、今しがた漸く離れ帰って行きよりました。
此れも、此処の主の咄嗟の気働きあっての事に御座ります。」
善七が、そう言った所に丁度、小竹屋の主清右ヱ門が襖の向こうから、
「御呼びに御座いますか?」
そう声を掛けて来たのに、玄番が中へ入る様に声を掛けると、襖を開け清右ヱ門が部屋の中へと入り深々と頭を下げた。
「清殿、久しいのぅ。
まぁ、頭を上げてくれぬか。」
言った近衛の形である茂直を見て、
「何と!
てっきり御病気とばかり思うて居りましたが、その御様子、一体どう為された事で御座いましょうか?」
驚きの表情で問うたのへ、
「清殿、すまぬのう。
実に心苦しい話ではあるが、今我が家中に於いて難儀事が起っておってな!
当面は儂の変わり身を立て、玄番の近衛として国元へ戻る他あるまいと、この様な仕儀に相成った次第なのじゃ。」
此れを受け、
「まさかに、御命を⁉」
〝狙われて居るのでは?”との言葉を飲み込み言った清右ヱ門へ、家老の内藤玄番が事実と認めるや、善七へ顔を向け、
「其処の者より聞き及んだが、清右ヱ門殿が巧みに芝居を打って下されたお陰にて、あの厄介者も漸く退いたと言う。
誠に忝い。」
言われ清右ヱ門は、
「何を仰せられまする。
されど、誠に驚き入り申しました。
先に、そちら様よりお声を掛けて頂いた折には、一体何を仰せかと要領を得ず、ついまごついてしまい申しました。
それでも、御役に立てました事、誠に有り難く存じます。
されど、かくも大事とは露知らず、あの様な芝居で宜しゅう御座いましたでしょうか?」
清右ヱ門が申し訳無さそうに聞くのへ、
「清殿、ようして退けて下さった。
何よりも、見張りの者が姿を消したと言う事こそ、その証よ!」
この茂直の言葉に、清右ヱ門はホッとした表情を浮かべた。
「処で清殿。
明日は定めの通り発つ故、街の者には儂が無理を押して旅立ったと触れてくれぬか⁉」
此れに、状況を把握した清右ヱ門が承諾すると、奉公人へもその旨を伝え街の者達へ触れさせると請け負った。
こうして徹底された設定は、翌日から数日守られ風聞として流布される事に成った。
一方家臣達は、瀕死と成った藩主茂直を〝生きて国元へ帰す〟を合言葉に、やっとの事で気力を振絞り国元へ向かう姿を装い、明け六つには一路東海道を国元目指し上って行くのだった。
その様子を見た街の者達は口々に、
「あの様に、御家の衆迄がふらふらして居るのを見ると、はてさて、無事に国元へ着けますものか、心配に成りますなぁ!」
口々に気の毒に言うのであった。
この日、一行が出立して後、脇本陣を利用する大名が居なかった事から、小竹屋は一般の宿泊客を受ける事を止め宿を休んだ。
『余程に、毒が効いたと見える。
と成ると、殿さんもそう長くは無いの。』
この清右ヱ門の機転は、様子を伺いに来た捨八へ策が功を奏したのだと安堵させた。
しかし、国元を目指す家臣の者達は勿論だが、家老内藤玄番の近衛に身を窶した藩主茂直にも、
『常の足取りで参るより、病を装う方が幾重にも骨が折れるわ。』
と思わせる行軍は、それでも着実に一歩ずつ国元へ近付かせて行くのだった。
一行が国元へ向かい小竹屋を出立した頃、カカシを追った梅吉の姿は、一行が向かう先である国元に在った。
この話の出だしに書いた通り、吉橋家は城を持たない無城大名で、政や軍事拠点として使う役所兼住居と成る陣屋が本拠であった。
その本陣を囲む様に武家屋敷が配され、更にそれらを囲む様に商人や職人等の町人が住む町家が形成され、連なるそうした建物が途切れた先には、畑や田んぼが広がるのどかな風景が広がる。
そうした風景の先に、鈴鹿山脈が連綿と連なり四季折々の顔を見せる。
そうした国元へ、カカシを追い遣って来た梅吉は、吉橋家が治める大安寺藩内で大店と呼ばれる両替屋、万屋の裏手に建ち並ぶ地蔵長屋を見張るべく、万屋の大屋根に伏して潜んで居た。
夜半に国元へ入ったカカシが、裏店に位置する長屋の一間に入ってから半刻。
その家の表と裏を見張れる大屋根からは、カカシが入ってから誰一人出入りが無いのを見咎めて居た。
『弥次郎兵衛へ、坂下宿での事の顛末を知らせに戻って参ったのであろうが⁉
一体何を致して居るのだ?』
急ぎ知らせ無ければ成らない筈が、一向に姿を見せぬカカシに苛立ちを覚え、痺れを切らし探りに行くか否か思案した時、暗闇の中に突如褌一丁姿のカカシが現われ、井戸端へと近付くやいきなり行水を始めた。
『この様な夜更けに、奴め一体何を致して居るのじゃ?』
訝しむ梅吉の目は、カカシの後ろから遣って来た湯文字一枚の女を捕えるや、
『ちっ、致して居ったか!
あの女子、まるで久しく独り身であったかの様じゃな。
それ程間が開いて居れば、情に走るも無理からぬが、先ずは事の次第を頭に知らせに戻るが筋であろうに!』
思うと、こう言う所が盗人に毛の生えた程度の者達で寄せ集められた一党なのだと、梅吉は胸の内に嘆かわしく思うのであった。
左様な梅吉に見られて居るとも露知らず、カカシと女は井戸水で汗を流すと濡れた体を拭くや、カカシは女を抱き寄せ唇を吸うと二人して家へと戻って行った。
が直ぐ様、閉じた戸が開き、忍び装束に身を包んだカカシが表に出るや、瞬時地を蹴り長屋の屋根へ飛び上ると、満月の月明りの中に黒い影の弧を描き、家々の屋根を次々飛び何処かへ向かって行く。
それを見送った女が家へ入ると同時に、梅吉はカカシの様に家々の屋根を渡らず、地面へ飛び降りるや道々を掛け、時折屋根へ飛び上がりカカシの行方を確かめると、再び道々を駆けカカシの後を追うのであった。
梅吉はカカシがてっきり、以前訪れた奥師の森へ向かう物だと思って居た。
前に奥師の森で敵と遭遇し、敵の頭目と目される弥次郎兵衛と相対した際、その者達の忍び宿を発見したが、敵はその忍び宿を惜しげも無くいとも簡単に爆破し捨てた。
そうした恩師の森へ、新たに築かれたであろう忍び宿へ向かう物とばかり思って居たのだが、カカシは奥師の森へ向かう事無く、城持ち大名ならば城下町と呼ばれるが、陣屋大名に於いては陣屋町と呼ばれる街中、その裏通りの一角に在る小さな小間物屋宝屋の前に立った。
その表口は閉ざされて居たが、カカシは前に立つと廻りを見渡し人の気配が無いのを確かめ、廻りに聞えない程の小さな音で表の木戸をトン・トトンと叩いた。
すると、直ぐに表戸が開き、カカシは心得て居たとばかりに中へ消えた。
町家の屋根から様子を見て居た梅吉は、それが弥次郎兵衛一党の忍び宿だと直感した。
梅吉は中の様子や、出来るならば会話を聞き取りたかったが、此処で無理をしてバレてしまえば元の木阿弥と近付く事を控えた。
四半刻程経ち、表の木戸が静かに開くと人影が表へ姿を現したが、梅吉は月明りに照らされたその姿はカカシでは無かった。
『奴は恩師で見た、一党の頭では無いのか⁉』
忍び装束に身を包み、顔を頭巾で隠しては居たが、その躯付きは恩師の森で見た弥次郎兵衛成る頭目の背格好に良く似て居り、路地を歩いて行く姿は、あの時の猟師その者の足の運びであった。
『間違いない!』
思うと、路地を歩いて行く男の後を追って行くのだが、
『このまま先へ向かうと……』
その先には、吉橋家が政務を行う役所兼住居である陣屋が在る。
そして弥次郎兵衛は、迷う事無くその陣屋の方へと近付いて行く。
この様な夜中、人っ子一人歩いて居ない所で尾ければ、弥次郎兵衛程の技量を持ってすれば勘付くと踏み、梅吉は十分な距離を取り後を尾ける事にした。
それが最良な策ではあるのだが、距離を取り過ぎれば敵を見失い、取り逃がすと言う危うさを持ち合わせて居た。
弥次郎兵衛が、この様な刻限に陣屋へ遣って来たと言う事は、密かに人と会わなければ成らないと言う事で、それ即ち黒幕と会うと言う事であろう。
故に、慎重に成らなければ成らないのは重々承知して居るが、半面慎重に成り過ぎると確信に近付けない。
『久々に腕の立つ勤めよ。
腕が鳴るわい!』
忍びが廃れて来たこの時代、この様に緊張感が走る勤めは稀であり、この後万が一にも戦う様な事にでも成れば、血で血を洗う争いへと発展し兼ねない。
一小藩の御家騒動等、幕府に露見してしまえば、間違いなく吹けば飛ぶ様に御家取り潰しと成ろう。
故に、藩主茂直を敬愛する梅吉に取って、この様な敵の為に茂直が守って来た御家を、取り潰しにさせるつもり等毛頭無かった。
そう思えばこそ、此処は自身が持つ技量を最大限に使い、手下として働く弥次郎兵衛に悟られぬ様、何としても御家転覆を図る黒幕を探り当て、血生臭い御家騒動に終止符を打つべく死力を尽くす覚悟であった。
そうした覚悟が弥次郎兵衛との距離を詰めさせるべく、陣屋を囲う堀の外に並ぶ大きな松の本に飛び乗った弥次郎兵衛の様子を伺わせた。
梅吉が見遣る中、弥次郎兵衛は胸元から鍵縄を取り出すと、堀外と陣屋を隔てる堀を渡るべく、陣屋をぐるりと囲む塀の向こうへ向け遠心投法を用い鍵縄を放り投げた。
鍵縄は暗闇の中、弧を描き堀を越えると向こう側にある塀をも越えた。
弥次郎兵衛はそれを見咎めるや縄を引き、鍵が塀の上に連なる熨斗瓦に引っ掛かったのを確かめると、手にして居た縄を松の幹に括り付け、その縄を伝い起用に対岸へと渡って行く。
その様子を見て居た梅吉は、弥次郎兵衛が塀の向こうへ消えたのを確認すると、凡そ五間半程の幅がある堀端へ来るや、懐から鍵縄を取り出し振り投げると、鍵縄は塀の向こうにある竹林の中へ入るや、一際太い一本の竹に引っ掛かった。
その縄を振り、しっかり固定させるやジワジワ手繰り、竹が最大限しなり塀を越えて来た所で、踏ん張って居た両足の力を抜くや躯は反動で空へ舞い上がり、暗闇の中に弧を描き楽々と塀を越えて行った。
陣屋の中へ入った梅吉が真っ先に目にしたのは、目の前に並ぶ五つの蔵であった。
その周りには、既に弥次郎兵衛の姿は見当たらず、辺りに人の気配が無いのを確かめた梅吉は、忍び歩きで蔵の間を抜けると先に在る陣屋へ目を遣った。
梅吉が居る蔵から陣屋の間には、いつしか誰かが耕したであろう畑が在り、それを挟んだ凡そ十七間先に在る陣屋の屋根へ、今正に飛び上がる弥次郎兵衛の姿を見た。
吉橋家の陣屋は、表側には門や塀を兼ねた家臣や門番等が住まう長屋が設けられ、陣屋内四隅には小櫓が築かれ、それらを繋ぐ塀が囲んだ中央に主殿が建って居る。
その主殿は、政や代官所として公務を行う御役所が表に在り、裏側へ廻れば藩主茂直が当主を勤める吉橋家の一族が住まう居室が設えられ、他に渡り廊下で繋がる側室お稲の方が暮らす離れが建って居る。
そうした陣屋の屋根に上った弥次郎兵衛の姿が、そのまま屋根の向こう側へ消えて行ったのを見て、梅吉は目の前に広がる畑を一気に駆け抜け地を蹴り屋根へと上った。
案の定、其処には弥次郎兵衛の姿は既に無かった。
『さてと、奴は何処へ行ったかの⁉』
夜と成った陣屋内。粗方の者達が引き払ってしまって居る事から、そうした陣屋内に忍び込むのは容易い。
そう目論んだから、弥次郎兵衛もこの時を選び忍び入ったのであろうし、黒幕と会うにも夜は何かと都合が良いに決まって居る。
そう察すると、梅吉は足元に葺かれて居る屋根瓦の下に居る者達の気配を探った。
陣屋内では、大腿の者は寝静まり所定の場から気配が動く事は無いが、寝ずの番として二刻(約四時間)毎に廻って来る女中、そして外には外部を巡回する足軽や小者が動く気配はある。
その屋内外の寝ずの番は先程、亥の刻半ば(午後十時)に二度目の巡回を行い、次に廻って来るのは丑三つ(午前二時)頃と成る事から、陣屋内を動いても気取られる事は無いであろうが、陣屋の雨戸は既に夜六ツには全て閉じられて居た。
そうした中、幾ら警備が手薄だとは言え、並みの者が容易く入れる程陣屋の造りは甘くは無いが、忍びである梅吉であれば容易く忍び入る事は出来るものの、目当ての弥次郎兵衛が何処に居るのかが解らない。
そう思うと、何処からどの様に忍び込むのが良いのか算段を巡らした。
陣屋は、正面側に表御殿と言われる、政務を行う御役所が設けられて居り、閉ざされた門には常に二人の者が門番として、脇に造られた部屋に当直として二名控えて居る。
それらを避け、何とか陣屋内へ潜り込めたとしても、玄関脇には提灯が灯り、番士が当直として詰めて居る上、陣屋と隣接する司法機能を司る役宅には、一部の代官や与力に同心等が家族や女中等と共に暮らし、夜ともなれば宿直の与力や同心達迄が起きて居る。
そうした表御殿の対と成る裏の奥御殿。
其処には、何はさておき藩主吉橋家一族が居住して居り、この時は留守を預かる藩主吉橋茂直の叔父、吉橋右京亮茂孝と妻小実の方はじめ、茂孝の用人である玉虫三之亟景光や仕える近衛に女中達。
それに、本殿から渡り廊下で繋がる離れに住まう側室お稲の方と庶子牡丹丸に、二人の近衛や女中達と、陣屋本殿には総勢凡そ五・六十名程の者達が居る筈である。
こうした場に、弥次郎兵衛は迷う事無く侵入して行った。
と成れば、中の者が手引きしたのか、それとも何かしら仕掛けが施されて居るのか⁉
思うも、仕掛けと成れば建物に何かしらの細工を施す為、新規で建てる時や改修工事に於いて、大工として潜り込み仕掛けを密かに施しておく必要がある。
しかし梅吉は九年前、陣屋の改修工事が行われた時、そうした事が為されない様に密かに目を光らせて折、その工事では可笑しな所や可笑しな事は起ら無かったのを、自身の目でしっかり確認して居る。
と成れば、手引きする者が居る事に成る。
平時、梅吉は茂直の小者をする傍ら密命をこなす忍びである。
代々吉橋家に仕えて来た梅吉の家である新城家は、戦国期よりこの方ずっと影と成り日向と成り吉橋家を支えて来た。
その中には警固も含まれて居るのだが、此度の参勤交代に於いては従軍せず、他の勤めに出て居た事で、主茂直を危険に晒す羽目に成ってしまった。
漸く、主の傍に戻って来た時には、後一歩遅ければ主が命を落とす所であったが、敵の巧妙な遣り口のお陰で、茂直の死期が伸びたのは不幸中の幸いであり、お陰で御家乗っ取りと言う隠された企みもが垣間見えたオマケ迄付いて来た。
そして漸く、黒幕の手下である弥次郎兵衛を尾け、今正に黒幕へ辿り着こうとして居るのだが、弥次郎兵衛が陣屋内に居る誰の元へ向かったのかは見当が付かない。
いっその事、普段茂直に付いて居る小者として表から入ろうかとも考えたが、参勤交代で付き従ってる筈の自身が、この場に居るのは何故かと訝しまれるであろうし、あわよく先に国元へ戻る様に下知されたと言っても、
流石に急用で無い限り夜更けにくれば礼儀を欠く事であり、疑われはしない物の何用かと不審に思われるであろう。
そうなれば、それなりに騒ぎは拡がり面倒な事に成ろうし、目指す者達にも不審に思われる事と成り、下手をすれば自身が間者だと露見する事にも成り兼ねない。
幸い、自身が忍びだと言う事は、藩主茂直と正室狭山の方、それに茂直叔父である茂孝だけが知る事で、そう思うと表から入る事は避け、やはり上手く忍び込むしか手は無い様に思えた。
途端、梅吉はある人物の顔を思い出し、
『あの御方ならば、迎え入れて下さるであろうが、この様な夜更けに伺うのは如何な物かのう⁉』
思い悩みつつ、奥御殿の更に奥に在るその者が住まう部屋を目指す事にした。
屋根を伝い、御殿の中に在る中庭に面した部屋を見た時、梅吉はほっと肩の力が抜け安堵の息を吐くと、
『起きて居られたか。』
思う梅吉の目に、縁側に座り一人酒を飲む男の姿があった。
梅吉は男を驚かさぬ様、屋根の上から小声で静かに、
「殿様、御健勝の御様子、恐悦至極に存じ上げます。」
そう声を掛けたのに男は驚く事も無く、
「ふふっ、何を改まった物言いぞ。
梅、ふざけるでは無い。
良いから、早う降りて参れ!」
言われ、「御免。」の言葉と共に、声の主の面前一軒程先へ降りると、片膝を立て利き腕とは逆の拳を地へ突き、忍び特有の片膝座の姿勢で頭を垂れた。
「梅、久しいのう。
して、この様な夜更けに何用ぞ?
まさか、茂直殿に何ぞあったか⁉」
男の問いに、
「いえ。今の所、大事には。」
「今の所?」
聞き返した男へ、梅吉は参勤の勤めを終え帰国の途に付く前から、茂直の体調が思わしく無かった事や、無理を押し帰国の途に付いた事から、その体調不良の原因や敵と成る存在、その行き着く先が御家乗っ取りである事が知れたと、此れ迄に起った一連の事と次第を話した。
この梅吉の話は、男に驚きと共に信じ難い思いをもたらした。
更に、男の甥で梅吉の主でもある吉橋家藩主茂直が、明日にも国元へ戻って来る筈であると話し、その時から本格的に命を狙われる事に成るであろうと付け加えたのに、
「此れ迄、争い事とは無縁と申しても差支え無き我が藩に、殿の御命を狙う不届き者が現われたとは誠に以て信じ難き事。
されど、日々頼みに致して居るお主が探り出した事なれば、信じる他あるまいな!」
と、何とも複雑で困惑した表情を浮かべるのだった。
此れを見て梅吉は、
「その手掛かりと成る者が、今し方陣屋へ忍び入りました故、事を探る為に恐れ乍ら殿の御部屋から、忍び入りたいと存じまして。」
そう、頼んだ。
この話にて、前編が終了と成ります。
此れ迄読んで頂きありがとうございました。
後編は、暫し休息の後、新たに書きますので、宜しくお願い致します。




