4話
「お、お邪魔します」
「どうぞ」
流石の鏡花でも、年上男性の家に入るのは緊張しているようで、おずおずといった様子だ。
「じゃあまず……」
鏡花に話しかけようと振り向いた瞬間に、刀真の視線は大きく揺れ動いた。
水に濡れて肌に服が密着し、透けてしまっている制服が、玄関の明かりによってはっきり映し出されていた。
「えと……シャワー浴びる?」
「変態」
すぐに目を逸らしたものの、控えめな胸に着けている白の下着を見てしまった事はすぐに鏡花にバレてしまう。彼女はその部分を腕ですぐに隠して、少し頬を赤らめ責めるような目線をぶつけてきた。
「ご、ごめん」
「……シャワー借りる」
「ど、どぞ」
玄関からすぐ右にある洗面所を指し示すと、すぐにその中へと入っていく。風呂とトイレと別になっており、浴槽は一人分の大きさをしていて、現在の中身は昨日の分が入っていた。
「バスタオルはこれを使って。それと着替えは……何かある?」
刀真も洗面所に入り、とりあえずと比較的新しい水色のバスタオルを手渡す。受け取ったのと同時に首を横に振る。
「だよね……どうしようかな」
この状態であまり悩んでいられず、ぱっと思いついたのは高校の頃で。
「えっと嫌じゃなければ、シャツだけじゃなくて、高校で使ってた上のジャージを貸すよ、体を冷やさないように。もう使ってないやつだから安心して」
そう提案すると少し思案した後、仕方ないなとため息をついてコクリと頷く。
「わかった、それで良い。ありがと」
早く体を温めてもらいたいのでそれで会話を切り上げる。
そして刀真は一旦洗面所から出た。鏡花のための着替えをタンスから取り出し、また洗面所の前に戻る。シャワーの音が聞こえてからまた入った。
「着替え置いておくね」
そう一言かけて籠の中に入れてから、一緒に濡れた自分の衣服を洗濯機に入れて、バスタオルを持ってまた出た。
「ふぅ……」
体を拭いて部屋着に着替えてから部屋の右奥、ベッドの上に腰掛けた。すると、全身が吸い取られるように脱力する。
そして落ち着いてくるとそれに伴って思考が冷静になり、今の状況を正しく認識出来るようになってきて。
「ど、どうしよ……」
刀真は今さらながらこの異常事態に強い緊張が走り出した。
自分の部屋に年下の女の子がいて、しかもシャワーを浴びているのだ。頬が熱くなり、冷や汗が出るような動悸が同時に押し寄せ、二倍の鼓動が脳内に鳴り響く。
「何も考えるな……心落ち着かせろ俺」
変な想像が頭をよぎり、何とか抑えようと頭を抱える。だが、様々な映像が頭の奥から押し寄せてきて、とうとうベッドの上で激しく転がりだす始末。
「ぐぉぉぉぉぉ!」
「な、何してんの……?」
「うわぁぁ!?」
時間も忘れて仮想の鏡花の残像を消そうとローリングしていると、リアルの彼女から声をかけられて、飛び上がって体を起こす。
そしてその姿を目にした瞬間、チカチカと火花が散って頭が真っ白になった。
「そ、そんなに見ないでよ」
「あっ……ご、ごめん」
数秒間固まってしまい、その刺激的な姿を見続けてしまう。恥ずかしそうな彼女の言葉でようやく硬直が解除。視線を明後日の方向に向ける。
当然ながら、今見た光景は脳裏に焼き付いたままで。自分の渡したシャツに高校の青色のジャージを着て、その下からはスレンダーな白い足が伸びていた。チャックは上の方まで締まり、控えめな膨らみが多少見えた。さらに、勝田と名札があるそれを彼女が身につけているというのは、凄まじい背徳感がある。
「……っ」
男物のためぶかぶかで萌え袖のような状態で、上手く下まで隠せているもののギリギリで、鏡花は気持ち下に押し下げる形で引っ張っていた。
「とりあえず座りなよ」
「え、ええ」
シャワー後のせいか、羞恥のせいか頬を赤らめて、不安からかしきりに自分の姿を気にしながら、部屋の真ん中にある背の低い丸テーブルの所に正座で座る。
「毛布、かける?」
「うん」
「……ほっ」
ベッドから温かな白の毛布を渡すと、彼女は身を隠すようにくるむ。刀真は渡したついでに鏡花の正面にあぐらをかいて腰を下ろした。
「あ、ドライヤー借りたから」
「りょーかい。というかいつの間に……」
「気が付かなかったの? 流石に聞こえたと思うんだけど」
「いやーどうだったかな」
体感では一瞬だったが、相当な時間悶えていた事に気づかされた。既に、鏡花の髪は乾いていた。
「というか、さっき何してたの? サッカー選手がオーバーリアクションするみたいな転がり方してたけど」
「そんな風に見えたのか……。ま、まぁ気にしないで、何でもないから」
「凄い気になるんだけど……まぁいいわ」
追求されずホッとする。知られてしまえば本当に変態扱いされてしまうだろう。
「……そういえば、意外と片付いてるんだ、部屋」
そう鏡花は見回す。それにならって刀真も同じく、改めて自分の部屋を眺めた。
一人で住まうには少し広めのワンルーム。白い壁に囲まれて、所々汚れがあるものの気になる程ではなく、フローリングの床の上もいくつか物が落ちてあるくらいで、全体的に綺麗だった。
「物、少ないのね」
「そうなのかな? あんまり他人の家に行かないからなぁ」
「やっぱりそうなんだ。そんな雰囲気していたもの」
「ひどぉ」
刀真の部屋の中は、一見するとその人の色が出るような物があまりなく、シンプルでスッキリとしているが、どこか寂しさもあった。部屋の一角にある本棚に積まれているのは、ほとんどが教科書類で、小中高と使っていたものが敷き詰められている。一番上には、小中高大と入学した写真や書道で書いた家族という文字も飾られていた。
「あれ、ゲームとかはするんだ」
ベッドの向かいには勉強机があり、そこには大学で使っている参考書やノートなどがある。さらには場違いのように携帯ゲーム機が乱雑に置かれていた。他にも今はもう使っていない小学生時代の筆箱などの筆記用具や裁縫セットもある。
「いやぁ、最近はほとんどやってないんだよねぇ」
「大学生って暇じゃないの? 人生の夏休みって聞くんだけど」
「まぁ、暇な時間は多いけどさ。何か、スマホをいじってたら一日が終わってるんだよね」
勉強して家事をしてスマホをしているだけで一日が失われてしまう、そんな日々を繰り返していた。
「なんだか、お兄さんが可哀想な人に見えてきたんだけど……」
助けたはずの女の子に逆に心配されてしまう。
「……もしかして料理とかするの?」
「一人暮らしだから、多少はね」
「へー意外かも」
キッチンはしっかりと使われている形跡があり、実際刀真は基本的に自炊をして生活していた。
「そうだ、ココアとか飲む?」
「うん、飲む」
キッチンにある電気ケトルに水を入れて、温め、ココアパウダーを入れた二つのカップに熱湯を注ぐ。それからスプーンで混ぜ、テーブルの上にこぼさないよう慎重に置いた。
「どうぞ」
「ありがと」
鏡花は口をつける前に、何度もふぅふぅと念入りに息を吹きかける。結構な猫舌なのか、刀真が半分くらい飲み終わった頃に飲み始めた。
「……美味しい」
味わうように口に含んで飲み込むと、その甘さからか口元が緩んだ。そこからちょびちょびと飲んでいく。
「……はぁ」
鏡花は安心したようなため息をつく。表情もようやくリラックスしたような様子だった。そのせいか、刀真の向かいから腹の虫が鳴く音が聞こえて。
「お腹空いてる?」
「べ、別に……」
今さらながら顔を少し赤くしながら腹を抑える。
「お菓子あるんだけど、食べる?」
「お菓子……か」
「嫌だったかな」
そう提案すると複雑そうな顔をする。もしかするとダイエットをしているのだろうか。
「ううん、そうじゃなくて。昔からお父さんに健康に良くないからあまりお菓子は食べないよう言われてるから」
「え、厳しいね」
「だからお友達と遊んでる時も食べれなくて」
それを聞くと家出した理由が見えたような気がした。同時に、やはり彼女は良い子なのだと確信した。
「嫌じゃないなら遠慮する必要はないんじゃないかな」
「え」
「せっかく家出してるんだから、お家のルールは忘れようよ。お菓子、美味しいよ」
「……」
刀真はキッチン近くにあるいくつかお菓子の入った籠からうす塩味のポテチの袋を手に取り鏡花の手の上に乗せた。
「……じゃあ、頂きます」
「どうぞ」
少し苦戦しながらも袋を開封して、一枚を取り出す。数秒それを見つめてから、意を決したように、カリッと音を立てて食べた。
すると、すぐさま瞳を大きく開いて、段々とふわっと幸せそうな表情になっていく。
「お、美味しい!」
テンション高めにそう感想を言葉にすると、次々と手を伸ばしていく。一枚一枚食す度に幸福を感じさせ、その姿はどこか幼さが滲み出していた。無我夢中に食べている最中には、いつの間にか身に纏っていた毛布がずり落ちるも、それを気にする事もなく、ジャージ姿を見せたままで。
「ごちそうさまでした」
食べ終わると少し物足りそうではありながらも、幸せを噛み締めるような微笑を浮かべていた。
「そ、そんなに美味しかった?」
「……うん」
途端に食べていた時が嘘のように静かな雰囲気に戻る。だが、さっきまでの姿があったのは事実で、充足感と共に恥ずかしそうに顔を俯かせて思い出したように毛布を再びかけた。
「もう一個あるけど」
「た、食べる! ……あ、でもお兄さんのが」
「遠慮しないで。一緒に食べればいいからさ」
もう一袋を持ってきて今度は刀真が、取りやすいようパーティー開けで広げる。
「頂きます!」
待ち切れないと、すぐさまポテチに手を伸ばしてパリッと口に入れていく。止まらない特急列車に切り替わり邪魔な毛布は再び脱ぎ捨てられる。刀真は手がぶつからないようタイミングを計りながらゆっくりと一枚ずつ食べる。
「おいひー!」
「だね」
病みつきになるような塩加減とじゃがいもの甘みとパリッとする食感の三つが合わさり、次々と味わいたくなってしまう。一方の鏡花は刀真以上にその魅力が刺さったのか、掴もうとする手のスピードが早く、ココアを飲むことも忘れてそれだけに集中していた。
「こんなに喜んでくれるとは思わなかったよ」
「皆が食べてるのを見て羨ましくて、ずっと食べたかったから凄く嬉しいし……」
ポテチにがっついているにも関わらず、食べ方は綺麗で話す時はしっかりと飲み込んでからするので、育ちの良さが見えて、お嬢様感が増す。
「それに、誰かと一緒にお菓子を食べるの、少し憧れてたから」
あどけない笑顔を見せ、そんな素直に可愛らしい想いを聞いてしまうと、胸がきゅっとさせられる。
「でも、その相手が俺で良かったのかな」
「ここじゃなきゃ食べれなかっただろうし、何だかお兄さんは知り合いに似てる気がして安心感あるから」
「そ、そっか……!」
食べているからか普通に褒めてくれて、刀真はずっとこのままでいて欲しいとすら思ってしまう。
「もし良ければ、家にまだお菓子あるから好きに食べていいよ」
「本当っ!? ……で、でもお兄さんの物だし……」
「いやー買ったのはいいんだけど、最近あんま食べる気がなくてさ。余っててどうしようか困ってたから、逆に食べてくれるならありがたい」
その上、鏡花の可愛い姿を見られるというのだから刀真にはメリットしかなかった。互いにウィンウィンな状態だ。
「じゃ、じゃあ……遠慮なく」
「うん、自分家だと思って寛いでよ」
二人で食べると、中身が空っぽになるのはあっという間だった。
鏡花はまだ残っていたぬるくなっているであろうココアを飲み干すと、正気に戻ったように暴走特急から通常運行に戻る。
「ごちそうさまでした」
「また、何かいる?」
「いえ、食べ過ぎても良くないから、とりあえず今は十分」
そうして、刀真は二袋をキッチンの方にあるゴミ箱に捨てに行く。空になったカップは鏡花が持って行き、流し台に置いてそのまま洗い始める。
「そんな、いいのに」
「これくらいはやらせて」
「わかった、ありがとう」
改めて律儀な子だなと思いながら、また刀真は座り、洗い終えると鏡花もまた向かいに座った。
「雨、さらに強くなってる」
鏡花につられて窓を見ると、雨音は激しくなり外はさっきよりも暗くなっていた。
再び急速にふわふわした幸せの靄が飛ばされ、現実感が蘇ってきた。
「これからどうしようか」
「……」
とりあえずの避難はさせたが、その先はまだ何も考えてはいなかった。いや、行動するために考えないようにしていた。しかし、今、その問いが目の前に現れる。
家出というアクションを起こしても、そこまでの覚悟はまだなかったのか、鏡花は眉をひそめて外を眺めている。刀真に対して肯定的であっても、やはり関係性が薄い男性の部屋で一夜を過ごすのは、考えてしまうようだった。
「……!」
突然、スマホの着信音が鳴り出す。思わず自分のかと確認するが違って、鏡花ジャージのポケットからスマホを取り出すと、その画面を見て渋い顔をする。
「もしかして、親御さん?」
「いえ、家にはお手伝いさんがいるんだけど、その人」
「お手伝いさんいるの? まさかガチお嬢様?」
性格というか刀真自身に対する言動からそう呼んでいるのだが、本当のお嬢様の可能性が浮上してきた。思えば親が厳しいのも、律儀な部分もお嬢様っぽいなと、合点がいく。
「裕福な方ではあるけど……そこまでではないから」
「そ、そっか」
もしかしたらとんでもない子を保護したのではあるまいかと不安が噴出する。
「……」
刀真が頭を抱えている合間も着信音は鳴り続ける。止まる様子も止める様子もなく、流石に刀真も声をかけた。
「出た方がいいんじゃない?」
「……うん」
唇をきゅっと結んでついにスマホを耳に当てて電話に出た。
それからしばらく電話でのやり取りが行われる。向こうの声は聞こえないが、鏡花の声で何となく察せられた。
「だから家出したの」
そして本題である家出の事も誤魔化さずに伝える。だが、問題はそこからだった。
「今どこかって……ええと」
ちらりとこちらを見てきて、その瞳から向かってくる視線はどうしようと言っていた。
「と、友達の……家」
刀真が誤魔化すべきか素直に言うべきかどちらが正しいのか考えている間に、鏡花は前者を選んだ。
「え、保護者の人に……?」
当然、そういう話に進む。鏡花はいよいよどうしようと口パクで伝えてくる。
「……やっぱり素直に言った方がいいよ」
保護者のフリをする選択肢もあるが、後々露見したらさらに大事になりそうで。ややこしい事になる前に本当の事を言うべきだと判断した。
「ご、ごめんなさい。実は……」
鏡花も似た考えを持っていたのか、力なくコクリと頷いて、お手伝いさんに神妙な面持ちで本当の事を伝えた。
「お兄さん。お話したいって」
雰囲気から怒られたり注意されている感じはなく順調に話が進んで、次にこちらの番が回ってくる。
「わ、わかった」
何を言われるのか、最悪警察を呼ばれかねないという恐怖があり、スマホを取る手は震えていた。
「大丈夫、何か言われてもお兄さんは悪くないって言うから」
「ありがと」
気を遣ってくれたのかそう声をかけてくれる。黒い靄はかき消えないが震えは少し収まり、強く心臓が打ち鳴らす中スマホを耳に当てる。
「もしもし、電話代わりました。雨月さんを助けた者です」
「もしもし」
聞こえてきたのは若い女性の声だった。丁寧な話し方だったが、明るさや優しさが滲み出していて、少し刀真の緊張感が緩む。
「私、雨月様の家政婦をしております」
その人は鏡花の言った通りお手伝いさんだった。よく聞くと何だか親近感が湧くような声をしていて、さらに力んでいた体がふっと楽になる。
「日向茜と申します」
「……ぇ」
その名前を聞いた瞬間に刀真はスマホを落としそうになって、リラックスしそうになっていた全身の緊張感は一気に頂点に達した。
「もう、一度……いいですか?」
衝撃に頭も舌が回らない中、何とか言葉にする。何としてでも聞かなければならなかった。
「日向、茜です」
どう聞いてもやはり日向茜だった。聞き間違いなどではなかった。刀真はこの声に聞き覚えがあったのだ。いや、覚えがあるどころではなく、刻まれている声だった。
でも完全にその人と決まった訳ではなくて。だから刀真は、確定させるための返事をした。
「俺の名前は……勝田刀真です」
「……っ」
息を飲む声が聞こえた。どうやら予想は当たってしまったらしく、刀真は力なく口元を歪ませた。
「まさか……とうくん……なの?」
その呼び方はひどく懐かしく温かく、そして古傷が痛んだ。
「そうだよ……久しぶり、姉ちゃん」
それは運命の悪戯か、奇跡の再会か、その家政婦の正体は刀真の姉である茜で。雨が降り落ちる音は大きくなるばかりだったが、この瞬間だけは静寂に包まれていた。