ねえ、きこえてるんでしょう?
これは私が、子どもの頃に体験したお話です。
あれから20年以上経った今も、時折記憶が蘇っては、お風呂に入るのが怖いと思う事もある。
けれど、無理やりあの日の事を忘れようと、別の何かを考えながら過ごして、今日まで生きてきた。
実家を出てから、一度も父方の祖母の家には訪れていない。
行ってはいけないと思っているから。
次に呼ばれたら、返事をしたら。
私はもう、戻ってくる事が出来ないかもしれないのだから。
□
あれはいつもの休日の事だった。
両親は共働きで、1日中家を空ける不安から、土曜日は母方の祖母の家に預けられる事が多く。
しかしその日は、たまたま都合が悪くて父方の祖母の家に、兄と2人で預けられた。
私はまだ小学校の1年生になったばかりだし、兄は2歳上だから小学3年生。
例えものすごく田舎だとしても、不審者がいないわけではないので、両親のどちらかの仕事が終わるまで預けられるのだ。
私は昔から、ほぼ山の中にある父方の祖母の家が嫌いだった。
歩いて150m程のところにあるお墓が、いつも物悲しくて。
そして何より、言い表せないような恐怖心を抱くから。
しかし兄も一緒なら仕方がない、と抵抗する事を諦めて、家より更に田舎の父方の祖母の家へ向かった。
当時から兄はインドアで、家に籠ってゲームばかりしていたのに対し、私は外に出て活発に遊ぶタイプの女の子だった。
それなのに、その日は朝から強い雨が降っていて。
外に出られない事がストレスなのに加えて、兄にゲームで絶対に勝てない事も悔しく、居間の練炭の入っていない掘炬燵で一人、下手くそなお絵描きをしていた。
誰に見せるわけでもないからと、チラシの裏に好き勝手に絵を描いて、すっかり熱中しており。
いつの間にか、お昼ごはんを食べたばかりだというのに辺りが暗くて、雨がより一層強くなっている事に漸く気付いた。
ちょっと不安になって、隣の続き間でテレビゲームをしているはずの兄を見ると、ウトウトと船を漕いでいる。
そんな兄を見て、祖母がお布団を敷いて寝かせると、「2時間だけ産直に行ってくるからね。」と言って出て行った。
祖母の家から、少し下ったところにある産直で店番を頼まれているらしく、今日はその日だと言う。
雨だし外に出ないように、イタズラしないように、と強く注意してから、祖母は玄関のガラスの引き戸を閉めて。
古い家屋だから、回して施錠するタイプの鍵をキュルキュルと鳴らしてキツく締め、紺色の傘をさして歩いて行く。
その姿を、居間から障子を開けて廊下に出てから、掃き出し窓越しにじっと見ていた。
子どもながらに、祖母と母の関係がそんなに良くない事には気づいており。
それゆえに、あまり私の事も祖母は好きじゃないなんて、とっくの昔から知っている。
おまけに私だって、母をいびるように接している祖母が苦手だし。
だから好かれていない事は、正直言うと本当にどうでもよかった。
すっかり祖母の姿が見えなくなったので、居間に戻ろうと思った時に、少し先にある物置の下に並べられた、祖父の悪趣味なマムシ酒を見て震えた。
飲むわけでもないくせに、捕まえてきてお酒に漬ける。
そして満足そうにそれを眺めては、日本酒を浴びるように飲む祖父が、心底嫌いだった。
余計な事を思い出しちゃったな、と素早く障子を閉めて掘炬燵に入ると。
観たくもないとはいえ、無音が怖くてつけているテレビを惰性的に観た。
しかしやっぱり面白くなくて、ブチッとリモコンでテレビ消してから、チラシの裏にお絵描きを再開した。
本当はゲームがしたくても、兄が途中だった場合に怒られるので我慢する。
だから仕方なく色鉛筆を手に取って、大好きなゲームのキャラクターを描いては、一人で満足していた。
そうしてまた夢中になりすぎていたために、いつから聞こえていたのか分からない音がする、と漸く気付いた。
最初は気のせいだと思った。
雨が強いから、窓に当たってそういう音がするのかも。
家が古いから、風に揺られて聞き慣れない音がするのかも。
そう思って、大して気にせずに赤の色鉛筆を取ろうと、フッと顔を上げた時だった。
サリサリ、サリサリ。
どこからから、そんな風な音がしている。
やっぱり気のせいではなく、家の中の、どこかから聞こえているようだ。
一瞬、祖母よりも嫌いな祖父かなとも思った。けれどすぐに思い出す。
ごはんも食べずにお酒を飲みまくっている祖父は、定期的に入院するんだけど。
丁度今、そのタイミングだった事を。
私は冷たいのか、父方の祖父母にあまり興味が無くて。
従兄弟とは仲良しだけれど、祖父母の事には本当に関心が無かった。
だから知らなくても仕方がないのだけど、そうなると、じゃあ誰?
サリサリ、サリサリ。
ずっとしているその音は、お風呂場の方からするようだ。
曇りガラスで、開けるとギィギィ鳴るドアの窓。
まるでそこを撫で回しているかのような、そんな音。
サリサリサリサリ、サリサリサリサリ。
音が増えている。
音が、増えている?
どうして?
どうして? なんで? 誰?
もう怖くて怖くて、音が聞こえると理解してしまうと、強烈に耳に入ってくる。
誕生日がきていないゆえにまだ6歳の私は、たった一人で、掘炬燵に足を入れながら動けなくなった。
季節は梅雨で肌寒いといっても、歯がガチガチと鳴るぐらいに震える程ではない。
それなのに私の身体は、足先から撫で回すように、しがみついてくるように。
ヒタリヒタリ、とゆっくり確実に、恐怖が這い上がってきては。
たどり着いた激しく鼓動している心臓を、冷たい何かに、ギュッと掴まれたような気がした。
そのせいか、ハッハッとした荒い呼吸を繰り返し、身体が固まりすぎて首筋が痛くなってきたのに動けない。
それなのに耳だけは、家の中のあらゆる物音、特にあの音を拾おうとしている。
ザーザー、カンカン、ビュウビュウ、ガタガタ。
サリサリサリサリサリサリサリサリ。
サリサリサリサリ、サリサリサリサリサリサリ。
サリサリ、サリサリサリサリ、サリ。
バンッ。
不意に、お風呂場のドアが叩かれた。
どうしてその窓だと確信したのか分からないけれど。
私を呼んでいる、と漠然と思った。
「あーあー、あーーーーー!!!」
あまりの恐怖によって、ダラダラととめどなく溢れてくる涙と鼻水。
しかしそんなものになんか、気を配っていられない。
サリサリ、サリサリ、サリサリサリサリ。
サリサリサリサリサリサリサリサリサリサリ。
サリサリサリ、サリサリサリサリサリサリ。
バンバンバン。
バンバンバンバンバンバンッ。
意味の無い、悲鳴のような声が口から漏れて。
───逃げなきゃ、逃げなきゃ、助けて助けて、兄ちゃん!!
そう思いながら、未だに、凍っているかのようにガチガチの身体を必死に動かす。
バキンッという音がしそうな程に、腕も足もガチガチだった。
それでも、冷たい恐怖が心臓を掴んでいる事からも、呼んでいる誰かからも助けてほしくて。
地を這うように大泣きしながら移動して、漸く兄の寝ている布団に着いた。
「に、兄ちゃんっ……起きて、起きてえええっっ!!!」
もはや自分の意思ではどうにも出来ないぐらい、誰かが揺らしているのかと思う程に、大きくガチガチ歯を鳴らしながら震えている。
あーーあーーという奇声を出しながらも、兄を一生懸命に揺らして起こそうとした。
しかし深く寝入っていた事と、寝起きが最悪である兄は起きる事もなく。
「うるさいっ!!」
無情にもそう言って、布団から出すように蹴飛ばしてきた。
力の入らない身体のせいで、意図も容易く仰向けに倒れてしまう。
ひどい、ひどい、と言いながら泣いていたら。
サリサリ、サリサリサリ。
ズリ、ズリズリズリ。
音がする。
先程よりも近いところで、音がする。
「あーー!! 兄ちゃん!! 助けて………怖い、怖い怖い怖い怖いっっ!!!!」
やけに重い身体を持ち上げ、追い出された布団に入って兄の背中に縋り付き。
お昼寝用として祖母が掛けていったタオルケットを、頭から被って強く目を閉じた。
寝られないけれど、寝てしまいたい。
そんな願望があった。
だからか、兄の背中が温かくて規則正しい呼吸音をきいていたら、少しずつ落ち着いてきたような気がした。
けれど。
ズリズリ、ズリズリズリズリズリ、ズリズリ。
ズリズリ、トン、ズリズリズリズリ、トン。
畳を、這いずっている?
来てる、来てる、来てるんだ、こっちに。
私を捕まえに、何かが。
両腕の2本で擦っているとは思えないような、その聞こえてくる音。
それは確実に私の方に来ているのに、どんなに兄を揺すっても起きなかった。
ギュッと目を強く閉じ、耳を塞いで、頭からタオルケットを被って。
喉が引きつっていて出しづらいものの、なんとか兄を呼んで起こそうとする。
「に、にいちゃん、にい、ちゃんってば!!!」
私はこの時程、兄を憎いと思った事はない。
今なら分かるのだ。兄だって子どもで、眠気には勝てないと。
けれどあの時は、恐怖に支配されているあまりにそう思ってしまったのだった。
ザリザリ、ザリザリ、ズリズリズリズリ。
その音は、もうすぐそこで聞こえる。
───助けて!! お母さん、お父さん、兄ちゃん!!
ザリザリ、ズリズリズリズリ。
トン。
ああ、着いてしまった。
そして私を、覗いている。
布団の上から、タオルケットを被る私を、見ている。
ハアハアと荒い呼吸のまま、開けてなるものかと目を強く閉じたまま。
両手は耳に当て、只管に助けて助けてと、小さく小さく呟いていた。
ね え 、 き こ え て る ん で し ょ う ?
その瞬間、強く抱き込まれるかのような、冷気と恐怖に襲われた。
あ、が、
そんな声しか出ない。
息だってしづらい。
冷たくて冷たくて、長い指のような何かが、私の耳の穴に入ってこようとする。
「あ゛ーーーーーーーーー!!!!!!!!!」
ありったけの声を出して、火がついたかのように泣いた。
そのあまりの泣き声に、眠くて不機嫌の兄も、さすがに飛び起きてしまったようで。
しかし文句を言おうと思ったのか、険しい顔で私を見ると。
「え、はあ? どうしたんだ?!」
そう言って、頭を撫でてくれた。
後から兄に、思い出したくもないと言われたけれど、しぶしぶ教えてくれた私の顔は。
それはまるで、とてつもない恐怖に支配されたような、狂乱したものであったと。
そんな状態で、兄が必死で頭を撫でてくれていても、まったく落ち着く事はなく。
ただただ助けて助けて、とうわ言のように時折呟きながら泣き叫ぶ。
どうしようと兄が途方に暮れた頃、玄関の鍵をキュルキュルと回して祖母が帰ってきた。
そしてすぐに、どう聞いてもおかしい泣き方をしている私に気付いて、駆け寄ってくると。
話せない私の代わりに、兄が説明しようとしても、出来るわけがない。
だって知らないのだから。
どうにか祖母が私を抱っこして、背中をトントンしているうちに、呼吸が整い始めて意識が覚醒してきた。
その時にやっと祖母が帰宅しており、兄も起きていると気付いて。
今度は心からの安堵で泣いた。
当時好きだったりんごジュースを飲んで、祖母の膝の上から動こうとしない私に、怪訝な顔で理由を訊いてきたから。
お風呂場に誰かがいたんだ、それが這いずってきて、近寄ってきたんだ。
それから、聞こえてるんでしょう? と声がしたんだと、必死で訴えた。
言いながら、目を見開いて震え出す私に、兄が泣きそうな顔をしている。
負けず嫌いで、気が強い私は滅多に泣かない子だった。
それなのに今、こうしておかしいぐらいに泣いて、助けて助けてと言っているのだ。
起こされた記憶があったらしく、罪悪感を抱いていたのかもしれない。
そっと近寄ってくると、震えている私の頭を撫でてくれた。
少しだけホッとして、このまま母か父が迎えに来てくれるのを待とう、と思っていたのに。
「そんなバカな話があるかっ!! 夢でも見たんだろう!! 証明してやる!! まったくお前はいつもいつもっ!!!」
唐突に怒鳴った祖母が、私を引きずって。
あろうことか、お風呂場に向かったのだ。
子どもが大人の力に勝てるわけがなく、ズルズルと引っ張られて、お風呂場の曇りガラスの前に立った。
兄はそんな祖母に恐れを成し、こっそり電話の子機を手に取ったのが視界の隅で見えた。
きっと、母か父に電話をするんだろう。
そう思ったけれど、今目の前にあるお風呂場のドアを、どうにか出来るわけがない。
「ほら!! どこにも人の影なんてない!!」
曇りガラス越しに、この家の水色の浴槽がボンヤリと見える。
立て掛けてある白いバスマットに、グレーのボイラーもボンヤリと見えた。
しかし、確かにここからドア越しだとそれだけで、いつものお風呂場にしか見えない。
そのせいか、過呼吸になりそうな程に荒く肩で息をしている私に、祖母の怒りは止まらない。
「まだ泣くのかっ!!! いい加減にしろ!!!」
そして、ドアの取っ手を掴んで、思いっきり開けた。
ガチャンッ、ギィィィ。
決して広くも大きくもないお風呂場は、本当にいつも通りであり。
そこに何も異常なんて無いかのように、ただ存在していた。
祖母はズカズカと中に入り、キョロキョロと確認してまた怒る。
やっぱり、誰もいないし何も無いじゃないか、と。
そんな怒る祖母を尻目に、私は、浴槽の蓋に目がいって離せない。
当時の祖母のお風呂は、家に一人だけという事もあり、3日くらいは同じお湯を使っていた。
追い炊きをするために、浴槽に蓋をして取っておく。
その蓋を、開けてみたくなった。
開けたくないのに、開けてみたくてたまらない。
怒っていた祖母は、じぃっと蓋を見つめ続けている私を不思議そうに見て。
目を見開いたまま、私が蓋をクルクルと巻くのを、見ていた。
そうして同時に、固まった。
2人で、きっと同じ顔で。
先に動き出した祖母が、乱暴に蓋をすると。
私を抱えて浴室を出た瞬間、割れそうな勢いで曇りガラスのドアを閉めた。
それからすぐに居間にある電話の子機を掴むと、大きく震えてなかなか押せないボタンを、必死で押して。
漸く最後まで押せたそれを耳に当て、相手が出た途端に素早く名乗って、すぐに来てくれと頼んでいる。
お願いお願いと懇願し、相手が了承したようで通話を切った。
そして私と兄を呼ぶと、掘炬燵に一緒に腰掛けながら、3人で団子のようにくっついていた。
私と祖母が大きく震え、時折ガチガチと歯を鳴らす。
そんな様子を不思議がって、子どもの好奇心に勝てなかったのか、兄がお風呂場を見に行こうとする。
しかし祖母がその手を強く掴むと、無言で睨みつけて座らせる。
兄はそんな祖母の様子が怖かったようで、ごめんなさいと言いながら泣いた。
それでも許せなかったのか、動けなかったのか。
祖母は兄の腕を掴んで、何も言わずに目を見開いている。
どれぐらいそうしていただろうか。
玄関先に原付バイクのような音がしたかと思うと、弾かれたように祖母が玄関に駆け出した。
私はその隙に、チラリと兄を見て。
「兄ちゃん、いい加減にしなよ。」
と言って、祖母と同じような顔で睨みつけたのだった。
懲りずに、お風呂場に行こうとする兄はなんなのか。
普段はインドアで、面倒臭がりでマイペースなのに、お風呂場に行く事を諦めようとしない。
今度は兄が、呼ばれている。
率直にそう思った。
だから私の小さな手で、ギュッと兄の手を掴んで放さない。
そんな攻防を続けていると、物々しい様子でお坊さんが入って来た。
お風呂場に向かう前に、パッと目が合うと。
「女の子がいるんだね。あの子は、危ない。」
早口でそう言った。
祖母はその瞬間に顔を顰めて、深く頭を下げている。
お坊さんは大きく頷くと、茶色くて長い数珠を掴んでお風呂場に向かった。
私と兄は掘炬燵で、未だに攻防を続けており。
先程よりも強い力で、兄が慌てたかのようにお風呂場に行こうとしているのが、ものすごく得体がしれなくて怖い。
けれど、確かに一瞬物凄く憎かったものの。
喧嘩もするし、意地悪もされるし、嫌いだって面と向かって言った事もある。
しかしそれでも、たった一人の兄なのだ。
連れていかれたくない、と強く思った。
必死に縋りついて押さえているうちに、お風呂場から水の流れる音がして。
大きな紫の布袋を持ち、お坊さんと祖母が戻ってきた。
すると、さっきまであんなに暴れていた兄が、突然に大人しくなったのだ。
それにホッとしたのも束の間、お坊さんは私の前に座ると。
「アンタ、連れていかれる。」
厳しい顔をして、歳のせいか嗄れた声を出して、そう言ったのだ。
その瞬間に震え出し、またしても歯をガチガチ鳴らす。
しかし何故か、目の前のお坊さんを、猛烈に害したくなった。
乱暴に殴って、山を登って、墓場に行きたい。
そう思う事こそが、正しいような気がした。
しかしその前に、お坊さんの大きな手で頭を掴まれて、お経を唱えられる。
その途端から泣きたくて、苦しくて、やめてくれと思った。
「あーーーーあーーーーあーーーー
あああああああああああああああ」
意味の無い言葉が口から漏れ、その抑揚の無い声に、祖母と兄が恐怖した。
兄からきいたのは、祖母が強く兄を抱きしめながら、「その子から出ていけ!!!」と叫び続けていたという事。
そして私の事が、物凄く怖かった事。
大人になってから教えてくれたけれど、思い出したくないから二度と訊くなと言われた。
ねえねえ、
ねえねえ、
ねえねえねえ、
ねえ。
き こ え て る ん で し ょ う ?
最後に、そんな声が聞こえたような気がした。
ハッとした時には、お坊さんが私の頭をそっと撫でてくれていて。
泣きながら、お互いに苦手だったはずの祖母が、良かった良かったと言いながら抱きしめてきた。
安堵したように見守ってくれていたお坊さんは、祖母に後でお寺に来るように言うと。
「この子を、あまり近付けさせてはいけない。」
強い視線を私に向けながら、祖母にそう言って帰っていった。
あの紫の、大きく膨れた布袋を持って。
それから、気が付くと家にいた。
我が家の自分の部屋で、自分の布団に寝かされていた。
あれは夢だったのか。そうであってほしい。
起きて一人だった事に強い不安を抱き、暮らし慣れたはずの部屋も怖い。
だからヨタヨタと立ち上がると、1階にゆっくり急な階段を降りて行く。
そこには、両親と兄がいた。
───ああ、やっぱり夢だったんだ。
嬉しくなって、階段を降りながら泣いた。
気付いた母が走ってきて、無言で背中をトントン叩きながらあやしてくれる。
「もう、おばあちゃん家に行くのは、暫くやめようね。」
苦しそうな顔をして、母がそう言った。
ハッとして家族を見ると、神妙な面持ちで私を見ている。
───夢じゃなかったんだ。
その事実に、大きな声を出して泣いた。
仕事や家事に疲れていて、いつもイライラしてる事が多い母も、この時はまったく怒らずに只管あやしてくれて。
私が執拗にお風呂を怖がっても、文句を言わずに一緒に入ってくれた。
それは割と大きくなるまで続き、母にはとても感謝している。
違う、大丈夫だと分かっていても、家の湯船の蓋を開ける時には、怖くて震えそうになる。
あの時、祖母の前で開けた蓋の中の湯船は。
まるで墨汁かと思う程に、真っ黒な大量の髪の毛で表面が覆われていた。
とても長くて、黒くて、隙間が無いぐらい、大量に。
この出来事は、私の一生の心の傷となるだろう。
お風呂に入る時、サリサリという音がした時。
私は不意に、あの日を思い出す。
あの声を、思い出す。
耳に残る、抑揚のない声を。
私を求めて呼ぶ、音と声を、その冷たさを。
「ねえ。」
誰かにそう声を掛けられて、振り返った先にいるのは、果たして。
ある日の休日、母から久しぶりに電話があった。
普段はメールなのに、電話なんて珍しいなと思いながら出ると。
『そろそろばあちゃんも歳だから、施設に預けようか迷ってるんだよね。』
という、父には言えない愚痴だった。
私はいつも、母の愚痴を聞かされていたけれど、はけ口が無いのだと思えば我慢が出来た。
だから今回も、うんうんと相槌を打ちながら聞いていて。
『そういえばねえ、ばあちゃんの髪の毛はもう真っ白でしょ? お掃除に入ったデイサービスさんがねえ、お風呂場の排水溝に、黒くて長い髪がたまに混じってるって言うんだよ。もしかして、暑いからシャワーして帰ってるんかねえ?』
って言いながら、すぐに話題が母の職場のお友達の内容に変わった。
私は呆然として、相槌も打てない。
それでも母は満足したようで、またねと言って通話を切った。
私は鮮明に思い出す。
あの雨の日、浴室から聞こえた音、近付いてくる音と、耳元で囁かれた声。
そして、湯船の真っ黒な髪の毛を。
あの子は、危ない。
アンタ、連れていかれる。
あれから、割と直ぐに亡くなったお坊さんの嗄れた声が、頭の中で木霊した。
アレンジを加えてありますが、私が経験した事を書いています。
田舎は怖い。山は怖い。
それは本当の事です。
どうか皆様も、お気を付けください。