1話 ~魔王と猫と失敗と~
魔属領は今日も暗闇。
雲は黒々として分厚く、風は湿度が多量に含んでいて生暖かい。
空では雷鳴が鳴り響き、地では何かの生物の声が響き渡る。唸り声、吠える声、叫ぶ声、泣く声。この地に静けさは無い。
これが魔王が住む魔属領の日常だ。
大きな大陸の平原に、ピサの斜塔に似た縦長の構造物が一つある。これこそ人間たちが「最弱魔王」と呼ぶ魔王の城である。
人間たちがなぜそう呼ぶのかと言えば、この魔王城が人間領から最も近い場所にあるから、というのが一つ。魔王城が想像していたよりも小さくて地味だぞ、というのが一つ。
もう一つは城の周りの魔物が弱いぞ、ということ。
人間領から魔属領に初めて入ってきた人間たちはみな緊張している。ここが魔王が住む魔属領か、と。そして魔王城を見てさらに緊張する。ここに魔王がいるのか、と。
ゴブリンが出てくる。
お馴染みのゴブリン。なんだこいつかと、一度油断してから人間たちは気を引き締める。見た目は同じでもここのゴブリンは恐ろしく強いに違いない、と。しかし戦ってみてもいつものゴブリン。
そしてあっけない勝利。群れでなければ一般成人男性でも倒せてしまうのがゴブリンという魔物なのだ。
なんだこんなものか、魔属領といっても大したことは無いではないか。人間領の魔物はもっと強いぞと、安心する。
次もゴブリンが出てくる、次もゴブリン、ゴブリンゴブリンゴブリン。最弱魔王の魔王城の周りにはゴブリンしか出てこない。人間たちは緊張から解放されて笑う。なんだ魔王城の近くは要注意じゃなかったのか、と。
なぜなら彼らは知っている。魔王よりも上位の存在である「大魔王」の住む魔王城には近づくだけでも危険だということを。
そこには見たことも無い魔物が出現する。そして見たことも無い魔法を使い、たった一体で人間の戦士千人を殺した、という話を。
それならきっとこの地味な城、城というよりただの塔。この中にいる魔王も弱いに違いないぞと笑い合う。
しかし最弱魔王と馬鹿にされながらも、討伐したという話は一向に出てこない。人間が魔王を倒せば100年以上成し遂げられていない快挙なのだが正式な発表はない。
そして最弱魔王の魔王城は今日もあり続けている。
そんな魔王城の内部。
薄暗い室内にいるのは一人と一匹。黒髪で二本の角を生やした人間に似た背の高い男と、首元に金色の鈴をつけたロシアンブルーに似た猫だ。
男と猫は朱色のテーブルを挟んで向き合い、その上にある物を緊張感した面持ちで見つめる。
それは球体。大きさは人間の頭部くらいで、占い師が持っている水晶に似たものがテーブルの上に乗っている。
「随分面白いものを持ち帰ってきてくれたね、金青」
男が少し笑いながら言った。
普通の石とは明らかに違う異様なオーラを発している。繊細な精神を持つものであれば近寄らないくらいの怪しさと美しさ、そして皮膚をピリピリ刺す威圧感が室内に溢れている。
「やっぱりそのままにしておいたほうが良かったですかね?迷ったんですけど龍笛さんなら絶対に持ち帰って来ると思いまして」
猫が椅子の上に2本足で立ちながらテーブルに両手を乗せている。動きにしてもしゃべり方にしても全てが非常に人間らしかった。
「勘違いしないでくれよ」
安心させるようにやさしく笑った。
「私は褒めているんだ。もしこれが他人の手に渡っていたら大変なことになっていただろうからね。よく持ち帰ってきてくれたよ」
「そうですよね、そう言ってくれると思っていましたよ」
猫はホッとした顔をする。
「多分これはーーー」
一息置いて同時に声にした。
「「勇者召喚玉」」
猫は男の顔を見る。
「やっぱりそうですよね」
覗いてみれば白いモヤが渦まいていて、少女の様子が映し出されている。
金色の髪とやや吊り上がった目を持ち、少し怒ったような表情ではあるが整った顔の少女。その周囲にある背景は二人には見慣れたもので、地球の、日本の景色に似ていた。
「前に二人で一緒に見た図鑑に載っていたのと同じ特徴だから間違いないだろう。詳しく知りたいからもう一度これを見つけた時の状況を説明してくれるかい?」
「わかりました、えーと」
猫はゆっくりと思い出すように語りだす。
「魔王城から出た僕はいつもの散歩をしていました。そしたら「ゴーッ」という微かな音がしたので見上げたら、小さな光の塊が落ちてくるところだったんです。流れ星だったら一瞬で消えるはずなのにもっと力強くて速度もゆっくりなんです」
話しているうちにだんだんと猫の口調が速くなる。
「もうこれは隕石だと思いました。「ドゴッ」っていう地面が震えるほどの音がしたので、僕はそこに向かいました。そしたらそこは白い煙があがる大きな窪みになっていて、その中心にこれがあったんです」
男は顎をさすりながら考えている様子。
「天から降って来る、か。その情報は図鑑には書いていなかったな」
「どうしますかこれ?」
「これを砕けば勇者を召喚することが出来るはずだね」
「図鑑にはそう書いていました」
沈黙が流れる。
「そうか………このまま置いておこう」
「あ………そうですか」
声のトーンが少し落ちた。
「金青は私の存在が何であるのかを忘れたのか?」
「魔王様です」
「そうだ。わかっているじゃないか」
先生が生徒を諭すように言う。
「そうですよね、勇者と魔王は敵同士ですもんね。すいません、分かっているんですけどなんだかワクワクしちゃって早く割ってみたい気持ちになったんです」
「その気持ちはわかるよ。だけどわざわざ敵を呼び出すことは無いよ、それでなくても敵は多いというのに」
「すいません」
「別に謝らなくていいよ、全く怒ってはいないんだ。けれどこれは本当にお手柄だったよ、さっきも言ったけどもしこれが他の物の手に渡っていたら大変なことだった。とりあえずこれは金庫に入れて置いて誰にもとられないようにしよう」
「金庫ですか?」
「大きくて頑丈なのがあっただろう?」
「ありますけど開きませんよ。僕も掃除しながらずっと探していますけど、鍵がまだ見つかっていません」
「そうだったか………それじゃあタンスにでも入れて置くしかないか」
「タンスですか?そんな場所で大丈夫ですかね?なんだか少し心配なんですけど」
「そうは言っても他に良い場所でもあるのかい?」
猫は椅子の上で腕組みをしながら考える。
「確かにそうですね、ちょうどいい所は思いつかないですね。」
「私としても厳重で相応しい所に置いておきたいけど今は仕方ない、そのうち考えることにしよう。ここは金青の魔法のお陰で今まで誰にも侵入されていないんだ。タンスでも大丈夫だと思うよ」
「あ、ありがとうございます」
猫は顔を伏せてはにかんだ。
「私たちにとってこの塔はまさしく最後の砦だからね、金青が一緒に来てくれて本当に助かったよ。これからもよろしく頼むよ」
「はい、がんばります!」
嬉しそうに言った。
「間違って割ってしまっては大変だからすぐにしまった方がいいな。どこか普段は立ち入らない部屋の方が良い、どこがいいかな………」
「あ、僕が持っていきますよ」
「いや金青はその猫の体では大変だろう、私が持っていくよ」
「ありがとうございます、ですけど………」
勇者召喚玉は見事な球体である。職人が丁寧に磨き上げたかのように一切の凹凸も歪みもない。
これは実に滑りやすい。
手を伸ばした魔王 龍笛の指先に当たった。
その途端、エアホッケーのようなスムーズさでテーブルの上を滑って、端から落下して、硬い床にぶつかって、当たり前のように砕けた。
「「………」」
少しの沈黙。
爆発的な光が一人と一匹を包んで弾けた。