報いの篭 ③
* * * * *
5
「ん……んん」
うりうりこと、配信者瓜生慎二はひんやりとした空気を肌で感じ取り、目を覚ます。
重い意識がゆっくりと覚醒していくに従って、とめどない恐怖が心を支配する。
――――――黒い蟲。
――――――女性の悲鳴。
――――――そしてその女性が一瞬で無残に潰される光景。
「うあ……うわあああああっ!!!」
叫びは、虚しく建物の奥に吸い込まれて消えた。
自分の荒い息が、建物の中に反響してやけに響く。それがより不安を煽り、全身の震えが止まらない。
(どうなったん……あの人。他の人たちは……)
恐る恐る周囲を見渡してみる。
誰もいなくなっていた。天井に存在する天窓から、オレンジ色の光が漏れている。雰囲気から見て夕焼けの光だろう。どれくらい寝ていたのかはわからなかったが、誰もいなくなっている。
孤独を認識した瞬間、瓜生の恐怖がさらに増してく。
――――――どうすれば、ええんや。
全身から吹き出す汗―――――瓜生はゆっくりと立ち上がり、壁に向かって進む。最初目覚めた時はあまり意識しなかったが、壊れた機械の残骸や、ベルトコンベアが走っていた跡などから、ここがかつて何かの工場であったことが伺える。
――――――どうすれば、ええ。
瓜生は壁に背を付け、ピタリと動かなくなる。
ここから動きたくないという気持ちと、怖いもの見たさにも似た“興味”が混在する奇妙な心境だった。どちらかと言えば、この“興味”が足を動かそうとする力の方が強い。
――――――神経がおかしい。
人が目の前で死んでいるのに。
たくさんいた人が全員、忽然と姿を消しているのに。
どう考えても命の危険がある中で、どうしてあえて渦中に飛び込もうとするのだろうか。ありえない。頭がおかしいのだ。
瓜生は、自分が通常の精神状態ではないと思い込む。
(このままやと、俺もあの化け物に殺される)
瓜生の口元が、ゆっくりと歪んでいく。
「ハハ、ハハハ、ハハ」
笑いが止まらない。
どうしてこうなったのか。ただ、七夕の配信をしていただけなのに。
殺される筋合いなどない。自分は、それほどまで罪の多い人生を歩んでなど来ていない。
おかしい。おかしいのだ。こんなの――――――。
「理不尽や」
吐いて出た言葉は、まるで呪いのようだった。
脳内で何度も反響し、ふわふわと意識を支配する。
――――――ぞわり。
背筋に妙な感覚が走る。
今まで硬かった壁が、突如動き出したような感覚。
何かが蠢いていて、その上に自分の背中がある感じ。
「ぇ……」
気付いた時には、すでに遅かった。
それはただの壁ではなかった。大量のゴキブリが付着してできた、巨大な壁。
それに、瓜生は背を付けていたのだ。
「ああああああああ」
前のめりに倒れた瓜生は、腰が抜けて立ち上がれない。
必死で腕を動かし、地面を這う。本能がそうさせていた。迫りくる死への恐怖から逃げる、生存本能だった。
――――――#$%&%&$#%$#&%$##$%&%#$$#。
それは羽音か、這う音か。
わからない。ただその音から、化け物の喜びを感じ取る。
無様に地面を這う自分を見た“アレ”が、狂喜しているのだろう、と。
ぐいっと服を引っ張られ、瓜生の体が起こされる。
背中を這いずり回る小さな蟲の感覚が脳を揺さぶり、今にも気を失いそうだった。
――――――体を押される。前に、進めということか。
一歩、また一歩。瓜生の体は前に進んでいく。押される時の感覚は、不思議と心地よかった。力を抜いていても自然と前に足が出る。
もうどうでもいい。瓜生は思考を完全に停止させる。されるがままに身をゆだね、どこかに向かう。
柱を数本通り過ぎ、扉の前までやってくる。自然と扉が開き、中に入る。そこも工場の跡地が続いており、先ほどの空間よりも機械の残骸の数が多かった。
ぎいい。
扉が閉まる。
瓜生は、背中の圧から解放される。そのまま前のめりに膝から崩れ落ち、正座の態勢になる。
――――――なんだ、これは。
瓜生の目の前に置いてあったのは、白い皿に乗せられた豪華なステーキだった。
トリュフの芳醇な香り――――――大量の白トリュフがステーキの上にかけられており、アツアツの湯気が立ち上っている。傍にはナイフとフォークが置かれており、極限状態から解放された瓜生の腹が、豪快に鳴った。
――――――ごくり。
美味しそう……美味しそう。美味しそう!
たまらなく食べたくなる。我慢できない。こんなに、美味しそうなステーキを見たのは初めてだ。
滴れ落ちるよだれを手の甲で受け止め、震える手でナイフとフォークを握る。
豪快に切り分けると、中から肉汁が噴き出してくる。肉の香りがより一層濃く深くなる。
瓜生は大きな口を開けて、そのステーキにかじりついた。
* * * * *
6
「さて、そろそろだな」
時刻は19時半を回った。日が沈み、辺りが急激に暗くなってくる。
時計を確認した清正は、車から出る。
むせ返るような湿気に襲われる。小高い丘から見下ろした先にあったのは、ボロボロになった工場跡地だった。壁はところどころ壊れ、雑草が生い茂り、とても人が入れそうにない。
「お待たせしました……!」
「今度は3分遅刻だぞ」
「し、しかたないじゃないですか。色々と術の準備してたんですよ」
現れた応治は、昼間には持っていなかった大きなリュックを背負っていた。
「そちらは準備できたんですか?」
「ああ。戦う準備はできている」
清正はスーツケースを左手に持ち、右手でスマホを弄っている。
「さあ行くぞ。ぐずぐずしている暇はない」
――――――昼間。二人が辿った傀朧の跡は、この廃工場に続いていた。
周囲の状況を確認し、看探法と呼ばれる傀朧分析術を使用し、中にいる傀異に気づかれないよう注意を払いながら、細かく分析を行った。
看探法は、想術師なら誰でも使用することができる初歩の技術である。傀異の核となる概念を特定し、様々な負の感情やあらゆる想像の残りカスである傀朧から、情報を抽出することができる。どのような概念を持つ傀異であるか分かれば、戦闘を有利に進めることができるため、想術師が傀異と戦うときには必ず使う技術である。基礎であるがゆえに、二級以上の想術師なら息を吸うように使うことができる。
推測通り、概念の特性は“ゴキブリ”――――伝承レベルⅣ、危険レベルdの厄介な概念だ。傀朧の総量も加味すると、傀異としてのランクは“上”。上から数えて二番目、一般的には準一級以上が対応にあたる強さの傀異である。
人間がゴキブリを想像するにあたって生まれる負の感情の強さが、ランクには反映されている。名前を呼ぶのも憚られることもあるゴキブリという存在が、いかに人間に嫌われているかがよくわかる。傀異が凶悪化するのは必然だろう。
相手の強さが予想以上だったことがわかり、清正はあえて夜まで待つという戦略を採ることにした。必要な武器をそろえることと、応治が怪我人を救うことができるように準備する時間が必要だった。
廃工場に近づいていく道中、清正は応治に分析結果を説明する。
「奴の主な能力はおそらく、大量のゴキブリ共を操ることだろう。これまでのネットの情報や、分析の結果、奴が群体であることは確認済みだ」
「えっと、つまり本体は大量の兵隊ゴキを操って戦うってことですか?」
「いや」
先頭を歩く清正は、応治に草陰に身を伏せながら進むように指示する。
「操る、というより実際にいるゴキブリと同化すると言った方が正しいだろう。夏に増えるゴキブリという概念に対し、マイナスの傀朧が固まった結果、実際に存在するゴキブリを核として形になったと推測する。奴は、普通の人間にも見える珍しいタイプの傀異だ」
「うーん。なんか可哀そうですよね」
応治の発言に、清正は首を傾げる。
「なぜだ」
「だって、結局おれたち人間がゴキブリのことを散々嫌うから、こうして邪悪な傀異になったわけですし……それっておれたちにも責任があるんじゃないかな、とか思ったりします」
「何とも言えんな。例えば我々がゴキブリを捕食するなら、全く問題はないと思うが」
「……美味しいって聞いたことありますね」
応治は、苦い顔をして草の間から廃工場を確認する。
表の古びた看板には、かすれた文字で『近坂製菓』と書かれていた。
「美味しいと言えば、近坂製菓って有名ですよね。まずい棒とかひーひー麺とか」
「ふざけた名前だな。菓子のことは知らんが、ここは十年ほど前に京都の方へ移転して使われなくなったらしい。中の地図を入手してある。お前のスマホにも送ったから、確認しておけ」
応治がスマホを開いて、じっくり地図を眺めている間、清正は工場の外観に目を向けていた。
――――――二階に、空気の入れ替えのための大きな天窓が付いている。
侵入するなら、そこからがいいだろう。
「作戦はこうだ。俺が突入し、敵の目を引く。これだけの邪悪な傀朧だ。中が傀域化していることも考えられる。俺が正面入り口を解放したタイミングで、お前は中に入り、行方不明者を救出する。安全な場所まで避難させてから適宜治療を行ってくれ」
「わかりました」
清正は草むらから立ち上がる。
絞めていたネクタイを緩める――――――それは臨戦態勢に入ったことを示すルーティン。
スーツケースの中から閃光弾を取り出すと、応治に目配せを送り、工場に向かって走り出す。
大きく跳躍。二階の天窓 目がけてドロップキックを繰り出す。
ガラスが割れる大きな音と共に、清正は閃光弾に点火した。
大きな光が、地面に向かって落ちていく割れガラスに反射し、光の筋が廃工場の隅々まで行き渡る。外から見てもわかるほどの大きな光に、応治は思わず目をつむる。
清正は、軽やかに廃工場の床に着地する。一匹一匹傀朧を帯びたゴキブリたちが、工場中に散らばり、逃げ惑っているのが確認できる。ゴキブリのことを普段はただの虫、程度にしか思わない清正も、あまりの量に顔をしかめる。
「……さて」
清正は再びスーツケースの中に手を入れ、今度は発煙弾を取り出すと、栓を抜いて転がした。
すぐに白い煙が廃工場を覆い、混乱したゴキブリたちはさらに四方へ散っていく。外に逃げていく個体も多い。
その隙に正面玄関を蹴り上げ、扉を解放すると、応治に合図する。
応治はなるべくゴキブリを見ないように、素早く廃工場に入った。
「まずは被害者を救出するぞ。お前は煙が晴れるまでには廃工場を出ろ」
「はい!」
応治が廃工場の奥へ進んでいったところで、清正は大きく息を吐き出した。
スーツケースを持ち上げ、胸の高さまで持ってくると、持ち手に傀朧を込める。
「……“天照”、起動」
銀色のスーツケースが青白い光に包まれる。スーツケースの底が持ち手の方へ上昇すると同時に、長細い形に変形する。
――――――そしてスーツケースは、銀色に光る剣へと変わった。