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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

夕方、公園、骨女

作者: 亜木古

初投稿です。よろしくお願いします。

 骨女って知っている?そう日菜子に聞かれて、私は目を瞬いた。

「なにそれ、人体標本の話?」

「違うよ、最近このへんに出るんだって」

 そう言う日菜子は、いたずらっぽい輝きを湛えた目で私を見詰めた。沈みかけの太陽の赤い光に照らされたその表情が苦手で、私は眉根を寄せてしまう。別に日菜子が嫌いとかそう言うわけではない、幼い頃から親しくしていた日菜子はむしろ好きだ。ただ、私が怪談を嫌いだと知っているのにそういう話を仕入れたら、必ず私に話してくるのが困る。

 公園のベンチに並んで座るこの体勢、特に逃げ場もない。立ち上がって強制的に話を終わらせるのはさすがに躊躇われた隙に、日菜子は口を開いた、

「このまえ、遥から聞いたんだけど。この公園にいた小学生の女の子に、中学生くらいの女の子が話しかけてきたんだって」

 話し始めた日菜子を止めるに止められず、私は黙ってその話を聞いた。何度かそういう話を止めようとしたことはあったけれど、それをすればするほど日菜子は面白がって話を無理にでも続けるから、すっかり無駄だとわかっているのだ。

 曰く、友だちと遊んでいた小学生の女の子は、夕方ごろ、先に帰る友だちにさよならを言った後も公園で遊んでいたという。そこに話しかけてきた中学生は、この梅雨明けの季節に似つかわしくない冬服のセーラー服にタイツという出で立ちだったそうだ。見るからに暑苦しい格好をした彼女は、さらに肩より長い黒髪を結ぶこともなく下ろしていたらしい。

 また、こういった怪談にはよくあるけれど、たいそう整った顔立ちだという。

 一人で遊んでいる小学生に対し一緒に遊ぼうと誘いをかける中学生。快諾した小学生は、帰るまでという制限付きで彼女と遊ぶことにしたそうだ。ブランコ、シーソーと続けて遊んで次にジャングルジムへ、とその中学生がジムへ手を伸ばしたときにセーラー服の袖がまくれた。それはほんの数センチのずれだったらしいけれど、小学生がその隙間に見たものはあまりに衝撃的なもので、公園中にその子の叫び声が響いた。

 本来であればそこにあるべき皮膚も肉もなくて、手首から一本の太い骨だけが見えて服の袖に消えていたのだ。

 幼い女の子の悲鳴に驚いた様に目を丸くした彼女は、手首を見て彼女が見たものを悟ったらしい。困りも焦りもせず、にんまりと笑ってセーラー服の裾に手をかける。その視線はまるで獲物を見詰める肉食動物そっくりだったそうだ。

「……見たな?」

 そこで女の子はもう一度悲鳴を上げて気絶してしまったらしい。2回も響いた悲鳴を聞いて駆けつけたご近所の人はその中学生を見ていないらしいけれど、被害はその小学生だけではない。何人かそういう話をする小学生女子が現れて、その子たちはいずれも入院先で魘され続けている……。

 そこまで話して日菜子は私の目を見返した。私が怯えているのを探すかのようにじっくりと眺めていたが、ふとため息をつくと「つまんない」と目をそらした。

「百合、ぜんぜん怖がらないんだもん」

「ははは」

 思わず乾いた笑いが零れて、慌てて口を押さえた。いかにも体験しました、という体で話す日菜子が張り切って私を怖がらせようとしているのがわかるから、返って嘘くさくみえるのだ、とはさすがに言えない。

「さすがにそんなミエミエの怪談に怖がらないよ」

「え~、怖くない? 厚着している子の服の下に、骨がむき出し! とか見たらトラウマ確定じゃない?」

「そもそもその人、別になにもしてないじゃん」

「だから、見た子が全員入院しちゃって退院できないんだって。絶対呪いでしょ、多分」

 絶対と多分を一緒に使うのに、苦笑する。日菜子はそういうところがある。

「というか、誰も退院してないなら誰がその話を日菜子に教えたの?」

 そう言うと、日菜子はちょっと困ったように眉を下げた。

「その被害者の友だち、の友だちって子……」

「ほら、どうやって聞いたの。その友だちの友だちって子が、入院している子から」

「もうつまんないなぁ、百合は!」

 憤慨したように眉をつり上げた日菜子は、ふと何かに気づいたように目元を緩ませた。にやり、という音がぴったりな表情を浮かべるその顔に、またも嫌な予感が私の脳裏に過る。こういう時の日菜子は、あまりいいことを考えていない。

 予感が的中して、日菜子は私のセーターの裾を掴んだ。

「そういえば、百合も暑くなったのにセーター着てるよね」

 その言葉に、ドキリと心臓が跳ねた。日菜子が掴んだ、私の白いセーターから目が離せない。白いはずのセーターは夕日の光に照らされて、日菜子の手ともども、赤々と染めていた。どくどくと高鳴る心臓の音が、尚もうるさかった。

「私は、日焼け除けだけどね」

 返した言葉は、なるべく震えないように気をつけた。微妙な震えは残ってしまったけれど、日菜子は特に気がつかなかったようで、ふふふ、と含んだ笑いを零した。

「まぁ百合は名前通り肌白いもんね~・・・・・・でももうさすがに暑いでしょ」

「下は半袖だし、セーターもそんな厚くないし、べつに暑くないよ」

「いやいや、今日なんて蝉が鳴いてても違和感ないくらい暑いでしょ? 袖くらいまくりなよ」

 そう言った日菜子は、軽くセーターを引っ張った。

 込めた力は強くはなくて、ただの冗談だったのだと思う。嫌がる私に、もしかして骨女は百合なんじゃないの、なんてうそぶいて困らせたかったのだろう。日菜子はそういうことを言う子だったし、そういった日菜子の態度を私はなんだかんだ言って今まではっきり拒絶したことはなかった。

 ぱん、と乾いた音を立てて振り払われた手を日菜子は呆けた顔で見詰めていた。何回か目を瞬いて、指先を見詰めていた彼女の眉が次第に釣り上がる。はぁ!?と怒気荒く上げられた声には、それでも困惑が滲んでいた。

「い、痛いじゃん! こんな強く振り払う必要ないでしょ」

 日菜子の言葉に、思わず目線を逸らしてしまう。確かに力が強かったかもしれない。そう思ってごめん、と呟いたものの、日菜子は納得しない。「本当に悪いなんて思ってないくせに!」と続けた。

 いつもだったらそんなことない、くらいすぐに言い返していた。けれど、今回の日菜子の言葉は事実だった。本当は、腕を振り払ったこと自体は悪いなんて思っていない。そのくらいには、日菜子の行動に拒否感が湧いていた。

 セーターに隠されている左腕を、右手で握る。かたくなな私の態度に気づいたのか、日菜子は鞄を持って立ち上がった。

「今日はもう、帰る」

 いつも賑やかな日菜子の一転して冷ややかな声に、一瞬後悔を覚える。マズいことをしてしまったかもしれない、と思ったのは確かだけど固まった喉からは一言も出ない。足音を上げて駆け出す日菜子の後ろ姿をそっと見送る。公園を出て右に折れるその道は、私たちが小学校の頃よく二人で歩いていた道だった。その道を駆け抜けた日菜子はあっという間に見えなくなり、公園には私一人が残された。

 公園に一つ掲げられた時計を見る。赤々とした光に照らされた盤面は、6時前を指している。まだ早い時間帯でまだ完全に陽が落ちたわけでもない。小学生が遊んでいてもおかしくない頃合いのはずなのに誰もいないのは、日菜子が話していた怪談の影響なんだろうか。ふと目に入ったブランコに引き寄せられたのは、そんな人の目がない状態だったからかもしれない。中学生にもなってブランコに乗る機会もそうないし、別に特別乗りたいとも思わない。けれど明るい公園の中には誰もいなくて、ふと目の前には空っぽのブランコ。微かに揺れるそれを見ていると幼い頃、日菜子と一緒に並んで漕いでいたのを思い出してしまって、なんだか懐かしさが胸に込み上げた。

 どちらがより高くこげるか競争していたっけ。日菜子は勢いよくブランコをこぐのに、私は高くこぐのがどうしても怖くて、いつも圧倒的な差で負けた。日菜子が得意げな顔で私を見て、もっと勢いよく足を動かすんだよ、と表情とは裏腹に優しく教えてくれていた。思い返すと微笑ましくて、けれどそんな日菜子に私が今日したことを思うと心が痛んだ。

 あの頃は教えてもらってもできなかったけれど、今であれば。と、記憶の中で私が座っていたのと同じ場所に座って、足を動かす。揃えて前へ、タイミングを見て後ろへ。子供向けに作られたそれは地面との距離が近くて、気を抜けば革靴の先を地面へ擦ってしまいそうになる。けれどさすがに今となっては、昔とは比較にならないほどの高さへこぎ出せる。

 一際ぐんと前へこいだとき、ふと隣から声がかかった。

「上手だね」

 ささやくような、それでも通った声が聞こえて、思わずそちらを勢いよく振り返った。革靴の裏が地面を擦り上げて、砂をまき散らす音が誰もいなかったはずの公園に響く。

 そこには、私と同じくらいの女子中学生がいた。黒いセーターと、肩まで伸びた髪が夕日に照らされている。膝上程度の長さの制服から伸びた足は、黒いタイツに包まれていた。

 ぞく、と背筋に冷たいものが走る。さきほどの日菜子の言葉が頭の中に響く。

 この暑さで、冬物の制服にセーターを着ている。服の下に白骨。その女の子は、綺麗な顔立ちをしている。

 こちらに微笑みかける彼女は、驚くほどに整った顔立ちをしていた。まさか、いやでもあまりにも、先ほど聞いた骨女の特徴に似ている。

 そう考えたら、たまらなく怖くなった。思わず後先考えず立ち上がる。私の急な動きに女の子は驚いたように目を丸くしていたのが視界の端に映った。けれどそれに構う余裕もない。

 急いでこの場を離れなければ、でもどこへ行けばいい、家しかない、けど帰りたくない、焦った心の中でめちゃくちゃな思考が飛び回る。

 私の焦りがひどかったのか、逃げるために駆けだした足が帰りたくない、と思った途端に勢いを無くす。適当に置いた足が、ブランコ下の滑りやすい地面を適当に踏んで、そのままつるりと滑った。

 あっと思う間もなく、手を着くこともできずそのまましたたかに床にすっころぶ。ずしゃあ、なんてすさまじい音が聞こえて、頬がヒリヒリと痛んだ。目を開けようとしたけれど、砂埃がもうもうと立ち上がっていて視界が悪い。

「だ、大丈夫?」

 先ほど聞こえた涼やかな声が、心配した様子でかけられる。巻き上がった砂が落ち着いた先で、先ほどこちらを見ていた彼女が眉尻を下げてこちらを見詰めていた。視線が合うと、片手を差し出してくる。未だに地面に横たわっているのが恥ずかしい。怪我のせいだけではない熱が頬に上がるのがわかる。

「だ、大丈夫です!」

「血が出てるの、急に動かない方がいいよ」

 慌てて頬に指先を当てると、血が思ったよりは付いた。うわ、と思わず声が上がる。

「もし良ければこれ、使って」

 彼女はそういって、真白いハンカチを差し出してくる。

「いいです、いいです。本当にごめんなさい」

「傷口は洗った方が良いよ」

 なんとかその場を離れようと思ったけれど、彼女も彼女で強情だった。私の腕を掴んで、公園の水道まで連れて行く。

 洗った傷口を押さえたために、差し出されたハンカチはあからさまに汚れてしまった。思わず首をすくめる私に、彼女は落ち着いた様子で笑いかけてくる。

「ハンカチを汚してしまってごめんなさい……」

「いいの、むしろこちらこそごめんね。急に声をかけたから驚いたね」

 首をかしげると、肩まで下りた髪が音もなく揺れてかすかに波打った。彼女は、やはり普通からはかけ離れて綺麗で、きっと日菜子の話に出てくる骨女はこんな人、という私の想像にかなり近かった。優しくしてもらっておいて、そんなことを思うのも失礼な話ではあったのだけど。

「あの、良ければハンカチ洗って返します」

「いいのに、別に・・・・・・」

 指しだした手に、彼女は一瞬手を振ろうとする。けれどふと目を細めると何かを考えるように二三度目を瞬いたあと、「せっかくだから」とそのままハンカチを渡してくれた。汚れた面を内側に折り直して渡してくる姿に、大人っぽい心遣いを感じる。

「えっと、じゃあ明日返します」

「ありがとう。私の名前はあかり。あなたは?」

「私は、百合。藤堂百合、っていいます」

「百合ちゃん、じゃあまた明日」

 あかりさんはそう言って座っていたベンチから立ち上がる。隣に座っていた私も一瞬迷ったけれど、同じように立ち上がった。あたりは大分日が落ちて、暗さを増している。夜といえるような暗さになるのも、時間の問題だった。さすがに帰らないといけない時間だ。

「さようなら、あかりさん」

 そう言って手を振る私を、あかりさんは同じように手を振って、笑顔で見送ってくれた。

「またね、百合ちゃん」


 公園を出て、家が見えるまで歩いた頃には、すっかりあたりは暗くなっていた。多くの家が明かりを付けて、窓からその光が漏れている。私が住む藤堂家は、一回り塀を設けているので家の明かりが付いているかどうか傍からは見えない。そのせいで一帯、なんだか薄暗く感じられた。

 塀を通って、玄関先へ。近づくまでの間に家に明かりが付いているのは見えてずんと心が暗くなるのがわかった。塀の前から家に入るまでの距離がある、それだけの敷地があることは恵まれている家庭であるということだった。昔は大して気にしていなかった事実が、今となっては非常に疎ましい。玄関へ続く道を一歩進む度に、気分がひどく沈んだ。

 なるべく音を立てないように、慎重に鍵を回して家に入ったつもりだった。玄関に入ってすぐ鍵を閉め振り返ると、すぐそこの廊下の壁に寄りかかってこちらを見下ろしてくる人影が目に入る。思わず、声が出るほど驚いた。電気も付いてない廊下で、座った目でこちらを睨む女性は、見るからに不機嫌そうだった。

「ひ、姫野さん・・・・・・」

「遅いじゃん。なにやってたの?」

 吐き捨てる様に尋ねられて、思わず目線が下がる。制服のプリーツスカートに皺が寄るのも構わず、ぐっと握りしめた。そうしていないと、見るからに手が震えてしまうからだ。怯えているのがわかると、姫野さんの機嫌はより悪くなる。姫野さんを刺激しないようにするための努力だったけれど、それも虚しく手が小刻みに震えた。

 それをめざとく見つけて、舌打ちを一つした姫野さんが乱暴に私の左手を掴んで廊下へ引き上げる。無理な動きに腕に痛みが走ったけれど、悲鳴が喉に張り付いてうまく声も上げられない。このあと起きることがありありと想像できて、背筋が一気に冷たくなった。抵抗しても彼女の力には到底適わないのは骨身に染みていた。ごめんなさい、とかろうじて呟く声も無視されて、リビングへ引きずられていく中、ぎゅっと目をつむると日菜子の公園から走り去る姿と、あかりさんの見送ってくれた笑顔が浮かんだ。

 明日、日菜子に謝らないと。あかりさんのハンカチ、洗って返さないと。現実逃避した頭がそんなことを考え始める。


 姫野さんが家に来たのは、桜がつぼみを付け始めた頃だった。髪は明るくて、顔にははっきりと見て取れる派手なメイクを施している彼女は、ある日お父さんの隣に立ってうちに来た。

「この方は、姫野さんというんだ」

「よろしくね、百合ちゃん」

 そう紹介するお父さんの目線はこちらにはまったく向いていなくて、今よりも高い声で挨拶した姫野さんの目ははっきりわかるほど笑っていない。そこからなんとなく察した。姫野さんはゆくゆくはお父さんと結婚するつもりだということ。私を邪魔だと思っていること。姫野さんの年齢が、お父さんより一回りは若いのもあって、ただのお友達ではないのだと理解するのは容易かった。

 知らない人を家族として受け入れられない。けれど、いつの間にか私に興味がなくなったことが明らかな今のお父さんに対して、再婚に強く反対することはできなかった。じゃあいらない、と言われてしまうような雰囲気が、姫野さんの隣に立つお父さんにはあった。

 お父さんが再婚を考えている相手であっても、私のお母さんになる必要はない。姫野さん自身もそんな気がないのはわかりやすかったから、そう私に言い聞かせて折り合いをつけようと努力した。姫野さんとは最低限の会話だけで済ませて、距離を持って付き合えばいい。けれど、そんな私の行動は、彼女の気に障ったようだった。

 具体的に何がきっかけかは覚えていない。そのくらい些細なことで、桜も散って久しいある日、いきなり張り飛ばされた。急に振るわれた暴力は余りに予想外で、勢いよくリビングの棚にぶつかる。その衝撃で、棚の上に飾られていたお母さんの写真立てが私のすぐ横に転がった。写真立ては伏せるような形で転がった。呆然とそれを見ている私の頭上で、姫野さんが怒気荒く何か言っている。気に入らないとかそういう類いの言葉であることはわかったけれど、それが脳を通らない。

 後ろで扉が開く音がする。姫野さんも暴言を一度切って、そちらを見た。つられるように振り返った先で、いつの間にか帰宅していたお父さんが、リビングの扉を開けてこちらを見ていた。喜怒哀楽の感情が全く抜けた、無表情でこちらを見つめている。その顔つきにはっきりと思う。お父さんがおかしい。少し前のお父さんとは、全く違う。

 一気に静まりかえった部屋の中に歩いてきたお父さんは、私の横に転がったお母さんの写真立てを拾い上げるとそのまま棚の上に戻した。写真を伏せるような形で戻されたそれを呆然と眺める私を見もせず、姫野さんに「騒がしくするな」とだけ言ってリビングを出て行く。

 階段を上る音が次第に遠ざかるのを、絶望的な気持ちで聞いていた。そんな私を、姫野さんが満足そうに見下ろしてくる。この家に、私の味方がいなくなったことをその時、はっきりと知った。

 その日から始まった姫野さんの暴力は、日に日に勢いを増すばかりだった。殴る、蹴るは当たり前。時には彼女の吸っていたタバコを押しつけられることもある。助けて、と上げた悲鳴はいつもか細くて、その声にお父さんが来てくれたことはない。


 お風呂の後、自分の部屋へと向かう。足取りは重い。今日も腕が痛んでいた。左手で左腕を庇いながら、扉ごしに物音の聞こえる書斎の前を通り過ぎる。

 今日、お父さんは書斎にいるらしい。けれど、特に扉が開くことはない。自分は足音が聞こえているのかいないのかはわからないけれど、そういえばもう1ヶ月以上、声をかけられたことがないなと思う。

 部屋に入ってそのままベッドに倒れ込んだ。お風呂から出て乾かしてもいない髪から垂れた水が、頬をすべる。傷口に入って思わず顔をしかめた。珍しくこの家で付けられた訳ではない傷口だと思う。手の中で握りしめているハンカチを干すため、重い体を起こした。のろのろとした動きで勉強机に向かう。椅子の背もたれに広げたハンカチを皺にならないようにかけた。

 ハンカチは、血の跡をすっかり落としていた。明かりの付いていない部屋の中でも白く見えるハンカチを見ていると、ふと公園で会ったあかりさんを思い出した。

 あんな風に怪我を心配されたのはいつぶりだろう。昨年、運動会で転んだとき以来かも知れない。見ていた日菜子がすっ飛んできて、慌てた様子で水道まで連れて行ってくれた。昼にはお父さんもお弁当を広げながら怪我の様子を聞いてきてくれたのを覚えている。あのときの二人の心配そうな顔が、今でもはっきりと思い出せる。

 お父さんは、今となってはとりつくしまもないけど、日菜子はまだ仲直りできるかもしれない。そう思いながら布団に入って体を丸めた。明日は謝ろうと決心して目を閉じる。じくじくとした左腕と頬の痛みがあったけれど、今日はいつもより早く眠気が勝った。


 夕べの決心もむなしく、日菜子は怒っているのか謝る隙もなかった。近寄ろうとするとごめん用事と言って素早くどこかへ行ってしまう。お昼の時間も、今日はちょっと、と言葉少なに教室を飛び出してしまった。

 けんかしたの、という一緒にお弁当を広げているクラスメイトの言葉にどう言うべきかに迷って、そう、とだけ返事をする。手元のおにぎりの包装を向いていると、手元のお弁当からつまんだ卵焼きを口に入れた一人がにこりと笑う。

「早く仲直りできるといいね。なんかいつも一緒だった日菜子がいないと変な感じがする」

 そのことばに苦笑する。クラスメイトはいい子だ、だけどその言葉に日菜子がいないとちょっと困るという意味があるのはわかった。社交的な日菜子がいて、彼女とやりとりできている部分があるのは私でもわかっている。同席しているもう一人も笑顔を浮かべているけれど、ちょっと落ち着かない様子なのはそういうことなんだろう。

「そうだね、早く仲直りできるように頑張るよ」

 そう言うと二人は応援するよ、と言った。


 結局放課後になるまで日菜子と話す機会はなかった。放課後、彼女の部活が始まる前に声をかけようと思ったけれど、別のクラスの人が先に日菜子を呼んでしまった。ミーティング時間が早まったんだって、と言われて急いで荷物と共に教室を出た日菜子はそのまま部活に行ってしまうだろう。バトミントン部である彼女の部活は長い。今日は諦めて、また明日と思って学校を出た。

 電車に揺られて、駅から家までの道を歩く。その間に今日を振り返って、一日が長かったなと思い返した。日菜子と話していないせいかもしれない。明日こそは謝れるといいのだけど。

 昨日の公園に入ると、昨日会った人がブランコに座っていた。微かに前後に揺らしているけど、こいでいると言うよりは座っているという方が近い体勢。肩におちた黒髪がかすかな風になびいている。ふと彼女の目が動いて、こちらを見て止まった。

「あかりさん」

 声を上げて駆け寄ると、彼女も合わせて立ち上がる。相変わらずタイツをはいていて、黒セーターを身につけていた。

「百合ちゃん、こんにちは」

「こんにちは、これ昨日借りたハンカチです」

「丁寧にありがとう。傷は痛まない?」

 頷きながら、頬に指先で触れる。絆創膏で覆った傷は、今日はもうすでにかさぶたができていて痛みもすっかりなかった。どちらかというと、頬に触れている方の左腕の方が痛いくらいだった。

「ええ、すっかり。あかりさんのおかげです」

 笑顔を浮かべて答えたつもりだったけれど、彼女の顔は強ばった。眉尻が下がって、痛ましそうな表情を浮かべる。ふと伸ばされた手は、差し出したハンカチではなく左手首を優しく掴んだ。

 力こそ強くなかったけれど、急な動きに驚いて目を丸くする。とっさに振り払おうとしてしまったのは条件反射だった。けれど力を込めた瞬間、より強い痛みが走って動きが止まる。痛みのせいで歪んだ顔を、正面から見てしまったらしいあかりさんが「百合ちゃん」と固い声をかけてきた。

「痛いんじゃない?」

「いえ、痛くないです・・・・・・」

「頬じゃなくて、左手だよ」

 言い当てられて、思わず口をつぐんだ。黙ることは逆に頷くのと同じことだとはわかっていたけれど嘘を言ってごまかすことは得意じゃない。こちらをじっと見詰めるあかりさんの目線は強くて、下手な嘘なんか通用しないのだろうと思わせた。

「昨日も痛かったの?」

 問いかけの形だったけど、違うと確証を持っていることがわかる声だった。否定も肯定もできなくて、思わず地面を見詰める。あかりさんを見れなかった。

 目線を合わせない私を見て何を思ったのか、あかりさんはねぇ、と一転明るい声を出した。

「百合ちゃんの家は近い? よければお邪魔させてもらえないかな」

 急な申し出だった。思わず目を丸くした私は恐る恐るあかりさんの方を見やる。彼女は眉尻を下げて、困ったような笑顔を浮かべていた。けれど声音だけは明るく、言葉を続ける。

「怪我の手当だけしよう。すぐに帰るから、家の人の迷惑にならないようにするよ」

 家の人、という言葉に意図せず肩が跳ねた。連想された姫野さん、お父さんの姿に心の底が一気に冷える。あの家にあかりさんを案内することに抵抗感を覚えた。

 初対面の人に失礼な態度を取ることはない、と思う。けれど姫野さんが家に来てから、友だちを呼んだことはない。日菜子ですら。だからこそ、あかりさんに対して二人がどんな態度を取るか、全く想定できなかった。失礼な態度を取って不快にさせたらどうしよう、という不安が過る。と同時に、面倒な私の状況を見せたくない、と微かに残ったプライドが頭をもたげた。会ったばかりの、それでも屈託なく話してくるあかりさんだけれども、私の家を見て引いてしまうかもしれない。そう思うと家に案内したくない、今の私の現状を見せたくないと思う。

 左手首を握っていたあかりさんの手が外れて、左手を両手で包むように握り直す。もう一度浮かべ直された笑顔は、柔らかく温かかった。一方で、手のひらはどこかひんやりとしていた。心が温かい人は体温が低い、という俗説を思い出す体温だった。

「大丈夫だよ」

 何がだろう。何が大丈夫なんだろう。怪我なのか家のことか。判然とはしなかったけれど、その言葉だけが妙にストンと胸に落ちた。

 あかりさんがこんなに温かく微笑むのなら、きっと大丈夫、なんだろう。

 そう納得した私は小さく頷いた。あかりさんは少し安堵したように息をついた。


 家に案内する道すがら、あかりさんは私の左手をずっと掴んでくれていた。温かくはない体温が裏腹に心地よくて、特に会話もなかったけれど不思議と気まずさは感じなかった。会って二回目の人と会話がない状況で、気まずくないなんて初めての体験かもしれない。けれど穏やかな心境だったかと言うとそうとも言い切れなかった。家に近づくにつれて、足取りは見るからに重くなった。大丈夫と納得したはずだったのに、いざ家への距離が近くなると、根拠のない自信が揺れた。

 そのたびにあかりさんは私の左手を強く掴み直してくれた。顔を見れば、安心させるように笑顔を浮かべている。その様子に励まされて、遅い足取りながらなんとか家の前まで来た。

「ここ?」

 あかりさんが尋ねてくるのに、頷く。私一人ではそのまま入る塀の前で立ち止まると、しつらえてあるインターホンのチャイムを、あかりさんは一度押した。そのまま入ってもいいですよ、と言う私に挨拶は大事、家の人がいるなら挨拶しないと、とあかりさんはしかめ面しく答えた。そういうものですか、と尋ねるより先にインターホンからはい、という不機嫌そうな姫野さんの声が聞こえる。

 やばい、と思った。よそ行きの取り繕うような高い声ではない。あかりさんのことはインターホンのカメラで見えているはずなのに。だというのにこの対応では、あかりさんにももしかしたら怒鳴ったり、暴力をふるったりするんじゃ・・・・・・。

 不安に駆られる私をよそに、あかりさんは明るい声も、笑顔も崩さない。私と繋ぐ手をかざして、カメラに写すようにする。

「私、百合さんのお友達です。百合さんが怪我しているみたいで、おうちまで連れてきました」

「怪我ぁ?」

 心底面倒くさそうに吐き捨てた姫野さんは、舌打ちをした。不機嫌な様子を隠そうともしない。

「なので、おうちに入れてくれませんか」

「百合、入れてやんなよ」

「おうちの人に無断で入れるのは良くないので、入れてくれませんか」

 あかりさんは鍵を取り出そうとする私を制して、カメラに向けて笑顔を崩さない。柔らかな表情も声音も変わらないのに、そのはっきりした物言いは譲る様子を見せなかった。もう一度、より一層大きな舌打ちをした姫野さんはそのままぶつりとインターホンを切った。直前に金属音が門から聞こえたから、切る間際に鍵を開けてはくれたのだろう。知らない間に止めていた息を細く吐き出しながら、あかりさんを見る。

「あかりさん、すごいね・・・・・・」

「すごいかな? 招き入れてもらわないといけなかったから、譲る気はなかったけど」

 あかりさんの言葉に、疑問が浮かぶ。私は鍵を持っているから、姫野さんに鍵を開けてもらわなくても、家には入れるし、それはさっきの姫野さんのことばでもわかると思う。なぜ、姫野さんに入れてもらう必要がある、みたいな形であかりさんが話すのかわからなかった。

 塀をくぐって、家の玄関に続く道を歩いていると「百合ちゃん」とあかりさんが尋ねてきた。

「おうちは好き?」

 唐突な質問だった。横目であかりさんを見ると、足下を見ているあかりさんの横顔は垂れた髪の毛に遮られて表情は伺えなかった。夕日も大分傾いて暗さの増す庭先に、黒ずくめとも言えるあかりさんはすぐに紛れてしまいそうだった。

「前は、好き」

 小さく返した言葉に、あかりさんはふふ、と笑いを零した。温かなその声音に、公園であかりさんが返してくれた言葉を思い出す。

 大丈夫。その言葉とあかりさんの態度を見ていると、先ほど姫野さんの声を聞いて重くなった心が、軽くなるようだった。

「そっか、そうだよね。おうちは好きでなくちゃ」

 不思議なことを言うあかりさんにこの状況の不可思議さを改めて思う。昨日会ったばかりの女の子を、こうして日菜子にすら入れたことのない家に案内している。今朝まで考えられなかった事態に、あの、とあかりさんに声をかけた。

「あかりさんって、変わっているね」

 あかりさんはもう一度声を上げて笑いながら「よく言われるよ」と頷いた。

「私も、よく変わっているって言われます」

「おそろいだ」

 そう言ってこちらを見たあかりさんは、楽しそうな笑顔を浮かべていた。おそろい、という言葉がなんだか無性に嬉しかった。


 私の鍵で玄関を開けると、暗い廊下が出迎えた。昨日とは違って、人影は見えない。リビングに続く扉から光は漏れているから、そこに姫野さんはいるんだろう。おじゃまします、と言って中に入ったあかりさんは救急箱はどこ? と私に尋ねる。リビングだよ、と指を指すと躊躇する様子もなくまっすぐ歩いて行く。手を繋いでいるから、後ろから付いていく形で、昨日引きずられた廊下を歩く。手を持って進むというのは変わらないのに、昨日とは全く違う安心した心持ちであかりさんの後ろを付いていった。

 扉を開ける音に驚いて目を丸くした姫野さんがこちらを振り返る。扉を開けた私たちを見るや否や、勢いよく眉尻を釣り上げた。

「ちょっと、なに勝手に入ってきてんの! 邪魔なんだけど」

「ここに救急箱があると聞いたので」

「はぁ? うちのものを勝手に使わないでよ!」

「百合ちゃん、左腕出してくれる?」

 騒ぐ姫野さんを気にした様子もなく、あかりさんは飄々としていた。おそるおそるセーターを脱ごうとした私を「百合!」と姫野さんが睨む。その声の鋭さに、指先が竦んで止まってしまう。姫野さんの甲高い声が、ガンガンと頭に響く。

「なんなんだよ、あんた! 勝手に家に入ってきて、図々しい!」

「勝手に入ってないですよ。私を招き入れてくださったでしょ」

 あかりさんは淡々と答える。その表情は変わらず笑顔のままだった。というのに、招き入れた、とあかりさんが発した瞬間に彼女の纏う雰囲気がはっきりと変わった。

 淀んでいる様に思われた部屋の中の空気が、芋虫のように一気に蠢く。ゾッとするような不思議な感覚だった。空気の不自然な動きに、内臓を撫でられたような薄気味悪さが一気に胸に迫る。

 その中で、握られた左手の感覚だけが鮮明で、安心感を感じられた。

 薄気味悪さを感じているのは目の前の姫野さんも一緒の様だった。見たこともない、動揺した表情を浮かべている。自身を守るように体を抱き込む腕は震えてはいなかったけれど、血の気が引いているのが見て取れた。

「な、なにこれ」

 これ、という彼女の視線はまっすぐあかりさんを向けられていた。ぐっと歯を食いしばったかと思うと、目を見開いてすぐ隣の私を睨み付ける。

「あんた、なんてもの連れてきたのよッ!」

 叫ぶ姫野さんの声もまた、聞いたことのないものだった。今まで彼女の激情や怒りのこもった怒鳴り声は散々聞いてきたけれど、ここまで切羽詰まった焦りの滲むような叫びは始めて聞いた。

「なにを言ってるんですか? さっきも言ったけど、私を招き入れたのはあなたなのに」

 あかりさんの声は、落ち着いていた。ただ、一段低い声にこの部屋の気温が急に下がったような感覚がする。蠢いていたはずの空気が、瞬間動きを止めた。空気が薄くなったように息苦しくて、知らず息が止まりそうになる。姫野さんの呼吸は、逆に見るからにせわしなくなっていた。犬のように荒く呼吸する音が聞こえるほどで、目が血走っているのが見えた。

 昨日、私を嘲るように見下ろしていた人物と同じ顔とは思えないほど様相が変わっている。

「違う、私はこんなの入れてない」

「私を見て、鍵を開けてくれたのは間違いない。だからそのこんなの、っていうものも、あなたが入れてくださったんです」

 残念だけど、と彼女は続けて、一歩前に出た。私と姫野さんの間に入るように進み出て、自然と繋いでいた手は離れた。空になった彼女の手が、交差した形で彼女のセーターの裾を掴む。

 ゆっくりと裾を持ち上げて明らかになった彼女の胴体には、あるべきものがなかった。

 胸あたりまで持ち上げられた裾は、背中側では落ちているからはっきりとは見えない。けれど、斜め後ろから見ていたら本来見えるべき彼女の胸元からおなかが、全く見えなかった。

 真っ黒な闇といえるものが、そこに広がっていた。それを囲むように数本の白い棒のようなものが二三本見える。骨格標本で似たような形のものを見たことがある。見える場所も相まって、その白い棒のようなものは肋骨にしか見えなかった。

 日菜子が話していた、骨女の話が思い出される。彼女の話では手首までが骨だったけれど、胴体部分も骨だったんだ、と思った。

 その闇部分の輪郭がぶるりと震えた。深い黒色をしていたその色がどんどん薄らぐと、その中からにゅ、っと何かが出てきた。黒い衣装を身につけている人の腕だと、にわかにはわからなかった。

 バキバキと、何かが折れるような音が本来であれば彼女の体に当たる部分であろう場所から響いている。腕は何かを探すようにぐねぐねと動いていたけれど、一本新しく足が突き出されたことで落ち着いたらしい。ぐにゃりと闇が一層形を変えて薄らいでいく。闇の向こうに見えたものは自分のはるか想像を超えていて、驚きすぎて声も出なかった喉から叫び声がこぼれそうになる。咄嗟に口を抑えたけれど、抑えた手の下で、奥歯がカチカチと鳴った。

 あり得ない話だけれど、あかりさんの胴体にはあるべき皮膚や筋肉、内臓は全くなかった。真っ直ぐに縦に伸びる太い白いもの、それを覆うように湾曲する形で伸びる白いもの。肋骨のように見えたものはまさに肋骨で、縦に伸びる太いものは背骨だった。

 その背骨に、体を小さく縮めた男性が巻き付いていた。本来であれば内臓や筋肉があったであろうスペースに体を縮めて格納されている彼は、真っ黒いスーツを身につけている。顔は横からしか見えない。確かに見えているはずなのに、見た側から記憶から消えていく。努力して、記憶を留め置こうとしても次の瞬間には印象に残らず、この人はこんな顔をしていただろうか、と瞬間瞬間、疑問が浮かぶ。そんなありえない状況に、脳内が一気に混乱に陥った。

 姫野さんも、目を大きく見開いた状態でその男性を見つめていた。その表情はじわじわと青ざめていく。男性はそんな姫野さんを見ながら、折りたたんだ体を伸ばすようにあかりさんの体内に当たる場所から身を乗り出した。そのたびに、バキバキと硬質な音が響く。人の形をしながら、人よりもはるかに長く細い足が、地面へ伸びる。背骨から剥がれるように男性は巻き付いていた背骨から離れて地面へ降り立った。

 セーターの裾を下ろしたあかりさんは何事もなかったかのようにそのまま立っていた。その前に、黒のスーツを身につけた男性があかりさんを姫野さんから守るように、もしくは隠すようにその前に立っていた。人間では考えられないほど長かったはずの手足は、人間と言っても通じるくらいの長さに収まっているように見える。けれどその身長は一般的な男性よりずっと大きい。短く切り揃えた髪を撫で付けるようにして、男性は背筋を伸ばして姫野さんへ対峙していた。その後ろ姿は、ただ立っているだけなのに悲鳴をあげてしまいたくなるような薄気味悪さが漂っていた。先ほどのあかりさんの中から出てきたという異常な光景からだけではない、明らかに「良くないもの」であることが黒くじっとりと湿った雰囲気を纏っていて、痛いほど感じられる。

 姫野さんは、後ろに後ずさった。なに、と張り上げる声は勇ましかったけれど、体と同じく震えていた。

 目の前に立つ男性は「まぁ、そんなに怯えずに」と何気なく言った。普通の、声だった。その後振り返ってあかりさんを見やる。それでその顔つきも見た、これまた普通の顔つきの人だった。スーツという服だからか、一見すればただの就活生かサラリーマンだと思うかも知れない。ただ、雑踏の中ですれ違っても印象には残らず、一瞬後にはもう記憶から消えてしまうような顔に変わりない。

 あかりさんを見た男性は、はっきりとした発音であかりさんに尋ねた。

「今日はこれですか?」

 あかりさんは緩慢に頷いた。その表情に笑顔はない。どんな感情も乗っていない無表情だった。

「おいしくないことがはっきり見て取れるものが続くとなるとうんざりですよ」

 そう呟いた男性は、そのままふらりと姫野さんに向き合った。姫野さんはというと、目線が合うと弾かれたように走り出した。

 瞬間、すっとその形が崩れるのを見た。ぶよりとした見た目、スライムに近い形に変わった彼女が黒と白がまだらに混じったその体を揺らしてソファを乗り越える。動く際に巻き上げたローテーブルがひっくり返されて勢いよく向かいのテレビもろとも床へ転がった。ラグには移動の痕と思われる体の一部が絡みついていたけど、気にした様子もない。男性の側を駆け抜けて、あかりさんに構うことなく、一目散に玄関へ続く扉へ飛びつこうと跳ね飛ぶ。思わず尻餅をついた自分の上を飛び越えてドアノブへ伸ばすスライムの中から、一本の腕が伸びるのが見えた。

 見慣れた細い金の腕輪、ゴテゴテと飾られたネイルの爪、細い形の良い指。確実に姫野さんのものとわかる腕が伸びてドアノブにかかる直前、それが炎に包まれた。

 腕だけじゃない。スライム本体ごと、急に発生した燃えさかる火に焼かれていた。いきなり現れた炎に、飛んでいたスライムが速度を失って目の前に落ちてのたうち回る。動きに合わせて炎がぐらぐらと勢いよく動く。ぎゃあああ、と叫ぶ姫野さんの声と合わせて誰のものかもわからない女性の金切り声が重なっていた。天井を舐めるほどに燃え盛る炎に照らされて、私の顔も体も髪が揺れるほどの熱に晒された。赤く揺らめく光は、あまりにも現実味を帯びていて今にも火事になりそうだと思う。急いで消化器でも水でも持ってこなくちゃ、と心の中では焦りがかき立てられているのに指一方動かず、もちろん立つこともままならなかった。

 突然現れた炎は、現れたときと同じように急に消え去った。凄まじい勢いの炎だったはずなのに、天井にも床にも焦げ痕一つ残っていない。

 そして、そこにはスライムどころか姫野さんの姿はどこにもなかった。骨一本も残っていない。

 呆然と先程まで炎が上がっていた場所を見ていると、肩を叩かれる。急な刺激に、思わず肩を震わせて避けるように後退りすると、そこには心配そうな表情を浮かべていたあかりさんがいた。眉尻を下げて、こちらを伺うように顔を傾ける。

「大丈夫? 百合ちゃん」

 先ほどの無表情が嘘のようだ。あかりさんの指が左腕に触れると、びりりとした痛みが一気に走った。しんとしていたはずの空気がまた、一斉にどよめく。周りに漂う空気が質量を伴って一気にのしかかってくるような感覚。それと胃がせり上がるような不快感。一気に押し寄せる感覚に耐えきれず、そこで私の意識は闇に飲み込まれるに急激に落ちた。

 視界が暗転する直前、あかりさんの背後で男性がこちらを見下ろしているのが見えた。


 目が覚めると、真っ先に日菜子と目が合った。目を丸くした日菜子はその次の瞬間、ほっと息をつくと具合はどう?と尋ねてきた。

 具合、と聞かれて体を起こす。場所は自室のベッドの上だった。日菜子の後ろにはお父さんの姿もあった。目が合うとくしゃりと笑顔を浮かべる。気がついてよかった、という声は心底安堵がこもっていて、嘘偽りなく心配していたことがわかる。久しぶりに聞いた声に、驚きと困惑で一瞬動きが止まる。

「百合、大丈夫かい。やっぱりどこか調子がおかしいけど」

 お父さんが、焦りを浮かべてこちらに手を伸ばす。顔を両手で抱えて、目を覗き込む。真剣な眼差しを受けて、あぁ、と一気に体から力が抜けた。これは確かに、数ヶ月までのお父さんだと確証を得る。急な変化に戸惑う気持ちは正直残っているけれど、確かに安堵の入り混じった言いようのない気持ちが柔らかい温度を持って胸に広がって、無意識に不恰好な笑顔を浮かべていた。

「大丈夫だよ」

「もう、心配させないでよ!」

 私の言葉に、日菜子は一瞬笑った顔を引き締めて眉を寄せた。ぶっきらぼうに言い放つその態度は憎まれ口なんだろうと思う。

「どうしてここに?」

「・・・・・・さすがに今日の態度は良くなかったと思ったから、謝りにきたの。そしたらおじさんと一緒になって」

「日菜子ちゃんと一緒に家に入ったのに返事がないから不思議に思ってはいたんだけどね。リビングの中央で倒れているのを見たときには心臓が止まるかと思うほど驚いたよ」

 無事に気づいて良かったよ、とお父さんは笑った。熱はないみたいだけど、と日菜子が私の額に手を当てる。じんわり温かい体温が気持ちよくて、目を細めた。こんな温かさもいつぶりだろう、と思う。

 瞬間、あかりさんのことが思い起こされた。握った手の感覚、冷たいとも感じられる体温、男の人の出現、姫野さんの叫び声。ごお、と音を当てて燃え上がる炎。確かに顔に感じた熱を思い出して、ぶわ、と一気に鳥肌が立つのがわかる。その衝動のまま、ベッドを飛び出した。後ろで慌てたように「百合!」と二人が声を上げるのをそのままに、階段を駆け下りる。

 閉じていたリビングのドアノブに手をかける。勢いよく捻って飛び込むようにして押し開けた。

 リビングは、今朝の通りだった。中央に置かれたラグも汚れなどなく綺麗だし、ソファもローテーブルも位置がそのままで、さきほど上がった炎の痕跡などどこにもない。今朝と違うのは姫野さんがいないことと、それと。

 違いを探る様にいろんなところに向けていた視線が、ある一点から動かせなくなる。久しぶりに見たそれは、記憶の中では少なくとも1月間は見ていなかったはずのものだ。何でこれが、この状態であるんだろう。

 遅れてやってきた日菜子とお父さんがいったいどうしたのと私を左右から支えてくれる。

「倒れたばかりなんだから、あまり無理しちゃダメだよ」

 そういって肩を支えるお父さんの腕に、私は逆にすがった。ねぇ、と上げた声はかすれていた。

「あのお母さんの写真、いつ戻したの? 姫野さんはなにも言わなかったの」

 始めて姫野さんに殴られた日から伏せられていたお母さんの写真立てが、立てられているのを指し示す。笑顔が眩しい、形見の一枚だ。私がこれを密かに立て直すと姫野さんの機嫌が悪くなるから、いつからか立てることもなくなった。お父さんが立てていることだって、今まで一度もなかったというのに。

 私の問いかけに、お父さんは困惑したようだった。ええと、と眉根を寄せて回答に悩んでいるようだったけれど、次第に聞いた方が早いと判断したのだろう。逆に私へ尋ねてきた。

「姫野さんって、誰? それにお母さんの写真はずっと飾ってきたよね。戻したってどういうこと?」


 お父さんの答えに私は大いに混乱し取り乱したけれど、何度聞いてもお父さんは姫野さんにも、お母さんの写真を伏せたことにも覚えがないようだった。その日は、お父さんからも日菜子から疲れているんだよ、寝れば治るよと言われて早めに寝ることにした。日菜子は責任を感じているのか、ごめんねと殊勝な態度で謝ってから自分の家に帰っていった。日菜子と仲直りできた、ということには安心したけれど、それ以上に謎が深まるばかりのことがある。お父さんにゆっくりおやすみ、と撫でられてベッドに入った後も、そう言ったものの考えがぐるぐると巡ってなかなか寝付けなかった。

 姫野さんがいないことになってる。それにあわせるようにか、左腕に残っていた痣も傷も綺麗さっぱり消えていた。もう痕が残るのは確実かと諦めていたやけどの痕まで綺麗になくなっていた。

 まさか一月間も夢を見ていたのだろうか。今までのことは私の妄想だと、そう思った方が部屋が綺麗だったこととかお父さんの記憶とか、つじつまが合う部分が多い。ただ、そうであっても一つおかしいところがある。

 ベットから起き上がって、学校の鞄へ近寄る。鞄を変えると、折りたたまれたハンカチが暗い室内の中でも見て取れた。真っ白のそのハンカチは私のものでは確実にない。今日返すべきだったあかりさんのハンカチだ。機会を失って返しそびれたそれが、妄想だったのだと片付けられない物証として残っていた。

 眠れない夜を過ごした翌日、顔色の良くない私を見かねたのか、お父さんは今日は学校は休みなさいと伝えた。そのままだとまた倒れてしまうかも知れないから、というくらいだから相当良くない顔色だったのだろう。

 迎えに来てくれた日菜子にも今日はお休みすることを伝えたお父さんは、心配そうながらもそのまま仕事に出かけた。早めに帰るね、と声をかけていったお父さんの態度は、昨日までの無気力無関心なものとは全く違う。姫野さんを紹介する前の、去年の運動会で転んだ私を心配してくれたお父さんそのままだった。

『大丈夫だよ』『おうちは好きでなきゃ』

 そう言ったあかりさんの声が、頭の中を過る。お父さんや日菜子のためにも寝ていないといけないとはわかっていたけれど、どうしてもいても立ってもいられなくて、私はハンカチを掴んで部屋を飛び出した。

 真っ先に向かった公園に、あかりさんはいなかった。その代わりに、別の人がいた。逆に言うとその人しかなかった。平日の昼間の公園、天気も悪くない中で親子もそれ以外の人も一人もいないなんてあり得ない。それに公園の中に一歩足を踏み入れた瞬間、昨日感じた空気のどよめきを感じた。内臓を撫でるような嫌な感覚も湿っぽく暗い薄気味悪い雰囲気もないものの、普通ではない空気の蠢く感覚には覚えがある、やはり昨日までのことは夢でも妄想でもない、と確信した。

 ベンチに座っている男性は、黙ってこちらを見ていた。うっすらとした笑みを貼り付けているけれど、底知れない表情に安心感は得られない。恐らくそうだろうとは思いながらも、顔つきを見ても記憶が戻らなくて昨日会った人と同一人物だろうかと疑いながら近づいていく。けれどその疑いが返って、間違いなく昨日の人物であることを思わせた。目の前にいながら、一瞬一瞬記憶が途切れて見ている人の顔がわからなくなる、なんてどう考えても異常で、普通ではない状況だった。距離が1メートル程度に縮まった時で、普通の人とは一回りも二回りも違うことが座っていても見て取れたのも確証を深めた。

目の前の男の人は、明らかに人間ではなかった。

「来ると思っていましたけど、本当に来るとはね」

 男性はすぐ目の前に来た私にそう言った。

「あかりさんは?」

私の問いかけに、男の人は来ません、とそっけなく答えた。

「あなたがあの場で倒れたからすごく慌てたみたいです。そりゃあまぁあのような状況、倒れて当然なショッキング映像だったんですけど。彼女は思い至らなかったようで、昨日から後悔しっぱなしのようでした。あなたに合わせる顔がないとかかんとか」

「・・・・・・つまり、私のせい?」

「有り体にいえばそうなんですけど、普通の人間ならトラウマものですからしかたないんじゃないでしょうか。目の前で知人が発火全焼だなんて、そんなの今どきマジックショーでもサーカスでも見ないでしょうから」

 ぽんぽんと言葉出る。この男性は話し好きなのかも知れない。話を区切った男性は、そのまま私の顔をまじまじと眺めた。

「しかしよくまぁ昨日の今日でここまで来ましたね。普通なら1週間は寝込むと思いますけどねぇ」

「もしかしたら妄想かもしれないと思ったので、確かめずにはいられませんでした」

「この一連のことが妄想だとしたら、確かに心配になるのも頷けますけどね・・・・・・」

 男性はそう言って一定の理解も示しながらも、怪訝な表情を崩さなかった。

「でも手元にあかりさんのハンカチがあって、しかも実際こうして会ってみて今や妄想じゃないとわかったでしょ。そうしたら、女の子の体から出現したいかにも化け物であるところの目の前の男なんて、放火犯兼殺人犯みたいなものなんですけど、よくまぁこうして平然としているものですねぇ。肝が据わっているというんでしょうかこれは」

 それは感心したようなことばだったけれど、その実牽制なんだろうな、と思った。これ以上深入りしないように、という。

 目の前の男性の配慮と言うよりは、きっとあかりさんの配慮なんだと確証なく、でも確信的に思う。握りしめられても温かみを感じられなかった彼女の手の温度を思い出す。今となっては当然、彼女もただの人間じゃなかったのだろう、というのは容易に想像がついた。

「あなたは自分を放火犯兼殺人犯と言うけど、姫野さんは人間じゃなかったんですよね。あのスライムみたいなのが本体で。だったら別に殺『人』犯ではないですし。放火と言ったって家の中は全くの無事でしたし。むしろ私、あなたたちに救われた立場で、怖がる理由がありません」

 私の言葉に、男性はこともなげに「怖がる理由なんて百あって然るべきかと思いますけどねぇ」と言ってため息をついた。「さぁハンカチを返しにきたんでしょう。私からあかりさんに渡しておきますから、そのままお帰りなさい。体調も本調子じゃないのに無理をするのは良くないですよ。また倒れたらお父様もご学友も一層心配なさることでしょう」

 そう言って手を出した彼の手に、一瞬戸惑う。思わず、手に持っていたハンカチをぎゅうと握りしめて、一歩後ずさった。

「あの、あかりさんに会えないですか。言いたいことがあるんです」

「あかりさんは昨日のことがよほど堪えたようですよ。恐らく会おうとはしないでしょうね」

 会わない方がお互いのためだとも思いますし、と付け加えられた言葉は先ほどまでとは違って冷たさを含んでいた。急な変化に、この人の本音はこれだけなのだろうと悟った。しかしこの調子では、粘っても彼女に会うことはまず無理だろう。他にうまく言い訳する方法もなく、渋々、握りしめていたハンカチを差し出す。

「わかりました。じゃあこれ、あかりさんに渡してください・・・・・・あと、お伝えしてもらいたいことがあります」

「なんでしょう?」

 首を傾ける彼は、うっすら笑みを浮かべている。はっきり断られなかったので、伝えてくれる気が少しはあるはずだ、と期待する。本当であればあかりさん本人に伝えたかったけれど、この様子では仕方がない。

 ハンカチを渡しながら、ゆっくりと息を吸った。

「今回は本当にありがとうございました。あかりさんとあなたのおかげで私は姫野さんに殴られることもなくなったし、お父さんも昔みたいのやさしいお父さんに戻った。うちが元通りになったのも、全部二人が姫野さんを・・・・・・退治してくれたからなんだと思います。私、今でもあかりさんのことお友達だと思ってるので、いつかまた会えたら・・・・・・直接お礼を言いたいと思っています」

 それだけです、と言ってから頭を下げた。目線を上げると、相変わらず記憶に残らない顔で、読めない表情を浮かべている男性と目が合う。彼は黙ってこちらを見返すだけだ。特に何か言う様子もない。

 もう一度だけ頭を下げて、駆け出して公園を出た。右に折れてからも数メートルほど走って、そこで振り返る。子供が2人、そのすぐ後に母親と思われる女性二人が続いて公園へと入っていくのが見えた。オレ一番乗りーという明るい子供の声とついでずるい! と騒ぐ声が、そして人がいないからって騒がないの!という母親の厳しい叱責が聞こえてくる。

 その声の応酬を聞きながら、きっとあの二人に会うことはもうないのだろうと直感的に思った。それはとても惜しいことだったけど、一方で仕方がないことだと諦める気持ちもあった。あくまでも私は普通の人で、ああいう世界とは本来は縁遠い人間なのだ。

 この一連の出来事は私にとってあまりにも劇的で、酷く疲れてしまった。早く帰って、寝ていようと思う。

 向かった先の私の家は、いつもと違う時間帯で見ていることを差し引いても太陽の光が当たって明るく見えた。ここ数日見ていた薄暗い雰囲気はそこにはどこにもなかった。


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 シャッターが下りた店の多い、商店街裏。日中だというのに、太陽の光も届かず人気もないそこは物音一つしない。雑然と積み上げられたゴミとも在庫ともわからないものものが物言わず並んでいる。

 積み上げられたものものの間に小さくうずくまる少女がいた。黒髪を肩まで伸ばし、黒セーターにタイツを身につけている。あかりだった。顔を伏せて膝を抱える少女の前に、男が立つ。気配に気づいたのか、物音に反応したのか。緩慢に顔を上げたあかりは、男が目の間に差し出したハンカチを見て目を丸くした。

「百合さん、でしたか。返しておいてくれと言われましたよ」

「あぁ、そっか。ありがとう」

 手を伸ばして、その一端をつまむ。引き抜こうとする瞬間、男がにこりと微笑んだ。

「化け物を倒してくれて、ありがとうとも言ってましたよ。できればまた会って直接お礼が言えたらとも」

「そうなんだ」

 返事は淡々としたつもりだったけれど、微妙な揺らぎを感じたのだろう。男はおや、と目を見開いた。

「罪悪感を感じていますか? いたいけな少女をだましてしまったとでも」

あかりは目を伏せて、首を振った。

「まさか。ああするより他なかったのに」

「そうですよねぇ。まさかあの水風船のように見えた存在が、いわゆる化け物に取り憑かれていたとはいえ、その実まるきりただの人間だっただなんて・・・・・・いかに性根が腐りきっていようとも、そんなの年端もいかない少女には残酷な真実ですよ。目の前で燃え尽きたのが化け物だけではなくて生身の人間だなんて、えぇえぇ、知らない方がいいですね」

 頷きながら慮るような言い方をするが、男性の表情はあまりにも飄々としている。本当に思っているわけではないことを隠そうともしない。

 とはいえ、自分もそれを批判できないような状態であるということをあかりは自覚していた。元々は自分も確かに人間であったはずだけど、この異常な存在と一緒にいた時間が長すぎて、人間らしい感覚は失われつつある。現に、確実に人間だった昨晩の女性が目の前で消滅したことに、少しも罪悪感を感じない。しかし、一方でざまあみろ自業自得だという気持ちも特にない。運がなかったのだろうなとだけ思う。この目の前の男が食べるに足る程度に神経が腐ってなければ、自分に見つかるような化け物に取り憑かれなければ、今頃彼女はまだ生きていたかもしれない。不運なことに2つが一度に噛み合ってしまった、それが彼女の運の尽きだ。

 その程度しか思わないのは、この男の形をした正しく化け物を体内に飼ってしまってもう人の一生以上の時間をすごし、この存在と自分との存在の境目が曖昧になった結果だろうとあかりは推測していた。

 今出ている首から顔にかけて、そして手首より先の方へ。それ以外の部分の肉が、すべてこの男の形をした化け物に食事として吸収されて、融合し、結果食われた部分はものの見事に骨だけになっていた。

 その結果が地域の子供たちの間で骨女、として存在が認識され始めていることをついこの前知った。その噂の大半は適当に尾ひれが付いた根も歯もない内容だったけれど、事実が認識されるより先にこの街を出た方がいい。そしてそれは早ければ早いほど良かった。

「さぁ、もう行こう。百合ちゃんに挨拶もできたし、思い残すことはない」

 そう言って膝を払って立ち上がると、男はあぁ、と思い出したように言った。

「百合ちゃん、友だちだったんですってね」

「便宜上そうは言ったものの、会って2日しか経っていないからなぁ」

 友だち、と評するのは憚られるというのが正直な気持ちだ。家に入る関係上、昨日の女には自分達の関係をそう説明したけれど、百合がそう思ってくれているかあかりにはわからなかった。

 そんなあかりに、男は首を傾げた。

「おや、違うのですか。彼女も公園で言ってましたけどね、今でもあかりさんのことを友だちだと思っているって」

「え?」

 思わず弾かれたように彼の顔を見る。目を見開いて見詰めた先の彼の表情はピクリとも動かない。

「百合ちゃんが?」

「確か、そう言っていたような」

 顎に手を当てて、なんでもないことのように言う。友だち。久しぶりにそう称されたような気がする。前回は、いつだったか。酷く遠い記憶で、はっきりもしない。けれど呼ばれたときの胸に満ちる温かさは時間が経っても変わらないことが思い出された。

「移動する気がなくなりました?」

「・・・・・・それとこれとは別問題だよ」

「それは重畳」

 男はにこりと笑うと、あかりの胸元に手をかざす。手の輪郭がぼやけて、急速に黒ずんでいく。霧のように四散しながら、彼女の胸元に吸い込まれていくのは、にとっては見慣れた光景だった。

 先ほど温かさが満ちたはずの胸中が、ずんと冷たく重くなる心地がする。心地良いものではないけれど、今のあかりにとってはよほど慣れ親しんだ感覚だ。

 真白いハンカチを胸に、そのままあかりは薄暗い商店街裏の路地を歩き始めた。ゴミを除け、荷物を避けてより明るい方向へと足を進める。そのまま商店街を抜けて、車のクラクションの鳴る町中へと一歩踏み出して、人混みの中へ消えた。

 その日を境に、その街から「骨女」の噂はめっきりなりを潜めた。

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