Track 2.
洗面所の電気をつけると、歯ブラシスタンドから自分の黄色い歯ブラシを取って『ハチ』と書かれた歯磨き粉を付ける。シャコシャコと歯磨きをしながら、「なーにがスリリングだよ」と心の中で呟いた。
(なーにがスリリングだよ、こっちは人生全部賭けてんだっての)
シャコシャコと変わらずに歯磨きをしていれば、馨さんが「ハチ、食べ終わった食器はシンクに置きなさいよ」と怒ったような顔をしながら洗面所に入ってくる。「へーへー」と歯磨きを終えてからキッチンへ戻れば、馨さんは自分の分とハチの分の食器を洗って食器乾燥機に入れてくれていたようだった。
「ハチの分も洗ってくれたの?」「次はないけどね」「おっ、やっさしィ! "炎上問題で脱退したハネムラサン"が洗ってくれるなんて感動しちゃいますよォ!」
キッチンから馨さんにそう言えば、「ウザ」と小さく呟く声が聞こえた。口わりーなと思いながら暫く水音がしてから「蜂谷」と洗面所から自分の名前を呼ばれた。制服に着替えるために自室へ向かおうとしていたハチは、それに思わず「あ?」と尋ねてしまう。
「なに?」「いま何時? あたしアイライン書いてるから時計見れない」「今は────」
ハチは自分のスマホを見るのが面倒で横着をしてリビングの時計を読み上げれば、馨さんは「ありがとう」と言った後 再度鏡に向かう。ハチはその様子を横目に見ながら自室へ荷物を取りに向かった────時だった。
「……蜂谷」「へーへー、今度はなんすかァ? あ、弁当作ったからそれ終わったら入れてね」
メイク中の馨さんに予想外にも名前を呼ばれ間抜けな声を上げながら振り返れば、恐らくハイライトのケースの蓋を閉じたであろう音とともに「どうも。……じゃなくて、あんた、昔あたしに何か部活をやったほうが良いって言ったでしょ」とため息まじりの言葉が聞こえる。何言ってんだと思いながら「言ったよ」とだけ返せば、ほんの少し苛立ったような声色で「そうじゃなくて」と返ってくる。
「あたしのことばっかり心配してるけど、あんたはどうするのよ。これからのこととか、星花でどうやって過ごすかとか、なんか真面目に考えてるわけ?」
馨さんからの問い掛けは、今の自分が予想していなかったもので。ハチは動揺を隠すようにこくりと息を呑むと、「さー」とだけ返した。
「さーって、あんたね……どこか見学行くなら、一緒に行くわよ?」「ギャハハ! ンだよ、今日は随分やさしーじゃん」
ハチはけらけらと笑いながら馨さんの肩をポンポンと叩けば、馨さんは興が削がれたような酷く嫌そうな視線をこちらに向けると小さくため息を吐いて「気安く触らないで」と言って再び鏡の方へ向き直る。ハチは洗面所の壁に凭れながら鏡越しに「機嫌悪いっすねェ」と言えば、馨さんは涙袋の影を描きながら「うるさい」と呟いた。
「悪くないわけないでしょ、いきなり星花に行けなんて言われて。芸能活動がのびのびできるとか言ってたけど、本当のところはどうなんだか」
不満げな馨さんの表情に苦笑しながら「まーまー、そこは好意ってことで受け取っときましょーよ」と鏡越しに伝えれば、不満に乗ってこなかったからか馨さんは一瞬だけ不満げに眉間に皺を寄せると「そうね」とため息混じりに呟く。それきり不満を口にしなくなった馨さんに「おりこうさんじゃーん」と思いながら小さく欠伸をすれば、一瞬だけ鏡越しにこちらに視線を向けた馨さんは「間抜け面」と呟く。
「そんなんじゃ、あんたのファンも大泣きよ」「ギャハハ、口わりーなァ。天下の清楚アイドル様がそんなこと言っていいんすかァ?」「ちっ、大きなお世話よ」
舌打ちすんなよなァと返しながら自分の鞄を取ってくるために自室へ向かえば、鏡に向かったままの馨さんが「蜂谷」と呼び止める。内心、しつけーなと思いながら「はいはい」と適当に返せば、【現役アイドル・羽村 馨】は酷く真剣な顔をしてこちらを見て「真剣な話だけど」と続ける。
「あたしはね、アイドルでいたいのよ。あたしのためにも、あたしを応援してくれるファンのためにも」「でしょーね、あんたそれしかできないもん」「茶々いれないで聞け。……だからね、」
馨さんはそう言うと、一瞬だけ迷うように視線を逸らしてから、再びまっすぐにハチを見る。射抜くようなその眼差しに内心一瞬たじろげば、馨さんは酷く真剣な眼差しで呟いた。
「だからあたしは、あんたとあたしのアイドル人生のどちらかを取らないといけなくなったら、迷わずあんたを捨てるわ。……だからあんたも、自分のことを一番に考えて動きなさい」
馨さんはそう言うと「終わり」と言ってヘアアイロンをコンセントに差す。しっしっと追い出すような仕草にわざと顔を顰めると、荷物を取りに自分の部屋へと向かった。
「……っと、戸締りもオッケー。んじゃ行くかァ。馨さん、忘れ物ない?」「ないわ」「へーい」
ハチは鍵を掛けるとマスクに黒ぶちの眼鏡を、馨さんはマスクと眼鏡に髪を結んでから星花女子学園までの道を歩いて行く。学校指定のローファーがアスファルトの上でカコンと音を立てた。
東京から西に電車で三時間程度離れたS県空の宮市の風景は都会的で、けれどとても空気が澄んでいた。ハチたちが前に住んでいた場所とはあまり似ないその風景に対し、少しの居心地の悪さと相反する安心さを感じていれば、隣を歩く馨さんは「空気が綺麗ね」と呑気に呟く。
「あたしが前にいたところとはあんまり似てないわ」「そりゃそうだよ、転校してきてんだから! ……あ、今の一発ギャグ? つかみ悪いから変えた方がいいよ」「あんたのその無神経さ、たまに羨ましくなるわね」
馨さんは出端を挫かれたからか、少し不満そうな顔でハチを見る。面倒臭いなと思いながら「ハチ、前から学校あんま行かなかったから比べる経験もないんだよね。ケーケンブソクですみませーん」と返せば、馨さんはうぐと言葉を詰まらせて気まずそうに視線を逸らした。そんな根っこは善人であろう馨さんの行動には、正直なところやりにくさを感じることも多い。
「んな気にしないでよォ! 所詮は赤の他人の話じゃん」「あのねぇ、その場であった人ならまだしも、これから一緒に暮らす同居人のそんな話聞かされて「はいそうですか」って聞き流せるほどあたしも人間が出来てるわけじゃないの! あんたみたいに何でも口に出すやつには解んないでしょうけど」
馨さんは嫌味を零すと、ハチの少し先を歩いて行く。何怒ってんの? と言ったハチの言葉は、馨さんには届いていないみたいだった。
(……うぇー、めんどくさ。他人のことってそこまで気になるもんかな。つまんない一発ギャグみたいなもんだと思ってくれればいいんだけど)
ハチは小さくため息を吐くと、自分の金色の髪を耳に掛ける。夏特有の僅かに湿った風が緩やかに耳を撫でてゆくのが解った。
楽屋とテレビ以外で一緒にいる羽村馨は、案外怒りっぽくて扱いにくい。ハチが口を開くたびにぷりぷりと怒っているし、そのくせハチが先程のように身の上話をすると困ったような顔をして黙ってしまう。でも感情のままにハチを怒鳴ったり、殴ったりすることもない。そんな『普通の人』の姿は、ハチが今まで見てきた誰にも似ていなかった。
「馨さんってさ」「……なによ」
ハチは少し先を歩く馨さんに声を掛ければ、馨さんは少し不機嫌そうな声色をしながらも返事をしてくれる。そう言えば馨さんはいつもハチのことを無視しないな、なんて思いながらその背中に向かって思った通りの言葉を口にする。
「変わってるよねェ! 普段は猫かぶりなのに────」
瞬間、ぴくりと肩を動かして振り返った馨さんの表情に「やべ」と心の中で小さく声を上げる。振り返った馨さんの顔はこの間のインタビューの時に出た可愛らしい表情とは似ても似つかないそれは恐ろしい顔で、薄く形の良い唇からは「……なに?」と低い声が聞こえる。それに咄嗟に耳を塞げば、数秒後に馨さんはライブ中にはおよそ聞くことが無い荒っぽい声で「蜂谷ァ!」と怒り出した。
「あんた、さっきから黙って聞いてれば好き勝手言って!」「ぎゃはは、怒んなよォ! 顔怖すぎ!」
ほらほらこの時の馨さんを思い出して! ファンの皆もかわいいって言ってるよ! と今朝更新されたSNSの写真を目の前に突き出せば、馨さんはうぐっと声を詰まらせると腹いせのようにハチの頬を左右に引っ張ると、「もういい! 置いてく!」と言ってハチの先を歩いて行く。ハチは僅かに痛みの残る頬を指の腹で触れると、「変なの」と小さく呟く。その声は馨さんには届いていないみたいだった。
星花女子学園までの道のりは、これまでハチたちが暮らしていた場所とはあまり似ていなかった。街頭の大型ビジョンに有名なアイドルの曲が流れていることはないし、一日中広告が印刷されたトラックが走っていることもない。空気は澄んでいて、静かで、どこまでも善人のような穏やかな町。そんな町中をマップを見ながら歩く馨さんの背中を見ながら、ハチは小さくため息をついた。
(なぁんか「お呼びでない」って感じィ。いーけどね、別に)
新しい環境に馴染むまでは、誰もが居心地の悪さを感じるものだ。そこまで考えてから「別に呼ばれてたことなんかないか」と思い直す。他人の仕事を横取りしたり、バラエティでわざと露悪的に振る舞ってきた自分達は、世間に受け入れられているとは言い難い。有り難いことにそれでもついてきてくれる奇特なファンもいるけれど、世間ではまだ、ハチたちは"常識のない不愉快な子供"のままだ。
(ま、"子供"ってことが免罪符になってる部分もあるし、今さらイイコ売りしても手遅れだし)
────まぁせいぜい、問題を起こさないように"お利口"にやっていくしかないよねぇと思いながら、ハチは大きく欠伸をした。
「相変わらずでけー学校」「下品な言い方。よしなさいよ」
星花女子学園の学校は夏休み前の転入手続きで訪れた以来だったから、その大きさについ圧倒されてしまう。隣でぶつぶつと文句を言う馨に内心舌を出しながら守衛室で受付を終えると同時に「蜂谷さんと羽村さん……ですか?」と、低い男性の声が聞こえた。
「初めまして、高等部1年2組の担任をしています。今日はあなた達を職員室まで案内します」
胡散臭そうな笑顔と差し出された手を、馨さんはにこやかにとって。けれども、ハチは握手をしなかった。向こうのこちらを値踏みするような視線が不愉快だったことも原因ではあるけれど、何よりも待遇が普通すぎたのが、気味が悪かった。
「────星花のありがたーい先生方は、炎上アイドルにもお優しいんスね」
同じように値踏みするような視線を向けてそう言えば、彼はにこりと笑って「もちろん」と続ける。
「どんな経歴の持ち主だって、わが校の大切な生徒です」「へぇ? まぁバラエティであれだけ宣伝しとけばお優しくもなりますよね」
バラエティでの宣伝────と言うのは、ハチが考えた"JoKe"の炎上商法のひとつだった。政財界にも顔が利くほどの有名なお嬢様が数多く通う学校に、炎上ばかり繰り返す問題児が入学する────運良く週刊誌が面白おかしく騒ぎ立ててくれれば、ハチたちは"お嬢様学校に通う意外性"と言うカードを増やすことが出来る。なんの役にも立ちはしないが、持ちネタはあればあるだけ困らない。実際に週刊誌ではネタとして扱われていたし、"JoKe"がバラエティで振られる会話の8割は星花ネタだ。お嬢様学校と言うのは他者からみればまるで高嶺の花がうじゃうじゃと通う夢のある学校のようで、フられる話題もほとんどがそのような話題だった。
「あぁ、あれは困りましたね。連日引っ切り無しに電話が鳴って────まぁ、少ししたら黙りましたが」
はははと笑う教員は、全く意に介してもいなさそうで。余裕かよと思いながら、ハチは内心舌を出す。
(胡ッ散臭ェー……)
優しい教員に、真面目な生徒に、歴史の深いお嬢様学校。何も非の打ちどころがありませんと言う顔は、荒んだ人間からすると逆に何かを隠しているのではないかと思ってしまうものだ。
「────いってェ!」
ふと右足の爪先に痛みを感じれば、隣を歩く馨さんが上履きで爪先を踏んでいて。何すんだよと横目で見れば、馨さんはパクパクと口を動かしながら『ス・テ・イ』と言っていた。
("犬"かっつーの。おとなしくしてますよォ、今のうちは)
ハチが小さくため息をついたと同時に、前を歩く教員が「着きましたよ、ここが高等部の職員室です」とこちらを振り返る。小綺麗なドアが、妙に居心地が悪かった。