第六章 夜のプール 10月 1日 午後 8時
私は法子の家で夜まで時間を潰して、マスコミの人達が大崎家を離れるのを待った。いくら待っても帰らない何社かがあったが、人数は随分減ったし、私達にはあまり関心がないようなので、法子と私はあっさり大崎家の裏口から中に入れた。時刻は午後の八時を過ぎており、邸の庭は静まり返っていた。
「ごめんなさいね、無理を言ってしまって」
栄子さんが出迎えてくれて、私達を出入りの商人の通用口から中に招き入れてくれた。法子が、
「警察の方はいらっしゃるんですか?」
「いいえ、もういないわ。チラッと聞いた話だと、道枝さん、どうも事故死らしいって」
「結論が出たんですか?」
法子は少々意外そうに尋ねた。栄子さんは客間の一室に私達を通しながら、
「そうじゃないみたい。おば様の誰かが警察の上層部に圧力をかけたのよ。それで記者会見させて、事故死の線で捜査を進めるって、発表させたらしいわ」
「そうなんですか」
法子はびっくりして私を見た。私はただ肩をすくめてみせた。
私達が通された客間は、不意の来客に備えてのこじんまりした接客室のような作りで、壁には何も掛けられておらず、部屋の中央にあるソファとテーブルも小作りなものだった。しかし、ソファの肘掛けやテーブルの脚に施された彫刻を見る限り、私のアパートの家賃よりはるかに高そうなもののようだ。
「かけて待ってて。今、紅茶を入れてくるから」
栄子さんは私達に何も聞かないで、そそくさと部屋を出て行ってしまった。私はそれを見届けてから、
「栄子さん、何を慌ててるのかしら?」
法子に尋ねてみた。法子は、
「きっと他の人達に内緒なのよ、私達を呼んだこと」
「あっ、なるほど」
「法姉、いるの?」
栄子さんと入れ替わるように八重子が部屋に入って来た。彼女は半ベソ状態で法子に駆け寄ると、ワッと泣き出した。
「どうしよう、法姉、あいつがホントに死んじゃったよ!」
八重子は法子にしがみついて叫んだ。法子は泣きわめく八重子をなだめるように、
「心配ないわ。すぐに何もかもわかるわよ」
八重子は涙を拭いながら顔を上げて、
「法姉が犯人を捕まえてくれるの?」
「それはまだ何とも言えないわ。道枝さん、事故死かも知れないし」
「そんなことない! あいつは殺されたの、和美のバカ犬に! 和美が犬をけしかけて、道枝をプールに突き落としたのよ!」
八重子はまるで駄々っ子のように頭を振って主張した。法子は微笑んで、
「八重ちゃん、そう思うのは何故なの?」
優しい口調で尋ねた。八重子は嗚咽を抑えながら、
「だって、道枝があのバカ犬に怪我させたことがあったから。和美の奴、ずっとそのことを恨んでいたんだ。だから……」
「フーン。そんなことがあったんだ。でも、そのくらいのことで人を殺すかな?」
法子の言葉に八重子はシュンとなったが、すぐに、
「あいつならやりかねないよ。前にも一度包丁を振り回して、道枝と大喧嘩したんだから」
私は仰天した。そんな話はニュースで聞くくらいで、実際に自分が知っている人が関わっているなんて考えもしなかったからだ。世の中やっぱりおかしくなっているのだろうか?
「でも、今回はそういう激情に駆られての犯行じゃないと思う。もしも道枝さんが殺されたのだとしての話だけどね」
「……」
八重子は不承不承納得したようだ。私も八重子の仮説(?)はちょっと突拍子もないものだと思った。和美なら溺死ではなく、毒殺か刺殺がお似合いだ。事故に見せかけて殺すなんていう手の込んだことはしないだろう。
「八重ちゃん、もう少し小さい声で話してね。廊下まで聞こえたわよ」
栄子さんがティーポットとカップをトレイに載せて戻って来た。八重子は申し訳なさそうに栄子さんを見上げて、
「はァい」
と応えた。
私達は栄子さんの入れてくれた紅茶で一息ついた。部屋一杯にダージリン茶の香りが漂い、心が癒された。ハーブも入っているのかな?
しばらくして、法子が切り出した。
「プールを見せてもらえますか?」
法子の意外な申し出に栄子さんは一瞬呆気にとられたが、
「ええ、いいわよ。泉さんに話して、鍵を出してもらうわ」
と立ち上がり、部屋の隅にある電話で内線を使い、泉さんに連絡をとった。
まもなく泉さんが客間にやって来た。相変わらず申し訳なさそうに動く人だ。性格なのか、この家の雰囲気がそうさせているのか? 恐らく後者だろう。
「一緒に行ってもらえますか?」
法子が言うと、泉さんはびっくりして頭を振り、
「と、とんでもございません。ご遠慮いたします」
後ずさりした。法子は微笑んで、
「ごめんなさい。わかりました、私達だけで行きます」
えっ!? 私達? 私達って、もしかして私が入っているのかな?
「行きましょうか、律子」
法子はにこやかに私に声をかけた。私は思わずギクッとしてしまい、法子を見た。
「わ、私も?」
「当然でしょ。他に誰が行くの?」
「ひーん」
私は泣き声を出しそうになったが、法子はニコニコしたままで私を部屋から連れ出した。すると八重子が、
「私も行く」
言い出してくれた。法子は一瞬考え込んだが、すぐに、
「わかったわ。行きましょ」
廊下を歩き出した。栄子さんと泉さんは黙って見送っていた。
道枝の遺体の第一発見者は泉さんである。
朝食の時間になっても姿を見せない道枝を光子に言われて探していて、温水プールの入口のドアの前で道枝のタオルを見つけ、まさかと思ったが一応確認のためドアを開こうとした。鍵がかかっていたのでやはり違うのかとも思ったが、道枝に夢遊病の気があることを知っていた泉さんは、彼女が中にいるのを知らずに誰かが鍵をかけてしまい、道枝を閉じ込めてしまったのではないか、と考えた。入口のドアは防犯のためどちらからも鍵を使わないと開かないようになっているのだ。
泉さんは道枝に何かあったのではないかと内心ドキドキしながらプールのドアを開け、プールサイドや脱衣室、トイレ、シャワー室と道枝を探した。しかし彼女はどこにもいず、泉さんは別の場所に行こうとした。その時、天窓から差し込んでいた朝日が、プールの水を照らし、泉さんの顔に光を反射した。彼女はまさしく反射的に光が来た方向に目を向け、プールの中を漂っている道枝を発見したのであった。
道枝の死亡推定時刻はまだはっきりしていないらしいが、どうやら夜中のようだ。ということはやはり、事故死の線が濃厚になって来るが、ドアの鍵がかかっていたことが引っかかる。現に鍵は泉さんの部屋にあり、スペアキーはなく、また簡単に作ることもできないものだということなので、何者かが合鍵でドアに鍵をかけたとも考えられない。
つまり殺人事件だとしても、外部犯の可能性はないのだ。内部の者の犯行。
となると、例の脅迫状が関係してくることになりそうだ。
「大崎家に血の殺人が起こるだろう」
だがここでまた思考は振り出しに戻る。
仮に内部の者の犯行だとしても、泉さんの部屋から鍵を持ち出すことは不可能だ。彼女に気づかれずに部屋に侵入し、プールのドアの鍵の付けられたキーホルダーを外に持って行くことはできない。泉さんは部屋を離れる時は、ドアに鍵をかける。自分の私物だけではなく、他の人の部屋の鍵や、大崎氏の部屋の鍵、他にも重要な部屋の鍵を預かっているため、細心の注意を払っているのだ。すなわち、彼女の部屋には彼女以外自由に出入りできる者はいないのである。
しかし、だからと言って、泉さんが犯人の可能性は薄い。彼女に道枝を殺す動機はあるかも知れないが( 夕べの道枝の仕打ちを見る限りでは )、道枝を殺しても泉さんにメリットがあるとは思えない。もちろん、今の段階でわかっていることだから、今後どうなるかは何とも言えないが。
やがて私達は邸の端にある温水プールの入口の前に着いた。短い渡り廊下を越えたところにあるのだが、渡り廊下は明るい照明がついており、天井は透明なアクリルの板でできていて、庭の外灯の光も見えている。思っていたより、薄暗くない。
「ここか」
法子は呟き、鍵を鍵穴に差し込み、ドアを開いた。そして私と八重子を見て、
「入るわよ」
と言い、中に入って行った。私と八重子は顔を見合わせてから頷き、法子に続いた。
法子は入口の脇にある照明のスイッチを入れ、明かりをつけた。それと同時に中の全貌が明らかになった。
プールは長さが二十五メートル、幅が十三メートルくらいで、深さは一・五メートル平均というところだろうか。プールサイドは比較的幅が狭い。天井は高さが十メートルくらいあり、大きな天窓が八対あった。どうやら電動で開閉するもののようだ。
「飛び込み台まであるなんて、本格的ね」
法子が言うと、八重子は不満そうに、
「お祖父様が道枝のためだけに造らせたのよ。だからこんな味気ないプールなの。私、友達呼んで遊ぶ気にならなかったわ。ま、たとえそうしようと思っても、道枝が許可しなかったでしょうけどね」
と言い放った。法子は微笑んで、
「道枝さんはよくここで泳いでいたの? 」
八重子はプールを見据えて、
「何年か前はね。でも最近はほとんど使ってなかったんじゃないかな。お祖父様が亡くなってからは特にそうよ」
「なるほどね」
法子もプールに目をやった。私もプールを見た。
「水泳の選手だった人が、仮に突き落とされたとしても、溺れるような深さじゃないわね。何で道枝さんは溺死したんだろう?」
法子が独り言のように言うと、八重子が、
「だァかァら、あいつは夢遊病だったのよ。そのせいで、プールに落ちても泳げないで死んじゃったのよ」
「そうかな」
法子は水深を確かめるため、プールに近づき、ペイントされている表示を見つめた。
「道枝さんが発見されたのは、プールの端だったらしいわ。ということは、水深は一・二メートルくらいなの。仮に夢遊病で落ちたとしても、道枝さんなら水位が胸くらいしかなかったはずよ」
「うゥん」
八重子は法子の指摘に口を尖らせた。法子がさらに、
「道枝さんがどういう状態で溺れたのかわかれば、何か手がかりが掴めると思うんだけど」
と言った時、彼女の携帯電話が鳴り出した。その着メロは「刑事コロンボのテーマ」だった。ということは、喜多島さんか。ちょっと可哀想な気もするな。
「はい、法子です。はい。はい」
法子は喜多島さんと話し始めた。八重子は私に、
「誰? 」
私は小声で、
「警視庁の検死官の人よ」
「ケンシカン? 何それ?」
私は仕方なく、八重子にわかるように説明した。彼女は法子の交友関係の広さに驚愕したようだった。
「わかりました。今、大崎邸のプールにいます。えっ? そうですか。じゃ、明日」
法子は携帯を切り、私達を見た。
「道枝さんは、今日の午前十二時から一時くらいにかけて溺死したらしいわ。死体の状況にほとんど不自然なところはなく、事故死の確率が高くなっているようね」
法子の話に八重子は不満そうだ。彼女はどうしても和美を犯人に仕立て上げたいらしい。しかしいくら犬を使っても、道枝を溺死させることはできない。それに道枝はあのドーベルマンにとって、絶対的な存在だ。ベスに道枝を襲うことなど、仮に彼女が夢遊病でベスを服従させられなくても、無理だろう。
「ただし、一ケ所だけ、おじ様によるとフに落ちない点があるんですって」
「えっ、何、それって?」
私と八重子は異口同音に尋ねた。法子はそれがおかしかったのか、クスッと笑ってから、
「道枝さんの足首に、ごくわずかなんだけど、擦過傷、要するに擦り傷があったの。どうしてそんなところに擦り傷があるのか、鑑識の人もわからないらしいの」
「あのバカ犬に引っ掻かれたんじゃないの?」
八重子が言った。しかし法子は首を横に振り、
「そういう傷じゃないのよ。何かをこすったような痕らしいの。おじ様も、その傷の説明がつかないうちは、表立っては事故死のままにするけど、水面下では捜査を続けるつもりなんですって」
「そうなの」
「とにかく、もう引き上げましょ。あまり長居すると栄子先輩に迷惑かけちゃうし」
法子はスタスタとドアに向かって歩き始めた。私は八重子と顔を再び見合わせて、彼女を追いかけた。
私達が廊下を歩いていると、途中にある階段を繁夫が降りて来た。彼は法子に気づくと、もう気持ち悪さの固まりのような笑みを満面に浮かべて近づいて来た。私以上に、八重子が反応した。
「何か用なの、繁夫?」
八重子は年上の繁夫を呼び捨てにしているらしい。しかも繁夫はそんなことを全然気にしていない様子で、
「法子さん、またいらしてたんですか。今日はどういうご用向きで? 」
八重子を無視して法子に話しかけた。法子はぎこちなく微笑んで、
「ちょっとプールを拝見させてもらっていたんです。もう、失礼しますので」
繁夫に型通りの会釈をすると、サッと彼をかわして廊下を先に進んだ。私と八重子もこれに続いた。あろうことか、繁夫は、法子のつれない態度にまるでアメリカ人のように肩をすくめた。バカか、こいつ。
「法子さん、今度ゆっくりお話しましょう。この事件の犯人について」
繁夫は言った。法子はピクンとしたが、振り返らずに歩を進めた。繁夫は法子の気を惹こうと思ってそんなことを口にしたのだろうが、そのことが彼の寿命を縮めることになるとは、私達の誰も想像すらしなかったのである。