第三章 確執だらけの家族 9月30日 午後1時
「あんたが犯人なんでしょ!?」
八重子は敵意むき出しで道枝に怒鳴った。さっきまでの可愛い彼女はどこかに行ってしまったように、全身から憎悪の念が吹き出していた。
「私が? 何のために?」
道枝は八重子をバカにしたような笑みを浮かべて尋ね返した。八重子は立ち上がって、
「財産を一人占めにするためよ!」
道枝を睨みつけた。それでも道枝は冷静に、
「そんなこと、考えたこともないわ。私はお祖父様の遺産なんて興味ないし、自分で稼いだお金じゃないものは欲しいとも思わないわ。そんなに物欲は強くないし」
しかし、八重子は収まらなかった。
「何よ、偽善者!! この男女!」
「何ですって!? もう一度言ってごらん、乳臭い小娘が! 」
八重子の「男女」発言がよほど頭に来たのか、ついに道枝が切れた。見かねた栄子さんが二人の間に入り、
「二人とも、お客様の前で、いい加減にしなさい!」
彼女らしくない大声で言った。その声に道枝も八重子もビクッとして栄子さんを見た。栄子さんはその二人の視線に気づいて顔を赤らめ、
「と、とにかく、落ち着いて話して下さい」
トーンを落として言った。道枝は白けたような顔をして、
「もういいわよ。こんな小娘相手にムキになった私がバカだったわ」
と言い捨て、廊下を足早に歩いて行ってしまった。八重子はしばらく道枝の後ろ姿を睨んでいたが、
「八重ちゃん、もうやめなさい」
法子の言葉にようやく冷静になり、
「ごめん、法姉……」
と呟くように応え、ソファに戻った。
「八重ちゃん、どうして貴女は道枝さんが相手だと、あんなに興奮してしまうの?」
栄子さんがたしなめるように尋ねた。八重子はだだっ子のように口をとがらせて、
「だって、あいつがいつも私をバカにした目で見るから……」
栄子さんは八重子の隣に座りながら、
「あの人は誰にでもああなの。いちいち気にしてちゃだめよ」
「うん……」
栄子さんの言葉に、八重子は半分納得したような顔をした。しかし不満そうだ。
「ところで栄子先輩、さっき道枝さんがおっしゃってた、『殺人犯がいたって不思議じゃない』って、どういうことなんですか?」
法子は話題を変えようというのか、別の話を切り出した。栄子さんはびっくりしたように法子を見たが、やがて、
「私にはよくわからないわ。ただ、お祖父様の遺産は、他人を殺してでも手に入れたくなる程の額だっておっしゃってた伯母がいたからかしらね」
人を殺してでも手に入れたくなる程の額、か。多分、天文学的数字ってヤツなんだろうなァ。
「そうよ。それほどお祖父様はすごい財産を遺して亡くなったのよ。だからこの家、みんなおかしくなってしまったのよ」
八重子が言った。彼女はとても悔しそうにしていた。法子は八重子に目を向けて、
「みんなって、誰のこと?」
「みんなよ。栄子姉と私以外の、みんなよ! お母さんだって、例外じゃないわ」
「……」
法子は返す言葉がないのか、黙って八重子を見つめていた。
しばらく私達の間を静寂が支配した。
その静寂を破ったのは、犬の吠える声だった。
「な、何、今の?」
私は小さい頃犬に追いかけられて以来、犬の声を聞いただけで震えてしまう。多分今のは、和美が飼っているドーベルマンの声だ。どうしよう……?
「和美さんね。またベスを屋敷の中に入れているんだわ」
栄子さんは溜息混じりに呟いた。やっぱり。参ったなァ。
「ベス、こっちよ」
和美の声がした。彼女は私達の前方に姿を現した。
道枝とは対照的で、小柄でロングヘアの彼女は、酷く険のある目つきだが、服装は道枝と違ってシックで、黒のツーピースを着ている。スカートは膝下まであるもので、何となく彼女をちょっとのろまに見せていた。と言うか、恐らく見たままなのだ。だからドーベルマンなんていう凶暴な犬を飼っているのだ。自分の弱さや脆さを補うためだろう。
「ワン!!」
大きな声で吠えた後、ドーベルマンが私達の後ろの廊下の奥から走って来た。ゲッ、怖過ぎる! 何て恐ろしい出立ちなんだ、この犬は。
「よしよし」
しかし心配するまでもなくベスは和美に走り寄り、彼女の足にまとわりつき、甘えた声を出した。何かイメージしてたのと違うな。
「栄子、ベスの餌が終わってたわよ。買っといてって言ったでしょ」
「ごめんなさい」
和美は道枝のような迫力はないが、何となく怖い。まさに虎の威を借る狐というヤツか。栄子さんもベスの方を気にしながら、謝っていた。
「ちょっと、和美、犬を屋敷に入れないでよ。病気でもうつされたら大変でしょ」
べスの声に、道枝が戻って来て文句を言った。すると和美はチラッと道枝を見ただけで何も言わず、
「さっ、べス、行くわよ」
とそのまま立ち去ろうとした。すると、
「待ちなさいよ、この犬バカ女!」
道枝が和美の髪を左手で掴んだ。和美は思わず、
「痛い!」
苦痛に顔を歪めて立ち止まり、道枝の手を振り払い、
「何すんのよ、筋肉女!?」
と怒鳴り返した。ひええっ、すご過ぎる。とんでもないことになって来たよォ。
「グルル……」
べスは唸るだけで、道枝に襲いかかるつもりはなさそうだ。
後で知ったのだが、道枝は犬の調教を勉強していたことがあり、べスに対して絶対的な存在になっているのだそうだ。だから例え御主人の和美が道枝に何をされようと、べスは道枝に飛びかかることはしない。犬社会はとてつもない縦社会で、上下関係がキッチリとしている。下の者は上の者に絶対服従なのだ。
「べス!」
道枝の大声にべスは萎縮し、小さくなった。和美は悔しそうに道枝を睨み、べスを引き連れてロビーから外へ出て行った。
「栄子、気をつけてよ。今度あのバカ犬を中に入れたら、あんたも同罪だからね」
栄子さんは少し震えているようだ。やっとの思いで声を出した。
「は、はい」
道枝は私達にチラッと目を向けてから、再び奥に歩いて行った。道枝の姿が見えなくなってから、
「すごいわね。まるで中世の専制君主みたいだわ」
私が言うと、八重子はムッとして、
「そんな立派なもんじゃないわよ。ただのわがまま女二人よ」
と反論した。私は法子に目をやり、小さく肩をすくめた。法子は呆れ気味に軽く頷いてみせた。
「犯人はあの二人のどっちかよ。法姉、そうでしょ?」
八重子は法子に答えを強要するかのように言った。法子は八重子に目を転じて、
「違うわ。あの二人のような直情的な人は脅迫状なんか作らないわよ。ましてや、定規か何かで筆跡を隠すような小細工をできる人達じゃないわ」
「そうかなァ……」
八重子は法子の返答に不満そうだが、私も法子の意見に賛成だった。あの二人に計画的犯行は無理だろう。
となると一体誰が……? その答えはしばらくわかることはないのだが、その時の私達はそれを知る由もなかった。
「おやおや、美人がこんなところに集まって、何の相談ですか?」
若い男の声がした。もしかすると……。
「あら、繁夫さん。帰ってらしたの?」
栄子さんが微笑んで言った。法子と私は声の主に目を向けた。
そこには長身の青年が立っていた。顔はどちらかというと青白くて、あまり生気を感じない。作りは悪くないのだが、暗い。ネイビーブルーのスーツが彼の不健康さを際立たせているようだ。右手に持っているアタッシュケースがやけに重そうに見えるのは、私の気のせいだろうか。繁夫はその生気のない顔に笑みを浮かべて、
「はい。仕事に一区切りついたので。昼食はまだですよね?」
「ええ。これからよ」
栄子さんは応えてから私達を見て、
「ご一緒にいかが、法子さん、神村さん?」
私は思わず法子の顔を見た。法子は私を見てから栄子さんを見て、
「はい。ご迷惑でなかったら」
と応えた。