第二十二章 大団円の前夜祭 10月 4日 午後 6時
今日という日はとても苦痛に満ちた日のような気がした。
何故なら法子は犯人を特定しているが、私に教えてくれない。と言うより、私が怖くて法子に尋ねることができないだけなのだが。
「どうしたの、律子。午前中からずっと様子が変よ」
法子は私の異変の理由を知らないので、そんな質問をして来た。私は作り笑いをして、
「別にそんなことないよ。私っていつも変だから」
「何言ってるのよ」
私のボケに法子は突っ込んでくれなかった。何故か私は「すべった」という気がした。何だろね。
「今回も辛い解決になるの?」
私はそんな思いを断ち切るために、とってもシリアスな質問を返した。法子は真顔になり、
「そうね。もう二度と探偵のマネ事なんてしないことにしようって思うくらい、辛い結末になるわ。できればこのまま知らないふりを決め込もうとも思ったけどね」
「そうなの。でも、やっぱり真実を明らかにするの?」
私がさらに尋ねると、法子は頷いて、
「ええ。たとえ、どんな理由があろうと、人を殺すことが許されるはずがない。推理小説でも、犯人に同情して未解決のままにする探偵がいたりするけど、それは小説だからできることなのよ。私の一時の感情で、これだけの事件の犯人をそのままにすることはできない」
法子の言っている推理小説は、私も読んで知っている。確かに、殺されて当然の人間はいる。小説の世界だけでなく、現実世界にもだ。しかし、小説の世界にしろ、現実世界にしろ、どのような理由があったとしても、殺人を肯定するような行為は許されるものではない。許される殺人など、決してあり得ないのだ。それが許される世界は、復讐が横行する世界になってしまう。まさしく、ハムラビ法典の「目には目、歯には歯」の実践だ。
殺人者を殺人で裁けば、その殺人により、無限連鎖のごとき殺人が続くことになりはしないか。殺人者にも家族がある。その家族が最初の被害者の家族に復讐することは許されないとするならば、殺人者を裁くことに殺人を適用することも、決して許してはいけないのだ。殺人に殺人で応じていれば、それは憎しみと復讐心を増大させ、世の中は無秩序状態になってしまう。
というのは少々大袈裟だが、私は「許される殺人」を肯定しているその推理小説を断固否定したい。悪人を殺した被害者を裁くことがいけないのなら、法治国家などに住まず、秩序などない国に移住してほしい。法は全ての人に平等なのだ。それを絵空事と思う人は、司法のない国に行くといい。貴方は、自分でも気づかないうちに、法に身を守られているのだということを、もっと自覚してほしいから。
「でも私、今回でこんな辛いことは終わりにしたい。探偵のマネ事はこれでおしまいにするわ」
それは法子の本当の気持ちだった。それがわかったのは、ずっと後のことなのだが。
「そんなに辛い解決になるの? 私、耐えられるかな」
と尋ねると、法子はかすかに微笑んで、
「そうね。私も犯人の対応によっては、解決を途中で諦めてしまうかも知れない。そのくらい、精神的にきつい気がする」
「そう」
私はすでに耐えられそうにない心境になっていた。何て弱い人間なのだろう。
「だから今回は、全面的に喜多島のおじ様に援助してもらうつもりなの。でないと私、ホントにくじけちゃいそうだから」
法子のその言葉に、ファンクラブのバカ共はノックアウトされてしまうだろう。彼女の言動をビデオに撮影しておいて、売り出したいくらいだ。しかし、そんなことをしたら、二度と私は法子に口をきいてもらえなくなることは確かなので、どんなに実行してみたくても、思いとどまるしかない。
「そう言えば、道枝さんの足首についていた擦り傷、どうしてできたのかわかったの?」
私は話題を変えた。法子は私を見て、
「あ、律子には話していなかったっけ。あれこそが道枝さんを死に至らしめた証拠なのよ」
私はギョッとして、
「ええっ? どういうこと?」
「事件の翌朝、貴女が溺れた夢を見たって言ってたでしょ。その時、何となく考えていたことがまとまったんだけど」
「夢? ああ、誰かに突き落とされて溺れたっていう、あれね」
私はその時の情景を鮮明に思い出し、身震いした。
「普通、水泳の選手にまでなった人が、自分の身長より浅いプールで溺れるなんて考えられないわよね。じゃあ、何故道枝さんは溺死したのかって、じっくり考えてみたのよ」
「うんうん」
私は身を乗り出して、法子の話を聞いた。彼女はそんな私の仕草がおかしかったのか、クスッと笑い、
「いくら泳ぎがうまくても、泳がせてもらえなければ、溺れるってこと」
「そりゃそうよね。でも一体どうやって道枝さんを溺れさせたのよ、犯人は?」
私はますます興味津々で尋ねた。法子は真顔になり、
「犯人は、道枝さんの足首にひものようなものを巻き付けて縛り、その上で彼女をプールに突き落としたのよ。そして、足首を縛っているひもを引き上げることによって、道枝さんは水中で身体を逆さまにされて、呼吸ができずに溺死した、と推理してみたの」
私はまた身震いした。
何故なら、小学校低学年の時に、同級生の悪ガキに足を捕まれ、溺れて死ぬ寸前になったことを思い出したからだ。この前の不思議な夢は、その子供の頃の嫌な体験を、大崎家のプールを見たことによって思い出し、知らず知らずのうちに潜在意識の中でそれが大きなウエイトを占めて、脳が二つの体験を組み合わせた結果出来たものだったのかも知れない。
「じゃあ、犯人は相当な腕力の持ち主ってことになるわね」
私が言うと、法子は首を横に振り、
「そうとは限らないわ。道枝さんは大柄な女性だったけど、水の浮力を利用すれば、腕力がそれほどなくても、充分犯行は可能なはずよ」
「そうか。水中では人間の体重は軽くなるのよね」
私は思った。健康診断の時、体重は水中で測ってくれないものかと。
「でも、足を縛られたくらいで、泳げなくなるのかしら。手は自由だったんでしょ?」
私は反論を試みた。すると法子は、
「プールの底に落ちたものを拾う動作を想像してみて。頭を下にして、底目指して潜るわよね」
「うん」
実は私は子供の時の恐怖体験以来、水中に潜ることができないので、どうも想像しにくい。法子は続けた。
「足首を縛られて逆さまにされたら、どんな泳ぎの達人も、水上に顔を出すことは不可能に近いと思うわ。実際に実験をしてみないといけないけれどね」
あまり想像がつかないのだが、とりあえず、法子の言う通り、溺死を免れることは難しそうだ。しかし、それにしても何と残酷な殺し方だろう。私には到底できない。人生の中で本当に殺してやろうかと思ったことがある憎らしい奴に対しても、そんな殺し方は可哀想でできない。逆さ吊りにして溺死させるという方法は、そのくらい私にとって、理解の外だった。
「でも、犯人は相当道枝さんのことが憎かったのね。私には想像もつかないくらい、酷い殺し方だわ」
私が言うと、法子は、
「私の推測が正しければ、犯人にとって道枝さんを殺した方法は、まだ優しさがあったのではないかと思えるわ。本当なら、滅多刺しにしても飽き足らないはずだから」
「えええっ!?」
法子の発言はとてつもなく衝撃的だった。
「どうしてそんなことがわかるの?」
私は思いあまって尋ねた。法子は一瞬黙ったが、すぐに、
「この一連の殺人が、怨嗟と憎悪に満ちたものだからよ。あの脅迫状の中の『血の殺人』は『血縁の殺人』という意味なのよ」
「犯人の目的は何なの? 大崎家の血を根絶やしにすることなの?」
「ちょっと違うと思うわ。そして、その答えは、喜多島のおじ様に頼んだDNA鑑定の結果でわかるはずよ」
全ては喜多島警視にかかっている。おじ様が一刻も早く戻って来ることを祈るしかないのか。
「殺人はもう終わりなのかしら?」
私は独り言のように言った。法子は、
「たぶんね。でも、断言はできない。犯人の考えが私の推測を超えているかも知れないから」
「そう」
私はまたしても身震いしてしまった。
「DNAの鑑定には、一週間以上かかるはずだから、その間に犯人が次の行動を起こしてしまう可能性も否定できないしね。だから、私は見切り発車させてもらうの」
「ああ」
喜多島警視に法子が言っていた言葉だ。そういう意味だったのか。
「犯人は自分が捕まるなんて考えていないかも知れない。その犯人の自惚れに賭けるしかないわ。でも、本当は犯人はいくつも足跡を残しているんだけどね」
「足跡?」
私はおうむ返しに尋ねた。法子は小さく頷いて、
「ええ。小さなものもあるし、大きなものもある。そして、かすかに残っているだけのものもある。一つ一つだと意味をなさないものでも、全部通して見ると、よくわかるわ」
犯人は誰なの? 私はそう言いたかったが、どうしても怖くて聞けなかった。