第二十一章 連鎖の変化 10月 4日 午前 8時
法子の家に来て、四日目の朝が来た。
世間は何事もないかのごとく、いつもどおりに動いているようだ。私にはそれがとても不思議で冷徹な感じがした。自分の身内が亡くなって、葬儀が終わって学校に行き、以前と同じようにケラケラ笑っている同級生を見た時、何故か腹立たしかったことを思い出した。
しかし今朝は昨日とは違い、悲し気な法子は現れなかった。彼女はニコニコして私を起こしに来て私達は以前と同じように朝食を取り、大崎家のことなどまるで気にしていないかのように談笑した。
それはうわべだけだった。法子にしても、私にしても、大崎家の連続殺人事件は一生忘れられるものではない。ある意味、群馬の事件以上に衝撃的だったのだから。
「和美さんの事件で、終わりなのかな?」
私は恐る恐る言ってみた。法子は私を見て、
「わからない。でももし続くとしたら、次に狙われるのは繁夫さんね。もし、繁夫さんが死んだら、それがいかなるものにせよ、殺人だわ」
私は思わず身震いした。
「私、この事件に関わらなければ良かったのかも知れない。栄子さんや八重ちゃんに頼まれて、調子に乗って歩き回ったせいで、警察の邪魔をしたり、犯人を刺激したりで、結局間違ったことをしたような気がする」
法子のその発言は、全く法子らしくなかった。
「そんなことないと思うよ。法子がいろいろ調べなければ、喜多島さん達はもっと困っていたかも知れないし、犯人はもっと早く道枝さんと和美さんを殺していたかも知れない。そして、もしかすると、泉さんも」
私は励ましにもならないことを言って、法子を慰めようとした。しかし法子は、
「そうかも知れないけど、私は何も発見していない。犯人の姿が少し見えたような気がしたけど、今はまた、全く闇の中に消えてしまっているわ。振り出しに戻ってみれば、何かわかると思ったんだけど、何もわからなかった。思い違いをしていたんじゃなくて、何もわかっていなかったのよ」
ひどく悲観的なことを言った。ますます法子らしくない。いや、法子らしくないというのは、何だろう? 私は自分で勝手に法子の性格や思考をこうだと決めつけていたのかも知れない。
法子は私が思っているよりずっと繊細であり、大胆でもなく、普通の女子大生なのかも知れないのだ。群馬の事件は、まさに事件の真只中にいたから、彼女は真実を突き止めることができた。でも、今回の事件はそうじゃない。法子には荷が重過ぎたのだ。
「法子、もうやめるの、この事件を調べるの?」
私は思い切って尋ねてみた。すると法子は、
「そうね。止めた方がいいかも知れない。私は、おじ様の手助けをしているつもりだったけど、実は邪魔をしていたのよね」
消極的な発言をした。私はとても残念だったが仕方ないとも思った。法子は探偵ではないのだ。事件を解決する義務も義理もない。ただし、栄子さんや八重子達は相当ショックを受けるだろう。しかし、法子に解決を強制することはあの二人にもできない。
「自分自身、群馬の事件のことで、調子に乗っていたのかもね。私は名探偵だなんて、表面では否定していても、心の中ではそう思っていて驕っていたのよ」
「法子……」
私は言葉がなかった。法子が本当に調子に乗っていたとは思えないが、ここまで彼女を思いつめさせた責任の一端は、恐らく、いや確実に私にある。私が一緒に歩き回らなければ、慎み深い法子は、決してここまで事件に深入りしなかったろうから。
「ごめんね、律子。私のせいで、不愉快な思いをさせて」
法子が謝ったので、私はびっくりして、
「とんでもない。法子が謝る必要なんてないよ。悪いのは私の方なんだから」
「律子」
法子はちょっとだけ目を潤ませてとても嬉しそうに私を見てくれた。私も目頭が熱くなるのを感じた。その時だった。法子の携帯の着メロが鳴った。刑事コロンボだった。また、とてつもなく嫌なタイミングで、喜多島さんは連絡をくれた。私達は顔を見合わせた。法子は小さく溜息をついて、電話に出た。
「はい」
喜多島さんが何かを話している。見る見るうちに、法子の顔が硬直した。何だろう? また誰か殺されたのだろうか?
「わかったわ。ええ。待ってます」
法子は応え、携帯を切った。私は間髪入れずに、
「どうしたの?」
法子は私を見て、
「繁夫さんが殺されたわ。朝食の最中に。食事に毒を入れられてね」
「えええっ!?」
私は口を開けたまま、しばらく言葉を失った。毒殺? プールはどうしたの? 何故犯人は急に毒殺を? ま、繁夫は他の人と違う食事をとっていたから、毒を入れようと思えば、簡単に出来たはずだが、あいつはとても警戒していたはずだ。何故あっさり毒殺されてしまったのだろうか?
「律子、私、もう少しこの事件に関わってみようと思うの。繁夫さんが毒殺されたことで、私の頭の中の霧が晴れたわ。思い違いをしていなかったことがわかったから」
「え? どういうこと?」
「何故繁夫さんは毒殺されたのか。どうして犯人はプールで溺死させなかったのか。そのわけが、今回の事件の真相に迫る鍵なのよ」
法子は教えてくれたが、私には全くわけがわからなかった。
しばらくして喜多島さんが法子の家にやって来た。法子のお母さんは喜多島さんの奥さんと出かけており、私達は居間で会議を開いた。
「繁夫君が毒殺されたと知った時は、これは便乗犯じゃないかと思った。しかし、状況的に見てそれは考えにくい。今、繁夫君を殺そうと考える者は、恐らく前の二人を殺した犯人以外にはいない」
喜多島さんは私達のさっきまでの葛藤を知らずに熱く語った。法子は頷いて、
「そうね。そして、どうして犯人は今回繁夫さんを毒殺したのか。何故プールで溺死させなかったのかが、一番の疑問よね」
「そうだな。捜査会議でもその点がかなり注目された。しかし、それらしい理由を思いつく者はいなかった。そこで、法ちゃんに白羽の矢が立ったというわけだ」
今わかった。法子を思いつめさせた張本人は、この人だ。法子は喜多島さんに頼っていると考えているようだが、実は全く逆で、喜多島さんが法子に頼っているのだ。
「私、一つ? 大概のことは何とかするよ」
喜多島さんは嬉しそうに尋ねた。法子は喜多島さんに耳打ちした。喜多島さんはとても意外そうな顔をした。
「DNA鑑定か。どうしてその三人なんだね?」
「それはまだ言えないわ。想像の域を出ていないから」
法子が答えると、喜多島さんは肩をすくめて、
「想像でもいいから、理由を教えてくれないか?」
「ダメよ! とにかく、調べて」
「わかった」
喜多島さんは渋々承諾した。
「それから、泉さんはどうしているの?」
「警視庁が官舎を提供して保護しているよ。あのバアさん、案の定何も話してくれんがね。忠義の人と言えば聞こえがいいが、只の偏屈としか思えないよ」
喜多島さんが溜息まじりに言うと、法子は、
「泉さんは忠義の人なんかじゃないと思うわ。私達の思っていた全くの逆がこの事件の真相なのよ」
「全くの逆、か」
私は何となく置いてきぼり状態だった。
「繁夫さんはどうやって毒殺されたの?」
法子は別の話を始めた。喜多島さんは少々思い出すような仕種をして、
「朝食は繁夫の知り合いが経営しているレストランから直接運ばれたものだったが、その中に青酸化合物が混入されていたんだ。まだ、いつどこで誰がそれを混入させたのか、全くわかっていない」
「そのレストランから食事を運ばせていたことを知っていたのは誰なの?」
法子が尋ねた。当然の疑問である。
「繁夫自身と繁夫の母親の圭子、それに泉のバアさん、栄子さん、とそのくらいかな。だが、他にも知り得た人物はいるかも知れん」
「そうね。それに、犯人の簡単な誘導で、何も知らない人が毒物を混入したかも知れないし」
法子が言うと、喜多島さんは、
「それも考えられるね。間接正犯だとすると、犯人の範囲がかなり広がることになる」
間接正犯とは、事情を知らない人を道具のように使って犯罪を行う者のことを言う。刑法の解説書の受け売りだけど。えっ? 何でお前がそんなもの持っているのかって? 決まってるでしょ、法子の部屋にあったのを見させてもらったのよ。悪かったわね。フンだ。
「とにかく、私は仮説に基づいてちょっぴり見切り発車します。だからおじ様、後方支援よろしくね」
法子は最高の笑顔でお願いポーズをした。喜多島さんは完全にそのパワーに圧倒されたらしく、
「その満面の笑顔でお願いされると、警視庁の金庫だって破らないといけない気になるから、もうやめてくれよ、法ちゃん」
冗談か本気かわからない調子で言った。法子はクスッと笑って、
「大袈裟ね、おじ様は」
と応じたが、私は喜多島さんの気持ちがよくわかった。私だって法子に笑顔でお願いされると、何でも聞いてあげなきゃという気持ちになるのだから、男なら尚更だろう。
「あと、嶋村さんを大崎家に連れて来られないかしら? それができれば、完璧なんだけど」
「わかった。それは大丈夫だ。嶋村は重篤患者というわけではないから、老人ホームの関係者に付き添ってもらえば、可能だろう」
「お願いね」
「了解」
法子はいよいよ最後の詰めに入るつもりのようだ。犯人がわかったのだ。しかし、その結末は法子すら予想しないものとなるのである。