第十六章 泉さんの話 10月 3日 午前 9時
しばらくして、泉さんがワゴンにティーポットとカップとソーサーを二組載せて、戻って来た。こちらが恐縮してしまうくらい泉さんは脅えているように見えた。喜多島さんが同席してたら、卒倒してしまうかも知れない。
「私は最初にお嬢様方の御遺体を見つけただけでして、何も知りませんので」
泉さんは紅茶をカップに注ぎながら、予防線を張って来た。しかし法子は、
「泉さん、私達は警察じゃありませんから、貴女から何か聞き出そうとか、犯人について何か知っていないかとか、そんなつもりはありません。御存じのことをお話していただきたいだけです」
「はい」
泉さんはカップをテーブルに置き、法子を見た。
「貴女は嶋村源蔵という人を御存じですか?」
法子の問いかけに、泉さんはまさしく度胆を抜かれたようだった。彼女はしばらく法子を見つめたままで、何も喋らずにいた。
「泉さん?」
法子は促すように声をかけた。泉さんはやっと現実世界に戻ったかのようにハッとして、
「嶋村様ですか。どうしてそのお名前を御存じなのですか?」
法子は、
「幸江さんが教えて下さいました。貴女も嶋村さんを御存じなのですね?」
「はい。嶋村様は、大奥様の前の旦那様でしたから。何度かこのお屋敷にもいらっしゃいましたし」
泉さんの声は弱々しかった。しかも、何かを警戒しているようでもあった。
「大崎さんが嶋村さんを呼びつけて、怒鳴りつけていたことがあったそうですが、そのことは御存じですか?」
「いいえ。大旦那様は、他人を怒鳴ることなどございませんでした。少なくとも、このお屋敷の中では」
意外な回答だ。
「では、嶋村さんとお話をなさったことはありますか?」
「いえ。挨拶くらいはいたしましたが、お相手は旦那様の仇のような存在の方でしたから、お声をかけたりはできませんでした」
泉さんのおどおどしたところは、大崎五郎に原因があるのかも知れない。そして彼女は、本能的に大崎家にとってよくないことは、決して話してくれないのだ。かわし方がうま過ぎる。
「プールの鍵は、貴女の部屋の戸棚にしまわれているそうですね?」
法子は質問を変えた。泉さんは、法子を見て、
「はい。キーホルダーに着けてしまってあります」
法子は続けた。
「そこに鍵があることを知っているのは、どなたですか?」
「光子様と幸江様と、吉美様と栄子様。それに、亡くなった道枝様です」
法子は頷いて、
「その戸棚から、貴女に知られずに鍵を取り出せる方はいらっしゃいますか?」
泉さんはビクッとしたが、
「いえ、それはできません。私は部屋にいる時は戸棚の前に椅子を置いて腰掛けておりますし、部屋を出る時は戸棚にもドアにも鍵をかけるので、他の方がお入りになることはできません」
「そうですか。貴女の部屋の鍵は、貴女しか持っていらっしゃらないのですか?」
法子の鋭い指摘に、泉さんは動揺したようだ。
「そ、それはわかりません。私の部屋の鍵はここへ参りました時、大旦那様からお預かりしたものですので」
「そうなんですか」
どうものらりくらりと鉾先を変えられてしまう。法子もやや苦戦していた。
「貴女はいつからこのお屋敷で働いておられるのですか?」
泉さんはこの質問は別に警戒する必要はないと判断したのか、ややホッとした様子で、
「大奥様がこちらに嫁がれたすぐ後からです。ですから、もう五十年以上になります」
「では、光子さんが、大崎さんの実の娘でないことは御存じですね?」
法子が尋ねると、泉さんはまた顔を強張らせて、
「は、はい。光子様は、大奥様と御一緒にこの屋敷に来られましたから。特に大旦那様からのお話はありませんでしたが、皆この屋敷の使用人は存じておりました」
法子は頷きながら、
「使用人の方は、以前は貴女以外にもいらしたんですか?」
「はい。私の死んだ夫もこのお屋敷の使用人でしたし、他にも三人、メイドがおりました。でも、しばらくすると、皆やめてしまいまして」
「何故ですか?」
法子の問いかけに泉さんは答えるのを躊躇した。また何かまずいことを思い出したのだろうか。しかし、
「これは決して他言無用に願いたいのですが」
法子と私は黙って頷いた。泉さんは声をひそめて、
「他のメイドは、大旦那様のお手付きになって、身籠ったのです。それを大奥様がお知りになり、大変お怒りになって、全員解雇したのです」
法子と私は呆気にとられて、思わず顔を見合わせた。泉さんは絞り出すような声で、
「大旦那様は、若い女で亭主持ちでない者は、誰彼かまわず、お手付きになさいました。ですから、何人メイドを雇っても、未婚の女は皆、大旦那様が……」
またしても、大崎五郎の壮絶な性格のなせることだ。何て男なのだろう。ホントに女性の敵だ。
「大奥様の元の旦那さんが、大崎さんの恋敵だったことは御存じですか?」
法子が尋ねた。泉さんは、大きく頷いて、
「大旦那様は時々お酒を召されると、嶋村様のことを罵られました。大奥様はそのお話になるとすぐにお部屋に籠られて、大旦那様が眠ってしまわれるまで出て来られませんでした」
「大奥様がそのことで貴女に何か話されたことはありませんか?」
法子のその問いに泉さんは三たび顔を硬直させた。何か聞いているようだ。この人、ある意味わかりやすい人なのかも知れない。
「大奥様は心の底からお笑いになったことがございませんでした。少なくとも私の前では。大旦那様の大奥様に対する仕打ちが、私の目から見ても、あまりにも酷いので」
泉さんは目に涙を浮かべていた。
「大旦那様は大奥様を全く愛されておられませんでした。もちろん大奥様も大旦那様を愛されてはおられませんでした。メイドをお手付きになさったのをお怒りになったのも、ご自分への侮辱とお考えになられたからです。決して、嫉妬からではありませんでした」
「それでもなお、大奥様は大崎家に留まられたのですよね。何故ですか?」
法子は念を押すように尋ねた。泉さんは涙を拭って、
「光子様のためです。それに、嶋村様のためでもありました。大奥様がこのお屋敷をお出になれば、大旦那様は必ず嶋村様に危害を及ぼすとお考えになったからです」
「光子さんのため、というのは?」
法子が重ねて尋ねる。泉さんは法子を見て、
「光子様は大奥様をいつもかばっておられました。ですから、お一人になられれば、大旦那様にどのような仕打ちを受けるか…。大奥様も光子様と一緒にこのお屋敷を出ることを考えられたようでしたが、それは実現しないまま、大奥様は大旦那様のお子様をお生みになって」
と声をつまらせ、目を伏せた。その伏せた目から、涙がこぼれ落ちた。幸江の誕生で、光子親子は一緒この屋敷から脱出することができなくなったということか。
「光子様と道枝様は、ちょうど大奥様と光子様の関係と同じでした。どちらも、他に頼れる方がいらっしゃらなかったのです」
「でも光子さんは、実質的には大崎家の当主同然と聞きましたが?」
法子が言うと、泉さんは顔色を変えて、
「とんでもございません。光子様は大崎家の当主などではございません。ただ、大旦那様の生前のご教示を守られて、大旦那様のお考えのとおりになさっておられるだけです」
これも意外な答えだ。幸江の話と真っ向から対立する。
「大崎物産の重役達は、光子さんを崇拝しているとも聞きましたが?」
法子のその問いに、泉さんは頭を大きく横に振って、
「そんなことはありえません。光子様は会社のことに口出しされたことはございませんし、重役の方達も光子様と仕事のことでお話をされることはございません」
すると法子が、
「でも幸江さんの話では、光子さんが大崎物産を牛耳っているのだということでしたが」
「それは幸江様の僻みです。光子様は万事控えめで、決して出しゃばったりなさいません」
「そうですか」
法子はどうやらこの話の決着をあきらめたようだ。何故なのだろう。どうして泉さんと幸江の話がこうまで一致しないのだろう?
「嶋村さんがどこにおられるか御存じですか?」
法子は質問を変えた。泉さんは頭を横に振り、
「いえ。存じません。嶋村様は大奥様が亡くなられてからは一度もいらしておられません。それから40年以上経っておりますので」
と答えた。そして、
「もうそろそろよろしいでしょうか。仕事がありますので」
「わかりました。どうもありがとうございました」
私達は泉さんにお礼を言って、食堂を出た。
「泉さん、知っていることの半分も話してくれていない」
法子は廊下を歩きながら言った。私もそう思った。
「光子さんのことに関しても、幸江さんと泉さんのどちらが本当のことを言っているのかわからないし。その辺はおじ様に任せましょうか」
「そうね」
その時だった。廊下の向こうから、その当の光子が歩いて来たのだ。彼女は私達に気づいてニッコリ笑い、
「いらっしゃい。栄子のせいで、ご迷惑かけているみたいね」
やっぱりこの人、怖い。法子は笑顔で応えて、
「いえ、迷惑なんてことはありません。私達こそ、お屋敷をウロウロして、ご迷惑をおかけしています」
「それは大丈夫よ。気になさらないでね」
光子は穏やかに言った。この人、私が想像しているような、迫力ある人ではないような気がして来た。
「光子さん、もしよろしければ、お伺いしたいことがあるのですけど」
法子が切り出した。光子は微笑んだままで、
「わかりました。客間で伺いましょう」
と言うと、私達を先導して客間に向かった。法子は落ち着いていたが、私はかなり緊張していた。