お客様が笑顔で帰った日
わたしは喫茶店を経営するうえで、最も注意している点がある。
それは、“笑顔にすること”だ。
そんな粋な事を言えるほどたいそうな店ではないがとにかく心がけている。
やはり笑顔で店を出てもらえると嬉しいものだ。人のためと言うよりはわたしのための目標と言ったところか。
わたしの店は1人で客を捌けるほどとても小さい。
そんな店に毎日決まった時間、とても小さなお客様が訪れる。
それはそれは可愛らしいお客様で決まってアイスクリームを食べに来る。
そのお客様の母親は週に何度か店にいらっしゃらない日がある。母親から聞くにもう1人の下の息子さんの世話が忙しいらしい。
「おじちゃん、いつものちょーだい」
握りめた母から渡されたであろう200円を手渡ししてくれた。二枚のコインにあの子の温もりが手に取った時に伝わる。それが何よりも温かい。
「いつもありがとね嬢ちゃん」
わたしはいつもと同じようにミントがはらりと乗った白いアイス。そしてオレンジジュースをサービスする。
「きょーね、おにんぎょーさんみつけたの。だけどおかーさんにみせたら、もどしてきなさいって」
「そりゃー残念だったね。でも他の人のおにんぎょうさんだったのかもしれないよ?」
あの子はおじさんのわたしの話なんて聞いていない。冷たくて甘いアイスに夢中だ。
それでいい。それであの子が笑顔で帰ってもらえるのなら。そもそも子どもってそう言うものなのだから。
いつもこんなくだらなくも楽しげな話をするのが楽しい。食べた後にはいつも笑顔になって店を出て行く。そう、いつも。
梅雨入りして蒸し暑くなってきた頃のことだった。
店の中の小さなBGMなど外の雨の音で打ち消されている最中、カランコロンと扉の鐘が鳴る。
「こんにちわ〜」
「こんにちは。今日も1人かい?お嬢ちゃん」
背の高いカウンター席によじ登ろうとするあの子の脇から持ち上げる。
「きょうもひとり、なの。はいおじちゃん」
そう言って渡してくれた2枚のコインはいつもより温かく、熱く感じた。濡らさないよう傘を持たない手で強く握りしめていたのだろう。
アイスとオレンジジュースをいつものようにあの子の前に置いてあげる。
「おかーさん、ひっこしのおてつだいしてるの」
「そーかい。お母さんがお引っ越しするのかい?」
わたしの質問は頷き程度にしか届いていなく、オレンジジュースに付けたストローを噛む。
タイミングを見計らってもう一度尋ねてみた。
「とーいところにわたしもひっこすんだって。いまよりもっとひろーいいえにすむの」
「そーなのかい。遠くに行っちゃったらもう嬢ちゃんにアイスを出せなくなるのかね」
「なんで?」と首を傾げるあの子。まだお子様には分からない話だ。小難しいことは考えない方がいいのかもしれない。
「またおいで」
「またくるね。ばいばーい」
扉を開けてやり小さくも大きな傘を差し、右へ左へと体を揺らしながら雨靴のコツコツと言う音と雨の音が混ざりながら消えていった。
今日も笑顔で帰ってもらえた。
今日もあいにくの雨だ。
カランコロンと勢いよく開いた扉をみるとあの子の母親と後ろに隠れるかたちであの子は入ってきた。
「おじちゃん、いつものちょーだい」
「はーい。待っててね。奥様は何します?」
返事のない母親の方を見てみると席に座らずあの子の後ろで「結構です」と手で示した。
わたしはあまり気に留めず、いつものように支度する。
「ねーおじちゃん。きょうはもっといっぱいはなしたい」
「そーかい。そりゃ嬉しいね」
そう言ったあの子は少し元気がない。
「幼稚園では楽しくやってるのかい?」
「うん。りょーくんといつもあそんでたの」
いつも通りにアイスとおまけのオレンジジュースをあの子の前に置いてあげる。
「遊ぶ友達がいる事はいい事だね。大切にしないとね」
返事はなくアイスを小さな口で黙々と食べていく。いつも聞いている歯にスプーンが当たる音が心地よい。
母親に座るよう促してみるがやはり遠慮された。
「おいしかったー」
「それはよかった。ん?どうしたんだい?」
美味しいと言ってくれたが不満そうな顔をしている。そう、今にも涙が溢れそうなほど。
「おじちゃんにあえなくなっちゃう」
涙まじりのあの子。わたしはすぐに昨日話た引っ越しの事を思い出す。
「私たち2人目もできて家を買ったんです。それで明日には遠くの方に引っ越しするんです。だからおじちゃんにも会えなくなっちゃうねって言ったら、嫌だって…」
母親も少し目が赤くなってそう話してくれた。
「おわかれしたくないよ。またあいすたべたいよ」
遂にはあの子は泣きじゃくれてしまった。母親もハンカチをおもむろに取り出し涙を流す。そして、あの子の背中をさする姿は妙に脳裏に焼き付いた。
「泣かないでお嬢ちゃん。ジュース飲んで落ち着こう」
そう言ったわたしも涙半分の声だったが必死に堪えた。それは男のちっぽけなプライドなのかあの子のためか。
平べったくないストローを咥えた泣いているあの子の呼吸は荒く、ぼこぼこと泡が鳴る。
そしてゆっくりと長い時間をかけオレンジジュースを飲み干した。
「さいごに、、、おてがみかいたの」
大きなポケットから取り出した手紙には大きなシールで封されていた。
「後で読むの?」
あの子は涙を堪えながら強く頷く。
そしてお会計へ。お勘定は母親からあの子に渡された。
「いつもおいしいアイスありがとうっ。それとおれんじじゅーすも」
「こちらこそいつも来てくれてありがとう」
そして200円を手渡ししてくれる時、わたしの手はあの子の手を包んでいた。
その手は熱かった。
「またおいで」
「ぜったいにいくっ!すぐいく!」
軽いく重いあいさつを交わしあの子は母親へと泣きついた。
「それでは。いつもうちの娘がお世話になりました。ほら、手振って、ばいばいって」
「ばいばいっ、、、」
「またおいでね」
そう言って2人のお客様が泣いて店を出て行った。
途端、わたしも涙が溢れていた。この歳になって恥ずかしい。いや、頑張った。
次、あの子が来る時は笑顔で帰せるだろうか。BGMはループが終わり雨の音だけが響いた。
アイスの皿にいつもなら残していたミントの姿はなかった。