1話 きれいは怖い
「お前の母さんは、学校一の美少女だったんだよ——」
そう言いながらアルバムを見せる父さんは、寂しく微笑んでいた。
それに気づいたのは、小学6年の頃だったと思う。
あの頃、「母さん、見るか」とアルバムを持ってくる父さんが少し疎ましかった。でも父さんが見たいのだからと、妹の日菜と一緒に無理して付き合っていた。父さんはそんな僕に気付かず、アルバムに魅入られていた。今にして考えると僕達が寂しがってると思った父さんの気遣いとも思うが、父さん自身にも未練があったのかも知れない。
赤ん坊の僕を抱きかかえて微笑む写真の母さんは、確かに美人だ。テレビやネットで見るアイドルや女優なんかより遥かにきれいで、『学校一の美少女』と言われても納得する。ただそんな母さんが冴えない父さんと結婚した理由は、永遠の謎だった。
でもそれは、本当の母さんじゃなかった。
僕の中での母さんの記憶は、写真より音だ。
ほんの少しの失敗でも、ヒステリックに怒鳴り散らす声、
お仕置きで外に出される時の、勢いよく閉まる扉の音、
夜中に目を覚ますほどに、うるさい喧嘩、
怒りでテーブルをひっくり返し、物がガチャガチャに壊れる音——
まるで、怪獣の襲撃。写真の母さんは化け物に見える。
トラウマ、と言うのだろうか。
きれいは怖いと刷り込まれた僕は、女子が苦手だ。
母さんの写真を見ると、いつもあの音が呼び戻されるので、本当は見たくなかった。でも父さんが見たいのだろうと思って、無理していた。だからある時、僕は「もう良いよ」とぶっきらぼうに言ってみた。
「そっか……」
父さんはそう呟いただけで、アルバムを閉じて片付けた。日菜も、母さんの記憶は殆どないからそれほど興味が無かったらしい。その日以来、母さんの写真を見ることは無くなった。あの言葉は、思った以上に封印の効果があった。少しお父さんに悪かったかも知れないと、思う時もある。
ちなみに母さんが写ってる写真のデジタルデータは、立ち合いの下全て消去させられたらしい。だからこの写真は母さんのビジュアルを残す最後のアイテムなんだと、父さんは言った。
——なんでそんな事を、思い出したのか。
分かってる。高校受験に向けて忙しい年末に父さんが出してきた、突拍子もない提案のせいだ。
「拓馬、父さんの知り合いの子を少し預かることになったんだけど、良いか?」
「え、何で? 僕、受験生だよ?」
誰でも知ってるように、受験生は、精巧なガラス細工のようにデリケートだ。ちょっとした変化でも、過敏に反応する。点を上げるため、どんな努力も惜しまない。雑音を極度に嫌う状況で、異邦人の乱入は、忌むべき案件だ。当然ながら、僕は最大限に反抗を試みる。
「それがな、相手のお嬢さんも受験で、この街を離れたくないそうだ」
「え、女なの?」
「わー お姉さん、欲しかったんだ」
「日菜、黙れ」
まだ小学5年で無邪気に喜ぶ妹とは裏腹に、僕は腹立たしかった。父さんは、全く僕のことを考えてない。志望校の鳳蘭高校に入るには、まだ足りない。県内一の進学校だ。スポーツ推薦も受けるけれど、難しいだろう。市大会三回戦敗退の実績では、内申点も期待薄。あと二ヶ月強、死ぬ気でやらないと、春なんて来ない。
「ちょっと、断ってくんない?」
僕は、イライラしながら言った。
「それがな、父さんの友達なんだけど、シンガポールに行くことになって、家も12月で引き払ったんだ。その子は卒業まで、この街に留まりたいって。だからどうしても頼むって、父さんを頼ってきたんだよ」
こんな時の父さんは、弱い。それは僕も知っていた。頼まれたら嫌とは言えない性格だ。よく保証人になったり借金を背負いこまされないで生きてきたなと、少し感心している。けれどこの話は、僕の人生に大きな影響を与える。簡単には引き下がれない。
「別に、うちじゃなくても良いんじゃない?」
僕は、ねばった。女なんか来なくていい。
「この辺に親戚もいないらしいし、あいつの伝手じゃお父さんしかいなかったんだ。お前と同じ中学らしいから、知り合いじゃないか?」
「何て名前?」
「佐藤って言うけど、下の名前は、聞いてないな」
「佐藤なんて、うちの学年でも、四人いるよ」
頭の中で、佐藤と名のつく女子を、思い浮かべる。
ふと、『学年一の美少女』と名高い、佐藤姫愛を思い出した。
一度も同じクラスになったことは無いが、有名人だ。吹奏楽部で、この前の文化祭でもフルートの目立つソロを吹いていた。副会長も務め、何かと目立つ存在だった。
それ以外の三人より彼女の名前を思い出したのは、母さんの記憶があったからかも知れないし、単に一番思い出しやすい相手だったのかも知れない。
「まあ、年明けに来るからさ、よろしく頼むよ。部屋は母さんが使ってた部屋だから良いだろ」
「う、ううん……」
田舎だから土地も安く、うちの家はそこそこに広い。部屋も十あるから、別に一人ぐらい増えても、困らない。しかも”開かずの部屋”を使うのならば、別に良いのかも知れない。
母さんが出て行った後、3人ともあの部屋には滅多に入らなかった。母さんの匂いがまだ染み付いているし、クローゼットにある置き去りにされた服の数々は、僕たちに取って無用の長物だ。代わりに誰かが使ってくれる方がありがたい。
言いたいことは未だあったけれど、時間を無駄にしたくない僕はこれ以上の議論を止めた。父さんも、これ以上の説得は難しいと判断したのだろう。話を終わらせる。
食器を洗った後、リビングのソファに寝転びテレビを見ながらケタケタ笑う日菜と、話を終えテーブルで新聞を読む静かな父さんを置いて、二階にある自分の部屋に行く。冷え冷えした部屋に入ってエアコンをつけ、暖まるまでベッドの中に潜り込む。
そろそろ頃合いかとベッドから出ようとした矢先、スマホのLIME通知に気付く。野球部仲間からだ。
翔太郎:元旦詣り、金平神社に行く?
賢太:おう。拓馬は?
拓馬:行く
俊一:初日の出も見ようぜ! 五時半集合で!
みんな冬休みに入って受験モードのはずだが、無駄話が一時間以上続く。やっと参考書を広げ、問題集を始めようと思った頃、「お風呂沸いたよ〜」と日菜の声がする。そしてお風呂につかってあったまると、一日の終わりだ。
つまり冬休みに入っても、勉強は全くはかどってない。
父さんに言ったさっきの言葉は、嘘だ。
別に誰が来ようが、今更大勢に影響はない。
負け組一直線であるけれど、奇跡は起きるもの。
きっと何処かには、受かるだろう。そう割り切って、寝る。
元旦の早朝、まだ日の出前の真っ暗な時間に、家を出た。雪は無いけれど、霜が降りている。帽子も被り手袋もして完全防備で外を出たが、それでも寒い。
金平神社は、十分ほど歩いて行った先の、小高い丘にある。丘の上だから、初日の出を拝むのにも丁度良い場所だ。此処から海へは何十キロもあるので、僕はまだ、水平線からのぼる朝日を見たことが無い。
「おう、拓馬」
「おう、あけおめ」
「あけおめことよろ」
集まったのは、いつもの仲間達だ。夏の大会で引退したが、その後もつるんでいた。一番背が高い翔太郎は、四番でエース。けれども悪いが顔が残念で、モテない。少し太ってる賢太は二番、キャッチャー。こいつも僕と同様、モテない。もう一人の俊一は九番ライト。ムードメーカーだが、野球の方はからっきしだ。
ちなみに僕は、七番でセンターだった。監督からは『影の四番』と言われていたが、チャンスで打ったのは一、二度きりだ。香山中学の野球部員は全員で13人なので、三年になったらレギュラーは保証されていたも同然だった。
弱小野球部に美人なマネージャーなどいる訳もなく、ずっと坊主頭で男だけの三年間は、クラスの女子から、良くからかわれていた。でも僕は、その方が気楽だった。女子がいないのも、野球部を選んだ理由だったからだ。
「勉強、どう?」
「全然」
「まあ、そんなもんっしょ」
途中の出店で、それぞれお好み焼きや焼きそばを買って食べつつ、境内の方へと歩いて行った。この辺に住む人達が来るから、夜明け前でも結構な人混みだ。参拝を終えて帰る人には知り合いもいるので、すれ違いがてら挨拶をする。
「あ、サッカー部の奴らだ」
「女子と、一緒だな」
香山中学部のサッカー部は、我が野球部とは対極の、ライバル関係にある。とは言っても、あちらは県大会の常連、数年に一度は全国大会にも出るほどの名門だった。だから一方的にこっちがライバル視してるだけだ。
それだけ実力のある部だから、当然モテる。
力ある方に人が集まるのは、世の摂理だ。
「良いな〜 あいつら、みんな彼女持ちだぜ。坊主やめたら、モテると思ったんだけどなぁ。さっぱりだよな〜」
「お前じゃ、しょうがねえよ」
「お前もだろ」
悪態をつきながら神社へと向かうが、何だかザワザワしている。どうも、参列の前方で揉め事が起きているようだ。見ると我が中学のサッカー部員たちだ。何事かと、帰って行く人達も通りすがりにチラチラ見ている。
すると参列から、女子が一人飛び出した。キャプテンの神城が手を掴んで列に引き戻そうとする。だがその女子は、「ふざけんな!」と大声で悪態をつき、手を振り解いて帰り始めた。ちょうど、こちらとすれ違いになる。
それは、佐藤姫愛だった。
すれ違う時、僕たちには目もくれず、怒った顔のまま帰って行った。僕達の存在に気付いてないようだ。そもそも同じ学校でも接点がないから、知らないだけか。
彼女の大きな声を、初めて聞いた。
おしとやかで清楚系に見えるけど、あんな声も出せるんだ。
「今の、<香山中学の天使>?」
「そうだね、何だろう?」
「痴話喧嘩じゃね?」
「神城と付き合ってるって、有名じゃん」
その通りだった。佐藤姫愛と神城誠の交際は公然の秘密だ。付き合っていても喧嘩ぐらいするんだろう。部外者達には内実を知る術もなく、参列に並んで本殿まで行く。行列は長く、僕たちがお参り終わった頃には、既に彼らが帰った後だった。彼女も当然いない。
「そろそろ、初日の出だ、あっち行こう」
翔太郎の言葉で、4人はグダグダしながら歩いて行った。
日の出が見える丘には、人が集まっていた。ただ混雑するほどではなく、太陽は充分に見える。光の強度がだんだんと強くなり、遂に端が見え始めると、感動で厳かな気持ちになる。太陽は毎日こうして出ているけれど、元旦だけは格別にご利益がありそうだ。みんな柏手を打って、お祈りする。
「今年は、良いことがありますように」
「高校受験、受かりますように」
「彼女が、出来ますように」
「悪いことが、起きませんように」
手を合わせ勝手な願い事を言い終えると、帰宅の途についた。
元旦も終わり、親戚の英子おばさん達も帰って、正月気分が減り始めた四日。昼過ぎに、玄関のチャイムが鳴った。
「はい」
「あけまして、おめでとうございます」
玄関が開くと、見知らぬ男性が立っていた。
そして後ろには、大きなカバンを持った佐藤姫愛がいた。