【終末ワイン】 スーサイドワーカー (61,000字)
需要もないままにシリーズ14作目です。文字数は61,000字なので長いです。尚、同シリーズの前作「スーサイドプランナー」を読んでいないとわかりづらいです。といってもそちらも長いです。
寿命。人の命の長さ。それを人は知る事が無い。知る事が出来ない。知らないからこそ、明日を未来を信じ、生きていく。自分が明日、死ぬという事がわかっていたら? 死ぬ事が決まっていたとしたら、人はどういう行動を取るだろうか。
6月30日 厚生労働省終末管理局
月末の今日、1カ月毎に実行される『終末通知』の葉書を作成するプログラムが起動した。今月は、9001通の通知葉書が作成された。作成された終末通知葉書は、管理局職員により機械的に郵送の手続きが粛々と行われた。
◇
土曜日の午後1時。とあるカラオケ店での1室にして密室。部屋の中央に置かれた低めのガラステーブルを挟む様にして、赤いレザーのロングソファ2つが置かれていた。ムードある薄暗い照明の中、2人の男性は向かい合うソファに、それぞれ浅く腰掛けていた。
「それでは、あなたの希望を教えて頂けますか?」
そう言ったのは、清潔感を覚える綺麗に整えられた黒く短めの頭髪に、少し明るめの無地のネクタイを締めたスーツ姿の40歳男性。皺ひとつ無い真っ白なワイシャツと、皺ひとつ無い濃いグレーのスーツ。一見地味ではあるが一切の虚飾を排したとも言え、傍から見れば好印象を受けるであろう装いだった。
「まあ、独り静かに、苦しくない様に、出来るだけ周囲に迷惑にならない形で死にたいって所ですかね……」
そう口にしたのは、50代手前に見える男性。俯き加減にテーブルを見つめるその人は、ノーネクタイに明るいグレーのスーツといった一見サラリーマンと思しき装いではあるものの、手入れをしていない事が見てとれる白髪の混じった頭髪と不精ひげ、更にはアイロンの掛かっていない白いワイシャツと、お堅い会社であれば注意を受けそうな姿に見えた。それに加えて憔悴し切った表情と、輝きが失われた窪んだ目が、現役のサラリーマンにはとても見えそうにないと言った印象を覚えさせた。
2人の間に鎮座するテーブルの端には、水色の小さいプラスチックの籠が乗っていた。籠の中には、カラオケで使用する銀色のマイクが2本と、曲をリクエストする為のタブレット2つが入ったままで、使用されている形跡は一切無く、それとは別に小さい紙が1枚テーブルに乗っていた。その小さい紙は名刺であり、50代手前に見える男性が差し出した物だった。
名刺に書かれていたその人の名前は畑村一道。聞いた事の無い企業名と共に、総務課の課長という肩書が記されていた。
畑村の名刺に記載されていた会社は時勢も手伝って厳しい経営を強いられていた。畑村もその時勢の流れに逆らえず、いくら課長と言う肩書が付いていたとしても、単なる事務作業要員としてしか見られず、何の特技も持たず、何ら利益を生まないという烙印を上層部から押された。
そんな状況の会社に対して残りたいと交渉したとしても、自分が会社に対して何を提供出来る訳でも無い。完全歩合制の営業職としてならば会社に残ってもいいとは言われたものの、営業職の大変さは傍から見ていても分かる。それが完全歩合となればハードルの高さは言うに及ばずという事も分かる。結果、自主退職の道を選択せざるをえなかった。
退職した際、会社の名刺は返却したがその1枚だけを手元に残しておいた。その最後の名刺は、ちょくちょく触っていたのかヨレヨレの状態であり、元は純白だったであろう白い紙は多少汚れているように見えた。
新卒で入社して以来、30年近くの長期に渡って勤めあげたにも拘わらず、追い立てられるように辞めた会社ではあったが、自分の人生とも言えるその名刺を畑村は棄てるに棄てられなかった。その最後の名刺は、畑村の中にある会社への未練が形を成した様でもあった。
自主退職したとはいえ畑村に転職の当てがある訳でも無く、何をするでも無く、何がしたい訳でも無く、何が出来る訳でも無く、畑村は終わりの道へと進む事にした。とはいえ、退職してから直ぐに終わりの道へという訳でもなかった。当初は何とかしようと前向きに考えてはいた。
だが退職して直ぐ、畑村は妻から離婚を求められた。妻からすれば、この先の生活に展望が見えないという理由だった。当然畑村は説得を試みたが説得する材料が無く、将来への不安を払拭する迄には至らなかった。
結局畑村は離婚に応じた。小さい会社だった事からも、30年近く勤め上げたにも拘らず退職金は多くはなかった。その少ない退職金を畑村と妻とで折半し、そのお金だけを持って、畑村の妻は家を棄てるように出ていった。畑村が妻に離婚後はどうするのかと尋ねてはみたが、「これからは自分の人生を生きていく」と、短く答えるに留まった。お互いに若くして結婚し子供を授かった事からも、畑村の妻には言葉には出来ない不満、自分の残りの人生を好きに歩んでみたいという願望があるのかもしれないなと、畑村はそれ以上聞く事はせずに、一人出ていく妻を静かに見送った。
折半した残りの退職金も家のローン、日々の生活費へとあっという間に消えていく。若い頃に組んだ家のローンは2世代ローンとも言えるほどの長期且つ身分不相応とも言えそうな程の代物で、相当な無理をしていた。家の修繕費も家を担保にしたローンで賄っていた。
何かをしようとすれば金は掛かり、何もしなくても金が掛かる。増える事は無く、減り続けるのみであり、その最たる家のローンの支払も限界を迎え、売却出来そうな家財道具を売り払っても、到底間に合う物では無かった。
家を売却したところで全ての返済が出来る金額では無く、そうこうしている内に支払いが滞り始めた。そしていよいよ翌週が最終の支払期限となり、現状、それを覆す手段はない。翌週の期限迄に支払いが出来なければ家を差し押さえられる事になり、その数日中には退去を求められる。その後に残る物は借金だけとなるが、畑村にはその借金を返すあても見つからない。
家を失った後は自己破産して生活保護を受けるという選択肢を畑村は考えた。同時に、それでどうなるのだと思った。生き永らえたその先に明るい展望がある訳でもない。生きたい目的がある訳でもない。
退職や離婚、家の差し押さえを目の前にした状況もあり、ただただネガティブになっているだけかもしれない。だとしてもアクティブになる材料は何もない。故に畑村は終わりの道へと進む決断をした。兎にも角にも楽になりたかった。あらゆる全てから解放されたかった。
とはいえ、駅のホームやビルの屋上からの投身自殺という手段は選択するつもりは無い。棄てられるようにして別れたとはいっても、元妻に対して迷惑をかける様な真似を良しとするのは畑村の本望では無い。下手をすれば子供達にすら迷惑がかかる事も予想出来る。そんな思いの中で、どうする事が一番良いのかを探した末に、畑村は目の前に座る男性を頼る事にした。
自殺を手助けするというその男性。畑村はその存在を知り頼る事にした。畑村は目の前に座るその男性の本当の名前は知らないが『スーサイドワーカー』と呼ばれていた。
スーサイドワーカーと呼ばれるその男性は、「周囲に迷惑をかけない様に死にたい」と言う畑村に対して「では、その方向で思案しますね」と、柔和な表情と共に答えた。
「まあ、お願いしている立場の私がこんな事を言うのはおかしいとは思いますが、やっぱり自殺って良くはない事ではあるんでしょうね……」
「はい?」
「いや、その、頼んでいる立場の私がこんな事を言うのは馬鹿みたいだと思われるかもしれませんが、心の中で死にたいって思うだけならば良くある事なんでしょうけど、実際にそれを行動に移すというのは良くない事なんだろうな、と……」
「ああ、なるほど。そうですねぇ。まあ、世間一般での認識に於いて自殺というのはネガティブな事と捉えられますよね。カトリックでは罪に当たるとも聞きますしね。でも私は悪い事だとは思ってませんよ?」
「そうですか?」
「ええ。綺麗事を口にするのが是とされている風潮の今の世の中に於いては、流石に公に応援するのは憚られますので、こうしてアングラな形で支援するしか出来ませんけどね。まあ、その人の人生なんですから、他人がとやかく言う事では無いと、私は思っています」
「なるほど、そういう考え方なんですね。そう言った考え方を密かに持っている人はいるかもしれませんが、それを口にする人とは初めて会いましたね」
「ははは、でしょうね。まあ、色々な意見に色々な人生、価値観も千差万別、十人十色って事ですかね。それで良いんじゃないでしょうかね」
畑村は自分よりも少し若いと思しき「スーサイドワーカー」と呼ばれる男性を不思議そうな目で見つめた。自殺を肯定する考えを持つ人はいるのだろうとは漠然とは思ってはいたが、それを実際に口にする人が現実にいるのだなと。とはいえ、仕事が順風満帆だった頃の自分がそんな意見を聞いたならば、あからさまに不快感を示し、自分よりも若い目の前の男に対して生きる事の大切さ、社会に生きる1人としての生き方、立ち振る舞いを得々と説いた事だろうなとも思った。同時に、きっと目の前に座る男性は結婚もせずに独身なのだろう。故に自分よりも若くてもその様なことを口に出来るのだろう、若さゆえの事なのだろうとも思った。
「それで、あなたは『スーサイドワーカー』って呼ばれているんですよね? 実際には、どういった事をしてくれるのでしょうか……?」
「そうですね。まあ、手法や場所等を含めた、自殺志願者用の自殺プラン作成ですかね。それと、私物の破棄のあれこれや、色々と契約なさっている事柄だったりの整理とかについての案内と言いますかね。
誰にも気づかれない様に消えたいって人であれば、そういった場所を私が探しますし、自分の死を社会に知らしめたいと言うのなら、大々的に報道されるような効果的な場所だったり手法を探し提示します。他にも、もしもの話ですが、何かへの謝罪のつもりで苦しみながら死にたいと仰るのなら、それはそれで対応しますよ」
『スーサイドワーカー』と呼ばれた40歳の男性が笑顔でそんな事を言った。その男性の本名は九時堂久光。とはいえアングラな活動でもあり、当然本名は教えない。連絡用に使用している携帯電話も違法に入手したものであり、必要時以外はバッテリーを外し、自殺志願者とはフリーのメールで連絡を取っていた。
「そうですか……確かに、どうすれば良いかなって考えましたね。まあ、何も考えずに駅のホームとか、ビルの屋上とかから勝手にすれば良いだけの事なのかも知れませんけど、離婚したとはいえ元妻や子供達に迷惑を掛けたくないというのもありました……。まあ、そんなのは建前で、ただただ怖いだけなのかもしれませんけどね……」
「まあ、そう言った方法は一般的と言えば一般的ですね。とはいえ、怖いと思うのは当然だと思いますよ?」
「そうですかね……恥ずかしながら、歩道橋の手すりに手を掛けた時もありました。その手すりを飛び越えるなんて簡単な事なのに、いざ飛び越えようとすると足が竦むというか、ほんの少しの一歩が踏み出せない。その一瞬さえ我慢すればいいだけのはずなのに……なかなかどうして……小心者なんですかね……」
「そんな事はないですよ。誰だって怖いはずですよ? 私だってその瞬間になれば、腰を抜かす位に怯えると思います。故に、日常行っている動作というか所作を持って、苦しみ無く、痛み無くという手法だったり場所だったりを、個々人に合わせて提案する事が私の役割だと思ってます」
「なるほど……1人1人に寄り添い支援する。それでスーサイドワーカーって名前なんですか」
「ははは。まあ、自称ですけどね。なんせアングラな活動ですし」
「なるほど……あの……それで……遺書とかも書いた方が良いんですかね?」
「遺書ですか? まあ、絶対に必要って訳ではありませんけどね。まあ、懸念やら恨み事があるなら書いた方が良いかもしれませんけど。逆に遺書を残す事で、禍根を残すなんて事にもなりかねませんしね」
「ああ、そういう見方もあるんですね……」
「そうですね。まあ、それはご自由にというか、ご自身でお決めになれば良い事ですね」
「まあ、そうですね……」
「ええ。そうですよ」
九時堂は笑顔を絶やさず、ゆったりとした口調で答えた。
「あの……」
「はい?」
「いや……自分からお願いしているのに、こんな質問するのは、おかしいんですけど……」
「はい、何でしょう?」
「本当に、止めないんですね」
「止めない?」
「あ、いや、なんていうか、その……私は自殺したいって言っているの、止めないんだな……って……」
「ああ、その事ですか。止めて欲しいんですか?」
「いえ、そう言う事ではありません。ただ、違和感があったというか……こういう時って、普通、そんな真似するなよとか、自殺なんて考えるなよとか、そんな言葉を言われるのかなって、正直、思っていた物で……」
「なるほど。そうですね。私は止めませんね。死にたくない人は、わざわざ私の所へは来ませんしね。私の所へ来たという事は、それなりの覚悟がある方ですからね。あなたもそうなんですよね? そりゃ勿論、強制はしませんよ? 数日後には、あなた専用の『自殺プラン』を書いたメールをお送りしますけれども、それを実行せずに、生きる道を選んだのならば、それはそれで宜しいんじゃないですかね? 生きる選択をしたなら『頑張ってください』と、言うだけの事です」
「そう……なんですか」
「ええ。そうなんです。あくまでも畑村さんの人生ですから」
九時堂は畑村の目をまっすぐに見つめながら、柔和な表情を絶やさず、ゆったりとした口調でそう言った。
「そういえば、なぜカラオケ店なんですか?」
「はい?」
「いえ、あなたと話をする場所が、何故カラオケ店なのかなあ、と」
「ああ、そう言う事ですか。単純な理由なんですけどね。なんせ喫茶店等で公に話す内容でもないですしね。かといって、人気の全くない密室で有ると、お互い初対面なのですから恐怖心があるという事もありますしね。その点カラオケ店は個室ですし、遮音性もある事から外部に漏れづらいという秘匿性も担保しつつ、それなりに人気もある場所ですので、安心感があると理由で利用させて頂いています」
「なるほど。確かにそうですね」
「でしょう? おまけに安いし、飲食も可能ですしね」
「確かに……。あ、そういえば……」
「はい、何でしょうか?」
「『スーサイドプランナー』って知ってますか?」
その言葉を聞いた九時堂は「またその名前か」と思い、心の中で舌打ちをした。
どうやら自分以外にも、自分同様に自殺志願者の支援をしている者がいるらしい。とはいえ、その存在は噂でしか聞いた事は無く、実体を確認した訳でもない。だが時折、自分の元へとやってくる人から、その名前を聞く事がある。そしてその後には必ずと言っていいほどに同じ事を聞かれる。
「その人とあなた、スーサイドワーカーさんの違いって何ですか?」
九時堂はこの質問にうんざりする。とはいっても、畑村に対してその不快感を出すつもりは無い。
「名前だけは存じてますよ。会った事もないですし、本当にいるのかどうかも、知りませんけどね」
「そう……なんですか」
「あくまでも噂で聞いた印象ですけど、その人と私の違いと言う点としては、その人はあまり真摯に向き合ってくれない。『好きにすれば?』みたいな感じの人物だと、私は伺っています」
「あ、そうなんですか……」
「ええ。少し怪しい気もしますね。私も気にはしているんですけどね。まあ、その内に会う事もあるかもしれませんから、その時に、スーサイドプランナーって人に真意を聞いてみますよ」
その後、2人は短い雑談を交わした。そして、後日に九時堂から畑村に対し、自殺へのプランを記載したメールを送るという事で、畑村は九時堂1人を部屋に残し、カラオケ店を後にした。
その1時間後、先と同じカラオケ店での同じ部屋、九時堂1人がいる部屋のドアを1人の男性がノックがした。男性はすぐに少しだけドアを開け、そのドアの開いた隙間から覗き込むように顔だけを部屋に入れた。
「失礼します……」
男性はおずおずとそう言って部屋の中を一瞥すると、ソファに座る九時堂に視線を合わせた。九時堂は携帯電話へと視線を落としていたが、声が聞こえた途端に顔を上げ、ドア付近でおどおどしている男性に視線を送った。2人の視線があった瞬間、九時堂は携帯電話をテーブルの上に置き、即座にソファから立ち上がった。
「どうぞ、お入りください」
九時堂が笑みを浮かべながらそう言うと、男性はその場で軽く会釈した。
「あの……スーサイドワーカーって……」
男性は部屋には入らぬまま、おずおずと九時堂に向かって聞いた。
「はい。私の事ですよ。どうぞ、お入りください」
その言葉を聞いた男性は少しホッとしたような顔を見せ、ようやくドアを開けると部屋の中へと入り、丁寧にドアを閉めた。
「あ、あの……初めまして、私、伊佐末芳郎と申します」
黒く短めの髪に痩せ気味の体躯。グレーの無地のTシャツとブルーのジーンズを履いた伊佐末は、部屋に入った直後、立ったままの姿勢で頭を下げつつ自分の名前を告げた。おっとりした口調で全ての所作がおっとりしている。見方によっては疲れ切っているようにも見えた。そんな伊佐末の姿に九時堂は、伊佐松の年齢が50歳近くだろうかと推察した。
「お待ちしてました。さあ、どうぞお座りください」
九時堂が自分の向いのソファを手で指し示しながらそう言うと、伊佐末は九時堂の言に従い、おどおどしながらもソファへ浅めに腰かけた。それを見届けた九時堂もゆっくりソファへと浅く腰掛けた。
九時堂は座るや否や、「早速ですが、どのような最後を御希望でしょうか?」と、伊佐末の顔をまっすぐに見ながら聞いた。
伊佐末は来て早々に聞かれた直球の質問に動揺した。その事を考えていなかった訳では無いが、いきなりの質問で一瞬頭が真っ白になり、答えに窮し俯いた。
九時堂は急かすつもりはない。いきなり本題に入るのはいつもの事であり、相手が一瞬動揺するのも良くある事なので、伊佐末を急かす事はせず、笑みを浮かべながら伊佐松の返答をジッと待った。
「そ、そうですね……。やはり、痛いのは嫌ですかね……。出来れば一瞬で……」
伊佐末は多少おどおどしながらも目線だけを上にあげ、柔和な表情の九時堂の顔をチラリと見やった。
「なるほど。そうですよね。私もその方が良いと思います」
「それと……私、数か月前に退職しまして……」
伊佐末は質問されていない話を始めた。とはいえ、九時堂はそれを遮るつもりは無い。今際の際といっていい状況でもあり、伊佐末の話を聞こうという姿勢を見せた。
「次の就職先のあてがあって辞めた訳でもなく……辞めた後、まあ、多くは無いですが退職金も出ましたので、いわゆる引き籠りと言っていいような生活をしてました。別にほんとの引きこもりでも無かったですけど、何がしたい訳でもなく……。それで、ふと、思ったんですよね。日本人の平均寿命は80歳位とかって言うでしょう? なら私は既に半分を過ぎていて、これからは老いて行くばかりじゃないですか」
九時堂はまだ伊佐末の年齢を聞いてはいなかったが、初見通りに50歳近い年齢なのだろうなと思った。
「そうですねぇ。平均寿命80歳位というのも、まあ結構な年齢ですよね。本当にそんなに皆が長生きしてるのかなって思いますよね。年金はあるでしょうけど、それだけで暮らしていけるのかなとか、他にも収入とかあるのかなとか。そういう意味でよく高齢になっても暮らしていけるな、なんてね」
「ですよね……。で、これから仕事を探すにしても年齢も年齢ですしね。何か秀でた物がある訳でも無いですしね。仮に仕事を見つけたとしても、食べていくので精一杯、若しくは食べる事すら我慢しながらの生活って所だと思うんです。苦労の末に仕事を見つけ、苦労しながら寿命まで生きる。そうまでして生きていかなきゃ行けない物なのかなって……その意味が分からないというか……」
伊佐末は仕事を辞めてから毎日のように思っていた事がある。
ニュースを見ていると自分のように仕事を探す事に苦労し、将来を悲観する言葉を多く口にする中年世代というのは良く見る姿であり、苦労しているのは自分だけでは無い事は理解はしている。他方、キラキラと輝く未来を信じて生きている中年世代も多数いる。その姿は別の世界の事にも感じる。何をすればどうなるという事が分からず、何が正解か分からず、働く事が正解なのかもしれないがそれが何になるのか分からない。目的が無く、故に引き篭もりにも似た、何もしないという生活が続いていた。
かといって、その何もしない日々に「暇」といった思いは無かった。学生時代であれば空いた時間を「暇だな」と思う事は多々あったが、そう言った感覚が今は無い。それは年のせいなのかもしれない。ただただ無駄に流れる時間に対して何も思わない。昔は何をするでもなくのんびりと暮らす高齢者を「何が楽しくて生きているんだろうか」などと思った事もあったが今なら分かる。意味があって生きている訳では無い。流れる時間に対して「暇」と言う認識が無いだけであり、気がつけば時間が過ぎていると言った感覚である。とはいえ、何をするでもないその生活を支えるにも金はいる。年金を貰うような年齢でも無く、働いて稼ぐ必要がある。生活保護受ける状況でもない。かといって働いて生きながらえる気力も無い。
「なるほど、確かにそうですね。人手不足なんていっても『安く使えて文句も言わずに言う事を聞く丈夫な人間』が足りないというだけですからね。それも『不要になったら即切れる』という契約が望ましいって感じでね。時代にあったキャリアやスキルを持っている。若しくは、それらを常に追い求めるような向上心だったり、野心と呼ばれる物が無い人達にとっては生き辛いって気がしますね。これからはより一層機械化が進むでしょうから、人の価値その物が下がっていくのではないかと、日本も世界もそんな国ばかりになっていくのではないかと、若輩ながらも愚考しています」
九時堂は眉間にしわを寄せながら、時代が悪い、社会が悪い、世界が悪いとでも言いたげに、畑村の考えを後押しするように言った。
「まあ、今、私は実家住まいなので、少ない賃金で働いたとしても、生きていく事だけを目的とすれば、それなりには出来る気がしなくも無いのですが……」
「なるほど、ご実家にお住まいですか。実家暮らしというのは大きいですね。1人暮らしの場合、収入源が途絶えると一気に首が絞まり始める事は想像するに容易いですからね」
「ええ、ですよね。既に父は鬼籍に入っていますし、いずれ母も亡くなるでしょうから、そうすればそれなりの賃金を得ないと生きてはゆけないでしょうし……」
「確かに。電気、水道といったインフラは勿論ですけど、実家とは言え、固定資産税やら何やらと、支払う物は多いでしょうね」
「まあ、実家と言っても、築50年以上は経過している小さい平屋建ての公営の家なので、家賃と電気水道といった物だけですけどね……まあ、食費を含む雑費もありますが……」
「なるほど。公営ならば家賃も抑えられはしますが、電気水道、食費等も馬鹿になりませんね」
「ええ、ですよね……。そんな不安……まあ、不安と言うのは適切では無いですね……。まあ、そういった当たり前の事に対してすらも不安に思うという状況でして、そんな不安を抱えてまで、この先も生きる意味が見いだせないんですよね。言い方はおかしいですが、今なら退職金も残っていますし、自分が動けるうちに終わらせたいというか……。死に方や、死に場所が選べる状況の内にと言いますかね。本当の無一文になる前に終わらせたいと言いますか……。まあ、こんな事を言ってると『子供じゃないんだから』とか『自立しろよ』『甘ったれんな』『人生をなめてる』とか言われるのは分かってはいるんですけどね……」
「まあ、そう言われる事もあるでしょうね。私からすれば、甘いというよりは実家暮らしが羨ましいなと思うだけですけどね。まあ、他人の意見なんて放って置けば良いんですよ。人の人生や決断に口を出すなって事でね。甘かろうが何だろうが、伊佐末さんの人生なんですから」
「ははは。なるほど……」
「そうは思いませんか? 自殺だってその人が決めた事なんですからね。人がとやかく言う事じゃないですよ。文句を言う人がいるなら、じゃあお前が責任もって養えよって言えばいいだけですよ」
「ははは。なかなか極端な意見ですね。まあ、それはともかくとして、そんな風に考える私がこの先も生きるってのは、単なる延命に過ぎないのではないかと……。『延命』というより『延生』ですかね……」
「なるほど。人生の先延ばしと言う事で延生ですか。それはそれで正しい言葉かもしれませんね」
「まあ、恥ずかしい話ですが、正直、生きる事が面倒になった……が、正解ですかね……」
「別に恥ずかしい話でもないと思いますよ? 往々にして社会生活ってのは色々面倒ですしね。自分で仕事を探して自分で住処を探し生きていく。いっそここに住め、ここで働け、ここで食事を貰え、隣にいる人と結婚しろって全て命令されるほうが楽ですしね」
「社会主義的にって事ですか? ははは、それは極端ですね。しかし自分でも馬鹿だなとも思える考え方に対して理解してくれる人がいるとは思いませんでしたよ。まあ、そういう訳で終わりにしたいと思うのですが、どうすればいいかも分からず……そりゃ、独りで勝手に首でも括れよって話なのかもしれませんがね……。死にたいと思っても現実的にそれを相談する場所なんてありませんしね……。まあ、そんなこんなで、色々と探しているうちに、『スーサイドワーカー』という存在に辿り着いたという次第でして……」
死にたいという相談。伊佐末は何か後押ししてくれる現実的な存在が欲しかった。自分の考えを後押しし、行動を助けてくれる存在が欲しかった。本当ならば「自分を殺して欲しい」と言いたい。だがそれをそのまま口にする事は憚られた。そんな事を言うと「甘えるな」と、目の前にいる自分よりも若い男性に思われるのではないかと思い口にする事は出来なかった。今更ではあるが、そんな小さなプライドを保ち続けていた。
「そうですか。確かに、どうすれば良いのか分からなくなる時ってありますよね」
九時堂は伊佐松が自分の考えを肯定して欲しいのだろうと思った。自殺する事は正しいと言って欲しいのだろうと思った。積極的に後押しして欲しいのだろうと思った。
今までも伊佐末の様な人間が九時堂の元を訪ねて来る事は多かった。自分の考えを肯定してほしい、自殺を肯定して欲しい、その上で手を貸して欲しいという人間は多かった。伊佐末もその内の1人だろうと思った。本音としては「自分を殺して欲しい」とでも言いたいのだろうと、そういう多くの人間の1人なのだろうと思った。自殺というのは自己責任であるが、誰かに殺されるのであれば他者責任。自分で責任を取るという手法より、他者の手に委ねたいというのが本音なのだろうと思った。
「そういう訳で、あなたに頼ってみようと思ってはいるんですが……」
「ん? 何か懸念でも?」
「やはり、身勝手過ぎですかね……高齢の親を1人残して逝ってしまっていいのだろうかと……」
「ああ、そういう事ですか。そうですねぇ。確かに実家暮らしで親御さんと同居していると、そういう心配もありますよね」
九時堂は伊佐松の母親の年齢を聞いてはいなかったが、伊佐末が50歳近い年齢と推定すれば、その親は80歳近い年齢だろうと推測した。瞬間、ひょっとしたら伊佐末は、親を理由に自殺を止めて欲しいのかも知れないと言う事が、九時堂の頭を過った。
「そうなんですよね……。死ぬだけなら実際には簡単だとは思うんですが、実家で死ぬ訳には行かないとは思ってましてね。親からすれば自分の子供が、といっても既に中年といわれる年齢ですけど、その子供が家で死んでいる、それも自殺している姿なんて、やはり見せられないなっていうか……その後の親の世間体もありますし……」
「なるほど。では伊佐末さんは、出来る限り親御さんにショックを与えない様に、負担を掛けない様に、痛みや苦しみも無く、この世から消えたい、というのが希望と言う事でいいですか?」
親を理由に自殺を止めて欲しいのかも知れないと九時堂の頭を過ったものの、九時堂は止めようとはしなかった。
そもそも自殺そのものは難しい訳では無いというのが九時堂の一貫した考えでもある。余程の拘束状況に無く、社会への迷惑、家族親族友人知人に対する後ろ髪をひかれる思い等、それらに対する一切を無視すれば難しい事では無く、勢いさえあればすぐにでも、誰にでも可能な事であり、最初で最後の1歩を踏み出す勇気さえあれば簡単な事と思っている。そしてそういった後ろ髪を引く何かが存在する場合には誰かの後押しが必要となる。それを後押しする事、手助けする事が九時堂の活動の趣旨でもある。故に自殺を止めるのではなく、自殺のショックを和らげる方法を提示しさえすれば何の憂いも無く自殺は出来るだろと、九時堂は伊佐末の背中を押すかのように提案する。
「まあ……そうですね……。ショックを与えないようにという、それこそが最後の親孝行っていうか……。まあ、自殺する時点で、親不幸なんでしょうけどね……」
「まあ、それでも、伊佐末さんの人生を自分で決めただけ、と言う事で納得頂く事を願うばかりでしょうね」
九時堂は言葉を選びながら、親の事は無視しろと、諭すように言った。
「そうですね、そういう事になりますかね。自分みたいな子供がいた事、それが不運、不幸だという事で、納得してくださいと……」
九時堂の言葉が効いたのか、伊佐末は自殺へと前向きになったようだった。
「それが最善かと存じます。では細かい事は後日メールで伝えるとして、その前に概要だけお話して置きたいのですが、伊佐末さんの退職金はまだ残ってますか?」
「退職金ですか? まあ、まだそれなりには残ってますね」
「では、そのお金でとりあえず引っ越しして頂く感じですかね」
「引っ越し? どこにですか?」
「まだ何処とは決まってません。それをこれから探す事になりますが、それについては私の方で探しますよ。勿論、引っ越すのは、伊佐末さん一人だけですよ? で、引っ越しした先で半年間位で結構ですので働いて下さい。賃金が高い安いは無視して、アルバイトとかで結構です。とにかく、何でもいいから取りあえず仕事に就いて下さい。あ、勿論、住民票も移して下さいね」
「仕事をしろって事ですか? それじゃ――――」
「勘違いなさらぬように。それも、あなたの希望に沿う為に考えた、プロセスの一環です」
「プロセス……ですか?」
「ええ。引っ越して、仕事して、一旦自立したと見せかける事で、親御さんも安心すると思います。そして、半年間後に自殺を決行する。親御さんも、半年も離れていれば、多少ではありますけども悲しみは少なくなる、という塩梅です。まあ半年間ってのは一応、最低期間と言う事ですから。離れて暮らす期間が長ければ長い程、親御さんの中の『息子が死んでしまった』という感覚は薄れ、何所かで今も生きているという錯覚を覚えやすいと思います」
「そういう事ですか……」
「ええ。毎日一緒に生活していた人が亡くなるより、半年間とはいえども、離れて暮らしていた人が亡くなるというのは、心情的に違いますからね。まあ、多少ですけどね。それに、既に家を出ていたあなたが亡くなったという事で有れば、親御さんの世間体にも影響は少ないと思いますよ?」
「なるほど……そう言う事なら……」
「それと、とりあえず引っ越した先で働き始めて貰いますが、万が一の話、働いている内に気が変わって、これからも生き続けようと思ったのなら、そのまま生き続ければいいと言う事も覚えておいて下さい。まあ、万が一の話です」
「はあ……」
「あくまでも万が一の話ですよ。まあ、最後の御勤めと思って、気楽に働いてみてください」
「はあ……分かりました……」
「といっても、引っ越し先で自殺するって事になると、後始末が大変ですからね。場合によっては親御さんに矛先が行ってしまいます」
「ですよね。それで、どうすれば?」
「はい。転居し、仕事を始める。そして4カ月後位にアパートを引き払う手続き、つまり、そこから2カ月後に退去する旨を不動産屋に連絡してください。そして仕事は半年後に辞めてください。手持ちのお金と稼いだお金で、家財道具、というより部屋の物は全て廃棄してください。そしたら自身の身1つで去る準備ができたという事です。もしも半年間以上、生きるつもりであるならば、それに応じて退去の通知を遅らせれば良いと思います」
「ああ、なるほど……」
「その後は、どこでどういう逝き方がいいかという希望があれば、それも私の方で提案させて頂きます」
「わかりました。そうですね……先程も言いましたけど、苦しいとか、痛いのとかは、避けたいですね。それと場所については……まあ、静かな場所って位ですかね……」
「了解致しました。まあ、静かな場所については結構ストックがあるので大丈夫です。とはいえ、出来れば半年後位に見つかる場所が良いから、もしかしたらストックしている中には無いかも可能性もあるので、その場合にちょっと探すのに時間はかかるかもしれませんが、まあ問題ないでしょう」
「半年後に見つかる? それって私の遺体の事ですよね? 見つからない方が良いのかなとも思いましたが、見つかるようにって事ですか?」
「ええ、そうです。伊佐末さんは引っ越し先を退去した後、お亡くなりになる予定ですが、連絡が取れない事を不審に思う親御さんは、きっと行方不明届を出すと思います。人は行方不明届が出されてから7年後、死亡宣告がなされます。そういう手はずでもいいですけど、それはそれで、7年もの長い間、親御さんの心労が増すのは不本意ではないですか?」
「まあ、そう言われると……」
「そこで、伊佐末さんの遺体が見つかるようにする。かといって、自死直後であると、腐敗やら何やらで、直視に耐えられない状況が推察できます。しかし半年も経てば、ほぼ白骨化しているでしょうから、それなら親御さんも直視出来るでしょうし、ちゃんと死亡届も出せるでしょうし、一番負担の少ない方法だと思われます」
「なるほど……」
「という具合ですが、その方針でのプラン作成で宜しいですか?」
九時堂の提案を聞いて、伊佐末は俯きながら思案する。そしてゆっくりと顔を上げ、「はい。その方針で宜しくお願い致します」と、座った姿勢のままでそう言って、深々と頭を下げた。
「はい、分かりました。では伊佐末さんの場合、転居先等を探す必要もあるので、プラン作成迄2週間程度お待ちください。出来あがり次第、細かい内容含め、メールでご連絡いたします」
「あ、はい。分かりました。でも2週間程度で出来る物ですか? そう都合よく半年後に私の遺体が見つかるような場所だったり、仕事がありそうなアパートなんて見つかるものなんですか?」
「はい。慣れてますのでね。まあ、遺体発見についてはキッチリ半年後に見つかるというより、すぐには見つからないといった程度ですけどね。そう言った場所を含め、日夜探してストックしてありますので何箇所か候補地があるんですよ。どちらかといえば、仕事があるかどうかの方が難しいですね。まあ、伊佐末さんの場合には退職金がまだ残っているという事なので、ほんとに僅かな給料でも貰えれば良いという程度なので、比較的楽だとは思いますが」
相変わらず笑顔の九時堂と、その笑顔に釣られるように苦笑いをする伊佐末。その後、2人は短い雑談を交わした。
「おっと、失礼。伊佐末さん、私、もうすぐ次の方と会わなくてはならないので、他に何か質問等あれば伺いますよ?」
「あ、いえ、大丈夫です。しかし、次の方って私と同じく志願者って事ですか? 1日で何人も会われるんですか?」
「そうですね、意外と需要があるんですよね。私も今日は休みですしね。今日は3人会う予定で、伊佐末さんで2人目です」
「需要……ですか。というか、私で2人目ですか……。しかし休日なのに、申し訳ありませんね……」
「いえいえ、私の意志でやっているので気になさらずに」
「しかし私が言うのもなんですが、やはり死にたいという人は、いるもんなんですね……」
「ははは。そうですね。故に、私みたいな人間が現われるんでしょうね」
「……しかし」
「はい?」
「もうすぐ50歳の私が仕事を理由に、高齢の親を残して家を出るっていうのは、世間からすれば、酷い人間、ろくでなしって感じに映るんでしょうね……」
「ああ、そういう事ですか。でもそれを気にしたら、ずっとこのままですよ? いいんですか?」
九時堂は心の中で舌打ちをした。伊佐末の背中を押すよう細心の注意を払いながら話をした。だが伊佐末の心が揺れている。親を理由に自殺を思い留まろうとしている。最後の一押しとして何をどう言えばいいのだろうか。
伊佐末は死にたいと思うと同時に親の事をしきりに心配している。であれば、その親の事を中心に後押しすべきだろうかと、九時堂は頭の中で後押しする言葉を巡らし紡いでゆく。
「いや……そういう訳では……。でも、ちゃんと話した方が良いのかな、なんて……」
「ちゃんと話す、ですか……。しかし伊佐末さん。万が一にも、伊佐末さんの真意を親御さんに話したら、最悪の結果もありえると認識しておられますか?」
「最悪の結果……ですか?」
「ええ。まあ、私は伊佐末さんの親御さんがどのような方か存じませんけど、自分の子供から『死にたい』なんて告げられたとしたら、どうなると思います?」
「まあ、怒られるのではないでしょうか……」
「怒るだけならいいですよ。でも、伊佐末さんは既に50歳ですよね? だとすれば、親御さんは別の事を考えるかも知れない」
「別の事? 警察に通報とかですか?」
「いえいえ、全然違いますよ。伊佐末さんと一緒に無理心中ですよ」
「無理心中? いや、いくらなんでも――――」
「いえ、伊佐末さんが20代とかで有れば、『いいから働けっ!』なんて怒鳴りつけて終わりかもしれませんが、50代であり、且つ親御さんも80代くらいですよね? もしかしたら『勝手に死ねっ!』なんて言ってくれるかもしれませんが、『それならば一緒に死んであげよう』なんて思う事は充分に考えられますよ? 良いんですか?」
「そんな、流石にそれは極端な――――」
「いえいえ、充分にありえますよ? それでも良いんですか?」
「いえ、それは流石に……」
「ですよね? 仕事が決まったから家を出る。そう親御さんに伝えるのが、最後の親孝行とも言えるのではありませんか? そして誰にも気付かれない様に静かにこの世を去る。これがベターな行動であるとは思いませんか?」
伊佐末は俯き黙りこんだ。九時堂はそんな伊佐末をジッと黙って見ていた。
「まあ……そうなのかもしれませんね……」と、伊佐末は俯いたままにそう言って、「伊佐末さんの希望を慮るにそれがベターであると、私は思いますよ」と、九時堂は俯く伊佐末をまっすぐに見ながら笑顔で答えた。
「わかりました。では、あなたのおっしゃる方法でお願いします」
伊佐末は顔を上げそう言うと、改めて頭を下げた。
「はい。承りました」
九時堂のその言葉が合図だったかのように、2人はソファから立ち上がると、伊佐末は九時堂に向かって深々と頭を下げながら礼を言い、九時堂も軽く頭を下げた。そして九時堂1人を部屋に残し、伊佐末は部屋から静かに立ち去って行った。
その10分後、同じカラオケ店での同じ部屋。九時堂はソファに深く越し掛け背を預け、天井を仰ぐようにしながら目を瞑っていた。もう少しすれば次の面談者が来るが、それまでの少しの時間だけでも目を瞑り休んでおこうとしていた。
九時堂は畑村と伊佐末2人との面談に疲れを覚えていた。平日の昼間は本業のサラリーマンとして活動し、それ以外の時間を「スーサイドワーカー」という活動にほぼ費やしている。自分の意思で始めた事であるので一切の文句は無いが、家ではずっとパソコンに向かって各種の調査をするという毎日を送っている。気付けば夜が明けていたなんて事も度々あり、時折ではあるが一切休みが無いような感覚を覚える。今迄も同じ日に数人との面談をする事はあり、その都度疲れる事もままある。だが自分が「自殺プラン」を記したメールを送信後、その送信相手からは「ありがとう」という返信をほぼ例外無く貰う。その一言に充実感を覚える。仕事では得られない満足感を得る。故に疲れたとしてもやめるつもりはない。今はほんの少しだけ目を瞑りたいだけ。
すると九時堂1人が居る部屋のドアをノックする音がした。直後、ゆっくりと少しだけ開けられたドアの隙間から、1人の女性がチラリと顔を覗かせた。
「あの……」
女性はおずおずとそう言って部屋の中を一瞥すると、ソファに座る九時堂に視線を合わせた。九時堂は即座に目を開くとドアの方向へと視線を送った。すると女性と九時堂の目が合った。
九時堂はソファから即座に立ち上がり、軽い笑みを浮べると「どうぞ、お入りください」と女性に向かって言い、女性は尚もドアから覗き込むようにしたまま「失礼ですが……スーサイドワーカーさん?」と、九時堂に向かって質問した。
「はい、そうです。私の事ですよ」
九時堂は笑みを浮かべながら答えた。その言葉を聞いた女性は少しホッとしたような顔を見せ、ようやくドアを開けると部屋の中へと入り、丁寧にドアを閉めた。
「初めまして。私、荒居陽子と申します」
グレーのジャケットを羽織り、ベージュ色のスカートに茶色いパンプス。中年太りといった体形の荒居は、大きめのボストンバックを両手を前に携えたまま、頭を下げ名乗った。一見すると既に還暦が近いと思しき荒居のその顔は、九時堂には酷く疲れているように見えた。
「お待ちしてました。さあ、どうぞ、お座りください」
九時堂は自分の向いのソファを手で指し示しながら言った。荒居は九時堂の言に従い、ボストンバックをソファ横の床に置き、おもむろにソファへと座った。それを見届けた九時堂もゆっくりソファへと浅く腰掛けた。
九時堂は座るや否や、「早速ですが、どのような最後を御希望でしょうか?」と、荒居の顔をまっすぐに見ながら聞いた。
「あ、そ、そうですね、えっと、あの、私ですね、数か月前に娘を亡くしましてね。まだ17歳っていう、まだまだこれからって年齢なんですが……」
荒居は何の前置きも無く言われた九時堂からの質問に動揺したのか、九時堂の質問の答えとは関係の無い話を始めた。
九時堂はその事を指摘せずに黙って聞きながら、荒居の実年齢が見た目よりも相当若そうだなと考えていた。数ヶ月前の時点で17歳の娘が居たと言う事は、実際には40歳前後のようであると推測できた。がやはり、目立つ白髪に加え、皮膚の弛みや皺と言った見た目からも老けている様に感じた。
白髪混じりの短めの髪は艶を失っており、ところどころ跳ねている。肌についても薄暗い照明の部屋であるにも拘わらず、荒れているのが九時堂の目にも明らかであった。それら全てが年齢不相応に見える要因でもあった。
「それ以来、主人とは顔を合わせれば喧嘩するようになって結局離婚しました。別にどちらが悪いとかそういう事でなく、主人とは一緒に居るいるのに、そこに居るはずの娘が居ないという事が不自然で……それが理由だったのかなあと」
背中を丸くしてソファに浅く腰掛ける荒居は、心ここにあらずといった表情でテーブルを見つめていた。
「なるほど。お子さんを亡くされたのですか。それはさぞ無念な事ですね」
九時堂は眉間にしわを寄せながら荒居を見つめていた。別に荒居に同情したからそんな表情をしていた訳ではない。単に話に合わせて表情を作った。それだけの事であった。
荒居の言っている離婚の理由はよく理解出来なかったものの、自殺を望む理由としては子供が死んだ事であると単純に理解した。荒居と同じ様な理由で九時堂の元を訪れる人は過去にも居た。荒居もそんな内の1人だろうと思いながら九時堂は見つめていた。九時堂にとって個々人の「自殺の理由」などという物はどうでもいい事である。
「ええ……たった1つの生甲斐と思っていた子供が居なくなった事で……もう、なんだか、生きてるのが、馬鹿らしいっていうんですかね……」
「なるほど、そうかもしれませんね。このまま年齢を重ねれば、自ずと物忘れがあったりもするでしょう。でも、お子さんの事を忘れる訳には行きませんからね。今後、ふと気付けば、子供の事を忘れてたなんて事もあるかもしれません。亡くなったとはいえ、大事な我が子の事を忘れたなんて事があったりしたら、それはもう悲しい事でしょうね。あんなに大切だと思っていた我が子の事を一瞬たりとも忘れた自分が許せない、なんてね」
「そうですよね。なので、いっその事、もう終わりにしようかと……かといって、人様に迷惑をかけるのも、なんですしね……」
「そうですか。それで私を頼ってきた下さったのですね。そうですか。私を頼ってくれて非常に嬉しく思います」
「嬉しい? そうなんですか?」
「はい、人の最後の支援をするのが、私の生き甲斐です。故に無償でやっています。その人の最後をどのように支援するか。まあ、出来る事は限られますし、私がお金を出して何かをして差し上げる事は出来ませんが、出来る事をする。それが私の務めだと思っております」
「変わってらっしゃいますね……あ、すいません、私がお願いする立場なのに……」
「いえいえ、構いませんよ。それで、どのような最後を希望なさいますか?」
「そうですねぇ……まあ、死ぬ時の状況なんて正直どうでもいいとは思いますが、出来れば、あまり人目に付かない、かといって行くのも大変だと困りますので、公共交通機関で行ける場所。景色はどうでもいいので、1人静かに綺麗に死にたい、といった所ですかねぇ」
荒居は天井を見上げつつ、おっとりとした口調で言った。どことなく上の空と、九時堂は荒居の姿にそんな印象を受けると共に「荒居は本当に死にたいのだろうか」という疑問が一瞬頭を過った。
「なるほど。一応お聞きしますが、社会に対して復讐なんて気持ちはあったりしますか?」
「社会に復讐? ですか?」
「ええ。そういった事をご希望でしたら、自分の壮絶な最後を、社会に対して大々的に見せつけるという手法もありますよ」
「ああ、そういう事ですか。いえいえ、社会を恨むとか、そういうのは一切ありませんから」
「そうですか。では、痛み無く、苦しく無く、独り静かにという御希望で宜しいですかね」
「はい、お手数ですが、そういった方向でお願いします。それと私には既に帰る家はありません。今は安い宿泊施設をこの鞄1つのみで泊まり歩いている状態です。他にはもう、何も持っていませんのでね。それに、あと数週間もすれば、お金も尽きてしまう状況なので……」
先程九時堂は「本当は自殺する気が無いのでは」と一瞬勘ぐった事もあったが、子供を失ったという話に加え、家も金も無いという事であれば、自殺したいという言葉は本当なのだろうと。同時にこのタイプであればすぐに話は終わりそうだなと思った。経済問題で悩んでいたり何かに恨みがあるような場合には話を聞くのにもプランを作成するにも時間はかかる。時間がかかる事それ自体は構わないが、すぐに結果が出る様な話であればそれはそれで良い事であるなと。
「なるほど。では、早急にご希望に沿った、最善の最後を迎える方法や場所について作成し、後日メールにてお送りしますね」
「はい、よろしくお願いいたします………ところで……」
「はい、何でしょう?」
「『スーサイドプランナー』って言う名前も聞いた事あるんですが、それもあなたの事ですか?」
九時堂は「またその名前か」と、心の中で舌打ちした。
「いいえ、違います。その人とは会った事もありません。といっても、存在自体が不明の噂話の可能性はありますがね。まあ、話を聞く限りでは、その人は惑わす傾向にあるようです」
「惑わす……?」
「ええ。相談に来た相手に対して真摯に向き合わずに、なあなあで人の話を聞くと言いますか」
「はあ……そうなんですか……」
「ええ。私の方でも、その人を探そうかなと思ってはいるんですけどね」
「はあ……そうですか……」
そう言って荒居は俯いた。それほど興味があって『スーサイドプランナー』についての質問をした訳でなかったようで、返事もおざなりだなと九時堂は感じた。そして数秒の沈黙の後、荒居がおもむろに顔を上げた。
「ところで、1つお聞きしたのですが」
「何でしょう?」
「あなたは自殺を止めるという事はしないんですか?」
「しませんよ。そもそも私の所へ来た人は、自殺が目的ですからね。あなたもそうでしょ?」
九時堂はさも当然とでも言いたげに、一切躊躇せずに答えた。
「まあ……それはそうなんですが……」
「自殺を止めるのは私の役割ではありません。私が八百屋さんとして、お客が来たのに、野菜を買うなって言いませんよね?」
「はあ……そういう事ですか」
「ええ。そういう事です」
「因みにですが、あなたの元には私みたいな中年の人以外、若い人とかも来たりするんですか?」
「来ますよ。まあ、圧倒的に4,50代の方が多いですけど、10代や20代の人も男女問わずに来ますよ。全体的には女性の方が多い気もしますねぇ。多くの人は経済的事情で自殺をするようですが、男だとホームレスって選択肢があるけど、女性の場合にはその選択肢は取りづらいからなのかもしれませんねぇ」
「そうなんですか。でも10代や20代とか、そんなに若くてもあっさりと自殺を決断してしまうんですか?」
「そうですね。割と、若い人の方が決断が早い気もしますねぇ。逆に年齢を重ねてきた人達の方が、後々の心配をするような気がしますね」
「若い人が来ても、あなたは止めないんですか?」
「止めませんよ。先程も言いましたが、私の所に来た段階で、そういう覚悟をお持ちの方々ばかりですからね。そもそも私なんかに連絡を取る時点で、相当追い詰められているといえます。自分でもかなりアングラな存在だと自負している私の所にね」
「覚悟ですか……。自殺する事に対して、覚悟という言葉が合っているのかは疑問ですけどね……。因みに若い子だと、どんな子が今までに来たんですか?」
「う~ん。あんまり他人の話はしづらいですねぇ。故人についての話ですしね」
「ああ、そうですね……。私も迂闊でした。失礼しました」
「いえいえ」
「しかし、どうなのかしらねぇ……。20代はともかくとして、10代の子供にそんな覚悟って言える程の物があるんですかね?」
「あるのではないですか? 実際、ニュースなんかでは理由はどうあれ、10代で自殺する子はいますしね。それなりに覚悟はあるんじゃないですかね」
「覚悟と言うより、単に衝動的、その場の勢いって感じがしなくもないのですが……。それに子供の場合……まあ、皆さんに言える事ですけど、その理由というのが大事な気がしますけどねぇ? 受験の失敗とか、恋愛の問題や、いじめだとかが理由ではないんですか? それが自殺する理由だとしたら、止められそうな気もしますけどね」
「恋愛が問題だとすれば、正に本人の意思と言う事で良いんじゃないですか? 惚れた腫れたって言う感情の問題ですし、そこに何かを言うつもりは一切無いですね。受験が理由だとしたら、往々にして家庭に問題があるのでしょう。
いじめが理由だとしたら、その子の親や周囲の大人は、全く信頼されていないという事ではないんですかね? だから相談も出来ずに死を選ぶ。もしかしたら、相談はしたのだけれども、何の解決策も見いだせず、孤立し、居場所も無いと錯覚し、結果、自殺を選択したのかもしれませんがね。実際、相談された所で有効な提案をするのは難しいでしょうしね。まあ、法令にも問題があるのかもしれませんが、私を含め、相談をされたとしても『頑張れ』とかの感情論、『もう少し様子を見よう』とか曖昧な言葉でその場をやり過ごし、殆どの場合、相談された事に対して、本気で受け止めない人も多いのでは? そもそも、コミュニケーションが苦手な子もいるでしょうし、相談そのものにハードルの高さを感じている子も多いのではないでしょうか? 私の所に来た子でも、あまり話をせずに、ただただ早く死にたいという子もいましたしね。自分の意思で住居を選択するとか、学校を選択するとか、生き方を選択すると言う自由が無い立場の子供の社会と言うのは、ある意味、特殊な社会ですからね。その社会に対して、大人がなんとかしてあげられる前提もおかしい気もするというか、少なくとも私には有効な方法は思いつきませんね」
「なるほど……。親や周囲の大人も悪い、と言う事ですか……」
「大人が悪いと言うか、入り込めない子供の社会という物が存在すると思います。恋愛だの受験だのは、価値観の問題であり、自己責任です。他者責任とも言えるいじめに対しては、どうしても何とかしたいと言うなら、監視カメラを教室は勿論、ありとあらゆる場所に設置して、厳罰前提の勧善懲悪を徹底すれば良いんじゃないですか? まあ、仮にそれをやろうとすると、プライバシーの侵害だの、それでは自立心が育たないだの、子供が成長しないだのと、結局は『やり過ぎだ』とか言う人が現れて、無理でしょうけどね」
「社会が適応出来ない、という事ですか? まあ、一理あるのかも知れませんが……。だとしても、その子が最後に頼ったあなたが、代わりに相談に乗るという事にはならないのですか?」
「なりませんね。私に相談されても困りますしね。先程も言いましたが、私には有効な方法なんて思いつきませんよ。私はあくまで自殺のお手伝いをするだけですからね」
荒居には、そう言い放った九時堂の顔が、何かを嘲笑うかの様に見えた。
「へ~。そうなんですか」
荒居のその言葉に、九時堂は何か棘があるように感じた。荒居の視線を含め、自分に対して瞬間的に憎悪が込められた様に感じた。それは10代だとしても自殺を容認する自分を卑下しているようにも受け取れた。もしかしたら単なる嫌味だったのかもしれない。
かといって、その事について議論する気などは毛頭ない。自殺志願者のサポートをしているに過ぎない。それも自発的且つ、無償でのサポートである。あくまでも決断をするのは自分では無く、相手が決断する。そこには年齢、性別、理由等、考慮すべき事は何も無いし興味も無い。相手が望む形の死を支援する。ただただそれだけ。
「ええ、そうなんですよ」
九時堂は、荒居の嫌味とも取れる言葉に対して冷静に笑顔で答えた。九時堂からすれば、卑下された所でどうでもいい事である。どうせ目の前の荒居は、いずれこの世からいなくなる。そう考えればそんな荒居の嫌味等、微笑ましい程に可愛いものであった。
「では後日、荒居さん用のプランを記載したメールを送付しますが、他に何か聞きたい事はありますか?」
「いえ、特にありませんが、そのメールはいつ頃送付頂けるのでしょうか?」
「そうですねぇ。荒居さんの場合、既にご自宅も処分なさって、身1つという身軽な状態と言う事ですので、数日中には送付出来ると思います」
「そんなに早いんですか? まあ、早いに越した事はありませんけど」
「ええ。最後の場所と方法だけですからね」
「なるほど……あ、じゃあ、そろそろ、私はこの辺で」
荒居はそう言うと、おもむろにソファから立ち上がった。それに合わせ九時堂もソファから立ち上がった。
荒居は床に置かれたボストンバックを手に取ると、両手を前に「では、宜しくお願いします」と、九時堂に向かって頭を深々と下げつつ言った。九時堂も「お任せ下さい」と言いながら、軽く頭を下げた。
そして荒居は九時堂1人を部屋に残し、部屋から静かに立ち去って行った。
荒居が部屋を去った後、1人部屋に残った九時堂はソファにごろりと仰向けに寝転んだ。
今日は土曜日。既に19時を過ぎている。九時堂は本業が休みとあって、ほぼ丸1日を使って3人もの自殺志願者と面談をした事で疲れを覚えていた。とはいっても充実感があった。人の役に立っているという充実感。
本業のサラリーマンや、美味しい食事や旅行等では得られなかった比類なき充実感。今の自分はこの充実感の為に生きていると言っても過言ではないと思いつつ瞼を閉じ、ほんの少し頭を休ませていた。
九時堂は現在40歳。未婚であり、一人暮らしのサラリーマン。仕事はそれなりに頑張ってはいる。時代を考えればそれなりの給料も貰っている。会社に於いての待遇等の不満なども無い。
とはいえ、自分が居なくても代わりは幾らでもいる。というより、自分の勤めている会社ですら社会には幾らでも代わりが存在する。何がきっかけという訳ではないが、ふとそんな考えが頭に浮かび、その瞬間から生きる事が色褪せた。虚しく思えた。全てが虚構に見え始めた。
何か自分に出来る事、自分だけに出来る事。褒めてもらいたいという事で無く、自己満足で良いから自分だけの何かが欲しかった。そうは言っても起業しようと思うほどの何かがある訳でもない。何も思いつかない。脱サラして起業する人や、学生時代から起業する人に敬意を覚える。羨ましく思う。そんな人達に憧れた事もある。
電車での通勤中、時折ホームから飛び降りる人がいる事で電車が止まる。そのおかげで会社に遅刻する。当時は迷惑な話だと舌打ちしていた。
だが漠然と、それは困っている人達なのでは無いかという発想に至った。その人達からすれば、社会に迷惑をかけてでもしたい事、その手段がホームから投身自殺なのではないかと。
それを支援するという事は出来ないだろうか。社会に迷惑をかけない様に誘導出来ないだろうか。その手段を提供する事が出来ないだろうか。
とはいっても、そんな事をすれば「自殺ほう助」に当たるだろう事は容易く推察出来る。支援のつもりであっても、それで自分が逮捕されるのでは割に合わない。
故に、あくまでもアングラで活動をする。違法な手段で「飛ばし携帯」と呼ばれる自分以外の誰かの名義の携帯電話を入手し活動を始めた。
初めて手助けしたのは見知らぬ中年女性。その女性の自殺を手伝った。その人の望む死を叶える為に、ネットを駆使して死ぬ場所や安らかに死ねる方法等を調べ上げ、それらの情報を提供した。
その女性からは「ありがとう」と言われた。
本業であるサラリーマンとして働いている時、何気なく「ありがとうございました」と言う事は多々ある。逆もまた然りで、言われる事もある。だが心からの「ありがとう」を言う事はそうそう無い。言われる時に於いても、心からは言う事は少ないだろうと思っている。あくまでも挨拶や礼儀の一環として、社交辞令的に使う事が殆どであるという認識である。そんな中で、その中年女性から言われた「ありがとう」という言葉が身に染みた。お互いに無償の関係と言う事もあり、その言葉が心からの言葉と思われた。何とも言われぬ充実感を覚えた。
それ以降、活動を活発化し、ネットで志願者を見つけては支援した。とはいっても本業に差し支えない程度で有る必要があるので、もっぱら土日等の休日に活動する。そしてその活動の際には偽名を使う。その名前は、ちょっとした洒落のつもりで「スーサイドワーカー」と名乗った。
その活動をしている内に、面談中、面談後と、気が変わる人もポツポツと現れ始めた。当初は「しょうがないか」と軽く思っていたものの、そんなにあっさりと気が変わる連中に、「折角自分の時間を割いてまで無償で手伝ってあげているのに」と、少なからず理不尽とも言える苛立ちを覚え始めた。
かといって、無理やり自殺を実行させようとするのでは本末転倒というより警察に行かれてしまう可能性もある。故に、あくまでも自然に、違和感を生じさせない様に話し方を考え、相手の言葉1つ1つに細心の注意を払いつつ、自殺へと誘導するよう心がけた。それが奏功して気が変わる人達は減って行った。ゼロになる事は無かったが許容出来る人数だった。
今はそれが九時堂の生き甲斐となっている。自殺したいと願う人を手助けしている。充実感に満たされている。
そんな時に九時堂が耳にした「スーサイドプランナー」という存在。九時堂以外にも、九時堂同様の活動をしている人間が存在する事に九時堂は苛立った。苛立つ事そのものがおかしい話である事は九時堂も頭では分かっている。そもそも真似したかどうか真偽不明な話である事も承知している。だが今の九時堂にとっての唯一の生甲斐を真似されたという思いはそうそう消える事は無かった。
かといって、その人物を探し出し、活動を辞めろというのは筋違いである事も承知していた。あくまでも勝手に始めたアングラな活動であり、派手に活動出来る事でもなく、おいそれと動く事は出来ない。「スーサイドプランナー」と呼ばれる人物からすれば謂われなき事かもしれないが、九時堂からすれば自分の偽物、邪魔者という認識であった。
当然、九時堂はスーサイドプランナーが誰かという事も知らず、そしてその人物が既にこの世から居なくなっている事も知らなかった。本名が赤村英知という人物の事を全く知らず、いつかは会う事もあるだろう位に思っていた。
一休みした九時堂は目を開けた。既に午後8時を過ぎており、独り静かにカラオケ店の部屋にいる九時堂の耳には、隣室から微かに漏れ伝わる楽しげな歌声が聞こえてくる。仲間同士で楽しく歌っているであろうその光景を想像するに、何が楽しいのだろうと思う。それで何の満足を得られるのだろうと思う。
九時堂も20代の頃は、同僚らと会社帰りにカラオケを楽しんでいた事もあったが、30歳を過ぎた頃にはほぼ行かなくなっていた。ほんの一瞬のばか騒ぎの後に来る喪失感を忌避する意味でも行かなくなっていった。何か色々な事に冷め始めてもいた。
20代も半ばを過ぎると、同僚らの中には結婚する者もチラホラと出始めてきた。そういった中で、同僚らとの付き合いも徐々にではあるが変わっていった事も冷める要因の1つだったのかもしれない。
現在の九時堂には親しい女性はいない。過去には数人の女性と付き合う事はあったが全て短い付き合いで終わった。付き合い始めると、そういった付き合いが面倒に思えてきて何故かすぐに冷めてしまう。無理にでも結婚すれば充実感を得られるのだろうかと考えた事もあるが、結婚となるとそれなりに社会的体裁というのも発生するが故に簡単にやり直す事も出来ない。そう考えると、おいそれと行動に移す事は出来なかった。
結果、独りでいる事が多くなり、必然と考え事をする事が多くなる。そんな中で始めた自殺支援。既にそれなりの人数を支援してきたが、その行動には飽きる事無く、冷める事無く、どころか充実感を覚え、虚無感を無くさせてくれる唯一の活動であり生甲斐。
公に人には言えないが満たしてくれる、充実させてくれる。色褪せた日常を色鮮やかな日常に変えてくれる。そんな日々に満足していた。
九時堂は「さてと」と独り言を口にし、おもむろに体を起こすと、テーブルの上に置かれていたマイク等が入った水色の小さいプラスチックの籠を手に持ち、部屋を静かに出て行った。
店の受付付近では、家族連れや友人同士といったいくつかのグループが、退屈凌ぎの馬鹿話をしながら部屋の空き待ちをしていた。そんな中、九時堂1人が受付で精算をするという姿に、それらのグループの何人かは冷ややかな視線を送っていた。九時堂はそんな視線を無視しながら清算を終えると、1人カラオケ店を後にした。すでに外は真っ暗となっている。九時堂はその場所から数百メートルの駅方向へと歩き出し家路についた。
独りで住むワンルームマンションへと九時堂が帰宅後するやいなや、パソコンの前に座り電源を入れた。1分程待ってパソコンが立ち上がると、早速、一番楽な荒居の自殺プラン作りに着手した。荒居の場合には何の懸念も無く、単に場所と方法のみの提示である。方法についても何種類も案がある。場所についても候補地を日夜調査をしてストックしている。
荒居の要望としては、人気が少なく、かといって交通の便が悪すぎず、一人で行っても怪しまれない場所。そして人目に付きにくく静かな場所。その要望に対して最適な場所と方法を総合的に考え選択していく。
そして、時刻が午前零時を過ぎた頃、大まかに荒居用のプランを作成し終えた。以降については、明日の午前中に再度チェックしながら完成させ、正午を目処に荒居に送付する予定とし、その日は休む事とした。
◇
九時堂との面談を終えた畑村は自宅へと戻った。が、家には入らず、自宅を前に懐かしむかのように我が家を眺めていた。
豪邸とは言えないまでも庭付きの一戸建て。購入当時は綺麗だった壁や屋根は今では色あせ煤け、壁には何箇所か捲れてしまっている箇所も見受けられる。
木造2階建てのその家は家族4人が暮らすには十分過ぎる家。最初の子供が生まれたと同時に長いローンを組んで購入した大事な家。若くして新築で買ったその家は、明るい未来を想定しての身分不相応とも言える物でもあり、それなりの金額の支払いを求められた。更には子供2人に家のローンの支払いという楽とは言えない経済状況の中から、家の修繕費を捻出し大切に維持していた。そのお陰もあって、まだまだ住むには充分の家。
2人の子供は既に社会人となり家を出ている。
数年前までは家族4人で暮らした家。子供達が大きくなるにつれ、一緒に何かをして過ごすという事は皆無と言っていい程に無くなってはいたものの、家に帰れば子供達が居る、その家に帰ってくるという毎日が当たり前となっていた。
だがそれも子供達が家を出ていった事であっさりと覆され、その後は改めて妻と2人きりの生活となった。子供達2人が家を出て行った直後、子供達は単によそへと引っ越して行っただけにも拘わらず家の広さを感じた。家からは灯りが少なくなったと感じた。音が少なくなったと感じた。傍には妻が居たものの寂しいと感じた。子供が家を出て行っただけでこんなにも寂しさを感じるものなのかと、そんな自分に驚いた。
自身も若い時期に就職を機に実家を出た。その時には何とも思わなかった。働き出す際には家を出る、若しくは結婚した際には家を出る。漠然とそれが当り前の事だと思っていた。実家を出てこそ独立したと言えると根拠無く思っていた。
ただ単に自分が子供に依存していただけと言えなくも無いが、自分の子供達が家を出て行った事で味わったその寂しさを思うに、その時の自分の考えは間違っていたのではないだろうかとふと思う。両親からは同居して欲しい等と一言も言われた事は無いが、自分が家を出て行った後、両親も自分同様の寂しさを味わったのだろうかとふと思う。若い頃は、実家で暮らしている社会人に対し「それは独立していない社会人だ」と勝手に決め付けていた自分が懐かしくも恥ずかしい。
2人の子供達が出て行った数年後に会社を辞め、離婚し、妻は家を出ていった。
妻は家を手放す事態になっている事は知っている。礼儀としてそれを伝えた際、「それがどうしたの?」といった様子だった。物に対する感傷、というよりは未練だろうか。そういった「物」に対する未練は、女よりも男の方があると以前に耳にした事がある。女よりも男の方がロマンチストであるらしい。自分もそんな男の1人なんだなと思うと、ふと笑ってしまう。
いずれ自宅は競売に掛けられる事になる。可能な限り家財等も売却してローンの支払いに充てたがとても追いつかなかった。早々に家を売却していれば、最低でも差押えという憂き目に遭う事は無かったかも知れないがそれも後の祭り。そもそも大事な思い出の詰まった家をそう簡単に手放すという決断が出来なかった。妻であれば出来たのかも知れない。こういう事は女性の方が見切りが早い。妻は「ローンの残っている家など要らない。退職金の折半だけで良い」といって簡単に家を棄て、私を棄て出て行った。自分は男であるが故にセンチメンタルになり、思い出に縛られ、手放す事を躊躇し、結局は差し押さえという形で手放す事になりそうだ。とはいえ、子供達が成人し、社会人として独立した後で良かった。子供達が帰ってくる場所も守れず、何も残す事は出来なくなってしまったが、社会人になる前に差し押さえ等の経済問題が子供達に降りかからなくて良かった。それがせめてもの救いだろう。
家のローンの支払期限は来週であり、支払えなければ即差し押さえとなり数日中にも退去を命じられる。その後、競売にかけられる。畑村はただただ懐かしむかのように我が家を眺めていた。
ふと、玄関の傍に設置されている郵便ポストに畑村の目が向いた。ポストには郵便物が溢れ、そこから落ちたであろう何らかのチラシ数枚が地面に落ちていた。畑村は地面に落ちているチラシをおもむろに拾い上げ、郵便ポストに入れられている郵便物の束を手に取ると、独りで住むには大きい家の玄関ドアを開け、誰も居ない閑散とした家の中へと1人入って行った。
玄関から靴を脱いで上がってすぐの壁には、玄関と玄関からリビングへと繋がる廊下の照明スイッチが設置してある。畑村がそのスイッチをオンにすると即座に点灯した照明により、玄関と廊下が照らし出された。そこから見えるリビングのドアは開けっ放しで、リビングが暗く誰も居ない事が見て取れた。昔であれば玄関からでもリビングで談笑する元妻や子供達の声が聞こえていた。だが今は何も聞こえない。
畑村は人気のない廊下をリビングへと静かに向かう。そしてドアが開きっ放しの真っ暗なリビングルームに入ると、入口付近の壁際に設置してある照明スイッチに手を伸ばした。即座に照明が灯されたリビングルームは雑誌や脱ぎっ放しの畑村の洋服やらで雑然としていた。畑村は手に持っていた郵便物の束をリビングのテーブルの上へと放り投げたが、その殆どの郵便物はテーブルの上を滑るかの様にして床へと落ち、テーブルの上には一部の郵便物が乗っただけだった。畑村は零れ落ちた郵便物には目もくれず、うつ伏せに倒れ込むようにソファへと転がり目を閉じた。
スーサイドワーカーに会った事でじきに終える事が出来る。後少しで楽になれる。あと少し我慢すれば綺麗に終わる。
そう思うとどっと疲れが出た気がした。ふと畑村が目を開くと床に落ちた郵便物に視線が向いた。畑村の視線の先にはピザの宅配、粗大ゴミの回収のチラシに、水道、電気、ガス料金等の督促状を含む各種請求書。
水道に関しては自治体が運営しているという事もあり、督促状は来てはいるが即座に停止される事は無い。だがガスと電気に関しては翌週までに支払わなければ止められてしまう。とはいえそれを支払う余裕は既に無く、自動引き落としの口座には引き落とせる金額は残っていない。手持ちの現金も1万円にも満たない。そもそも家の退去期限が来週であるので畑村には払う気もない。それより何より、スーサイドワーカーに会った事でじきに終わりを告げる事になった。もう畑村が何をする必要も無くなった。その郵便物の束の中で一通、見慣れぬ葉書が混じっているのが畑村の目に留まった。
畑村はソファに寝そべったままおもむろに手を伸ばし、その見慣れぬ葉書を手に取った。疲れ果てた目で見るそれは何かの督促状に見えた。が、そうではなかった。宛先には畑村の名前。そしてその左横には太い赤字で『終末通知』と記載されていた。
翌朝午前8時、畑村は自宅最寄りの『終末ケアセンター』に来ていた。だが玄関はまだ開いていなかった。終末ケアセンターは1年中稼働してはいるが、午前9時から午後5時までと時間制限があった為、畑村は約1時間の間、玄関が開くのを今か今かと待っていた。
畑村は昨晩、興奮してあまり寝付けなかった。負い目を感じるような自殺と言う方法と取らずに済んだ事に興奮してしまい、中々寝付けなかった。それが自宅での最後の睡眠である可能性もあったが、喜びが勝り、そんな事はどうでも良くなっていた。
そしてようやく午前9時を過ぎ、何処からともなく現れた警備員の手により終末ケアセンター玄関の自動ドアの鍵が開けられると、畑村は意気揚揚と玄関の自動ドアを通り抜けた。
そして今、部屋に入った正面が広大な庭を望む全面透明ガラス、残り3面の入口扉を含む壁全面が曇りガラスという秘匿性も遮音性も感じない8畳程の広さの打合せスペースの中、椅子に座る畑村の正面には、ステンレスで出来た長方形の大きめのテーブルを挟み、終末ケアセンターの職員であるカウンセラーの井上正継が座っていた。
「以上が、当施設で行う安楽死と終末ワインに関する説明となりますが、ご質問はありますか?」
「いえ、特にありません」
笑顔でハキハキと答える畑村は、ギラギラと大きく見開いた目が充血していた事から睡眠不足を伺わせた。それより何より、井上は畑村が喜んでいるかのような印象を受けた。
「あの……失礼ですが、今回の件、悲しくはないのですか?」
「え? 何故ですか?」
「あ、いえ、申し訳ありません。終末通知が届いたと言う事は、近々にこの世を去ると言う事が確定したと言う事です。失礼を承知で申し上げるなら、畑村様に於かれましては笑顔……というより喜んでいるように見えましたので……」
「ああ、そう事ですか。ははは、そうですね。喜んでいるといえば、喜んでいます」
「もうすぐ、お亡くなりになる事をですか?」
「ええ。まあ、恥を忍んで申し上げますと、私は既に経済的に破綻しておりましてね。自宅も来週には明け渡さなくてはならない状況でしてね」
「ああ、そうだったんですか。いや、失礼いたしました」
「いえいえ、いいんですよ。終末通知なんて貰って喜んでいるような私が変だと思われたのでしょ? それは正しい反応だと思いますので」
「そうでしたか。まあ、終末通知を貰ったと言う事なので、家の明け渡しについては終末日までは延期されるという措置が行われますので安心して下さい」
「あ、そういう措置があるんですか」
「ええ。福祉の一環として、終末日までゆっくりと過ごす事が出来ますので安心して下さい」
「なるほど……まあ、そうはいってもね……。そこまで手持ちの現金が続かない状況でしてね。出来れば今日、安楽死をさせて頂けると有り難いのですが、駄目ですか?」
「いや、駄目と言う事はありませんが、畑村様の終末日までは1カ月近くありますよ? それで宜しいんですか?」
「ええ。ここに来る時はそのつもりで来ましたしね」
「そうでしたか……因みに畑村様は独身で?」
「ええ、離婚しました」
「そうですか。お子さんは?」
「2人いますが、既に2人とも社会人となって、その際に家を出ていきました。なので身軽な状態です」
「そうですか……とはいえ、もう1日だけでも家に帰って考えてみませんか?」
「考える?」
「ええ。畑村様の終末日は決まっておりますし、今日はお帰りになって一晩お考えください。そして明日、目が覚めてもその気にお変わりがないようでしたら、明日もう一度、こちらにお越しください。そこで安楽死をする。そういう事にしませんか?」
「今日は駄目と言う事でしょうか?」
「いえ、先ほども申し上げましたが、駄目ではありません。こちらにお越しいただいて、そのまま安楽死を実行する方もいらっしゃいます。が、それでも一旦はお帰りになるように推奨しております。お帰りになった方の中には、翌日お越し頂いた方もいらっしゃいましたが、中には終末日ギリギリまで生きる選択をなさった方もいらっしゃいました。こういう言い方は不適切ではありますが、畑村様が死ぬ事は決まっているのですから、そう急ぐ事は無いのではないでしょうか?」
「そうは言われても……」
「お子さんと最後に過ごしたいとかはありませんか?」
「まあ、無くはないですけど……自己破産寸前の父親ですからね。私としても合わせる顔がありませんよ」
「お子さんはそんな事を気にしないと思いますよ? そもそも奥さまやお子さんは終末通知の事はご存知なのでしょうか?」
「いえ、一切伝えていません。私が経済的にこんな状態でもあり、家を守る事も出来ない父親です。子供に知られれば負担になるかもしれませんからね」
「なるほど……それでも一晩だけ、いかがですか?」
「う~ん……」
「強制ではありませんが、いかがですか?」
「まあ……気が変わる気もしないですがね……」
「まあ、今晩一晩だけでも、と言う事です」
「う~ん。まあ、ぶっちゃけて話せば、私、自殺しようとしていたんですよね」
「自殺……ですか」
「ええ。とある人に頼んで……あ、連絡するの忘れてたな」
「とある人?」
畑村は九時堂に対し、終末通知が来た事で合法的に安楽死を迎える事が出来るようになったと、故に九時堂からの自殺プランは不要になったと連絡するつもりでいたが、すっかり失念していた。
畑村の言葉に井上は眉間に皺を寄せた。今の畑村の話は「自身の自殺を頼んだ」というように聞こえた。
「ええ。頼んだとはいっても、どうすれば楽に自殺出来るか、自殺する適当な場所といった情報を提供してくれるってだけですけどね」
「それって……」
「井上さんは『スーサイドワーカー』って知ってますか?」
その言葉に、井上の瞼がピクっと反応した。
「いや、その……まあ、噂で聞いた事があるって程度でしか知りませんね。どちらにしても実体不明の噂……ん? 頼んだ?」
「ええ。その人に頼みました。スーサイドワーカーって人にね」
「頼んだ? スーサイドワーカーに? どうやって頼んだんですか?」
「どうやってって、先日直接お会いして頼みました」
「直接会った? スーサイドワーカーと?」
「ええ。とあるカラオケ店でお会いしました。けれど、お会いしたその後、帰宅したら終末通知が届いていましたので、その方の時間を無駄にする結果になりましたけどね。申し訳ないなと思ってますよ。それで、その旨の連絡を入れないとなって感じです」
実体不明と思っていたスーサイドワーカーという存在に直接会ったという畑村の顔を、井上は驚愕の表情で見つめた。
「畑村さん、警察に連絡しましたか?」
「警察? 何故ですか?」
「いや、犯罪者と会っていたんですよ?」
「犯罪者? 別に何をされた訳でもないですし、その人は殺人を犯しているとかではないですよ?」
「いえ、その人は『自殺ほう助』という罪を犯している可能性が高いです」
「ああ、そういう事ですか……まあ、自殺ほう助と言われれば、そうかもしれませんけど、実際のところ、あの人を頼る人も居る訳ですしね。まあ、私も頼ろうとした1人な訳ですが。それに、一概に悪いとも言えないのでは無いでしょうか? 私みたいな需要があり、スーサイドワーカーという人が『情報』を供給する。それほど悪という事でも無いのではないですかね?」
井上は、どこかで聞いた論理だなと思った。頼る者がいるから手を貸した。需要があるから供給した。『スーサイドプランナー』と呼ばれ、井上のかつての同僚であり1個上の先輩でもあった赤村英知が言っていたような理屈、実行した屁理屈。
「この期に及んで言う事でも無いとは思いますが、そもそも何故に自殺しようと思われるんですかね? 贅沢を望まなければそれなりに生きていく方法はありますよね? 俗な言い方かもしれませんが生きてさえいれば良い事があるかもしれないじゃないですか? 楽しい事だってあるかもしれないじゃないですか? 誰だっていつかは亡くなる訳じゃないですか? それを敢えて死に急ぐ理由がありますかね?」
「良い事、楽しい事がある方に賭けて頑張れみたいな事ですか? 未来への可能性を信じて生きろって事ですか? まあ、若い人だったり、人によっては、そう言われれば納得する方もいらっしゃるのかもしれませんが、私位の年齢になりますと、なかなかね。贅沢を望まず、ただただ生きるってだけでも実際には大変ですしね。私の子供達は既に社会人として独立してはいますが、そんな子供達に何も残せない自分が情けないですよ。負債を残さないようにするので精一杯です。そんな今の私には、そこまで生きるという事に魅力を感じないかな。生活保護でも申請すれば生き永らえるかもしれませんけど、それが何だというんですかね。言って置きますが、そういう生き方をしている人に対して文句がある訳ではありませんよ? そういう選択肢があり、その人がそういう選択をしただけ。それだけの事です。そして私の場合には自殺という方法を選択しようとしただけ。それだけの事です。単純に早く消えてしまいたい、楽になりたい、もう勘弁して下さいってのが私の正直な気持ちですね。ははは」
畑村の言葉に井上は思う。やはりそう言うものなのだろうか。赤村ほど極端な思想では無いが、畑村の言は赤村に近い物を感じる。
「まあ、スーサイドワーカーは必要悪って事で宜しいんじゃないでしょうか? どうしても警察に通報したいというのであれば、井上さんから連絡してください。勿論、私は協力しませんけどね。ははは」
必要悪。おまけに協力しないと言われてしまえば、井上には返す言葉もない。
「それじゃあ、どうしようかな。まあ、ここは井上さんの言に従い、今日は帰ります。まあ、気は変わらないとは思いますけどね」
「いや、まあ、もしかしたら変わるかも、と言う事です」
「もう、ほんとに充分なんですけどね。ははは」
そう言って、畑村は終末ケアセンターを後にした。
その日の正午過ぎ。九時堂は荒居陽子に対する自殺プランのメールを完成させると早速送付した。そして送付後すぐに「ありがとうございました」という短い文面の返信メールが荒居から送られてきた。
その返信メールを見た九時堂は満足げに笑みを浮かべた。相互無償の関係での人助けをし礼を言われる。この充実感に代わるものは他にはない。そう思うと自然と笑みがこぼれた。
それとは別に1通のメールが届いた。九時堂が訝しみながらもメールを開くと、畑村からのメールである事が分かった。てっきり自殺プランの催促メールかと思ったが、それは違った。
『畑村です。この度あなた様にお願いしていた件ですが、不要になりました事をご連絡させて頂きます。昨晩、私が帰宅したところ、私宛の終末通知が届いておりました。そして先ほど終末ケアセンターに伺いまして、明日、終末ケアセンターにて安楽死させて頂く運びとなりました事をご連絡致します。すぐにご連絡すればよかったのですが失念しており、今になって連絡するに至った事を申し訳なく思います。折角あなた様が私の為にプランを考えて頂いているのにも拘わらず、本当に申し訳なく思います。本当にありがとうございました』
メールを読み終えた九時堂はすぐさま返信した。
『畑村様。公的に安楽死が出来る運びとなった事、おめでとうございます。私の事は気になさらなくて結構です。最後に、一度お会いできませんか?』
その返信メールに対し、畑村からはすぐに快諾の旨のメールが返ってきた。
九時堂はまだ畑村の自殺プラン作成には着手していなかったが、2時間程の面談時間というリソースを割いた事には変わりは無い。
折角時間を割いたのに終末通知を貰った事で、その時間が水の泡だというある種の苛立ちを覚えた。そんな、ある意味理不尽な苛立ちを解消するために直接会って嫌味の1つでも言いたいと短絡的に思ってしまい、メールで会う約束をしてしまった。
とはいえすぐに後悔した。自分が勝手に行っている事なのに嫌味を言う立場ではないと、すぐに冷静になった。単に自殺を辞めるというなら、言葉を尽くして自殺へと誘おうとも思ったが、終末通知を貰ったという事は残り1カ月かそこらで死んでしまうという事であり、そうであれば仕方がない。安楽死が出来るのであれば、それが一番楽な方法なのだろうと思いなおした。が、すぐに撤回するのも面倒だなと思い会う事にした。
メールのやり取りから1時間後、畑村と九時堂の2人はとある喫茶店にいた。九時堂はいつものカラオケ店で畑村と会おうとしていたが、そのカラオケ店が満室だったため、仕方なくカラオケ店近くの喫茶店へと急遽変更した。
「本当にありがとうございました」
「いえいえ、メールでもお伝えしましたが、安楽死が出来るなんて良かったですね。というのは不適切ですかね。ははは」
畑村と九時堂はテーブル席に相対して座り、頭を下げながら礼を言う畑村に対し、九時堂も素直な気持ちで返事をした。
「いえいえ、私にとってはおめでたい事です。お陰さまで昨晩は興奮して寝付けませんでしたしね。ははは。本当、宝くじが当たったかのようです。気のせいか体も軽く感じます。これで大手を振って死ぬ事が出来ますよ。ははは」
畑村は本当に喜んでいた。先日九時堂と会った時の畑村は目がトロンとしげんなりとしていた。それが一晩経っただけでこれ程迄に変わるのかと、別人かと見紛う程に畑村は元気で明るかった。
そんな畑村の様子を見た九時堂は、嫌味の1つでもと思っていた自分が馬鹿らしくなった。畑村が喜んでいるならそれで良いかと、自分が自殺の支援を出来なかった事は残念ではあるが別に良いかと、そんな気持ちにさせてくれる程に畑村は喜んでいた。
「そういえば、カラオケ店でなくても良かったんですか? こんな人目も付きそうな喫茶店で大丈夫なんですか?」
「ああ、大丈夫ですよ。畑村さんとは、聞かれてはまずい話をする必要も無くなりましたしね」
カウンター10席、4人がけのテーブル席が10席と、そこそこ広い喫茶店ではあったが、客は九時堂達と老夫婦が1組だけ。店が空いていた事も九時堂がその喫茶店を選択した理由の1つでもあった。
楽しい話をする訳ではない。聞かれて良い話とは言えないが、既に『スーサイドワーカー』としての領分では無くなっている事から、喫茶店でも良いかという九時堂の判断であった。
「しかし、終末ケアセンターで安楽死ですか。『終末ワイン』って飲料で安楽死するんですよね?」
「ええ。サンプルを見せて貰いましたが、細くて長い小洒落た瓶でしたね。といっても大した量ではなさそうな感じでしたね」
「へえ。存在は知ってますが、私も現物を見た事は無いんですよね」
「まあ、劇薬であり、毒薬みたいな物ですからね。無関係の人が見る事も無いんでしょうね」
「そうですね。一般の人が見たり触ったりして良いもの物でも無いですね。ははは」
「ですね。ははは」
傍から見れば、2人の様子は仲の良い友人関係にしか見えない。だが会話の内容は死の話。傍からはそんな話をしているようには全く見えなかった。すると、畑村が窓の外を歩く1人の男性に目を留めた。
「……あれ?」
「ん? どうかしました?」
「いや、あそこで歩いている人……」
そう言われて九時堂も窓の外、畑村の視線を追うようにして顔を向けると、そこには九時堂が見た事も無い1人のスーツ姿の男性が、何をするでもなく歩いていた。
「あの人が何か?」
「ああ、やっぱりそうだ。あの人、終末ケアセンターの職員の方です。カウンセリングを担当している井上さんって方です。私の担当があの人だったんです。昼食にでも行くのかな」
「へ~。あの人、終末ケアセンターの職員なんですか……」
その後、しばしの雑談を交わした後に2人は別れた。畑村は満面の笑みを浮かべながらも深々と頭を下げつつ礼を言い、九時堂の元を去っていった。
去っていく畑村のその背中を、もう2度と見る事の無い畑村の姿を「近々にこの世を去る人間をこのような形で見送るのは初めてだな」と、少し不思議な思いで九時堂は見つめていた。
翌日畑村は、終末ケアセンターにて安楽死を実行する事になる。井上からの「一晩経てば気が変わるかもしれない」という助言にも似た言葉は全く役に立たなかった。自宅にて十分な睡眠を取った畑村は意気揚々と安楽死に臨んだ。
畑村の最後の顔には笑みが零れていた。何かを成し遂げたかのような笑顔。もう何も考える必要もなく、何事にも一喜一憂する事も無くなる事への心からの安堵。全てから解放される事への喜びに溢れた笑顔であった。
午後9時。終末ケアセンターでの勤務を終えた井上正継は帰宅していた。母親の手により用意された夕食を食べ終え、ベッドの上で仰向けに寝転がりながら、携帯電話を弄って寛いでいる。
井上は勤務先である終末ケアセンターから2㎞程と近い場所にある実家で両親と暮らしている。勤務先へは自転車通勤が可能ではあるが徒歩での通勤をしている。それは健康の為等、何か具体的な理由がある訳ではない。単にスーツ姿で自転車に乗る自分の姿を想像するに、それを受け入れられないという心象的な問題である。とはいえ、ママチャリやクロスバイクにスーツ姿で乗っている男達を見ても何を思う訳では無い。あくまでも自分のその姿が自分で受け入れられないだけである。
井上は帰宅早々に仕事着でもあるスーツを脱ぎ捨て、部屋着として長年愛用している高校時代のヨレヨレジャージに着替えた。それは大量の毛玉がこびり付いている年季の入った代物であったが、家の中で着ている分には一切気にならない。
脱いだワイシャツと靴下は洗面所のランドリーボックスへと入れた。これらの洗濯物は数日もすれば母親の手により奇麗に洗濯され、綺麗に畳まれた状態で衣類ケースへと納まる。食事も母親が朝晩と作ってくれる。同世代の友人達は積極的に一人暮らしをしようと家を出る者が多かったが、勤務先からも近く、家事炊事の全てをやってくれる母親に依存する生活の恩恵を井上は最大限に受けていた。「早く独り暮らししろよ」という友人の言葉を聞く事も多々あるが、右から左へと聞き流していた。
すると、井上の手の中の携帯電話の着信音が鳴った。画面上の発信者名には「非通知番号」と表示されていた。友人が電話番号を変えたのだろうかと、ふと思いながらも、井上はチラリと部屋の時計を見やり、訝しみながらも着信ボタンを押した。
「はい、もしもし」
『あ、もしもし、井上さんのお電話でしょうか?』
聞き覚えのない声。非通知ではあるものの、相手が「井上」と口にした事で、井上宛の電話である事は間違いなかった訳ではあるが、聞いた事のない相手の声に、何かの営業電話だろうかと、井上は眉間にしわを寄せた。
「はい、井上ですが、どちら様でしょうか?」
『名乗るほどの者ではないのですが、終末ケアセンターにお勤めの井上さんに、少しお話があって電話させて頂きました』
井上はピクリと反応した。恐らく自分が知らない人間からの電話である事は間違いないが、相手は自分を知っている。自分が終末ケアセンターの職員である事も知っている。あまり良くない電話であるという感じが電話越しに伝り、鼓動が早くなるのを感じた。井上は相手にカマを掛ける意味で「悪戯電話でしたら切りますよ?」と言ってみた。
『いえいえ、悪戯などでは御座いません。少しの時間で良いので、お話の方、宜しいでしょうかね?』
電話の相手は優しい口調ではあったものの、井上としては相手が自分の素性を知っている以上、下手な対応は良くないかもしれないと思った。電話番号以外も知られているかもしれない。自分への害は勿論、家族にも害が及ぶ可能性もあるという事が頭を過った。
「それで、ご用件は何でしょうか?」
『はい、では早速ですが、井上さんのお勤めになっている終末ケアセンター。そこで扱っている『終末ワイン』っていう毒薬あるじゃないですか? それを私に譲って貰えないかと』
劇薬、毒薬の類である「終末ワイン」を横流ししろ。電話の相手はそう井上に言った。
「はあ? 何を馬鹿な事を。そんな話に乗るとでも思ったんですか?」
『そんなに大きい金額は出せませんが、人助けと思って、試しに3本程で結構ですので譲っては頂けませんでしょうか?』
「そんな馬鹿な話に付き合ってられませんよ。まあ、いちいち言う必要もないのですが、敢えてお教えしますとね、あれは劇物扱いで、厳重に管理されているものなんですよ。毒物でもありますからね」
毒という言葉を使いたくは無かったが、強めの言葉で表現するつもりで、井上はあえて、毒と言う言葉を用いた。
『そこを何とかなりませんかね? 私も死にたい人の支援をしている関係で必要なんですよ。楽に死なせてあげたいという気持ちからなんですよ』
電話の相手が「死にたい人の支援」と言った事に、井上は目を見開き携帯電話を強く握った。
「いや、ちょっとあなた、何を言ってるんです? 『死にたい人の支援』って何なんですか。あなた、おかしいんじゃないですか? 人殺しでするつもりですか?」
井上は強い口調でそう言ったが、内心恐怖を感じていた。「死にたい人の支援をしている」と口にする見ず知らずの人物に、どこまでかは不明ではあるものの自分の素姓を知られている。そんな現状に悪寒が走った。
『いや、井上さん達だって、自殺の手伝いをしているような物でしょ?』
「あなたと私達を一緒にしないでください。私達は死ぬべきで無い人に対して行っている訳では無いんですよ。法律に基づいて福祉の一環としてルールを守りながら行っているんですよ」
『結果だけを見ればそんなに違いはないでしょ?』
「まったく違いますよ。あなたが具体的にどう使おうとしているのかは知りませんけど、そんな物を要求するなんてどうかしているんじゃないですか? まあ、理由はどうあれ横流しなんてするつもりも無いですけどね」
『死にたいと言っている人の自殺を手伝うだけですよ』
電話の相手が言った「自殺したい人を助ける」という言葉。何所かで聞いた言葉だなと井上は思った。
「それって『自殺ほう助』じゃないんですか? あなたにその認識は無いようですけどね」
『それが悪いんですか?』
「いや、悪いでしょ。立派な罪ですよ。そもそも本当は何に使うかなんて私には分かりませんしね。本当は誰か騙して飲ませるつもりじゃないんですか?」
『あらあら、ひどい言い方をしますね。それじゃあまるで、私が誰かを殺すために使うみたいな言い方ですね。そんな事に使いませんよ。困っている人を助けたいだけですよ。困っている人見かけたら、助けてあげるのが人情ってもんじゃないですかね?』
「助けるって……。自殺を手助けするって事ですか? 私には理解出来ませんね」
『別に井上さんの見知らぬ赤の他人が死んだからって困る事もないですよね? 何か困るんですか?』
「困る困らないの話ですか? そんな事を本気で言っているなら、ちょっとあなたどうかしてますよ? それで悲しむ人だっているんですよ?」
『悲しむ人……ですか? なら、悲しむ人がいなければ宜しいんですか? 身寄りもなく、周囲と隔絶しているような人なら宜しいんですか?』
「そんな事は言ってませんよ」
『井上さん、あなた考え過ぎですよ。本人が死にたいって言っているんですから、死なせてあげれば良いだけの事じゃないですか。最後は楽に死なせてあげれば喜びますよ? あなた達の施設だって似たような物でしょ?』
「全く違いますよ。こちらで亡くなる人は寿命って事ですよ。科学的な根拠があっての死に対して、福祉として、合法的に安楽死を行っているんですよ。あなたが、やっている事は単なる犯罪です。あなたの話を聞いていると、『スーサイドプランナー』って人と変わらないですね」
『……へえ。あんた、スーサイドプランナーって奴の事を知ってんだ?』
突如、電話の相手の口調が変わった事に井上は違和感を覚えた。何か気に障る事でも言ったのだろうかと思ったが、全く思いつかなかった。それよりも、スーサイドプランナーという言葉を出してしまった事が迂闊だったかもしれないと、すぐに後悔した。
「そういうあなたもご存知だったんですか? まあ、私の方は噂話程度でしか知りませんけどね」
井上は嘘をついた。『スーサイドプランナー』こと赤村英知。1つ年上の先輩同僚であり、井上の働く終末ケアセンターで安楽死した人物。よく知っている人物。
『まあ、俺も会った事も無いし、噂程度しか知らないけどね』
「そうですか」
『なら、俺の事も知ってるかな?』
「はい?」
『俺ね、「スーサイドワーカー」て名前で活動してるんですよ』
その瞬間、井上は目を見開き驚愕した。以前に赤村から聞いた『スーサイドワーカー』という存在。畑村が会ったとは言っていたが信じていなかった。その実体が電話越しであるとはいえ実在する事に驚いた。とはいえ、あくまでも非通知番号からの電話による物なので本物かどうかは分からない。なぜに自分に接触してきたのだろうと思案するが全く分からない。電話番号もどうやって調べたのだろうかと思うが思い当たらない。若しくは赤村と繋がっているのだろうかとも思ったが、電話の様子からはスーサイドワーカーが赤村の事を知っている様子は伺えなかった。
「へぇ、あなたが『スーサイドワーカー』ですか……まあ、噂程度ですが聞いた事はありますよ。言っておきますが、良い噂じゃありませんよ」
『あっそう。まあいいや。で、あんたの聞いた俺の噂ってどんなの?』
「自殺へと誘導する人、自殺を後押しする人。みたいな噂です」
『誘導って言われるのは心外だな。あくまでもその人に合わせているだけだぜ? 背中を押す事もあるけど……あ、背中を押すってのは、崖から突き落とすって意味じゃねーぞ? 決断するように背中を押すって意味だからな? そうは言っても、あくまでも最終的に決断するのはその人自身だしな。俺が手を下しているというなら殺人だけど、俺が手を下す訳じゃない。現に、途中で気が変わったから自殺を辞めるという人もいたしな』
言っている事は赤村のそれと似てはいるが微妙に差異があるなと、井上は感じた。
「そもそも、なぜそんな事をしているんですか?」
『そんな事って自殺を支援する事?』
「それ以外に無いですよ」
『まあ、一種の人助けでもあり、俺の中の福祉の一環ってやつかな』
「自殺支援が福祉ですか?」
『あんたら行政がやっていれば俺もやろうとは思わないし、「スーサイドプランナー」って奴も現れなかったろうけどな』
「行政として自殺を支援しろというんですか?」
『やれとは言わないが、まあ、そう言う制度があれば、俺みたいなのは存在しない事は確かだろうな。というより井上さん達は今も似たような事をしている訳だし、その対象範囲を自殺志願者まで広げればいいだけの話ではあるとは思うよ? まあ流石に無理な話だとは思うけどさ』
「そんなに奇特な考えをお持ちなら、NGOなりNPO等の組織に入って人助け的な活動でもすれば良いじゃないですか。何も自殺を支援する活動などする必要もないでしょ?」
『そういう事じゃ無いんだよ。う~ん、何て言うのかな。相互無償関係とでも言うのかな。相手が得をする訳でも無いが損もしない。勿論、俺にも損得は無い。まあ、俺の場合には「時間」というリソースを使うという意味で損はあるとしても、それは俺の生甲斐っていう糧を満たすと言う事で充分に相殺される』
「自殺の支援があなたの生甲斐なんですか? そのあなたの生甲斐の為に、人の命が利用されているという意味ですか?」
『悪い言い方するねぇ。言っとくけど、自殺を手伝った相手からは「ありがとう」って言われるんだぜ? それは心からの「ありがとう」だ。井上さんは損得無しの「ありがとう」って言われた事ある? 落し物を拾っての「ありがとう」って話じゃないよ? そんな「ありがとう」とは格が違うんだよ? 言ってること分かるかな?』
どうにも赤村と被る点があるなと井上は思う。ひょっとしてスーサイドワーカーを名乗る人物も赤村同様、自殺その物が合法化、若しくは自殺への支援が合法化される時代が来るという様な事を思っているのだろうかという疑問が湧いた。
「あなたも自分のやっている事は正しいと思っていて、自殺を望む人がいるから幇助しているだけ。その行為は『そのうち合法になる』とでも言うんですか?」
『あなたも?』
「あ、いや、こっちの話です」
『ふ~ん。まあいいけど。つうか、自殺や自殺幇助がそのうち合法になるって事? いや~、ならないだろ? 感謝される事はあっても合法となるとな。まあ、大病を患っているとか、脳死とかを対象とした安楽死のハードルが低くなる事はあるとは思うけどな。いくら自殺が無くならないとはいっても、俺のやっている事が合法になる事は無いだろうな。五体満足、健康そのものって人の自殺を公に認めるってのは、国家の体面、世界の人権重視の流れからしても認められないでしょ? 西洋は往々にしてカトリックだから「自殺は罪」と考えるしね。かといって生きる意志の無い人間を具体的に支援出来る訳でも無いけどね。蛇の生殺しじゃないけど、そんな感じで続いていくだけじゃないの?』
合法化にはならない。その点に於いては、赤村とは違うなと井上は思う。ほんの少しではあるが、赤村よりはスーサイドワーカーの方が常識人に思えた。といっても誤差とも言える程度の違いである。
「認められないのを分かってて、幇助は続けるんですか?」
『まあ、望む人がいるし、俺はそれを助けたいという思いだけだな。金やら何やらと、何も持っていないのに楽しく生きている人がいるのも事実だと思うし、それはそれで良いと思う。けど皆が皆、生きる意志なんて無いだろ? 生きる意志が無い人を生かし続けるってのは色々と無理があるんじゃないの? 生きてるだけでありがたいでしょとか言うつもり? 食べていけるだけの生活が出来れば幸せでしょみたいな事を言うつもり? それって楽しいの? 幸せなの? それとも井上さんが養ってあげるの? 補助してあげるの?』
「何で私が養わなくてはならないんですか」
『じゃあ、行政が全て面倒見るって話? そんな青天井の様な事してたら国家なり自治体が破綻するのは容易に想像出来ない? 破綻した最初に切り捨てられるのは、そういう人達だよね? 原資を考えずに綺麗事ばかり言うのはどうなの?』
赤村のそれと同様に、話が飛躍的、短絡的だなと井上は思った。
「そこまでの事は言ってませんよ」
『なら、人の人生に口出すなっての。その人が死ぬって決めたんでしょ? それを尊重しないの?』
自殺を尊重しろ。以前にもそんな事を言われたなと井上は思う。
「自分の意思で生きようとしないと駄目だとは思います。何も死ぬ事は無い」
『だから、自分の意思と言う事で、この世を去る事を決めただけでしょ?』
井上は苦々しく思う。赤村の時と同様に「自殺は自分の意思」と言われるとどうにも反論しづらい。意思を尊重しろと言われると言葉に詰まる。他に言えるとすれば感情論以外に見つからない。
「百歩譲って自分の意思と言う事にしたとしても、そもそも何故、自ら死ぬ必要があるんですか? いずれ誰しも死ぬでしょ?」
『皆が皆、辛い思いまでして、いつ来るか分からない寿命とやらまで生きる意志は無いという事だろ?』
今度は「意志」。確かに生きるには意志が必要だと言う事は理解出来るが、その意志が無くなる状況というのが、今の井上には分からなかった。
「あなたが一言でもいいから、希望を持つ様な事を言えば変わるとは思わないんですか?」
『思わないね。言うつもりも無いし、そんな言葉も思いつかないね。そんな魔法のような言葉があるなら皆とっくに知ってるんじゃないの? そもそも言葉を掛けてあげるとすれば、それは公務員である井上さんの役割じゃないの?』
「それは私の仕事では無いですよ」
『当然、俺の仕事でもないけどね』
「……」
『あんたと違って、税金を原資とした報酬を貰える立場でもない。なんせ俺の場合、無報酬だしな。言ってみりゃボランティアだぜ? ははは』
そういう言われ方をすると井上には返す言葉が見つからない。自分が何かボランティアでもしているならまだしも、仕事以外では何をしている訳では無い。
スーサイドワーカーの場合には何らかの意志を持ち、自分の意思で無報酬で行動している。それは「自殺ほう助」という罪に問われそうな事であるが、それを頼る人がいるのもまた事実。理論的な話は出来ても強く言える立場でもない。自分が出来る事と言えば警察に通報する事くらい。それは裏を返せば彼を求める人達の行き場を失う事でもあり、「必要悪」という言葉が井上の脳裏を過る。
『ねえ、井上さんって年いくつ?』
「あなたに教える必要はありませんね」
『ははは。まあ、そうだな。20代後半ってところかな?』
その言葉に井上はハッとする。どうやら相手は自分の容姿も知っている人物。そう思うと一瞬背筋に悪寒が走った。
『あんたはまだ若いから分からないんだろうけどさ、生きていくって大変よ? まあ、10代、20代だったら『頑張れよ』『きっと良い事あるよ』でも良いけどさ、それ以上の年齢になって仕事が無い、収入が無い、寝場所すら無いなんて状況になると這い上がるのって大変よ? 分かる? それでも頑張れっての? そこまでして生きる理由って何? 生きる魅力って何? 何を糧に生きる意志を持てって言うの?』
言葉は若干異なるが、やはり赤村と同じ理屈を言ってくるなと井上は思った。赤村と話し合った時には、あれこれと言ってはみたものの、全てが価値観の違い、個人の意思、意志と言う事で撥ね退けられた事を思い出し返答に窮する。
『この世は素晴らしいなんて言うの? 言わないよね? 綺麗事を口にするのがまかり通ってはいるけど、ぶっちゃけ不公平に不平等に満ちた世界だよね? まあ、何を以って公平、平等とするかって話もある訳だけどさ。もしかしたら、社会共産主義とかってのがそれに当たるのかも知れないけど、それってのは潤沢な資源と技術だったり、私利私欲に走らない崇高な精神を持つ指導者の存在が無いと国家の存続は難しいよね。生きていくにはそれらを看過し、不公平、不平等を受け入れる、若しくはそれらを与える側になる。良い人を目指さず、野心に充ち満ちた人間になる。そういう自分に代わる必要がある。それになれなければ、それ相応の人生。それを拒否するなら選択肢は1つだけ。違う? 常に明日を心配するような毎日を送ってまでも生きるって大事な事なの? 強制される事なの? それが人生って事なの?』
不公平に不平等。これも赤村が言っていた気がするなと、井上は思った。
「幾らなんでも、あなたの言い方は極端過ぎでしょ? 完璧な社会など世界の何処にも存在しませんよ」
『でしょ? 分かってんじゃん』
「だとしても、そこに合わせて生きていくしか無いじゃないですか。色々問題はあるにしても、今は往々にして良い社会だとは思ってます」
『だから合わせられない人もいるっての。今の井上さんが良い社会と思っているだけで、10年後にも同じ様に思っているかどうかなんて分からないでしょ? 長生きするって事は、知識や経験を得る代わりに、色々な可能性を失っていく事でもある訳よ。全てを失ったって人もいる訳よ。そんな人が終わりたいと言ったのなら、「よく頑張りましたね」って、ひとこと言ってあげて終わらせてあげても良いじゃない?』
「なら、そういう人に向けた福祉だって、集まりだって、それなりにあるでしょ?」
『それなりにはあるんじゃないの? でも、それすら合わない、若しくは自ら拒否する人もいるだろ? それで良いじゃない。何が悪いっての? 社会に迷惑かけない様にって、殊勝な事を考えて逝く人の方が多いんだよ?』
「自殺に殊勝も何もないでしょ?」
『あるって。自ら身を引くなんて、日本人らしいとも言えるだろ?』
井上は苦々しく思う。分かってはいた事であったが、やはり自分の考えは否定される。自分が30歳手前という若造である事から綺麗事を口にしているだけなのかもしれないが、そもそもスーサイドワーカーが自殺を美化しているような言い方も気に入らない。とはいえ、返す言葉も見つからない。
「だったらあなたも自殺したいとか思っているんですか?」
『は? 俺が? 何で?』
「そんなに人の命を軽視するような真似をしているって事は、そういう事でもあるのではないですか、という事です」
『う~ん、よく分かんない理屈だな。まあ、とりあえずは死にたいなんて思ってはいないよ。今のところはね。それに命を軽視しているってのとは違うんだけどな。俺から言わせりゃ、井上さん達は人の意思を尊重していないだろって感じなだけだしな』
やはり尊重という言葉を出されると答えに窮するなと井上は思う。そこでふと思い出した話を質問してみた。
「あなた、結婚してないでしょ?」
井上は以前、自分の上司の下田課長が言っていた話を思い出し、その事をスーサイドワーカーに質問してみた。スーサイドプランナーこと赤村英知が亡くなった後、「赤村が結婚していたり子供がいたとしたらスーサイドプランナーなんて活動はしていなかったかもな」と、下田が言っていた事を思い出し、それをスーサイドワーカーに質問した。
『は? 結婚? それが何だっての?』
「あなたに奥さんや子供いたならば、きっとこんな真似はしないだろうと言っているんです」
『ああ、なるほどね。まあ、やるとは言い切れないな。奥さんとか子供が生きる糧としてあるんだったら、やってないかもね』
あっさりとスーサイドワーカーが認めた事に、井上は一瞬あっけに取られた。
『それで?』
「はい?」
『いや、だから何? それがどうしたの? 俺には奥さんも子もいないから、どうしたのって聞いてるんだよ』
そう言われて井上は黙り込んだ。確かに、それがどうしたと言う事だった。妻や子がいたらアングラな活動はしない。そして妻も子もいないからアングラな活動をしている。それで話は終わる。その質問をすれば、スーサイドワーカーという活動を辞めるという返答を得られるのではと勝手に思い込んでいた。
『まあ、いいや。とりあえず終末ワインに関しては交渉決裂ってことか。まあ残念だけど仕方ない。正直、そこまで期待していた訳でもないしね。あ、それとさ、もしもだけど、スーサイドプランナーって奴に会う事があったら言っておいてよ。お前よりも先に俺の方が始めたんだってね。それなりにアングラなやり方を知っているなら、俺に会おうとすれば会う事も出来るだろうからさ。でもって俺に一言挨拶しに来いよってね』
「そんな依頼はお断りしますよ。言っておきますが、あなたから電話があった事は警察へ連絡しておきますから」
『あんた真面目だねぇ、ははは』
「それよりも1つ聞きたいんですけどね」
『ん? 何?』
「私の携帯番号、どうやって知ったんですか?」
『ああ、そんな事か。まあ、それなりに調べる方法なんてあるんだよ。まあ、教えないけどな』
そう最後に言い残し、一方的に電話は切られた。
スーサイドワーカーこと九時堂も、赤村同様に情報通信分野に長けていた。畑村から教えられた井上の名前と勤務先を元に、違法な手段を講じて携帯電話番号を入手する事は容易であった。そして、井上との電話を終えた直後、九時堂の携帯電話に1通のメールが届いた。
『先日はお世話になりました。あなた様より頂いた自殺方法にて、ただ今より実行致します。本当に有難う御座いました』
メールの差出人は荒居陽子。今日の午前中に自殺プランを送付した女性だった。随分と早く実行したものだと九時堂は思うと同時に、そのメールの文面の最後の言葉に、軽い笑みを零した。また1人、救ったという満足感の笑みが零れた。
翌日、終末ケアセンターに出勤した井上は、自分の上司である課長の下田重久に、スーサイドワーカーを名乗る人物から直接電話があった事を報告した。
「まじで? スーサイドワーカーなんて奴、本当に存在したんだ?」
井上からの説明を、下田は椅子に背を預けながら両手を頭の上で組み、面倒そうな話だなと思いながら聴いていた。
「まあ、あくまでも電話越しでしたから、存在したかどうかって事になると別の話ですけどね」
両手を後ろ手に組みながら下田の机の前に立ち、井上はスーサイドワーカーとの電話による会話内容を淡々と説明する。
「そいつは井上の携帯電話の番号を知ってたって事? お前の番号を知る奴でスーサイドワーカーなんて名前を知ってる奴とかいる?」
「いやあ、全く思いつきませんね。私も赤村さんから聞いて初めて知りましたし、そうとうアングラな感じですしね」
「じゃあ、そいつは赤村みたいに何かをハッキングして、お前の電話番号を入手したって事か……」
「そうかもしれませんね。赤村さんみたいにIT系に強い人なら、それなりに調べられるのかも知れないですね」
「で、そいつの要件は何だったんだ?」
「『終末ワイン』を横流ししてくれって話です」
「げっ、まじかよ……。そういう事があったら、俺の方からも上に報告しないといけないんだよな」
「へえ、そうなんですか」
下田が眉間にしわを寄せ、やっぱり面倒な話だなと言わんばかりの言葉に、井上は他人事と言った様子で返事をした。
「簡単に言うなよ。劇薬だからそう言う事には敏感なんだよ」
「はあ、なるほど」
「呑気に言ってんなよ。お前が報告書を書くんだよ」
「……え? 何故ですか?」
井上はキョトンとした表情を見せる。業務時間外に掛かってきた私用電話の話を伝えただけなのに、何故に報告書を書かなければならないのか理解出来なかった。
「当り前だろ? そんな事があったんだから業務時間外の事だろうとも正式な報告が必要なんだよ。でもってその報告書を俺が直接、上に報告しに行かなきゃなんねーの。だから早く提出しろよ?」
「私が書くんですか?」
「他に誰が書くんだよ」
「うわ~。面倒臭いです」
井上は眉間にしわを寄せ、あからさまに嫌な顔をした。
「しらねーよ。不運だと思ってとっとと書け。あ、それと警察にも連絡はしておけよ」
「あ、やっぱりした方がいいですかね?」
「まあ、直接の事件では無いから警察が動く事にはならないけど、情報共有って事でな。何かあった場合に、うちらが何も言ってないってのが公になるとまずいしな」
「おお、責任の分散ですね?」
「んな悪い言い方するんじゃねーよ。情報共有だよ。共有」
「は~あ。わかりました……あ、そういえば」
「あ? まだ何かあんのかよ? もう聞きたくないんだけど」
「いやいや、最後にそいつが言ってたんですけどね、自分の方が先に始めたから、一言挨拶に来いって伝えておけって言われましたね」
「挨拶? 誰が誰に?」
「『スーサイドワーカー』に対して『スーサイドプランナー』が、です。赤村さんに挨拶しに来いって」
「そいつ赤村の知り合いって事?」
「いえ、そういう訳では無く、私が噂程度でスーサイドプランナーって言うのを知っているみたいな事をいったら、そんな事を言われました。もしも会う機会があったら言っておけって」
「ああ、そう言う事ね……」
「ええ。そいつも赤村さんの事は知らないようでした。ただ単に、自分と同様の活動をしている『スーサイドプランナー』って存在がいるって程度の認識みたいでした」
「なるほどね……しかしなんだな。世の中には、他人の自殺を手伝うなんてさ、随分と親切な奴らがいるもんだな」
「ほんとですね」
井上と下田は少し哀しげな笑みを浮かべた。そんなお互いの顔をお互いに見て「赤村の事を思い出し感傷気味にでもなったのだろう」と、お互いが思った。
それより何より井上は、スーサイドワーカーとの会話内容を思い出しながら下田に説明するにあたり、それがまるで赤村と会話していたかのようなデジャビュに「おかしな縁かもな」と、ふと笑いそうになった。
その後井上は、「自殺ほう助の可能性のある人物から自分の携帯電話に直接電話連絡が入った」と、所轄の警察署に連絡を入れた。その後暫くして、井上に事情を聞こうと、刑事が終末ケアセンターを訪れた。
「で、井上さん。『スーサイドワーカー』と呼ばれる『自殺ほう助』の疑いがある人物が存在しそうだという事は分かりましたが、その時の電話の内容を録音とかされてたりします?」
「ああ、それはしてませんでしたね。正直そこまで頭が回りませんでした」
「そうですか……。まあ、被害者が居る訳でもないですしね……。事件としては扱えないですが、とりあえず情報のご提供有難う御座いました」
わざわざ足を運んで来た刑事はそう言って、あっさりと帰って行った。
その後、井上の携帯電話に掛かってきたという電話番号を警察が調べてみた所、その電話番号の名義人は九州に住んでいる人物である事が分かった。
警察がその人物に連絡を取った所、その人物はお金に困り、自分が契約した携帯電話を売ったという事で、いわゆる飛ばし携帯という事が判明し、九州に住む名義人の人物に関しては、自殺ほう助には無関係だと結論付けられた。当然、その携帯電話に警察が電話をしてみるも、一切繋がる事は無かった。告訴されている訳でもなく、事件として顕在化している訳でも無い為に、警察はそれ以上の捜査はしなかった。警察が出来るのは、その電話番号を所管する電話会社に対し、その電話番号は飛ばし携帯の番号として使われているという連絡をするに留まった。
◇
『間もなく、快速電車が通過致します。黄色い線の内側まで下がってお待ち下さい』
平日の朝7時。駅のホームにはスーツ姿で立つ九時堂の姿があった。特徴が無いのが特徴とも言えるその容姿は、傍から見れば何処にでもいるサラリーマンそのものであった。
2面2線のそれぞれに屋根が付いたプラットホーム、その屋根越しの隙間から見える空を見上げながら、何をするでもなく、ホームに流れるアナウンスを何気なしに聞きながら、九時堂は電車を待っていた。
九時堂の自宅の最寄り駅は普通電車しか停車しない。特急はおろか急行すらも停車しないという駅であった。これは通勤という点に於いては難点でもあったが、その分、周辺駅よりは比較的安い家賃相場であり、安さを理由に選んだ場所であるからして文句を言う立場には無い。少し早めに家を出て、少し長めに電車に乗ればいい。いつもの時間に家を出て、いつもの電車に乗る。既に習慣化している。それだけの事。当たり前の事。
九時堂が井上に電話をかけてから既に数日が経過していた。特に周辺に変わった様子もない事から、九時堂は警察が動いている様子は無さそうだなと漠然と思っていた。
九時堂が井上に電話をかけた携帯電話は、荒居陽子からのメールを受信した後、物理的に破壊し処分してあった。井上が警察に連絡する事を想定した上での判断であったが、また新たに携帯電話を入手しなくてはならず「痛い出費だな」と、九時堂は空を見ながらぼんやりと考えていた。
九時堂は今年で40歳。大卒で入社した会社にずっと勤務している。入社してからの数年間はそれなりに充実感も刺激もあった。だが既に20年近くも続けたサラリーマンという仕事で得られる充実感は既に失せている。転職でも起業でもすれば良いのかもしれないがその気力が無い。
自分を満たせる物が見つからない。何に対しても興味が湧かない。
たまに少し値が張る食事を取る事があるが、それに対しては美味しい物は美味しいと思う程度であり、一時の食欲以外を満たされる事は無い。
他にやりたい事も、食指が動かされる事もない。全てが色褪せて見える。虚しく見える。あざとく見える。
仕事帰り等に同僚らから飲み会に誘われれば往々にして参加はする。その飲み会という数時間の出来事に於いては、自分も同僚も馬鹿話に花を咲かせはするものの、どこが虚しく、自分の笑顔も同僚の笑顔もあざとく見える。
バーベキュー等にも参加した事もある。だが飲み会同様に虚しくなるだけ。それが終わって家に帰れば「疲れた」という言葉が第一声。あの時間は何だったのだろうと思うだけ。
そんな中、今の自分の生きる糧と言える物こそが「スーサイドワーカー」というアングラな活動。唯一生きているという実感を味あわせてくれる活動であり、精神的に日々を満たしてくれる活動。今はそれ以外に見つからない。そんな自分はおかしいのだろうかと自問すると同時に、他人が何を糧に生きているのかが不思議でならない。
酒に酔った時等は「殆どの人は、ただただ勢いと惰性で日常を送っているだけだ」等と、思わず独り言を口にしてしまう事もある。そしてその翌日酔いが覚めると「ひょっとして自分は他人が楽しんでいる姿を僻み、妬んでいるのかもしれない」と、自己嫌悪に陥る事もある。かといって、楽しんでいる様に見える人と同じ行動を取ったとしても、自分も同様に楽しむ事は出来ない。そんな自分を鳥瞰で見ると卑屈に見える。あざとく見える。
他人から見たら、自分は冷めていると見えるのかも知れないが、自分から見れば、他人があざとく見えるだけ。
自分が欲す生きる糧とも言える物が、そういった「楽しんでいる様に見える人達」と同様に、家庭を持つ事だったり、仕事や趣味、友人達との旅行なり遊びと言われる行動で得られるのであれば、こんなアングラな活動はしないし今直ぐに辞めてもいいと思ってはいるが、そういった人達を見ている限りは、あざとく見えるだけであり、虚しく見えるだけである。
「自らが楽しもうとする努力が必要」等と言う言葉を聞く事があるが意味が分からない。単に「楽しんでいる振りをしろ。さすれば楽しくなる」という事なのだろうか。だがそれは自分には出来そうにない。そんな言葉を言われたら「他を当たってくれ」とでも言いそうだ。
「スーサイドワーカー」としての活動は個人的な福祉の一環であると井上には言ったが、それなりのリスクも存在する。そんなリスクを背負ってでも「スーサイドワーカー」という活動をしている。決してスリルを味わっているつもりは無い。楽しんでいるつもりも無い。
とはいえ「もしかしたら」という枕詞が付くが、自分で気付いていないだけで深層心理と言われるような所に於いてはスリルを楽しんでいるのかもしれないなと、時折考えてしまう。同時に、そんな自己分析が出来ていると言う事は、自分は冷静且つ正常なのだろうと言い聞かせてもいる。
他人の自殺を手伝う一方で、理由はどうあれ自分も「死にたい」と本気で思う事があるかもしれないと密かには思っている。そして、その時の自分の為に死に場所をストックしている。
数本の電車を乗り継いで2時間程。そこから更に、便数は少ないものの路線バスで行ける場所。終点手前のバス停を降りてから数分歩いた辺りにある、一見すると分からないが、人1人が通れる程のケモノ道への入口。その入口から踏み入り、生い茂る草木を除けながら10分程歩いた場所にある1軒の空き家。別荘として利用されていたであろう木造平屋のその家は、所々屋根から光が差し込み、窓ガラスは割れ、玄関ドアも外れているという有様で、強く踏み込めば抜けてしまいそうな朽ち果てる寸前といったウッドデッキがあった。
そのウッドデッキから見える緑も鮮やかな山の稜線と青い海。標高も高い位置にある事から波の音も聞こえず、木々の葉が擦れ合う音しか聞こえない場所。
死にたいと思ったのならここへ来て、静かに最後を迎える算段を既に立てている。別に景観に拘って探していた訳では無いが、その情景に魅かれた。自分専用の場所として、他の人には教えつもりは無い特別な場所。そこで終えたいと密かに思っている。
九時堂は井上との会話を思い出す。
「自殺ほう助」という罪が存在する事は知ってはいるが、そもそも何故に自殺が駄目なのかが分からない。カトリックであれば「自殺は罪」という事で、理解は出来ないが、宗教の教えと言う事で納得は出来る。だがそうでないのなら駄目な理由は思いつかない。
駄目な理由を問うたならば「親が悲しむ」「周囲が悲しむ」といった他人からの視点で駄目と言われるのが殆どであり、井上も同様の事を言っていた。若しくは論理的に自殺する理由を問われ、矛盾があればそこをついての説得を試みようとされるだけである。
身体的に拘束されているのであればいざ知らず、自殺を止める事は不可能である。それは個人の意思故でもある。その意思が尊重される事はほぼ無く、意思持つ者は不本意な痛みや苦しみを伴う方法にて死を遂げる事になるだけである。そんな不本意な痛みや苦しみを減らす活動をしている訳ではあるが、それは概ね違法となる。
その人に夢があるなら追えば良い。やりたい事があるならやればいい。生きる理由があるのならば生きてれば良い。生きたいなら生きれば良い。死にたくないというのなら、泥水を啜ってでも生きれば良い。死に物狂いで生きれば良い。
死にたい奴は死ねば良い。死なせてあげれば良い。
きっとそんな物ではないのか。人生とはそんな物ではないのか。それを他人がとやかく言う資格は無いのではないだろうか。
生きたくても生きられない人もいる。そういう事を言う人もいるが、それはこの世の常でもある不公平に不平等、幸運、不運の1つに過ぎないのではないか。
どこの国に生まれたいとか選ぶ事が出来ない様に、戦場と呼ばれる場所で生まれる者、裕福すぎる家庭に生まれる者がいる。それは否定出来ない事実であり、それと同じ事では無いのだろうか。
どこで生まれようとも、どんな状況状態で育とうとも、生きる意思が無い物は生きる事を拒否すればいい。生きる意思があるなら生きれば良い。それだけの事なのに、何故に他人の境遇を持ち出し、その人の意思を尊重しないのだろうか。歯が浮かんばかりの綺麗言を並べて説得を試みようと思うのであろうか。
九時堂は空を見上げながらそんな事を考えていた。その九時堂の背中を、突如ドンっという衝撃が走った。そして瞬間的に顔や腹部、手足に痛みが走り、九時堂は思わず目を瞑った。
九時堂は何が起こったのか分からなかった。そして衝撃を受けたと同時に瞑った目をゆっくり開けると、目の前には砂利が見えた。九時堂はすぐに自分がうつ伏せの姿勢で倒れている事は理解出来たが、何故こんな状況になっているかは分からないままだった。更なる状況を確認しようと、あちこち痛みが残る状態のまま体を起こそうと試みるものの、体が重くて起き上がれない。
仕方なく顔だけを少し上げると、鼻から温かい物が垂れた気がした。地面の砂利に目を落とすと赤い液体がポタポタと垂れるのが目に入った。同時に1センチ角程の小さな白い物が砂利の上に落ちているのが目に入った。すぐにそれは鼻血と自分の歯である事がわかったと同時に鼻に激痛が走った。ポタポタと垂れる鼻血の様子からして鼻の骨が折れたと推察でき、他にも頬の辺りに痛みが残る。九時堂はそれらの痛みを堪えつつ、舌で何処の歯が折れたのだろう探ってみると、前歯に欠けている感触を感じた。九時堂は前歯が折れた事に「クソッ!」と小声で悪態を付き、再び顔を上に向けた。
九時堂が顔を上にあげた視線の先には、少し高い位置から沢山の人が九時堂を見下ろすという光景があった。九時堂を見下ろすその人達は驚愕の表情と驚嘆の声を上げながら、うつ伏せに倒れる九時堂を見ていた。
九時堂は理由は分からないもののホームから転落し、線路の上にうつ伏せ状態で倒れているという事を理解した。それと同時に、鼻骨が折れ鼻血を垂らし、且つ前歯が欠けているという自分のそんな姿を大勢の人に見られているという状況に、九時堂は瞬時に恥ずかしさを覚えた。
九時堂は鼻骨を含むあちこちの痛みを堪えつつ、尚も背中が重いままにおもむろに首を後ろへと回し、自分の背中の方向を見ようとした。すると誰かが九時堂の背中に乗っていた。否、九時堂の背中にしがみ付いていた。
「お、おい、な、何してんだ、どけよっ!」
九時堂が自分の背中にしがみつく人物に向かってそう言うと、そのしがみついていた人物は、尚も九時堂の背中にしがみつきながらも少しだけ顔を上げた。
その顔を見た九時堂に戦慄が走った。一瞬誰だかは分からなかった。男女の区別さえつかなかった。だが直ぐに見た事のある女性だと気付いた。数日前に九時堂と会った事のある中年の女性。見開いたその眼は血走り、鬼の形相で九時堂を睨み付けた。
「お、お前、この前のババアじゃねぇかっ! 何してんだよ! とっととどけよっ!」
荒居陽子。九時堂が面談した自殺志願の女性であり、数日前に死んだはずの女性だった。
「おいババアッ! お前、この前、『今から死ぬ』ってメールしてきただろうが! 何で未だ生きてんだよ!」
そう怒鳴ると共に、九時堂は必死の思いで力一杯しがみつく荒居の手を振りほどこうとするも、荒居の手は頑として離れない。
「お前のせいで娘が死んだっ!」
荒居は渾身の力を込め、九時堂の背中にしがみつきながら大声で叫んだ。
「ああっ! 何言ってんだババアっ! いいからどけよっ!」
荒居の娘は数か月前に自殺していた。結局、何に悩んでいたのかは分からずじまいだったが、荒居が娘の遺品整理をしている最中に見つけた1冊の小さな手帳。その中には『スーサイドワーカー』という走り書きが残されていた。
荒居はその事を警察に話した。だが、娘は他殺の可能性が全くない自殺で有り、事件性は無いとの事で門前払いであった。荒居は執念とも言える状況で、それが何なのかを探し始めた。娘が死んだ理由を知りたくて必死で調べた。
そして自殺を支援するという『スーサイドワーカー』に辿り着いた。
荒居の娘は殺害された訳では無く、あくまでも自殺だという事は頭では理解していた。だがそれを支援したスーサイドワーカーなる人物の事を、荒居は娘を殺した殺人犯のように思うようになっていった。
大事な娘を殺した人間。ようやく見つけ、会う手はずを整え、実際に会う事で容姿を確認した。実際にスーサイドワーカーという人物と話をして、どういう思想の持ち主なのかを確認した。結果、ただ単に自殺の手伝いをする人物、亡くなる子の親の気持など一切考えない人物、人の命を軽く見ている人物という事が分かった。
スーサイドワーカーとの面談において、それとなく若い子の話を振って、その会話の中で娘の名前が出る事を期待したがそれは叶わなかった。
だが確信した。スーサイドワーカーが娘の自殺を支援した人物であると確信した。
カラオケ店での面談を終えた後、素人なりに数日の間、スーサイドワーカーの後をつけ、調べられるだけ調べた。その際に『スーサイドワーカー』と呼ばれた男の本当の名前が『九時堂久光』という名前である事を知り、その九時堂が普段は一般の会社に勤めるサラリーマンである事、平日は定刻通りに駅に向かい、同じ時刻の電車に乗る事を調べ上げた。
九時堂から貰った自殺プランのメールに対しては、あたかも実行したように返信した。自分がまだ生きているとなると何かを勘繰られる可能性を排除する為に「これから死ぬ」と嘘の返信メールを送った。
そして娘の月命日の今日、行動に移した。
平日の朝、駅のホームに立つ九時堂の後ろへと忍び寄り、快速電車の通過に合わせて後ろから走りながらしがみつき、一緒にホームから線路へと飛び込むという、文字通り決死の行動。そして最後の行動。
「あんたみたいなクズは死ねッ!」
荒居のその言葉と形相に、九時堂の頭の中で何かが駆け巡った。
そういえばブレザータイプの制服を着た男の子が自分の元へと来た事がある。いじめに遭っているから死にたいという話だったと記憶している。こちらとしては死に方と死に場所という情報を提供するつもりだったが話が逸れていき、男の子は「悔しい」とか「復讐したい」と涙ながらに言い始めた。ならば遺書としていじめの詳細を残してその悔しい気持ちを晴らせば良いという方向に話を持って行ったつもりではあったが、その男の子は話をしている内に自殺する気が徐々に失せ始めたようで、単純に「どうすれば復讐出来るか」という相談じみた話になっていった。自分はそんな相談を受けるつもりは一切無く、面倒だなと思い軽くあしらうつもりで1つの提案をした。
「どうしても復讐したいという事ならば、警察が介入する程に、事件として大々的に報道される程の凶行を起こせばいいんじゃないか? それで全てが明るみに出るだろし、君の復讐にもなるだろ?」
教職員含めクラス全員が同罪なのだから、それら全員をターゲットとした凶行を授業中にでも起こせばいいのではないかと、そんな提案をした記憶がある。
そしてそれは中途半端に実行された。一応警察も介入する出来事ではあったが、誰ひとりとして死傷する迄には至らず、一番大きい傷といっても軽い痣が残る程度の傷を数人のクラスメイトに与えた程度で終わった。それ以外には窓ガラスが複数枚割れるといった程度の事だった。
器物破損と暴行の疑いで警察が介入はしたものの、ローカルニュースとして小さく載った程度のその事件。その事件後、男の子は家族共々どこかへと引っ越していったと記憶している。その男の子が荒居の子供だろうか。その男の子が何らかの理由で死んだと言う事なのだろうか。それに対する自分への復讐と言う事なのだろうか。
いや、その男の子は関係ない。荒居は娘と言った。故にその男の子の話では無い。そういえばセーラー服姿の女の子がやってきた事があった。曖昧な記憶ではあるが荒居と名乗っていたような気もする。その女の子の自殺を手助けした。終始俯き、特に理由は言わずに、ただただ早く死にたいと言って早々に死んでいった女の子。顔を隠すような前髪だったせいもあり顔も覚えてないし、全体的な容姿も特に覚えていない。ただただ口数が少なく、暗い印象の女の子といった位しか思い出せない。そしてその女の子が目の前の荒居陽子の娘という事だろうか。だとしても自分が殺した訳では無い。その娘が自分の意思により、この世を去っただけ。何を言われる筋合いでもない。知った事ではない。俺は何も悪くは無い。
「お前の娘なんて知らねーよっ! いいからどけよっ! 危ねーだろうがよっ! もうすぐ快速電車が来るんだよっ!」
九時堂と荒居の2人が線路に落ちた直後、ホームにいた人達の誰かが即座に緊急停止ボタンを押した。直後、ホームにはけたたましいブザーが鳴り響き、ホームにいる大勢の人達がどうしていいか分からないままに、ただただ叫ぶ人、早く上がれという人との大声が入り乱れ、上下線のホームはパニック状態となっていた。と同時に、レールを伝ってコトンコトンといった規則正しい音が聞こえてきた。
「お、おいっ! いいからとりあえず手を離せ! 電車が来ちゃうだろうがっ!」
「死んでも離すかっ! あんたはには私と一緒に死んでもらうっ! そして娘に謝ってちょうだいっ!」
「いい加減にしろババアッ! 死にたきゃテメェ1人で死ねよっ! 人を巻き込むんじゃねーよっ!」
九時堂は精一杯の力で荒居の手を振りほどこうとしてはいるが、荒居の手は頑として離れない。うつ伏せに倒れ、後ろからしがみつかれている姿勢に加え、線路に転落した際に手足が折れたか、ひびが入ったかし、上手く力が入らない。当然痛みもあるが痛みを気にしている場合でもなく、痛みの事などは忘れて力の限り振りほどこうとしてはいるが、一向に荒居の手を振りほどく事が出来ずにいた。
荒居は歯を食いしばり、渾身の力を込めて九時堂にしがみついていた。力が入らないとは言っても九時堂は成人男性である。その九時堂から何度も何度も顔や頭を殴られ叩かれる。必死にしがみつく腕を成人男性の力で強く握られ引っ張られる。一瞬でも気を抜けば九時堂に逃げられてしまう。最後とも言えるこの場面に、動けない様に、逃げられない様に、一緒に死んで貰う為に九時堂に必死でしがみつく。
「あんたが、娘の話を真面目に聞いてりゃ、もしかしたら娘は自殺なんてしなかったかもしれない。あんたが娘を助ける事だって出来たかも知れない! あんたが娘を追い込んだんだっ! あんたが娘を殺したんだっ!」
「知るかババアッ! 自殺したのはそいつの意思だろうがっ! 俺のせいにするんじゃねーよっ! 大体、テメェだって娘を助けられなかったんじゃねーかっ! 良いから離せっ!」
「うるさいっ! 何が『親に相談しても駄目だった』だっ! お前に何が分かるっ! お前なんか死ねっ!」
鬼気迫る荒居の表情と言葉に九時堂も気圧される。かといって悠長に話をしている場合では無かった。
レールから伝わる音は更に大きくなり近づいてくる。そして、九時堂の目の端に四角く、大きい物体が猛烈な勢いで近づいてきた。接近してくる電車は、既に緊急停止ブレーキが作動していたが、快速電車の勢いはそうそう止まらない。
「とにかく離せっ! 間に合わ――――」
ドンっという鈍い音とともに、九時堂の最後の言葉は遮られ、九時堂久光の身体は荒居陽子の身体と共に、轢かれ、千切れ、鉄の塊に弾き飛ばされ、その数秒にも満たない光景は、誰もが認める即死状態であった。
今際の際の九時堂は、自分はこんな所で死ぬ予定は無い。自分が死ぬのはあの廃屋の別荘だ。そこで静かに死ぬ。こんなはずじゃないと、そんな言葉が一瞬で頭の中を駆け巡り、一瞬にして消え去った。
その後警察は、荒居陽子の動機を捜査したが、数か月前に子供を自殺で亡くした事で塞ぎがちだったという以外、特に何も見つからず、荒居と九時堂の接点を探したが何も見つける事は出来なかった。荒居は娘の月命日に於いて、全てを終えるつもりで携帯電話を含む何もかもを処分し、文字通り身1つで九時堂に挑んでいた。
当然、九時堂の自宅も捜索されたが、スーサイドワーカーとして使用していた携帯電話は既に処分しており、その他の資料においても、デジタルデータとして偽名で契約したクラウドストレージに入れてあり、自宅からは何も出る事は無かった。
結果警察は、荒居陽子の突発的な通り魔事件と断定し、九時堂久光は不運の第3者と看做され、容疑者死亡の書類送検を持って事件は終了する事となった。
井上はスーサイドワーカーが死んだ事は知らない。スーサイドワーカーが九時堂久光だったと言う事を知らない。ニュースでは九時堂が被害者となった通り魔事件があった事が報道され、井上もテレビのニュースの1つとして目にはしたものの、その被害者である九時堂が「スーサイドワーカー」であった事は知る由もなかった。
これを以って、スーサイドワーカーと呼ばれた男がこの世を去ったが、それを知る人は誰もいなかった。
九時堂がクラウドストレージに保管して置いた「My_Suiside_Sequence」という名前のファイル。九時堂が自らの死の手順書として用意した置いたそのファイルは、誰の目にも触れられる事は無く、使われる事も無かった。
九時堂が最後に面談したのは3人。その内の1人である畑村一道は終末通知を受けての安楽死。荒居陽子は九時堂久光を巻き込んでの投身自殺。そして残る1人である伊佐末芳郎は九時堂からの連絡を待っていた。
当初は2週間程で自殺プランのメールが送付されると聞かされていたが、2週間が過ぎても九時堂からの連絡は無かった。不審に思った伊佐末は、催促にならないように言葉に気をつけながらもメールを作成し、九時堂に送付した。しかし一切返信は無かった。伊佐末も、九時堂が亡くなった通り魔事件については知っていはいたが、それが九時堂だとは気づいていなかった。
伊佐末は更に1週間程の間、毎日1通づつ、文面に気を付けながらメールを送った。だが九時堂からの返信は一切無く、時ばかりが過ぎていった。
これが伊佐末の背中を押す結果となった。返信メールが来ない毎日に、徐々に気持ちが塞ぐ。最後の頼みの綱とも思っていたスーサイドワーカーという存在から見捨てられたような感覚。全てから見放された様な感覚。
スーサイドワーカーという人物は存在しないのだと思った。他人の自殺を支援する人間など居るはずがないと思った。もしかしたら自分が直接会ったあの人物は自分を嘲笑うつもりで手の込んだ真似をしただけだと思った。あの人物は今頃、自分の事を笑っているのだと思った。いっその事、見知らぬ誰かに殺されたいと激しく願った。そして伊佐末の耳元で何かが囁いた。
『人を頼るな。自分で決めろ。自分の手により死ね』
それは衝動的だった。伊佐末は家の台所へ駆け込むと、流し台に置いてあった包丁をガッと掴み、刃先を自分に向け両手で握りしめ、勢いよく自分の首の左側、頸動脈付近へと突き刺した。
「ゴッ――――ゴフッ――――」
そんな言葉にもならない声を上げると手に持っていた包丁を床に落とした。同時に、突き刺した首からは大量の血が噴き出すかのように流れだし、床に血だまりを作り始めた。頸動脈も切ったが、包丁の切っ先は食道にまで到達していた。切り裂いた頸動脈からの血が食道へと入り込む。そして息をする度に血を吸い込み、むせかえるように息を吐くと口からも血が溢れた。
急激に体内から血が失われ、伊佐末の視野が急激に狭まる。意識も遠のき始め、無意識に膝から崩れ落ちると、床に出来た血だまりへうつ伏せに倒れ込んだ。
伊佐末の目からは涙が零れおちた。そして、薄れゆく意識の中で思う。
こんな形で死ぬつもりは無かった。少なくとも実家で死ぬつもりは無かった。こんな姿を母親に見せるつもりは無かった。だがもう、これ以上は無理だ。
伊佐末は意識が途切れる寸前という、その最後の一瞬の中で「ごめんなさい」と、母親に対し心の中で呟いた。
伊佐末は衝動的な行動のままに、決して母親には届かぬその言葉を最後に、この世を去っていった。
数時間後、伊佐末の母親が帰宅した。80歳になる母親が台所のすぐ横に設置してある玄関のドアを開けた時、真っ先に目に飛び込んできた光景は、台所の床一面に広がった黒ずんだ血だまりの中、すでに事切れ、光を失った目が半分開いたままに倒れている息子の姿だった。
母親は何の声も上げられぬままに、その場に膝から崩れ落ちた。
伊佐末の傍には包丁が落ちていた。その様子に母親は、息子が誰かに殺されたと思ったが直ぐに自殺だと直感した。
息子が仕事を辞めた後、仕事を探すそぶりも見せなかった事に対しても何も言わなかった。何となくではあったが、この先どうすればいいのか悩んでいるのではと密かに思ってはいたが尋ねる事が憚られた。
別に遊んでいるとかではない。かといって何をするでもなく、ただただ生きているという感じだった。息子が一日中、家にいるのが当たり前の光景となっていたが何も言わなかった。
働いていないとはいえ毎月数万円を家に入れてくれてもいる。おそらく退職金からなのだろうと思っていた。それが尽きる頃にでも仕事を探すのだろうと、勝手に思い込んでいた。
だが違っていた。
まさかこんな事になるとは思わなかった。こんな行動に出るとは思わなかった。一瞬たりとも、この行動を予測しなかったかと言えば嘘になる。もしかしたら、こういう行動を考えていたりするのだろうかと思った事はあるが、そんな馬鹿げた質問を口にするなど、親として出来るはずもなかった。
世間から注目されるような立派な人間になる事を望んだ訳でもない。おそらく、どの母親も望むであろう、ただただ我が子の健康と幸せを望むという小さい望み。
世間的には貧困と言われる状況であっても出来る限りの愛情を注ぎ育ててきた。遺産等、何を残す事も出来はしないが、せめて負債となる物は残さない様にはしてきた。それは一心に我が子が健康に、そして幸せになる事だけを望んだが故の事。
だがそんな小さい望みですらも自分にとっては身分不相応だったという事なのだろうか。それだけを望んでいただけなのに、その結果がこの惨状だと言うのだろうか。
物言わぬ息子の顔を見つめていた母親の目から涙が溢れだした。
それほど悩んでいたのなら、こういう行動に出るつもりであるなら、ひと言いってくれれば一緒に逝く事も出来た。既に50歳近いとはいえ、自分の大切な息子である。一緒に死んで欲しいと言ってくれれば、自分だって先の短い高齢でもあり一緒に死ぬ事も出来た。相談してほしかった。それとも自分は相談する価値もない親だったと言う事なのだろうか。
母親は無残な最期を遂げた息子の姿を見ながら、悔し泣きとも言える大粒の涙を零し続けた。そして嗚咽を交えながら、床に倒れ込み大声で泣き出した。その声は近所にも聞こえる程の物だったが、母親は憚る事無く大声で泣き続けた。
数分の間、母親は床に臥せりながら大声で泣き続けた。そして何かを思いついたかのようにバッと顔を上げると、息子の近くに落ちていた包丁を手に取った。
手に掴んだそれには息子の黒ずんだ血がたっぷりと付着していた。その包丁を両の手で握り締めると、自分の首の左、頚動脈付近へと切っ先を勢いよく突きたてた。直後、強烈な痛みに耐えかね包丁を投げ捨てた。だが頚動脈は確実に切り裂さかれ、その傷口からは止め処なく真っ赤な血が溢れかえり、数秒もすると視野が狭まり始めた。それと同時に意識も遠のき始め、全ての力が抜けていくのを感じたその直後、床に崩れ落ちた。
床に倒れた母親は薄れ行く意識の中、無残な姿を晒す息子をジッと見つめ「ごめんね」と、そう涙ながらに呟いた。
もしかしたら息子は自分を恨んでいたのではないだろうか。こんな母親の元に生まれた事を不幸と思っていたのではないだろうか。経済的に裕福な家庭に生まれてきていれば、今とは全く異なる状況で生きる事が出来たかも知れない、多くの経験を積ませてあげる事ができたかもしれない、幸せと言える状況になっていたのかもしれない。小さい頃から色々な体験や、高度な施設で勉学が出来る状況に置かれていれば、色々と違っていたかもしれない。
薄れゆく意識の中、母親は息子の姿を見ながらに、そんな事を思っていた。そして何度も何度も「ごめんね」と、心の中で呟いた。それを提供して上げられなくてごめんねと、自分が母親でごめんねと。こんなに痛い思いまでさせてごめんねと。
母親の目は息子をじっと見ていた。だが、その開いているはずの目は既に何も見えていなかった。そして声も発せない状態となった母親の唇が、わずかに動いた。
「こんなお母さんでごめんね」
◇
大声で泣き叫ぶ母親のその声に、近所の人達は何かあったのだろうかと心配し、皆で伊佐末の家の様子を見に行く事にした。そして「こんにちはぁ……」と、開きっ放しの玄関扉から中を伺うようにして、皆で覗きこんだ。
台所の床一面にはどす黒く見える血の海が広がり、その血の海には伊佐末と母親が並ぶ様にして倒れていた。家の中を覗いた人達の目に飛び込んできたのは、そんな惨状だった。それを目にするや否や皆同時に奇声を上げ、ある者はその場に尻餅をつき、ある者は一目散にその場から逃げ出した。その声を聞いて更に周囲の人達が「何事だ」と駆け付け始め、皆がその状況を目にすると共に、誰彼無しに119番へと電話した。
5分後、けたたましいサイレンと共に救急車が到着した。それに続くかのようにして1台のパトカーも到着した。119番へと電話した者は救急車のみを呼んだが、電話を受けた消防の通信指令課員は事件性ありと判断し、警察に連絡していた。
到着した救急車から救急隊員が降車すると、集まっていた住人達の誘導の下、伊佐末の家の中へと駆け込んだ。同様にパトカーから降車した警察官も、救急隊員の後に続いて家の中へと入って行った。
数分後、野次馬を含む付近の住人達が固唾を飲んで見守る中、救急隊員が伊佐末の家から出てきた。無表情の隊員はそのまま救急車に乗り込むと、その場を静かに去って行った。その様子を見ていた住人達は事態を察した。
その後複数台の警察車両が到着すると共に付近に規制線が張られ、伊佐末の家の捜査が始まった。同時に、捜査を見守る野次馬を含む、近所の住人達にも事情聴取が行われた。
その結果、住人達は伊佐末の母親の悲鳴を聞いた事、その悲鳴を聞いて様子を見に来た事、不審者らしき者を見かけてはいない事、伊佐末が現在無職で有り引き籠りがちだった事という証言を得られた。
そして家の中が荒らされた形跡も無く、凶器となった包丁には伊佐末と母親以外の指紋が付いていない事、伊佐末自身の体にも自身で付けた頸動脈の傷以外に不審な点は無い事等から、伊佐末芳郎は将来を悲観しての自殺、母親はその息子の姿を見た事による突発的な後追い自殺と断定し、2人共に事件性は無く、事故として処理される事となった。
伊佐末の携帯電話には、スーサイドワーカーこと九時堂久光とやりとりしたメールが残ってはいたが、早々に自殺と断定された事から、それを警察が見つける事は無かった。
スーサイドプランナーと呼ばれた赤村英知。スーサイドワーカーと呼ばれた九時堂久光。同様の支援を行っていた2人が、人知れずこの世から去った。その2人がそのような別名で呼ばれていた事を知る者は決して多くなく、九時堂に至っては、本名と別名の2つを知る者は誰1人として存在しない。故に今も尚、ネットの世界には『スーサイドプランナー』と『スーサイドワーカー』、そう呼ばれる者を探す人が蠢いていた。それを求めて赤村英知と九時堂久光を探す人々が、人知れず、蠢き続けていた。
◇
20XX年『終末管理法』制定。
制定されると同時に、厚生労働省には『終末管理局』が新設された。新設された終末管理局の役割は、当局の管理監督の下で、個人に対して、個人の終末日、つまり亡くなる日を通知する、というのが主な役割である。しかし、あくまでも医療行為、健康診断等の膨大な身体情報を基に、本省のコンピュータシステムで計算した物で有る為、事件事故等、不測の事態で亡くなる場合には無意味である。また大病を患っている、持病がある等の場合にも無意味である。この制度は、健康体の人物を対象とした、福祉の一貫として位置づけられている。
個人に終末日を伝える方法は葉書とされた。毎月の月末日に、厚生労働省の本省に設置されているコンピュータシステムで終末日を算出し、同時に終末通知の葉書を作成する。作成後は、即刻、郵便として全国へと発送される。対象期間は、月末日から2か月以内に死亡予測が出た個人宛に発送される。
また、葉書を受領した人達に対する精神ケアの為に、各自治体には『終末ケアセンター』を設置する事も義務付けられた。終末ケアセンターの役割は、通知葉書を受領した人達へのカウンセリング、そして安楽死の実施という、2つが主な役割とされた。
安楽死の方法は飲料による服毒と定められた。安楽死が目的の為、飲む事によって苦しみを一切伴わず、且つ終末の飲料としても美味しい事も求められた。その要求に対して、飲んだ直後から急激な睡眠作用を誘導、同時に脈拍低下が始まり、数分後に完全な心停止する飲料が開発された。そしてその仕様を邪魔しない味を求めた結果、ぶどうを原料としたワインが開発された。
財政的にも公的支援が図られる事になる。終末日を迎えた時に負債があれば公費で負担する事になった。そのかわり、終末日は保険金融業界にも連携され、クレジットカードは即時利用停止となる。終末日以降はローンも組めず、銀行の現預金か、現金決済のみとされた。
終末日以降の自殺での保険金搾取も考慮し、生命保険も停止という措置がなされる。そのかわり傷病での医療費の負担は公費で全額なされる。資産の相続についても軽減措置がなされ、名義変更が必要な家や車と言った資産については、妻子を優先に自治体のシステムで、自動的に名義変更まで行われる。
遺体の引き取り先が無い、若しくは引き取りを拒否された場合には、自治体により火葬、埋葬まで行われる。その際は、自治体の共同無縁墓地へと埋葬される。これは行旅死亡人と同様の扱いである。
終末を通知された人が、自暴自棄になる事も想定され、人は勿論、社会に対して、破壊衝動に駆られる危険性を考慮の上、終末管理局にてそれらの衝動に駆られそうな危険人物の特定も行われる事になった。これも本省の最新のコンピュータシステムで、過去の実績等(事件事故等)の警察情報をデータベース化し、システムにより人物抽出される。これらを担うのは、終末管理局直轄の部門で『終管Gメン』と呼ばれた。終管Gメンは、警察庁との情報を含めた密な連携を取り、対象者の監視拘束を行う。そして一度拘束されると、終末日まで拘束される事になる。それ程の強権を発動する事に対して、賛否は拮抗しているが、終末日の通知は残りの時間を有意義に過ごすという、福祉の一貫であるにも関わらず、個人の身勝手な破壊衝動に対しては、社会の安定を第一に考え、強権を持って抑えるというものである。
終末日を知らせる葉書は『終末通知』と呼ばれた。
そして、安楽死を行う飲料は『終末ワイン』と呼んだ。
2020年09月07日 3版 前作(スーサイドプランナー)の改稿に合わせ改稿
2019年08月23日 2版 誤字含む一部改修
2019年08月16日 初版