5(始末)
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放課後の理科準備室は、なんだか虚ろで寂しかった。あたしはマッチでアルコールランプに火を点けて、三脚台の下に滑らせた。
石綿金網の上に置いた200㍉㍑のビーカーでお湯を作って、ティーバッグを浸した。琥珀色が滲み出し、紅茶の香りがほわっとした。そしてふと、ムジナから貰った笛のことを思い出した。あれはどこ? 通学鞄のポケットに入ってた。口に咥えて吹いてみた。
スカッと息が抜けた。やっぱ騙された。それとも化かされた?
「どうした」
あたしはイスから転げ落ちた。
ムジナは毛だらけの顔を、にやっと歪めて笑った。「話を聞こう」
あたしは、シャベルで殴ったこと、金平糖をお腹に乗せたこと、半分に千切れた身体を埋めたことを、すっかり全部、話していた。
ムジナはお行儀よく、ふんふんと相づちを打ちながら聞いていた。「で?」
あたしは肩をすくめ、「さぁ」
ムジナはケッケッケと、変な笑い声を立て、「じゃ、またな」去ろうとした。
「ちょっと待って」あたしは引き止めた。「どうにかしてくれるんじゃないの?」
「どうにかして欲しいのか」
「うん」あたしは頷いた。
ムジナはまたケッケッケと笑った。「それはちょっと高くつくなぁ」ケッケッケ。
いやいやいや。「助けてあげたでしょ?」
「ああ」そんなこともあったかな、とムジナはしらばっくれて、ケッケッケと笑う。
あたしはムカッ腹が立った。「役立たず!」
「五月蝿い、小娘」
ムジナは爪の長い指をさっと振った。ぽっと火が走って、アルコールランプが吹き上がった。熱風と光輝が躍り掛かった。視界が真っ白になって弾けた。炎が顔を焼き──あたしは闇にとっぷり落ちる。
「起きた?」
保健室の池上先生の声だった。返事をしようとしたが、無理だった。のどが狭くて、息が苦しい。顔が熱くてピリピリ痛い。
手を動かそうとして、上からそっとやさしく押さえられた。「無理はしないように」
目は開かないけれども、なんとなく明るいのは分かった。先生が間近にいるのが、ぼんやり分かる。
「だいぶ酷い悪戯をされたみたいだね」
そんなかわいいモンじゃない。
池上先生はうーん、うーんと唸り、「ガマの油で手当てはしてるんだけどねぇ」歯切れ悪い。「退院予定は読めないみたいよ」
あたしはやっとの思いで声を振り絞った。「オトーサンが、」
ああ、とか、うん、とか、やっぱり池上先生は歯切れ悪かった。「また来るね」
また来た。
「知り合い」そっけない紹介。
あたしの顔は包帯グルグルなのである。挨拶代わりに、手をゆるく握られたので、握り返した。池上先生の知り合いは、包帯の上からあたしの顔の寸法を計った。
「また来るね」
また来た。
「できたよ」
プラスチックのお面を貰った。あたしは新しい顔になった。
「また来るね」
来なかった。
あたしは新しい顔を掻いた。カリカリって硬い音がした。新しい顔の下はジクジクしてる。軟膏を繰り返し塗られた。ピリピリした痛みは減ったけれども、ビキビキと引きつった。何錠ものお薬を飲み、何回も腕に針を刺された。あたしの時間は止まっていた。
おー、すごい顔になったなあ。
オトーサンがやって来た。びっくりした。
どうしたの? 耳は聞こえても、目は見えないし、鼻もきかない。でも、お父さんは帰ってきた。
ああ、なるほど。そういうことか。あたしは合点が行った。先生がやってくれたのだ。学校で起きたことだから、先生がやってくれたのだ。そして、オトーサンはもういない。
あたしは泣いた。次は、あたしが始末をつけなきゃいけないんだ。
退院したら海に行く。キリコを埋めた浜に行く。砂の上に寝そべって、砂糖菓子をおヘソに乗せて。キリコがやって来るのを待つ。
お面の下で、あたしは泣いた。世界って、ちっとも全然、甘くない。なんか酸っぱい。そして苦い。
─了─
覚書
作中の登場人物またはそれに類するもので、明瞭でないものはカナ表記とした。
現在では特に不適切とされる箇所(未成年が教育施設内で酒造・飲酒と思われる行動)は、本筋と特に関係が薄いので削除した。併せて表題の「月輝(moonshine)」も「月影」に改めた。