1(ウンムシを捕まえよう)
シュガーダスト・シャドームーン(34)
「よし」とキリコは、左右均等三つ編みお下げを跳ねさせ、「ウンムシを捕まえよう」突飛なことを口にした。
土曜の半ドン。理科準備室。開け放った窓の向こう、外の世界は残暑でピーカン。セミがシワシワ鳴いている。
キリコは引き戸に貼られた月齢カレンダーをぴしゃぴしゃ叩いた。お下げ髪がぴょこぴょこ揺れた。今朝方、もっさもさで登校して来たので、授業の前に心優しいあたしが編んでやったものなのです。
「薮から棒だ」あたしは欠伸混じりに食べ終えたお弁当箱を包み直し、お湯の入ったビーカーから、紅茶のバッグを引き揚げた。すてきな香りが、ほわっとする。
「今夜は満月です!」
駆け足で教室を突っ切り、食卓代わりにしていた作業テーブルに手を突くと、身を乗り出して、「望月!」叫んだ。
「それは生物部の領分じゃないですかね」とあたし。
「生物部は潰れました!」分かっていることを口にする。「ヨリちゃんは興味ないの!!」そして憤慨、鼻息噴出。
「中坊が夜中に出歩くのは興味半分にしてもダメだろ」しかも女子。あたしたち女子。補導で済んだら御の字だ。
あたしの正論にキーッってキリコは声を上げた。本当に「キーッ」って声に出して言うヤツを、あたしはヤツしか知らない。
「ウチらは化学部ですよ」ばけがく。あたしは正論に正論を重ねた。「先輩方から連綿と受け継いだ錬金術の実験をするのです」
「キーッ!」
また言った。お前はサルか。
サルはテーブルに乗っかって、飛べないキジみたいに手足をバタバタさせた。なんとはしたない。スカートが捲れてパンツが見えた。なんだその柄。
「オーケー、オーケー」あたしは手のひらを胸の高さにして、「Take it easy」なだめた。
「……ヨリちゃんは、嫌なの?」
今度はイヌに。悲しそうな瞳で哀願してきたけれども、あたしはあえて鬼になる。
「いいか、キリコ。なぜ生物部が廃部なったか思い出せ」
「知りません」ツン、とキリコ。コイツはよくよく都合よく、知らんぷりする、その実、とっても悪いヤツだ。
カッパが出た。
この場合、出た、と言うのは出現した、のではなく、出土した、と表現するのが正しい。更に言うなら、カッパだったもの、が正しい。当時、小学生だったあたしでも知っている。
カッパだったものは生物部が引き取り、ひと夏かけてミイラにした。標本作りのために、大学の先生を訪ねたりした。全国中学なんとか科学賞を貰ったとかで、秋の文化祭で展示された。
で、問題になった。
三日三晩、大荒れに荒れた。雷鳴轟き、稲光走る。用水路は溢れ、土嚢が崩れた。
親ガッパが子供を返せと言う。山に帰れないと言う。だからそうした。なのに尻子玉を要求した。そこで新任の吉川先生(女・独身。備考:メガネ)が選ばれた。
のだが、更に要求が重ねられたので、猟友会が出発した。一行に、どこそこからやって来た渡辺何某というお爺さんが加わった。
渡辺翁は腰に刀を下げ(本物だ)、山に入った。カッパの干物を戻し(薬草を溶いた池に浸した)、尻子玉を取り返した(駄賃じゃ、と翁は言った)。
七日七夜の入院を経て、吉川先生は帰ってきた。「霊抜き」なんて身も蓋もないあだ名がついた吉川先生は、何を隠そう、あたしのクラス担任です。
この事件の教訓を、「遊び半分で行うのはいかがなものか」とあたしは締めくくった。
「いや」違うのです、とキリコは言う。「真面目です」
「どこがさ?」
「ウミウシに、お願いを聞いて貰うのです」
これにはグゥの音も出なかった。
*
本日の活動:カルメ焼き。
ウミウシは甘いもので釣れる。だいたいの変なヤツやモノは、甘いものが好き。酸っぱいだとか苦いだとか、そんなものは好まれない。甘いものが贅沢だった時代の名残だと思う。現代に生まれたことに感謝。甘いものなら金平糖でも落雁でも、それこそ角砂糖でも良いのだろうけれども、ここ化学部。理科準備室。カルメ焼きは毎年の文化祭の出し物で、道具もあるし、何よりたいそう部活らしい感じがするのです。さー、いってみよー。
用意するもの:
銅製カルメ焼き用おたま……人数分。備品。
砂糖……ザラメ。欠品。調理室よりガメる。もとい、料理研から分けて貰う。
炭酸水素ナトリウム……少量。お掃除なら重曹。お料理ならベーキングソーダ。
一酸化二水素……適量。水道水で代用。
その他、加熱器具一式。三脚台、石綿金網、アルコールランプ。攪拌棒(わり箸)。
これは調理でなく、実験である。つまみ食いは味見でなく、考察である。レシピは代々受け継がれているノートの切れ端(手順は簡単・分量は馴れ)。去年の文化祭でさんざん焼いたので、最初こそは膨らみが足りなかったけれども、きちんと出来た。ぽこぽこ膨らませて、ぽいぽい作って。壊れないよう空箱に並べた。部活は夕方前に終わった。あたしたちは実験の後片づけをして、夜の待ち合わせの約束をし、校門の前で別れた。
*
家に帰ると、オトーサンは居間で揺れていた。影だけのオトーサンは、放っておくと天井の方へ、ふらふらと昇っていく。そしてどこかへ行ってしまう。かもしれない。だから床に太い杭で打ち付けている。
はじめは工具箱に入ってた細い釘を使って留めた。けれどもなんだか心もとなくて、物置きを漁って見つけた。茶色い錆が浮いていたので、同じものをホームセンターで探してみたら、けっこうなお値段だったので諦めた。おこづかい、貰ってないし。それでもなんだか安物で済ませたくなかったもので、錆を金ブラシで擦って落として、金槌で手が痺れるまでガンガン叩いて、縫い付けた。
ただいまを言って部屋に引っ込み、制服から着替えて居間に戻る。杭に被せていた黄色いスポンジを外して、ワセリンを擦り込んだ。ついでにお手々のお手入れもする。ワセリンは防錆・防水のためである。杭を打ったばかりの頃に、お味噌汁をこぼした。バケツをひっくり返した。牛乳パックを倒した。突っ掛かったこともある。足の指から電気が走って、悶絶した。そんなことがたくさんあって、居間の一等地に打った杭も、今ではうまく迂回できる。まぁ、だいたいは。