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短編

作者: おそら

 この町には、呪いの木がある。

 とはいったものの、この話をすると誰に信じてもらえるわけでもなく一蹴させるのがオチなのだが。

 町のターミナル駅を抜けて、東に1時間ほど歩いた場所に公園がある。そこの公園に半径2m程のドでかい木が一本ずどんと立っている。何の木だったかは忘れたが、落葉広葉樹らしく、夏には全身を緑の葉で覆い、秋には紅葉させ、冬にはすっぽんぽんになるらしい。

 らしい、というのは私自身その変化する姿を見た事がないからだ。

 別段、行くのが面倒くさいからとか、遠いとかではない。

 むしろ家に近く、学校に行くときは毎朝見かけるくらいには見慣れた木だし、興味具合で言えば、このあたりで有数のドでかい木だから十二分である。というか、全国でもこんな気がある場所なんて聞いたことがない。観光名所になってもおかしくはないだろう。

 ああ、いや。大きさで言えば九州の島のほうにドでかくて有名な世界遺産があったな。

 私が言いたいことは、そうではないのだ。

 私は「その木が変化する様子」を見た事がないのだ。

 さらに話すとしたら、こうだ。

 私には、その木が『朽木』にしか見えないのだ。

 その木の緑の葉も紅葉も、見た事がない。常に一定に、枯れている姿しか見た事がない。

 両親が言った。「きれいな色をしているね。花はないけど、ここにお花見しに来てもいいくらいだ。周りには桜の木もあるしね」

 友人が言った。「こういうのを『風情がある』っていうんだろうな。スゲーわ」

 物心つく前は、私はこういっていた。「この木の葉っぱなんて見えないよ。何が見えてるのさ」。無論、そんなことを言えば困惑した顔をされた。私は自分がおかしいと思われることが癪だった。そのためにその木の話をした日には、ともどもに嫌な気持ちになった。

 この木は呪いの木だ。私にしか真実の姿が見えないのだ。

 私はそう思うようになった。

 中学に上がった頃に、私は周りに合わせるようになった。「いつみてもすごいね」と言われれば、「そうだね」と返し、「枯れ葉集めて、焼き芋しよう」と誘われれば、「面倒くさいから、やるなら適当にやってて」とつっぱねた。私には、その木が落とした葉など見えやしない。

 高校に上がり、「やはり自分がおかしいのだろう」と本格的にその木のことについて調べ始めた。無論一人で。誰かの助けを借りようものなら、その人間に自分がおかしいと思われ、精神病院にぶち込まれるからだ。幾度か両親に病院へと連れ出されたことが、この時には相当堪えていた。私の自尊心が、おかしいと思われることを許さなかった。

 しかし、このころには周囲とのズレは逆に自分にとって面白いものだった。異質の目で見られることは許せなかったが、自分が周りを「おかしな奴ら」と嘲笑うことは至上の喜びとなった。

 まず初めに夏だ。親が「今年もすごいね」と言い出した時期から実験を開始した。

 店に物干し竿を買いに行き、木を全体的につついてみる。私の見た目通り、枯れ木をつついてるようにしか思えない。

 木に登り、葉っぱがあるであろう場所をまさぐる。葉の感触はない。

 次に、枝を折り別の場所へと移動させる。何か変化があるかと思ったが、まあとくにはなかった。

 そのあとに、葉っぱがあるであろう場所で手をまさぐって、葉っぱをちぎったと思ったらそれを口に入れて、咀嚼して飲み込んだ。口の中に変化はなかったし、糞から何か出てくることもなかった。

 ついでに見えてる枝も食べた。言うまでもないが、結構口の中が傷ついた。歯茎は切り傷が無数にできたし、2、3か所深めに切った。傷跡は残った上、傷が塞がるまでに2か月はかかった。糞からは未消化の木が出てきて、ケツの穴も1か月は痛かった。

 物干し竿は適当にその辺に放置した。

 次に秋だ。「焼き芋ができるね」と言われたあたりから実験を開始した。

 とりあえず、枯れ葉が落ちてるだろうからと思い、チャッカマンを持ってきて火をつけようとした。うまくつかなかった。

 あたりを箒で掃いて、大体集まっただろうなと思ったあたりで、集めたであろう場所に火をつけた。燃えることは無かった。

 友人たちはうまくいったらしいから、いけるかと思ってたぶん、結構ショックだった。

 ただ、子供のランドセルが引っかかっていたのを、うまい感じに物干し竿でとれたのが嬉しかったので、すぐにそのことは忘れた。

「グングニル、グングニル!」そういってランドセルを取ってあげた。

 子供は笑ってくれた。嬉しかった。

 ターニングポイントとなったのは、冬だった。

 改めて思ったことが「私が見ている枯れ木と、周りが見ている木は同じものなのだろうか」ということだった。

 そう思い、12月31日に友人たちをこの公園に呼んだ。名目としては、その日は雪が降ったため、かまくらと雪だるまを作ろう、と言っておいた。なかなかどうして子供っぽかったが、この年になるとそれはそれで面白かったりするので、結構集まってくれた。

 そして実験結果、想像通りであった。

 私は変な目で見られないように微妙な言葉で濁し、楽しく年を越したのち解散となった。

 落ち込むことは無かった。むしろ清々しい気持ちだった。

 大学は地元を離れ、都会の方へと行った。

 それ以来、その木を10年は見ていない。

 地元に残った友人が交通事故で死んだと聞き、葬式に立ち会うために久しぶりに地元へと帰った。

 その友人とは、私は異質の目で見てはいたが、仲が良かった。悲しみがあった。

 普通の感情があったことに我ながら驚いたが、其れはそれとして私はあの木が気になった。いまだなお、朽木なのだろうか。

 別段どうでもよかったのだが、それがどうしても頭から離れず、葬式が終わったらすぐにそちらへと向かった。

 そして、複雑な気持ちにはなったが、安心した。

「グングニル、グングニル!」物干し竿で木をつつく。

 楽しい。

 この木は、私にとっての呪いの木だ。

 今までも、これからも。


読んでくださり、ありがとうございます。

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