世界の裏側知ってます
どんなものも過ぎれば毒となる。
重い目蓋を持ち上げ、真っ先に目に入った男の美貌は、八重子の理性を吹き飛ばした。
彼女にはするべきことがあった。惚けている余裕などなかった。それなのに、眼前の麗しさに釘付けになってしまった。
抜き出て白い肌に、甘やかな顔立ち。長い睫に縁取られ、目元には影が落ちている。
それでも、琥珀色の瞳が息を呑むほど美しいことは分かった。僅かな光を吸い込んで、蕩けていきそうなつやがある。
微動だにしない、できない八重子に男は優しく笑う。
馬鹿にしたのだと思った。
でもすぐに、胸が締め付けられた。そうして、彼女はおそらく、不細工にも口を引き結んだ。
真一文字の口元に、ふ、と吐息が吹きかかる。
期待、不安、喜び。嬉しい。……けれど。
あぁ、いけない。
彼女には、するべきことがある。
■■■
「なぁ、知っているか。このギルドのどこかに、救済窓口というのがあるんだと」
「救済? それはまた、大層な名前だな」
王都の中心にある冒険者ギルドには、様々なクエストが持ち込まれる。
子供が小遣い稼ぎに受注するような簡単なクエストから、Bランクの冒険者が複数人必要になるクエストが次々に依頼され、達成されている。
差し迫った危険があり、助けを求めるクエストが持ち込まれるのは日常茶飯事で、領土を荒らす魔物の討伐を領主が依頼することも珍しくない。
だが、これらをして救済とは言わないだろう。
依頼書が張り出された巨大な掲示板を上へと仰ぐと、広い丸天井に施された、細かな細工が目に入る。
石を削り、宝石を埋め込み、表現されているのは聖書の一場面だ。
創世神のもたらした光が地面を照らし、精霊が目覚めて産声を上げ、世界に色と音が生まれるという、そういう場面である。
救済とは、この、世界を照らす光のようなものだろう。
「どこにあるんだ? その救済窓口ってやつは」
「それが、分からねぇんだよ。世話になった奴はいる。ギルドでフラフラしてたら、『救済窓口の者です』って声をかけられたんだと」
「いや、お前、何だその、杓子定規の台詞は。胡散臭いにも程があるだろ。詐欺を疑えよ」
言うと、相方はニヤリと笑う。
「声をかけられたのが、Aランクの冒険者じゃなけりゃな。与太話で終わったんだろうが」
「Aランク!?」
彼は耳を疑った。Aランクの冒険者とは、殆ど雲上人だ。
Bランクは、難易度の高いクエストをがむしゃらにこなしていれば、いつか届く可能性がある。言わば、地続きの世界だ。
これに対し、Aランクになるためには、災害に居合わせて街を救うだとか、神託をこなすだとかいう、天に選ばれ、なおかつ成し遂げる力が必要になる。
救済。Aランクの冒険者。
間近に奇跡が転がっているような気がして、男は相方に話の続きを促した。
「それで、声をかけられて、どうなったんだ?」
「それも分からねぇ」
「はぁ?」
「だからよ、記憶を消されてるんだよ。Aランクの冒険者が! 魔法で消されたんだ。でも、レジストした。いくらかは記憶が残った。それが、胡散臭い誘い文句だ」
「Aランク冒険者の耐魔力でそれっぽっちしか残らないとなると、俺達なら記憶が消えた違和感さえ残らないかもな」
「これだけの魔法の使い手が絡んでるとなると、大事だ。救済窓口なんて名前に見合うかは分からねぇが、何かは起きてると見て良いだろう」
何か。
吟遊詩人に歌われるような?
歴史に刻まれるような?
「それで、それで?」
意気込み、身を乗り出した男を片手で押し返し、相方は肩を竦めた。
「どうも何も、この話はこれで終いだ。俺も人から聞いた話だし、気になって情報を集めても、これ以上を知ってる奴は誰もいねぇ」
「その、Aランクの冒険者って誰なんだよ。話を聞くことは出来ないのか」
「神殿の依頼を受けてドラゴンを狩りに行ってるってよ。帰りはいつになることやら」
追いかけて話を聞くか、と冗談交じりに言われ、男は相方の肩を小突いた。
(流石にそこまでは……うぅん)
続きを教えて貰えない話ほど気になるものだ。
情報屋に聞いてみるか、それともいっそ、依頼を出すか?
「お兄さん」
そんな話をしていると、横から声がかかった。
「救済窓口の話、教えてあげても良いですよ」
「は」
見れば、黄みがかった肌色の少女が、彼を見上げている。
……おそらく、少女だと思われる。不思議な顔立ちで、年齢がよく分からない。目鼻立ちの彫りが浅く、皺のない肌をしていて、作りかけの人形のようだ。
少なくとも、妙齢の女性とは言えまい。すとんと筒状の体型に、男は眉尻を下げた。
「俺たちの話を聞いていたのか、おちびさん」
「ちび……!? いえ、いえ。置いておきましょう。もう慣れましたからね、えぇ。それより、救済窓口の話です。知りたいですか」
「おちびさん……失礼、お嬢さんが教えてくれるって言うのか」
「はい、教えて差し上げます。ただし」
子供扱いを嫌がる年頃であったか、と言い直す。
しかしそれも正解ではなかったようだ。今度は苦虫を嚙み潰したような顔をしている。
けれど、彼女は不満を口にすることはせず、ピッと指を3本立てた。
「銀貨30枚を頂きます」
「30枚! まてまてまて」
彼が答えるよりも早く、相方が口を挟んできた。
「おちびちゃん、小遣い稼ぎしたいのなら、もっと上手くやんな。俺たちが相手だったから良いものの、冗談の通じない奴もいるんだ」
「冗談じゃありませんし、お金を騙し取ろうとしている訳でもありませんよ。救済窓口の話を、私はもっと詳しく知っているんです」
彼女は相方からこちらへと向き直り、目を合わせて「どうしますか」と聞いてくる。
やはり彼女は「おちびさん」と呼ばれる年齢ではないのだ。情報が欲しくてうずうずしているのがどちらか、しっかりと見抜いている。
冷静な眼差しは、この辺りでは珍しい純粋な黒だ。
噂話の好きな相方も知らない話を、こんな女の子が知っているわけがない。
――が、不思議な少女だ。妙に気になる。
「払おう」
「お、おま、馬鹿か!」
相方に肩をがくがくと揺さぶられる。
馬鹿な真似をしているつもりはない。彼は自身の直感を信じたのだ。
「情報のお買い上げ、ありがとうございます。そっちのお兄さんはどうします? 2人で話を聞くなら1人銀貨20枚にまけておきます」
「作り話だと分かってて金を払う馬鹿がいるか! Aランクの冒険者、そいつに忘却の魔法をかける魔法使いが絡んでる話を、どうしてお前みたいなチビが知ってるんだよ」
「そこは話の核心なので、情報代を頂けないなら教えるわけにはいかないですね」
「親の顔が見てぇ……」
「それは難しいですよ」
こめかみに青筋を浮かべた相方を適当にあしらい、彼女は彼の腕を引いた。
ギルドの真ん中にある掲示板から離れ、窓際に置かれた長椅子に並んで座る。相方が追いかけて来なかったので、彼は財布から銀貨30枚を取り出した。
「魔王の予言を知っていますか」
彼女は銀貨を受け取って片付けると、代わりに金属製のプレートを取り出した。
彼も冒険者だ。それが、結界を張るための道具だと一目で分かった。魔力を供給する貴石が中央にはめ込まれ、結界の範囲と内容を示す呪文と魔方陣が刻まれている。
「もちろんだとも」
ギルドで小遣い稼ぎをする娘が持つ代物ではない。
彼は自身の勘が正しかったと確信した。
「3年前、魔王の再来が予言されました。その日から神殿は、魔王討伐に備えてあらゆる準備を行ってきました」
冒険者であれば誰もが知っている内容だった。
ギルドが今の形になったのも、魔王の予言がきっかけである。
国と神殿が援助して、来たるべき日に戦力となる戦士を育てているのだ。全力でもって。
彼が言うと、彼女は頷いた。
「そう。だから、そろそろ来ないと、不味いんです」
「は?」
――来ないと、不味い?
聞き間違いかと思い、彼はいっそう耳を澄ませた。
だというのに、話の続きが聞きたくて、わくわくと逸る自身の鼓動が邪魔をする。
「ずうっと準備をし続けることは、大変だと思いませんか。例えば、剣術の大会があるとしたら、貴方はその日がピークになるように体調を整えませんか」
「そう、する」
「来たるべき日は、とっくに来ている筈でした。3年前、魔王の再来に備えて、神殿は大掛かりな魔法を使いました。魔王が未だに現れないから、神官達の命を削って、この魔法は今も維持されています」
ふと、思い出す。
先日、彼が世話になっていた神殿の大神官が亡くなった。背筋をぴんと伸ばし、闊達に話す男であった。未だ若く、病を得ているという話も聞かなかった。急で、早すぎる死を彼は嘆いたが……。
あの時、神殿の者達はどんな表情をしていた?
「大掛かりな魔法とは? 君はそのことも知っているのか」
世界の裏側がすぐそこに見えている気がして、彼は少女に詰め寄った。
興奮のまま、彼女の手を取り、顔をずいと近付ける。
「君はいったい――」