前編
平日の午後3時頃、築20年の一軒家で、その事件は起きてしまった。
「ただいま!」
幼稚園から母親と一緒に帰宅したのは、この家で暮らす5歳の次女、久保田奈緒。高校2年生の姉を真似てか、肩口で切り揃えられたさらっさらの黒髪と母親譲りの大きなたれ目が特徴的だ。
家族関係を説明するなら、奈緒には父親はもちろんの事、母親と姉の他に大学生と中学生の兄がいる。
「あ、しまった。牛乳を切らしてたんだ。奈緒、お母さん今からスーパーで牛乳を買ってくるからお留守番しててね。2階にお姉ちゃんがいるから何かあったら、お姉ちゃんに言うのよ?」
「はーい」
「おやつは冷蔵庫の中にあるからね」
「うん、分かってるもん!だって朝、幼稚園に行く前にちゃんと見たんだからね」
帰宅して早々、牛乳を切らしていたことに気が付いた母親は2階の部屋にいる姉に一言、声をかけた後、財布とマイバッグを手にスーパーへと出掛けた。
「指の間も洗いましょー」
奈緒は洗面所で手を洗い終えると、スキップで冷蔵庫に向かう。そして、近場にあった椅子を冷蔵庫の前に持って行き、素早く登ると勢いよく冷蔵庫の1番上の扉を開けた。次の瞬間、奈緒はあるべき場所に『ある物が』無くなっていることに気が付く。
その『ある物』とは。一昨日、幼稚園の帰りに寄ったスーパーで、母親におやつとして買ってもらった『迷推理チョコボー』だった。しかも期間&数量限定で発売された『迷える子羊味』。美味しいかどうかは知らない。
「な、ないっ!」
大きな目を更に大きくさせながら叫ぶ。普通の子供なら、こんな状況になった時、周りの大人に聞いたりするのだが……………奈緒は違う。
なぜなら、奈緒はここ最近、人間離れした頭脳を持つ少年が、難事件を解決する有名なアニメに夢中になり、その影響か、事あるごとに推理ごっこをしてしまうのだ。
「朝、私が幼稚園に行く前まではあったから。えーと……だから、犯人は」
奈緒は短い腕を組んで悩む。眉にしわを寄せて唸ること約10秒。何かを思いついたのか、先ほどとは打って変わり、晴れやかな顔になった。
「わかったわ!これで、難事件は解決したわよ!」
難事件と言う程でもないのだが。
「ていっ!」
自信に満ち溢れた顔で冷蔵庫を閉め、椅子から飛び降りるや否や、全速力で2階へと向かった。階段を登る際、雪崩のような重低音が家に響く。
そして、目的の部屋に辿りついたのか、とある人物がいる部屋の前に立ち止まる。
暴れる心臓を深呼吸で抑え、ドアを一気に開けた。それと同時に、部屋の中にいた人物にビシッと人差し指を向け…………。
「犯人はお前だっ!!」
「は?」
指が示す先にいたのは、奈緒に背を向ける形で椅子に座り、机の上に広げたノートパソコンでゲームの実況動画を見ていた奈緒の姉、久保田 奈津美だった。
奈津美はドアを勢いよく開けた豪快な音にも驚かず、ゆったりと振り返る。その表情は、大人っぽい顔立ちと少し吊り上がった目のせいか睨んでいるようにも見えた。
「犯人はお前だっ!!!」
「いや、二度も言わなくていいから。と言うか、何事?」
淡々とした口調で言い終えた奈津美は、とりあえず、奈緒を部屋に入れることにした。
* * *
「へぇ、冷蔵庫に迷推理チョコボーが無かったと。それで、私が食べたって言うのね」
奈緒はベッドの上に座り、帰ってきてから今までの出来事を事細かく話す。最後に奈津美が要点をまとめて言うと、奈緒は大きくうなづいた。
(私は犯人じゃないけれど、奈緒がこうなると、犯人が見つかるまで諦めないんだよね。さて、どうしたものか。と言うか、迷推理チョコボーの迷える子羊味って美味しいの?)
喉が渇いた為、飲みかけのブラックコーヒーを喉に通していた時、奈緒がとんでもない事を言い出す。
「お姉ちゃんが犯人じゃないとダメだもん。私が犯人って言ったら犯人なの!!!」
「オイオイオイ、チョトマテ」
もはや推理でも何でもないごり押し発言に思わず片言になってしまった。飲んでいたブラックコーヒーを吹き出さないところを見るとクールな姉である。
まぁ実際、性格もさばさばとしており、大人っぽい容姿もあってか、同性からは憧れの目で見られることが多く、異性からは…………ご察しの通り、言わなくても良いだろう。所謂クール美人というのが奈津美という人間だ。
「だって、家にはお姉ちゃんしかいないんだもん」
「はぁん、そういう事ね」
奈緒の思考回路はこう。
迷推理チョコボーは奈緒が幼稚園に行く前までは冷蔵庫にあった。しかし、帰ってきたら無くなっていた。そしてその時、家にいたのは奈緒を含めて母と姉だけ。
母とは昨日、スーパーで一緒に買い物をしていた為、迷推理チョコボーは奈緒の物だと理解しているが、姉は一緒にスーパーには行っていない。
つまり、姉が知らずに食べた。という事になる。
(家にいるだけで犯人扱いとか、そりゃないわ)
平日、奈津美はいつもこの時間帯に家にいる事はない。帰ってくるのは大体6時30分頃だ。しかし今日は学校側の都合で、授業が早く終わり、家に帰る事が出来た為、こうして自室でのんびりしているのだった。
「奈緒?言っとくけど、私は犯人じゃないよ」
「証拠はっ!」
「だって私、甘いもの食べれないし。奈緒だって私が苦党ってこと知ってるでしょ。ほら、このコーヒーだって、砂糖とミルクが入ってないし。確認がてら飲んでみる?」
「い、いやだ飲まないもん。うぅ、お姉ちゃんが甘いの嫌いってことは知ってるけど、でもでもっ!甘いものもたまに食べたくなるでしょ!」
「残念ながら甘いものは体が受け付けないんだよ」
「うぅっ」
話の途中から奈緒も奈津美が犯人ではないことを頭では分かっている。 ……………分かっているのだが。食べられた悲しみと自分の推理が予想と違う事にショックを隠せないのか、奈津美を疑ってしまう。
(見たい動画も見終わったし。宿題も、もう終わったから暇と言えば暇なんだよね。それに、奈緒がこのまま夜までグダグダちゃんだと馬鹿兄弟と父さんがアホみたいに心配するし)
数秒後。やれやれ仕方がないと言うように肩を竦めて苦笑した奈津美は、頭を抱え苦悶の表情を浮かべる奈緒にある提案を持ちかけた。
「ねぇ奈緒、誰が迷推理チョコボーを食べたか一緒に犯人を探さない?」
ーーーーーその瞬間。
「じゃぁ私のこと奈緒探偵って呼んでね!お姉ちゃんは私の助手だよ」
さっきの落ち込み具合はどこへやら。いつの間にか潤んだ瞳は乾いており、全身から『犯人捕まえてやるぜっ!』と言う、やる気が満ち溢れている。
「はいはい、わかりましたよ奈緒探偵さん」
こうして、奈津美と奈緒の推理が始まったのだった。
奈津美の心境
『変わり身早っ!と言うか普通、探偵は事件なんか解決しないよね。不倫や浮気の調査とか。まぁ、奈緒もそのうち分かるか』