海への約束
隔壁の内側には、もう潮風は届かない
海と街の狭間、厚い壁の中はがらんどうで、静かな薄暗がりに、走る二人の足跡だけが反響しながら吸い込まれていく
ひんやりと冷たい空気が、火照った体に心地よい
ここまでこれば、一安心か
古都は、通路の少し開けたところで立ち止まると、
ぐるっと少女の方を振り返って、両手でぎゅうと自身の頬をつねった
「ーーゆえひゃあい」
「……あの?」
古都は、続く少女の言葉を待たず、その両手をがっちり握って、ぶんぶんと上下に振った
「夢じゃない!」
「えぇっ?」
突然の大声に、少女はびくっと首をすくめるが、古都の視界に入っているのは、目の前にいる、唄の中だけに登場する異国の少女、それだけであった
「俺は守屋古都。ここで壁守りをやってるんだ」
「っあ、わたしはクロっていいます。ええっと……」
少女はしどろもどろになりながら、視線を右往左往させていたが、
古都はまったくお構いなしに、
「クロ、ーー不思議な響きだ」
と、掴んだ両手で少女の体を引き寄せながら、鼻を膨らませて、その双眸をまじまじと覗き込む。が、直後、彼女の瞳に苦悶の色が走った
「痛っ!?」
「?_わっ!_ごめん、つい夢中になって」
いつの間にか、クロの両手を握る手に力が入ってしまっていた
古都は慌てて少女の手を解放する。彼女は困惑したように、両手を胸元で強張らせている
その様子に、古都もさすがに罪悪感を感じて、
「ーーあ、そうだ、怪我とかない?_随分と無茶させちゃったけど」
そう、探るように聞くと、クロは戸惑いながらも、こくと頷く
「……よかった、ごめん。お前は向こう見ずだって、菅さんにもよく怒られるんだ」
古都はほっと肩の力を抜いて、気まずさを誤魔かすように、鼻の頭を指先でひっかく
それを見てか、クロの表情がわずか綻んだ
「ーーあの、」
「うん?」
「助けてくれて、ありがとうございました」
「えっ?_あー、そんな。いいよ、むしろ俺の方がお礼を言わなくちゃ」
……お礼?_はて、とクロは首を傾けて、
「あれっ?_あたし何も」
「そんなことない。クロは、海の言い伝え、聞いたことない?」
「ええっ?_海のことは、知ってますけど……、でも、それがどうして?」
「だってほら、海は、人が築きあげたもの、豊かさを生み出してくれるもの、あらゆるものを全部飲み込んだ、怖るべき存在だって」
「ーーあ、……はい」
とたん、古都の言葉に首肯するクロの表情に、さっと影が射した
ばつが悪そうに目を逸らし、ぎゅっと結ばれた小さな両手のひらが厚手の外套に食い込む
だが、それもほんのわずかのこと
「けど、本当にそうなのかって。ずっとおかしいと思ってたんだ。だって、誰も海を見たことがないのに。みんな言い伝えを信じきってる」
そう、古都の続けた言葉に、
「……えっ?」
と、クロはそれこそ驚いて、かばっと顔を上げた
「だから、ありがとう。クロがここに来てくれた。唄の中にあったじゃないか。かつて豊かさを与えてくれた、居なくなってしまった異国の人達のことも。でも、彼らがみんな海に飲み込まれたわけじゃなかった。きっと、あの唄は全部が本当じゃない。それが凄く嬉しいんだ」
クロは、目をぱちくりと瞬かせ、しかし、恐る恐るといった感じで、口を開いた
「ーー古都は、海が怖くないの?」
「まさか!_むしろ夢なんだ。いつか海を見に行くことが。そのために、この仕事をしてる」
そう力こぶを作ってみせる古都に、クロはぽうとした表情で、ぽつりと零す
「ーーわたしも、海を見たくて、ここにきました」
「ーーうそっ?」
驚く古都の声に、クロははっと我に返って、
「ご、ごめんなさい!_でも、古都の期待に、わたし答えられるわけじゃないんです。わたしって、なんなのかな?_自分のことなのに、自信が持てないんです。うまく言えないんだけど、自分が『なにもの』なのか、分からない……。だけど、海から来たってことだけは、きっと間違いないって」
そう、焦りながら吐き出されるクロの言葉に、古都は驚きを隠せない
「海からって……、じゃあまさか、クロは、海を見たの?」
古都の言葉に、クロはううん、と首を振って、
「だから、確かめたいんです。自分のやってきた海が、どんなところなのか」
クロの眼差しは真剣だった
「……クロの、やってきた場所」
古都は、クロの言葉を、飲み込むように繰り返す
ーーそうか、彼女が異国の人なのであれば、彼女はどこか、この国ではない、別のところから来たはずなのだ
そしてもし、まだ異国というものが、海に飲み込まれずに残っているとするのなら、
「……そうだ、父さんも言ってた。今、地上にある全ての色も、本当は海から来たんだって」
古都は、うんと息を吸い込んで、クロの肩を掴んだ
「行こうよ!_一緒に」
「……行く、って?」
「海にさ!_そうだ、俺だって、いつかを待つ必要なんてない。今なんだ」
そうだ、ついに夢見た時が、海に旅立つべき時が、やってきたのだ
「一緒に海に行こう。見にいこうよ。二人で確かめよう。海の本当の姿を」
きっと古都は、一人で海を見に行くはずだった
でも、今はそうじゃない。同じ海を目指す人が、それも異国の少女という姿で、目の前にいる。まるで夢を見ているみたいだった
そしてそれはきっと、同じ海を目指す同士であるクロも、一緒のはずなのだ
「……ーーうん」
クロは、古都の誘いに、呆然としたまま息を吐いた
それはまるで、自分に言い聞かせるような、小さな呟きだったが、
「うん!」
次には、一つ間違えれば泣き出しそうな声と共に、初めて笑顔を見せてくれた
その、自分に向けられた、疑う余地のない信頼と好意の告白に、古都はぎゅっと胸の中心を鷲摑まれたような錯覚に陥る
どきりと高鳴った心臓は、これから初まる冒険への興奮だろうか
今初めて自覚した、目の前にいる『一人の可愛らしい少女』という存在への、どうしようもない感情だろうか
それともーー
「ーーよし、そうと決まれば早速準備しよう!_このまま何も持たずに海に行ったら、たどり着く前に干からびちゃう」
古都は、戸惑う気持ちを切り替えるように、うんと背伸びをした
「それに、菅さんにはああ言ったけど、壁守りの仕事も、明日からすぐすっぽかすわけにも行かないんだ」
それから、極めて現実的な、ここでの生活の後片付けを指折り数えて、
「でも今日はおしまい!_行くあてないだろ?_ついてきて、俺の家に案内するから」
そういって、再びクロの手を取り、ついに海へ向かって走り出した