旅立ちの予感
「……がさーん!_すーがさーん!!」
それはちょうど、正午を回った頃だった
壁に取り付いて、二時間は経ったか
菅は、防錆剤を重ね塗りした壁面を指でなぞり、そろそろ一息つくかと、いがぐり頭に浮いた汗を拭っていた、そして
「うん?」
不意に、自分の名前を呼ばれたような気がして、上を振り仰ぎ、
「菅さーん!_おーい!!」
文字通り飛び込んできた、予測だにしない光景を目の当たりにして、目を剥いた
「うおっ!?」
「つなぁ!_綱渡してぇ!」
なんということだ、今日は天辺で仕事をしているはずの古都が、壁面を滑りながら、こちらに向かって突っ込んできている
足を滑らせたのか?_それにしてはやけに落ち着いているが
「ーーあの馬鹿、なにやってやがる」
菅は腰に手をやると、皮帯から自身の命綱を取り外し、弛みを右手で手繰り寄せる
少し離れたところで、壁面に鋲で打ち付けられてあったその命縄は、やがて落ちてくる古都を捕まえるように、壁に水平に張られた
「さすがっ!」
古都は、その間目掛けて飛び込み、すれ違いざま、張られた縄をしっかりと掴んでいく
瞬間、びぃんと引き絞られた縄は、菅の手から飛び出して、まるで鋲を支点にした振り子のように、捕まった古都の体を、円弧を描く様に振り回す
「うっひゃー」
遠ざかっていく古都の悲鳴が、はしゃいでいる様に聞こえるのは気のせいか
古都は、斜め下方へ向かって壁面を滑り落ちながら、しかし確実に落下速度を殺して、
やがて、その軌道の最下点から少し登ったところで動きを止めた
「おーい!_大丈夫か!」
そう、菅が声を張り上げると、
「ーー大丈夫!_ありがとう!」
わずかの間をおいて、古都の元気そうな声が返ってきた
少年は、その場でぶら下がったまま、もぞもぞと身じろぎしていたが、やがて縄を伝ってするすると下へ降りだす
なるほど、運のいい奴だ
その少し下には、おあつえらえ向きに、足場として設置された踏み板が確認できる
あそこに降りれば、もう大丈夫だろう
「ーーあのわんぱくが」
菅は、ほう、とひと息つきながら、自身の命綱を新たに繋ぎ直し、
「……うん?」
と、そこではじめて、古都が、ぼろの大きな袋のようなものを、大事そうに抱えていることに気づく
「おい、古都!_お前、抱えてるのはなんだ?」
「なんだじゃない!_人だよ!」
「なにぃ!?」
人間だって??_まさかと思ったが、やがて古都が踏み板に降ろしたそのぼろ袋は、確かにふらふらっと自立した
古都は、そのよちよち歩きを支えて、促すように、菅の方を指差す
すると、そいつは、菅の方を確かめて、ぺこ、と深く頭を下げてみせたのだ
菅が助けたことに礼を言っているのだろう。なるほど、確かに人らしい
「さっき上で会ったんだ!」
「上だぁ!?」
菅は、古都が指差す方向を見上げる
当然、今更そこに人の姿はないのだが、しかし、あんなところになぜ?_と菅は首をひねった
「変な奴らに追っかけられててさ!_逃げてきたんだ!」
「は、はぁ!?」
驚愕の事実である
この隔壁に客が来ることは滅多にない。誰もが海を避け、近寄ろうとすらしないためだ。そこに今、壁守り以外の人間がいるということすら眉唾ものだというのに、あろうことはそいつは、何者かに天辺近くまで追い立てられてきたという
「一体なにをやらかしたら、そんなことになるんだ!?」
そのぼろ袋は、よほどのことをしでかしたはずだ。おまけにこの状況では、そいつを自分たちが匿っていると捉えられてもおかしくない。菅が慌てるのも当然であった
だが、古都は、うん?_と首を傾げながら、ぼろ袋の方に視線を移して
「ーーさぁ!?」
と、呑気な返答しか返してこない
だめだ、事の重大さ全く理解していない
菅は、しばらく眉間に手を当てて、どうするかと足りない知恵を絞りながら、
「……見なかったことにするか」
結局、大人の決断と共に気を取り直す
「ーーどういうつもりか知らねぇが、ここで匿うんじゃねぇぞ!_そもそも、仕事は終わわらせて来たんだろうな!?」
「あぁ!」
古都は、そう元気良く返事をすると、ぼろを着た奴の手を引き、踏み板の通路を、菅の足元の方へ向かって走ってくる
菅は、それ以上言うこともないと、さっさと自分の仕事に戻っていたのだが、
「でもごめん、菅さん!」
と、再び古都に、直下から呼びかけられ、
「何だ?」
と、面倒臭そうに視線を下に戻し、
その先にあった、こちらを見上げる少年の満面の笑みに、嫌な予感を覚えた
「俺、今日で仕事やめる!」
「ーーな、なにぃ!?」
それこそ、壁からずち落ちそうになる
古都は、それ以上、理由も言い訳も言わなかった
ただ、その代わりに、引き連れていた『ぼろ』の被っていたものを脱がせてみせる
そして、戸惑いの声と共に現れた、銀の髪をした少女に、菅は驚き、声を失った
「ーーんな!?」
「菅さん!_凄いよ!_異国の人だ!_やっぱり、海が全部飲み込んだなんて、嘘っぱちだった!」
古都は、固まったままの菅に、そう嬉しそうに言い放って、再び、少女の手を引き、隔壁の内側へ引っ込んでいった
菅は、呆然としたまま、二人が消えていった隔壁の通用口をぽかんと眺めつつ、
「……こいつぁ面倒なことになったぞ」
やっとそれだけ口にした