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米が食いたい!  作者: 月湖畔
3 シーズン
24/28

歓迎できない新人育成

桜は花弁を散らし、緑の葉が一気に成長する。

先日までピンク一色だった河原がもう濃い緑に変わっていた。

暖かくなったと思ったら急に冷え込む日もあり、実に春らしい日が続いた。

この時期を乗り切ったらゴールデンウィーク、もう少し気温が上がり過ごしやすくなるだろう。


その前にやってくる行事。

学生も社会人も心機一転ならぬ新規一転のイベントだろう。

学生なら始業式や入学式。

新しい教室で新たな顔ぶれで新学期を始める。

社会人は変わりない人も多いが、学生から勤め人になる新社会人はまず入社式を迎えるだろう。

新人が来てもやらない会社が増えたと聞くが。

かくいううちの事務所も朝礼時に紹介と挨拶はあるが、式らしい式はない。

そういうわけで、今年3人が新入社員として入ってきた。

部署はそれぞれバラバラ。

営業部に1人、総務部に1人、我が設計部に1人。

最初の一月は研修三昧。

まずは事務所に慣れ、仕事を覚える所から。

さすがに利益を上げることは求めていない。

新人の育成には3年かかるという。

2年目で貢献できる様になり、純利益を上げられるようになるまでが3年。

長い目を見て教育していくのが新卒上がりの新人。

だから意欲を持って仕事に臨むのが新入社員のあり方である。




「金子に、新人を任せる」


月頭の金曜日、チーフから呼ばれ外に昼飯に付き合わされた。

連れて行かれたのは事務所近くの洋食屋。

ボリュームの割にリーズナブルで月に何度か利用している。

奢りだというのでハンバーグセットを頼んだ。

面倒な案件でも押し付けようというのかと思ったら、案件ではなく新人だった。


「構いませんが。ちなみに拒否権は?」

「お前が拒否した場合、藤本に頼むことになる」


2択でこちらに回ってきたらしい。

藤本という人は、部署の先輩で、仕事はできるがいろいろだらしなく見本にしてはいけない人物である。

そんな人がまともな教育ができるか不安があるし、あれが会社の普通だと思われるのも拙い。


「そういうことなら引き受けます」

「ちなみに、来週の月曜から出社。部署の研修に来るのは水曜予定な」

「急ですね」


前もって通知が来るものではないのだろうか。


「はじめは人事が面倒見ることになってるから、お前の出番は正式に配属されてからだ」

「わかりました」


話がまとまった頃を見計らった様に料理が運ばれてきた。

熱々の湯気を纏ったハンバーグには濃厚なデュミグラスソースがたっぷり掛けられている。

白い皿にこれ以上映える茶色はないのではないのだろうか。

添えられているサラダ菜やマッシュポテトにからめてもいいが、セットのライスに掛けたい所だ。絶対美味い。

カラトリーにはナイフとフォークが入っているが、箸を掴んで利き手で握る。

左端から一口サイズに切り分け、ライスにワンクッションして頬張る。

美味い。


「新卒の受け入れはお前以来だな」

「そういえばそうですね」

「初めてのことで大変だと思うが、頼んだ」

「頼まれました」


自分が新人の頃を思い起こす。

直属で指導してくれたのが目の前にいるチーフだった。

今、仕事ができているのはこの人のお陰である。

最初に教えてもらったことは……


「新人教育のマニュアルってありましたっけ。貰った覚えがないんですけど」

「ないかもな。俺もやった覚えがない」

「……作りますか?」

「会社の規則とか基本的なもんは人事で用意してるし。うちのマニュアルはなー」


部署に配属されたらよっぽどのことがなければ異動はない。

そのため、実地での教育が基本となっていた。

しかも設計部は専門的なことが多いので、資料におこすことなくマンツーマンで指導に当たっていた。

大切なことは各々筆記。

学んできたことが異なるから、知識や認識の差である。

こういう分野は経験や技術にプライドを持っている奴が多いから、変に口を挟みにくい。


「CADはいいとして、簡単な流れとかスケジューリングとかまとめたものを作っておきます」

「その辺は任せる」

「あと、新人の席ですが」

「藤本に片付けさせる」


空いているはずの席に荷物が山積みにされている。

持ち主が片付けるのが筋だろう。

きっと、言ってもやらないだろうから、強制的に退かすことになるだろうけれど。




月曜の朝、朝礼で紹介された新入社員は、一言ずつ挨拶をしていった。

1人は営業希望の男。

フレッシュスーツに大振りなビジネス時計をはめ、ハキハキと喋る好印象な子だ。

事務希望なのは唯一の女の子。

挨拶で一度躓いたが新人らしく礼儀正しそうな子だ。

そして設計希望の子は、緊張しているのか2人より声が小さく、おどおどしているわけではなさそうだがなよっとしたイメージがある子だった。

3人ともまだ学生のような顔をしているが、1年後どう化けるか楽しみである。


朝礼後は新人教育責任者(総務&人事の部長)につれられ、別室に移動していった。

これから研修が始まるのだろう。

部署に来るまで時間はある。

新人がついても大丈夫なように仕事を調整しなくてはな。

今手をつけている仕事は、来週仮バースを持って打ち合わせにいくところが1件とモデルルームの下請け設計が1件。

過去のサンプルに手を入れたものが使えれば今週末までには上がる。

営業担当に仕様を確認した方がいいかもしれない。

内線で営業担当に連絡を取る。

今手が離せないということで、昼に食事をしながら軽い打合わせをすることになった。

昼は共有スペースで待ち合わせて互いに弁当を突く。

事務所の近くの弁当屋が持ってきてくれたやつ。

今日は唐揚げ弁当とハンバーグ弁当とサバの塩焼き弁当とカレーの4種類。

サバ弁当を購入した。

焼いて間もないのかまだ温かい。

事務員さんがつくるスープ(今日は豚汁だった)で胃を温めた。

食べながら打合わせを進める。

まずはプレゼンテーション用の図案が欲しいとのことだったので、過去のサンプルを少し弄る程度で大丈夫とのこと。

当日の同行は不要なので、仕様書を添える様に指示された。

ミーティングは5分程で終わり、話は新入社員のことになった。


「3人も入るとはなー」

「毎年1人2人でしたね」

「おれ同期いないんだよなー」

「俺も1人だったので同期はいませんね。半年後に営業に1人入ったけど、同期になるのか?」

「半年も違えば後輩ってなるよな」

「歳はあっちのが上ですけどね」


あっという間に弁当を平らげ、食後のコーヒーを啜る。

コーヒーも社内備え付けで自由に飲めるので、休憩時間に重宝している。

女性社員などは外でおしゃれカフェのクリープたっぷりなラテやら新作マキアートやら買ってくるので、全員が利用するわけではないが。


「金子が新人君の面倒見るんだっけ」

「はい。うちにくる奴だけですけど」

「何君?」

「えーっと……」


「林さー。もっと声のボリューム上げらんねーの?」

「すみません……」

「木村くんは大き過ぎるよ」

「はぁ……あっそ」


休憩室の奥の方から会話が聞こえる。

というか、片方の声が大きい。

そのせいでかなり注目を集めていた。


「あの子ですね」

「そんで、でかい方が営業うちにくる奴か」


新入社員3人が固まって昼を取っていた。

なにやら雰囲気が険悪だ。

木村という営業希望の男が悪くしているよう。

朝礼では好青年と思ったのだが、同期の前では素行が悪いように見える。


「そういえば、新歓やるって聞いたか?」

「いいえ。今日ですか?」

「金曜の夜。予定が合う奴だけって話だけど」

「ただ飯なら行きます」

「ははっ。今年はやたら気合いが入ってるよな」


事務所の拡大でも狙っているのだろうか。

人が増えると事務所も手狭になる。

第2事務所の話もあるとかないとか、噂だけはある。

仕事ができればどちらでもいいけれど。




設計部に新入社員の林くんが来たのは水曜の定時間際。

とりあえず挨拶だけの顔合わせ。

設計部は部長、チーフ、藤本さん、俺、契約社員の女の子の5人体制。

林くんを入れて6人だ。

契約社員の子は契約上夏までの数ヶ月までなので、業務的には林くんとの入れ替わりとなる。

林くんの教育係が俺になったことで来週からの他社への出向がチーフになったことをここで知ることになった。

頼りにしていたのに不在とは。


「よろしくお願いします……」


林くんの声は小さい。

木村くんのような態度はいただけないが、注意は必要だ。

社会人の基本は元気な挨拶。

直接人に対面する営業や電話を取る事務など部署に関わらず、印象が大切だ。


「君の教育係を担当する金子です。よろしく」

「はい……」


まるで蚊が鳴いているようだ。

帰り際に申し訳ないが、翌朝もこの調子では周囲の士気も下がってしまう。

周囲に気を使うならほどほど元気に明るく、雰囲気をを乱さない。

新人の頃チーフに教わったことだ。


「林くんは声が小さいな」

「すみません……」

「怒っているわけではないんだ。ここは職場だ。皆で協力しながら仕上げる仕事もある。1人でもやる気のない人がいたら、周りも暗くなる。だからあいさつと返事は元気よくしてほしい」

「はあ……」


いまいちわかってもらえていないようだ。

分かりやすい例えはないだろうか。


「たとえば……運動会とか」

「え……?」

「クラス対抗リレーに出場したとして、自分だけクラスメートに応援されなかったらやる気が出ないだろう」

「リレー、出たことないです」

「じゃあ綱引き、騎馬戦、例えなのだから何でもいい。みんなが懸命に勝ちを狙っているのに1人だけ負けてもいいという気持ちで臨んだら、優勝なんてできはしない。悔しいという気持ちも芽生えないんじゃないかと思う」


まだわからないようで首を傾げてしまった。

ストレートに言った方が良さそうだ。


「会社は君1人だけのものじゃない。周囲に人がいることを忘れないでほしい。だから、周囲の人が不快に思わないよう、挨拶は大きな声で元気よく、だ」

「……はい」

「まだ小さい」

「はい!」


初めて林くんの大きな声を聞いた。

これを継続してくれればいいのだが。

藤本さんがにやにやしながらこちらを見ている。

視線の意味は、先輩ぶってる、いっちょまえに指導してやがる、というところだろう。

この人の悪影響からも守らないとな。




「小石川のところは、新卒入ってきたか?」


ぐびぐびと缶ビールで喉を潤す。

つまみはスーパーで買った惣菜だ。

なんとなくコロッケの気分だったので改札から最寄りの出口とは逆の出口を出て、少し歩いた所にあるスーパーへ行った。

駅前の雰囲気を引き継いだおとなしめの外観のスーパーは夜9時まで開いているので、シャッターが閉まったあとに通る商店街よりよく足を運ぶ。

途中で牛丼屋チェーンでもあればよかったのだが、あるのは老舗のそば屋。

美味いので度々行くのだが、やはり夜は閉まるのが早い。


「来ましたよ。今年はいつまで保ちますかねー」


あははと笑いながらも、目は遠くを見ている。

昨年、初めての後輩となる新卒が5人入社したが、3ヶ月後には1人減り2人減り、年末には全滅したらしい。

振ろうと思っていた仕事が全部返ってきて残業が続いたと嘆いていた姿は記憶新しい。

この業界多いと聞くからな、新人リタイア。


「今年初めて教育係をやることになったんだ」

「へぇ。金子先輩が、ですか?」

「そうだ。何か問題でも?」

「いいえ。どんな子担当するんスか?」

「うーん……なよっとした」

「なよっと……」

「覇気がないというか、気が弱いというか」

「悪口?」

「眼鏡をかけた男だ」

「付属された外見じゃないですか」


今日初めて話したのだから、第一印象しか抱いていない。

まだどんな人物かわからないのだから。


「仲良くやれたらいいんだがな」

「やれなそうなんスか?」

「勝手がわからん。マニュアルらしいマニュアルがないからな。どう教えていいものか」

「自分が教わったことをやれば?」

「うー……ん」


それができたら苦労はない。

過去の研修ノートを見返したら、なんでこうなった、と自問自答してしまった。

やたら非効率で、今の自分が絶対にやらないことなど書いてあるのだ。


「金子先輩が悩むなんて珍しいですね」

「そうか?」

「おれが住むとこ相談したとき、すぐ同居提案したじゃないですか」

「俺が得るメリットを優先した」

「らしいっちゃらしいけど。あ、からあげもらいまーす」


小石川は一緒に買ったなんこつのからあげをひょいと摘んでいった。

2年も一緒に住むとずけずけ言うし遠慮がなくなるな。

気負われるよりいいが。

小石川レベルとまではいかないが、林くんも気軽に相談してくれる様になれば、教育係として面目が立つ。

小石川の会社同様に、潰れてくれるなと願うばかりだ。




金曜日。

社員全員残業を切り上げて近くの居酒屋へ向かう。

予定が合う人だけという話だったが、せっかくの機会だから全員参加になった。

大部屋一部屋借り切っての新人歓迎会だ。

全員合わせても30人いない小規模の事務所、部署が違っても顔も名前もばっちり覚えられる。

幹事は人事部のリーダー。

いろんな人と交流できる様に席は設けず立食式。

代表と各部の代表が一言ずつコメントして、乾杯の運びとなった、

新人はなるべく多くの人と話すノルマがあるらしく、各々グラスを持って挨拶回りをしている。

仕事のあとで腹が減っているので、テーブルの一角を陣取りひたすら食べた。

今日はずっと内勤。

残業ができないと聞いて不乱に打ち込んだ。

フルに頭を使ったあとは体を動かすよりカロリーを消費するのでとにかく食べたい。


「おい金子。ちゃんと林見とけよ」


チーフがこっそり耳打ちする。

直属の後輩の面倒はこんな時もついてまわるのか。

自由にさせてやればいいのだが、尻拭いも先輩の仕事だ。

きょろきょろと姿を探すと、空のグラスを持った林くんを見つけた。

他の2人は要領よく人と話しているが林くんは混ざれなかったらしい。

人付き合いが苦手なのだろう。

林くんと目が合ったので手招きして呼び寄せる。


「お疲れ様」

「お、お疲れ様です……」


今日も消えそうな声だ。

この場にいたくないという空気がバンバン出ている。

しかし、この先取引先と会うこともあるし、プレゼンもしなくてはいけない。

人と接せずに仕事をするのは不可能だ。

慣れるしかない。


「あいさつはした?」

「いいえ……できてないです」

「1人も?」

「すみません……」


マジか。

人見知りが激し過ぎる。

よく入社できたな!?


「じゃあ、俺も一緒に行こう。はじめは俺の補助をしてもらうし、アシスタントってことで」

「はい」

「でもちょっと待て」

「え?」

「これ食べてからな」


腹が減っては戦はできん。

味の濃い居酒屋料理が脳に染み渡る。

特にエビマヨが絶品だ。

ぱりっとした表面を覆うマヨソースがクリーミーで美味い。

添えられたチップス?(春雨らしい)がまたいい。


「空きっ腹にアルコールはよくない。林くんも食べた方がいい」

「はあ……」


揚げ豆腐に醤油ベースのタレがかかったのも美味い。

薬味にネギとカリカリしたジャコを添えるとビールが進む。

豆腐はつまみに最適と高田も言っていたしな。

取り皿に林くんの分も取り分けてやる。


「いただきます」

「うん。美味いぞ」


林くんの皿が空になった所であいさつまわりにいく。

個人に突っ込むより数人で固まっている所の方がいいだろう。

ちょうど営業部のリーダーたちが談笑している。


「お疲れ様です」

「お疲れ金子。なんだなんだ、子分引き連れてんのか」

「いいでしょう」


ほら、と林くんの背中を押す。

あくまでメインは林くんだ。


「お疲れ様です」

「うん。いっぱいもらおう」


林くんの手にはビール瓶。

営業部の人たちは空になったグラスを差し出す。


「設計部に配属されます、林です。よろしくお願いします」

「はい、よろしく」

「いい仕事頼むよ」

「金子にいじめられたら相談に乗るぞ」

「止めて下さい。いじめません」


根明かな人種が多い営業部に混じるといじられる傾向にある。

新人の頃草野球に誘われ1度だけ行ったけど、みごと三振&エラー&暴投連発で今でもネタにされる。

野球が好きと言ったけれど運動が得意と言った覚えはないんだがな。

こんな調子であいさつを済ませていく。


「そろそろひとりでも大丈夫か?」

「あ……はい。ありがとうございました」


ずっと連れ回すわけにもいかない。

林君のためにもならないし。

子ガモはいつか親ガモから巣立っていくものだ。

ということで、カロリーチャージの続きだ。

そろそろ締めも頂きたい。


「お疲れ様です」


ひとりになったら唯一の女子新人さんが来た。

ずっと林君と動き回っていたもんな。

捕まらなくてすまないという気持ちがわいてくる。

ビール瓶を持っていたのでグラスを差し出させてもらった。

すっかり温くなってしまっていたビールを喉に流す。

ビールは冷たい方が美味いな。


「全員まわった?」

「まだです。盛り上がっている所に行くのはちょっと……」

「君たちが来るのわかってるから大丈夫だろう」

「そうなんですかね……」


出し巻きたまごをつまみながら新人女子と言葉を交わす。

ふわふわのたまご焼きを軽く押すと、じゅわっとだしが溢れ出てくる。

目が詰まったものも美味いが、汁っけが多いたまご焼きも美味い。

高田のたまご焼きは前者でほんのり甘い。

ああみえて甘党だからな。

作者に礼を欠くことは言わないけれど。作ってもらえなくなるからな。


ーーーーガシャン


部屋のどこかで食器がなぎ倒される音がした。

驚いて音源を探す。

皆が注目していたのですぐに知れた。

営業希望の新人木村くんだった。

尻から転んだようだ。

顔を真っ赤にして見るからに泥酔している。

自分のペースを無視して注がれる酒を飲んでしまった口だろう。

先輩たちに担がれて隅に運ばれていった。

トイレが近い部屋で良かった。


「君は大丈夫? 水飲んでる?」

「はい。肝臓強いんで」


逞しいな。

酔いが一気に醒めてしまったのでビールから水に変えておく。

弱そうな林くんにも水をすすめなくては。

林くんを探してたが、部屋にいないようだった。

隅で小さくなっているはずの木村くんもいない。

もしかして、トイレに行きたくなった木村くんを介抱しているのだろうか。

同期のが頼みやすいだろうし。

一応見ておこう。


「あーーーーくそっ! 最悪だぁ」


トイレから大きなうめき声が聞こえた。

木村くんの声だろう。

咳混じりな声からして、出すもの出したのだろう。


「大丈夫……?」


やはり林くんが付き添っていたようだ。

介抱はいいが、誰にも告げずに席を外すのは良くないな。


「マジ最悪だわ。会社で飲み会なんてはやんねーっつーの。こんなちんけな会社はいるつもりなかったのによぉ」

「木村くん!」

「林もよぉ、いちいちおどおどしやがって、イラつくんだわ。上に媚び売って平気で尻拭いさせて。プライドねーのか」


木村くん、まだ酔っているな。

素面でないこそ理性のたがが外れてめちゃくちゃなことを言っている。

本心でもあるのだろう。


「だいたい設計部が営業部に恩を売ろうとか頭が高ぇんだってー……」

「部署に上も下もないぞ」


確かに営業部が仕事を取ってきて利益に直接繋がる。

だが、それぞれの役割を担っているだけで、営業部が設計してくれるわけでも、収益の計算も事務所の管理もしてくれるわけでもない。


「君がどう思おうと勝手だが、君の思い込みを俺の後輩にぶつけないでくれるかな」

「あぁ?」

「確かに林くんは声が小さいし、いまいち理解してくれているかわからないが、新人なんだからこちらに迷惑かけるくらいが普通だ」


何もかも未熟な社会人1年生。

人間としての常識は持ち合わせていないと困るが、初めての『仕事』に戸惑うのは仕方がない。

アルバイトと社員だと心構えがまるで違う。

けれど、それを自然と理解するのには少なくとも1年はかかる。

昨日今日入った新人が会社が求める『会社のために』なんてことにはならない。


「愚痴を言いたいならこんなところで新人同士でしないで、先輩にでも言うといい。後輩を育てるために先輩は君たちを構うんだから」


愚痴を言った所で何も解決などしない。

相手に不快な思いをさせるだけ。

少なくとも、俺はチーフからそう教わった。

仕事の愚痴は家に持ち込まない。

あいつらに失礼だ。


「……ウス」


波が収まった木村くんを抱えて宴会室に戻る。

やはり誰にも言付けていなかったのか、木村くんは探されていた。






翌週月曜日。

出社し、デスクを確認する。

クライアントから連絡があったらしく、修正とこの案で正式な図面を引く様に依頼がきていた。

今週はこれにかかりきりになりそうだ。


「おはようございます」


林くんが出社してきた。

まだ遠慮がちだが先週より声が出ている。


「おはよう」


今日からこっちで研修が始まる。

一応マニュアルを作った。

林くんがどれだけできるか見たいし、アシスタントをしてもらおうと思う。


月曜の朝礼は少し長い。

仕事の進捗の全体報告に加え、売上目標提示、それと代表のお言葉を頂く。


「先週から新入社員が加わったが、徐々に事務所の雰囲気に慣れてほしい。それと、営業配属予定だった木村が退社を希望し、受理した。1週間と短い期間で残念だが……」


木村くんは、大手の内定を貰えず仕方なくうちに入ったらしい。

不満しかないのならずっとやっていくのは難しいだろう。

就職浪人の仲間入りか。頑張れ。

そんなひとりにさせないために、林くんを立派に育てないとな。

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