#10-1.リアルサイド36-数字学教師を引き入れる-
学校内・放課後の中庭にて。
部活に精を出したり家路へと急いだりする生徒らを尻目に、俺はいつものようにベンチに腰掛け紅茶を啜っていた。
相変わらずコーヒーが買えない自販機。
相変わらず俺を恐れる生徒たち。
新学年が始まってもうしばらく経つが、新たな生徒たちの俺に対しての反応は前年度とそんなに変わらず。
ただ、恐れられているというのは複雑な気分ではある反面、他の先生がたのように授業中に雑談をされる事もない。
教師という立場にあるならばこうした便利な側面もあり、イメージ改善には積極的になれずにいた。
「疲れた顔してんなあ」
「……む」
後ろから声が聞こえ、振り向く間もなくカエデが前に現れる。
自販機で何かを買う事もなく、「隣に座っても?」と聞いたりもしない。
当たり前のように隣に腰かけ、やや真面目な面持ちで俺の顔を見つめた。
「やっぱ、治療って大変なのか?」
医療知識皆無なカエデには、俺がミズホにやっている看護治療は重労働に見えているのだろうか?
やっている事自体は初期と違って刺激をそれほど気にせず塗付できるので、大分楽になっているはずなのだが。
だが、そんな事を聞いてくるくらいには、俺は疲れた顔をしていたのだろう。
笑い返してやろうと思ったが、頬が引きつって笑顔にはなりそうにない。
「治療行為はそんなに大変でもねえな」
「じゃあ、別の何かが大変なのか? イオリと会うのとかか?」
ミズホに対しての看護治療も、新しく始まった授業体制も、大変なことは何もない。
だが、このカエデの指摘には「違う」とも言えず、小さく「むう」と呻ってしまう。
「大変って訳じゃないんだが、ちょっと気になる事がある」
そのまま黙っていてもタイムオーバーがある訳でもなく。
無視するにもカエデの性格上余計聞いてくるだけなのは解ってしまう。
あまり話しやすいことではないが、こういった事は俺一人でどうこう考えるのもよくないのかもしれないと思い至り、口を開く。
「ほら、ミズホの保護者の『ハジメさん』っていう人居たろ? 週一で会ってるんだけどさ」
「ああ、あの人か。あたしはあの一件以来全然会ってないけど」
「あの人、ミズホのメイドをなんとか上層に連れていきたいらしいんだが、そのメイドもデータ無しの巻き添え喰らってるらしくてな」
「あちゃー……それはちょっときついぜ」
週一で会うハジメさんを通して、ミズホが何者なのか、何故そんな事になったのかはある程度把握できたのだが。
ミズホ自身はハジメさん個人のツテで最上層に入る臨時の権限を預かったとかでなんとかなったのだが、メイドの分までは考える暇もなく、結果置き去りに近い状況になっているらしい。
放置しておけばミズホの二の轍を踏むことになるのだから、ハジメさんとしてはなんとかしてやりたいのだろう。
「なあ、そのメイドの子って、今は一人で暮らしてるのか?」
「ミズホが帰ってくる家を守る為に下層にはとどまり続けてるんだが、女の子一人じゃ今回みたいな事があった時に手遅れになりかねんから、今はハジメさんの家で暮らしているらしい」
「なるほどな。それじゃ、とりあえずの身の安全は確保してるのか……そのメイドって、確かミズホと同じくらいの歳なんだろ? 女の子の一人暮らしじゃちょっと怖いもんな」
「比較的富裕層が住まう地域に住んでるらしいが、そうはいっても下層だからな」
最下層が無くなった現状、レゼボアで最も治安が悪いのは言うまでもなく下層である。
発病の恐れもあるが、少女の一人暮らしなんていう不穏な単語は大人からすれば心配の種でしかあるまい。
これに関しては、早々にハジメさん宅に身を寄せたのは英断だったと言えるが。
とにかく、それに関しては俺の手ではどうにもならない部分過ぎて、どうしたものかと悩んでいたのだ。
「んー……でもタカシ。そういう事なら相談してくれてよかったぜ」
少し悩ましく腕を組んだ後、カエデはにぱ、と爽やかに笑いかけてきた。
名案が浮かんだ、というよりは、元々何かしらの解決策を考えていたといった具合に。
「実はなタカシ。ミズホの事であたしも色々考えたんだよ。データがないから数字弄って医療とかも完全に無理だろ? でも、だからってお前が毎回その為に治療やってたら、絶対その内に手が回らなくなるタイミングが出てくると思ってさ」
「確かに、そういう状況もあるかもしれんな」
俺自身の病気は自力で即時治療が可能だが、仮にこれでミズホに何らかの病状悪化が発生したり、メイドの方まで病気になったとしたらどうか。
ミズホの方は大分落ち着いてきているからそこまで積極的に看護する必要はないと思っていたが、その前提が崩れたなら、やはり俺だけでは手が足りなくなるのではないか。
それくらいの事は、こいつも考えていたらしい。
「だから、疑似的にミズホのデータを作るのはどうだろうか、って思ってさ」
「……データを作る?」
「ああ。データが無いままじゃ不便だろ? どうにかならないかって、キシモトに聞いてみたんだよ」
「キシモトに?」
ここで予想外の名前が出てきて驚かされる。
確かに、個人のデータを作成するなら数字学に精通した人間でなくては難しいだろう。
俺だって科学や医療関係と噛み合っている部分くらいならなんとかできなくもないが、全体的に把握するのは無理だ。
だが、そこで頼るのがキシモト……嫌な予感しかしない。
「そんな警戒すんなよ……別に、あいつだって悪党じゃないからよ」
「いや、解るけどな? ていうかお前、キシモト嫌いじゃなかったか?」
俺の記憶が確かなら、カエデはキシモトとはかなり折が悪いはずだった。
いつでもにやにや笑い空気を読まないキシモトは、カエデから見ると傍にいるだけで苛立ち募るストレスの発生源でしかないらしい。
俺自身あまり好きになれない奴だが、とにかく女性陣からの受けが悪いのがキシモトという男だった。
「嫌いだぞ? あいつの眼鏡ごしの視線とかやらしい事あるからな。生徒たちに向ける事は無いけど、前もあたしやスズカ先生にそういう視線向けてたから注意した事があるくらいだ」
「よくやるなああいつも」
「流石にハラスで訴えるって言ったら顔青ざめさせて謝ってきたけどな。同僚からやらしい視線で見られるのは嫌な気分だぜ」
やれやれ、と手をフリフリしながらため息混じりに呟く。
まあ、こいつも黙っていれば美形な部類だ。
以前こいつに告白した男子がいたことからも、普段の明るさ快活さがいい方向に見える奴らにとっては魅力的に映るのだろう。
何より、こいつ自身が他人を本心から敵視できないのも大きいだろう。
「そうまで嫌な奴だけど悪党じゃないって言い切れるお前もすごいな」
「うん? 当たり前だろ。魅力的な女を前に男が色目使うのは何もおかしい事じゃねーじゃん。ただ向け方がしつこかったり状況考えてなかったりすると女の方も『こいつうぜぇ』って思うからな」
「俺もそうならないように気を付けるとしよう」
今のところ、そういった視線を向ける様な相手はいないが。
将来的に、サクラ辺りに「実はいやらしい視線で見てましたよね」とか突っ込まれるのもうまくないので、気を付けないといけない。
……堂々と自分を指して『魅力的な女』と言い切ったところも大したもんだと思うが。
「まあ、キシモトの事はいいだろ。それよりも、聞いた結果『僕なら作れるかもしれない』って言ってたからさ」
「あいつがそこまでできる奴だったとは」
「教えるのは向いてないけど、元々教員大学じゃ上位成績者だったらしいしなー」
インテリ様はよく解らないぜ、と、頭の後ろで腕を組み、身体をぐぐ、と反る。
できるだけ視線を突き出た胸に向けないように注意しながら眼鏡を直し、姿勢を戻したカエデの顔を見る。
清々しい顔をしていた。
「そんなだからさタカシ。キシモト、巻き込んでもいいか?」
「ああ、それで状況が改善するなら、その方がいい」
画期的な方法と言えた。
俺一人では、とてもキシモトに手を借りようなんて考えられなかっただろう。
……なんだかんだ、俺も結構他人を色眼鏡で見ているのかもしれない。
「それで、メイドの分のデータも作ってもらおう、って事だな?」
「そういう事だ。公社製のデータと比べれば微妙かもしんないけどさ、数字化の処理なんてボタン一つでできるでもなきゃ、あたしでも解んない事だらけだもん。簡易化は必要だろう?」
「ああ、違いない」
違いないが、そう行動できたこいつのすごさには妙な感銘を受けてしまったというか。
今まで俺は、ミズホの治療しか考えていなくて、結局日常の中にミズホの治療というタスクを追加したに過ぎなかったのだ。
だが、カエデはそうではなかった。
新たに生まれた問題を解決するために、簡易的とはいえそれそのものを無くすための対策を見出したのだ。
その為に、気に入らない相手に相談までして。
これが例えばミズホがカエデと同じくらいに親しい相手なら、俺だって考えをフルに巡らせたかもしれない。
同じ結論に至るであろうことは自分でもわかる。
でも、赤の他人の為に迷いなくそれができるには、どうしたらいいのか。
カエデは、医療という場にとって重要な『博愛の精神』を持っているのではないか。
そんな事を考え、「見方を変えなきゃいかんな」と、今までの適当過ぎた『サトウ カエデ』という人間像を改めようと思った。
-Tips-
数字学教師の全体比率について(概念)
現実世界レゼボアにおいて、あらゆる技術の基幹ともなる『数字学』は、学問としても最も重要であると言われている。
しかし、重要さとは裏腹に数字学そのものは難解この上なく、全世界でも最も高い科学技術特性を持つレゼボア人であっても完全に把握する事の出来る人間はそう多くない。
これは、数字学を学ぶ上で必須とされる概念の理解と応用の手法を考える為に必要な基礎学力が非常に高レベルで、上層~最上層のごく限られた人間にしか読み解くことができない事が障害になっている為である、という見解を公社教育局が発表している。
数字学そのものがレゼボアにおいてもかなり新しい部類の学問である事から、基幹技術であるにもかかわらずレゼボア人自身がまだ完全に身に付けているとはいいがたく、ある程度の応用ができているとはいえ、それを他者に教育できるレベルまで理解できている人間は少ない。
この為、教育者として成り立つレベルの技術者を育成する事がレゼボアにおいて急務とされているが、現状では技術力や知識量偏重で教育者としての能力は度外視している面が強く、これが元で教育を受ける側の数字学嫌いが恒常化しつつある側面が出来上がってしまい、その所為で教育者候補が減少するという悪循環が生まれつつある。
特に初等部~中等部に対応する教育レベルでは数字学の概念を教える事が難しく、専門的になりがちな説明を子供向けに噛み砕くのが苦手な教師も多い為、高等部~大学と比べて人材難に陥りつつあるとされている。




