#1-3.リアルサイド33―初めての患者―
「できたよっ」
「こちらもだ」
その場で作られたビーカー入りの物質を受け取り、自分の作った『ジアチルド酸』に少量ずつ流し込む。
溶かされたニール酸化銅がじわじわと紫色の煙をあげはじめた辺りで「煙を吸うなよ」と二人に注意し、作業を進めていった。
二人も言われた通り、ハンカチで口元鼻元を覆う。素直で大変よろしい。
「よし、できた」
ほどなく、原始的な薬が完成する。
本当はきちんと錠剤の形に固めたり、使いやすい風味に加工すると尚良いのだが、流石に専用の機材を創り出すにはいくらか手間もかかる。
ビーカーやフラスコ、試験管を無から創り出すのだってタダじゃあない。
手持ちの金で準備できる程度の機材で作ろうとしたら、これくらいシンプルになってしまうのは許して欲しい。
「……なんか、すごく臭いんだが」
「まあ、超原始的な薬だからな。むしろこの薬は無臭だと失敗扱いなんだ」
「そ、そうなのか?」
これは『液化エレニール銀221』。
免疫系統を弱らせる信号を発生させるもので、過剰反応してしまう免疫に対し鎮静作用を発揮させるのが主な使い道。
これ単品では免疫を弱らせるだけだが、液化セレノン溶液とセットで使えば粘膜を傷つけたり、過剰反応による爆腫瘍を併発させる事なく癒やせる……はずだ。
「さて」
試験管のエレニール銀を注射器に流し込み左手に、更にビーカーの中のセレノン溶液を右手に持ち、ハジメさんに見せる。
「これで、この子の症状を改善する薬はできた……が」
「……?」
じ、と顔を見る俺に、ハジメさんは不思議そうに見返してくる。
まあ、治せるならすぐに治して欲しいのだろう。それをしない俺に疑問を抱いたのかもしれない。
「使っていいか?」
この確認は、「俺を信じてくれるか」という意味も込めてのものだ。
俺は、あくまで医者を志しているだけで、医者そのものではない。
薬だって、作り方を知ってはいたが実践したのは今のが初めてだ。
日ごろから薬品や金属を当たり前のように扱っているから慣れてはいたが、それでも緊張はした。
そうして、志して初めて、自分で作った薬を、他人に、患者に使う事になる。
恐ろしくないはずがない。自分で、ただ自分でそのまま使うという意識にはしたくなかった。
俺は、誰かに背中を押して欲しかったのかもしれない。
「……」
それは、ハジメさんにとっても重い決断だったのかもしれない。
話を聞く限り、この人はミズホちゃんとはそこまで深いかかわりではないのかもしれないと思うようになった。
誰かに頼まれただけの、本当にお人好しな人だったとしたら、その決断は途方もなく重く感じた事だろう。
命がかかわっているのだから。
「俺は、この子の親でもないし恋人でもない。まして保護者なんかじゃないから、本来は言っちゃだめなんだろうけど――」
わずかな躊躇いが見えた。
この人もやはり「俺が決めていいのか?」という迷いがあったのだ。
そう、人は命のやり取りをするとき、このように迷いを見せる。
その時間が長いか短いかは人によるだろうが――ハジメさんは、それが短かった。
「それでもこの子は助けたい。やってくれ。初対面だけど、あんたを信じるよ」
初対面の人からの信任。これほど重い決断も、そうはないだろう。
重くのしかかる責任に、思わず口元が歪んでしまう。
「ああ、解った」
俺は医者だ。医者になるのだ。
その為には、患者一人扱うのに躊躇ってしまっては、話にならない。
OKは出た。ならば、やる事は一つだ。
ミズホちゃんの右腕を手に取り、動脈を探す。
幸い肌が白い為、薄暗くともすぐに見つかった。
ガーゼを指に挟み、注射針を当て……ぷつり、突き刺す。
ある程度の深さまで届かせ、そのままピストンでエレニール銀を注入。
ガーゼを当て、ゆっくりと引き抜いた。
「慣れてるんだな」
「ああ、昔自分で試したからな」
医者を志す以上、注射の一つもできなければ話にもならない。
だが、他人で試す気にはなれなかった。
何度かうっかりミスで酸素を流し込んで死にかけた事もあったが、それも今では苦い思い出という奴だ。
こうして役に立つ日がきて良かった……本当に、良かった。
免疫機能が弱まれば、喉に対し処置を行っても最悪の事態は避けられる。
それでも反射で身体が動くのは解っていたので、カエデとハジメさんに二人がかりでミズホちゃんの肩と頭を押さえつけてもらい、しっかりハンドガードをはめ、口を開く。
他人の口の中に指を突っ込むという行為はとても背徳的な気持ちになったが、今はそんなバカげたことを考えている暇はない。
すぐに目を細め、喉内にミラーを展開し、実際に腫瘍になっている部位を探す。
(思ったよりでかくなってるな……外からでは解らん事も多い、か)
とても勉強になる。やはり知識だけでは足りないのだ。経験できてよかった、とも言えよう。
(これよりでかくなったら切開手術しなければ間に合わんらしいが……このくらいなら、問題ないようだな)
薬匙で丁寧にセレノン溶液を塗付してゆく。
反射でびく、と頭が跳ねそうになるが、二人が押さえつけてくれるので指先がズレる事は無かった。
そのまま二度、三度と静かに指先を動かし――最後に展開したミラーを消して、処置が終わった。
「ふぅ……」
気が付けば、珠の汗が頬を伝う。
やった事は大したことないはずなのに、凄まじい労力のように感じられた。
頬がピシピシと引きつっていた。緊張のせいだろう。この分では心労も生半可ではなさそうだった。
「終わったのか?」
「ああ。とりあえずこれで、この子がこれ以上悪化する事はないはずだ」
俺が解っている限りでは、そうなるはずだった。
「ただ、これでそのまま治るって訳じゃない。定期的に薬を飲んで、その上でしばらく最上層か……難しければ上層で療養するのが望ましいだろうな」
これはあくまで、最悪一歩手前まで進行した症状を鎮静化させる為の処置に過ぎない。
完治には時間がかかるし、今下層に戻れば恐らく同じ展開か、より酷い末路が待っているだろう。
「上層に住まわせるのは、流石にきついかな……」
下層の住民からすれば、上層や最上層の物価は半端なく高い。
元々住んでいた人間なら無料で生活できるスペースも、他の層からの移住となると、公社からの命令を除くとかなり厳しいものがあるだろう。
これが何かあって公社から辞令が降りたというなら、それこそ着の身着のままできても事足りるくらいなのだが。
「一時的にホテルなりで部屋を借りるという手もある。それでも、まともなところだと金がかかるけどな」
「……元上司の所に世話になれればいいんだが。あの人も忙しいからなあ」
一応当てになりそうな相手はいるらしい。
これで誰も頼る場所がないとなればそれこそ困った事になるが、そこは自力で何とかしてもらいたいところである。
「とりあえず、ありがとう。世話になったよ」
「礼を言うのはまだ早いぞ。その子の基礎データが戻らん限り、治すにはまだ薬を飲む必要があるんだからな」
一応は安心できる状態にはなったが、ハジメさんが安心するのはまだ早いと言えよう。
最上層ならその辺の大学生にでも頼めば作ってくれる奴もいるかもしれないが……正確な配分を間違えると無臭の失作になったりもするから、それは難しいだろう。
「そういえばそうだったね……薬は、どれくらいの頻度で使えばいいんだい?」
「できれば毎日飲めた方が良いが……毎日会って作るってのは流石にきついな」
毎日仕事終わりにこの人達と会って薬を渡して――という感じにやれれば確実ではあるが、俺にだって予定ってものがある。
仕事があるし、仕事が無くともイオリの所に顔を出すというのも日常になっている。
週末にはサクラと遊びに行くこともあるし、カエデと遊ぶ事も減りはしたがまだあるのだ。
自分で名乗り出たこととはいえ、「流石にそれは手間だな」と思う。
「一応、明日一回使う分は残ってるから、これを渡しておこう」
加工できないのでビーカーのままだが、ハジメさんに渡しておく。
少なくともこれで明日一日、この子が苦しむ事はなくなるはずだ。
「これ……さっきの見た限りだと、飲ませるんじゃなく塗るんだよね?」
「ああ。意識が戻れば確実だが、そうでなければハジメさんか……その、メイドの人がやる事になる」
ものとしてはいくらかヌメり気があるので、匙やスプーンなどを使えば問題なく塗付できるはずだ。
意識が戻ってくれれば自分でやるのが一番間違いないが、そうでなくとも今みたいに何人かで協力すれば問題なくできるはずだった。
つまり、今回の処置で一番重要なのは症状に見合った薬の用意、そして二番目に注射器の取り扱いである。
「注射器の方はもう使わないのかい?」
その注射器を見て、渡されたビーカーと交互に視線を向けるハジメさん。
まあ、その疑問も解らないでもない。
「ああ。免疫は一度弱るとしばらくそのままだからな。ただ、免疫が弱った事で若干、風邪をひきやすくなったりする」
「それは……大丈夫なのかい? 結果としてミズホちゃんの症状が悪化したりは……」
「風邪によって悪化する事は無いから気にしなくていい。レゼボア人は免疫の化け物だからな……」
本来、レゼボア人は病気とは無縁のはずなのだ。
意図的に病気を看過し続けない限り、自覚症状がないうちからコンソールで発見・即完治可能だし、そうじゃなくたって万能薬一つ飲めば完治する。
それらが無理だとしても、レゼボア人自身の破格の免疫能力によって大概の病気は症状が出る前に治ってしまう。
なので、今回のように生活環境の所為で発生してしまう病気や瞬間的に衝動を吐きだす破滅願望などの精神疾患を除けば、レゼボア人を殺し得る病気なんてないに等しい。
「どちらかといえば、この子に関しては食生活の方が問題になりそうだな。流動性気管腫瘍――この子が掛かっている病気だが、これは炭酸や酢など、酸性の強いものが患部に触れる事により症状が劇的に悪化するんだ。だから、絶対に酸味の強いものは与えないようにしてくれ」
これに関しては、守ってもらえないといつまでたっても完治せずいたちごっこになるので徹底してもらう。
「う……オレンジジュースは不味かったのか」
「そういう事だな。知らなければ仕方ないが、今後は極力避けてくれ」
ハジメさんにとっても痛い指摘だったようだが、そんな事に構ってはいられない。
知らずにいてまた同じことを繰り返されるくらいなら、多少嫌な思いをしてもはっきり指摘した方が良いに決まってる。
俺は別に、この人に好かれたい訳ではないのだから。
「それから、明後日までにはしばらく服用する分の薬を用意するから、待ち合わせで会おう」
「ああ、解った」
ハジメさんにテレボの番号を教え、ハジメさんの番号も聞く。
これで脳内での会話が可能になる。
「一応俺は平日昼間は教師として働いてる。日曜も、あまり早い時間帯や遅い時間帯は勘弁してもらえると助かる」
「気を付けるよ。俺も平日は仕事をしてるから……ああ、でもミズホちゃん放っておけないな、どうしたもんかな」
数日間仕事を休むとなると、公社の仕事でなくとも中々に痛いペナルティを喰らう事になりかねない。
いくら人助けとはいえ、自分の仕事を放り出してまで誰かを、とはなれないのは無理もない。
だが、今夜はホテルなり借りて休ませるにしても、ミズホちゃんが意識を取り戻すまでは放置もできないだろう。
困ったものだ、と二人して腕を組み、思案中。
「それじゃ、一時的にウチに住まわせるか?」
そんな時に声を挙げてくれたのがカエデだった。
思ってもみなかった解決策だが、確かに同じ女の家ならハジメさんも安心できるだろう。
こいつはこれでいいとこのお嬢様なので、家もかなりでかいしお付きのメイドの何人かが住み込みなので面倒も見させられる。
今まで考えてもみなかったが、そういう方向で考えれば迷う余地すらないくらい理に適っていた。
「いや、でも……流石にそこまでさせてしまうと、悪いというか」
「でも、あんた一人じゃどうにもならないんだろ? だからって下層に連れ戻したら同じことの繰り返しじゃん?」
「それはそうだが……」
ハジメさんが戸惑うのも無理はない。
困ってはいる。助けては貰った。
だが、だからとこれ以上手を借りるのは、この人としても悪い気がしてしまうのだろう。
人が善いのだ。だから、迷惑になると思ったら素直に頼れないのだろう。
――こういう奴は嫌いじゃあない。
「ハジメさん、心配いらねぇよ。こいつんち、金持ちだから」
「あっ、こら、そういう事いうなよ……嫌味みたいじゃんか」
カエデは家の事を言われるのがあまり好きではない。
だから頬をぷくーっと膨らませ抗議めいて俺を睨みつけていたが……俺は気にせずハジメさんに提案を続ける。
「もし気になるなら、『一時的に安値で泊めてもらってる』と思えばいい」
「ああ、そうか……金を払うっていうなら、まあ」
「うぇっ? 別に金なんて取る気は」
「いや、頼むよ。そんなにたくさんは払えないが、しばらくの間ミズホちゃんを泊めてやってください」
お願いします、と頭を下げるハジメさんに、カエデは困惑した様子だったが――頭をポリポリ、「仕方ねぇなあ」と了承した。
元々は善意で、無料で泊めるつもりだったのだろう。
だが、それで折れないのだから仕方ない。
「でも、お金払ってもらうなら当然、きちんともてなすからな? 覚悟しとけよ?」
「ああ、勿論さ」
どういう覚悟なのか解らないが、とりあえずこれでミズホちゃんをどうにかする状況は整ったと言える。
後は本人が意識を取り戻してから、その後どうするかを考える必要もあるんだろうが……通りすがりが助けたにしては、かなり上等な結果と言えるのではなかろうか。
「ん……今、家のものに連絡入れたから、よ。少し待ってれば、うちのメイド達が来ると思う」
処置そのものは短時間で済んだとはいえ、時間的にはもうかなり遅くなっている。
そんな時間でも呼び出せばすぐ来てくれるというのだから、サトウ家のメイドには感謝しても足りない。
「んじゃ、しばらく待つか」
「ああ……ほんと、巻き込んじゃってすまなかったよ。帰ろうとしてたんだろう?」
ハジメさんも気を遣ってくれていたが、俺達は俺達で好きでやってた事だから、そこまで気を遣ってもらわなくても、という気もする。
それでもまあ、悪い気はしなかった。
感謝とは、それだけで心温まるものなのだ。
「ま、酷いことにならなくてよかったぜ」
「ほんとにな。あの時あそこで、ハジメさん達と会えてよかったよ」
偶然とはいえ。
あの時あの瞬間この人と会えていなければ、ミズホちゃんは夜の公園で寝ているだけ、ハジメさんはそれを見ているだけという状態のままになっていたはずだ。
ミズホちゃんの症状はどんどん悪化し、時間の経過とともにハジメさんも、今ほど冷静にはなれていなかっただろう。
そうならなくてよかったと考えると、あの時会えたのは本当に僥倖だったと言える。
「俺も、二人に会えてよかった。本当は、ずっと心細かったんだ」
安堵したのか、緩んだ頬のままにぽそり、そんな吐露を聞かせる。
初対面の俺達がどうこう言えた立場ではないが、この人はこの人で、病人一人抱えてこんな時間にこんな場所に来るくらい切羽詰まっていたのだろう。
助けられて、本当によかった。
その後、ほどなくしてサトウ家のメイド達が転移してきたので、サトウとメイド達にミズホちゃんと薬を預け、そのまま解散する事になった。
ハジメさんも、ミズホちゃんのメイドに事の成り行きを報告するつもりらしく、下層へと戻っていった。
――あの人もあの人で疲労困憊だったようだから「無理するなよ」とは言ったのだが、「慣れてるから大丈夫だよ」と苦笑いしながら去っていった。
ガタイが良い人だから、案外肉体労働者か何かなのかもしれない。
その表情に不安は感じられなかったのでそれ以上は何も言わなかったが、休むことの大切さは次に会った時にでも伝えたいと思う。
一人で帰路につき、家についたらそのまま疲労に押し負け、ベッドに倒れ込むように横になってしまった。
俺自身、しっかり休まないとダメなんだろうな、と、薄れる意識の中、そんな事を思い――落ちた。
-Tips-
液化セレノン溶液(薬品)
呼吸器系や粘膜の病気に良く用いられる薬品。
セレノン金鉄バジウムを数字化処理する事によって精製する事が出来る。
人体と親和性が高く、粘膜や傷口などに塗付する事によってその部位の治癒能力が高まり、出血などを抑える働きがある。
また、発疹や腫瘍などの鎮静化にも役立ち、特に流動性気管腫瘍などの気管・粘膜に影響を及ぼす病気には特効薬として高い効果を発揮するとされる。
このほか、異世界においては風邪薬などにもなっており、比較的科学技術が発展した世界ならば誰もが使う安価で便利な薬として愛用されている。




