#4-2.黒の太陽
黒いモヤモヤの正体は、湖だった。
真っ黒な湖面。そこからモヤモヤとした霧が溢れて、空気を黒へと染めていく。
「な、なんか……闇の噴出装置みたいな感じだね。このあたりが妙に暗いのって、この湖が原因?」
流石に湖に跳び込む気はないらしく、エミリオさんは手前で止まって湖面を眺めていた。
ちょっと緊張気味に、頬に汗を流しながら。
「……こんな湖、このマップにあったかしら……?」
そこでようやく私は、何かがおかしいことに気付いた。
そう、こんな湖、前に来た時にはなかったのだ。
友達と遊びに来るマップだから、ドクさんや一浪さんに付き添ってもらいながら入念に隅から隅まで歩いて調べたはずなのに。
地図でも確認したし、そんな湖があるなんて情報、どこにもないはずだった。
「――エミリオさん、離れましょう。なんか、おかしい」
もしかしたら、私が知らない何かがあるのかもしれない。
そう思ったらもう、このままここにいるのは不味い気がして、すぐにエミリオさんにそれを伝えていた。
「えっ? おかしいって、何が……?」
「その……こんな湖、前にはなかったから。もしかしたら、何か起きようとしてるのかも」
「何かって……?」
「それは……私にも解りませんけど。でも、ベータテストとか、そういう時ってすごく不安定で、たまにあるはずがない場所に川が現れたり、いきなり街だった場所が廃墟になってたりとか、そういうのがあったって、ギルドの人に聞いたことがあるんです」
同時に、それはあくまでベータテストの時代の話で、安定した今のこのゲーム世界ではそんな事はまず起きないっていう事も。
だけど、だとしたら、この目の前の湖の存在が解らない。解らないと、怖い。怖いから、逃げたかった。
「とにかく、離れましょう。もしバグか何かだったら、巻き込まれたら大変な事になるかもしれないし――」
「う、うん、そうだね……離れよっ」
「わっ」
エミリオさんも納得してくれたのか、私の手を引いて早足で歩き出す。
「……なんか、後ろ向いたらいなくなってそうで、怖かったから」
突然の事でびっくりした私に、エミリオさんは向こうを向いたままでぽそり、一言。
後ろから見える頬はちょっと赤くなってて、照れてるのが良く解る。
「もう……縁起でもない事言わないでください」
どうしよう、こんな状態なのに、つい口元がにやけてしまいそうで。
緊張が解けてしまいそうで、嬉しくて。だけど――
――そんな事、してる状態じゃなかった。
『Hyahyahyahyaヒャウィゴーッ!!!』
突然、後ろから聞こえた、身体を揺らすほどの大音量。
どん、と、何かが爆発したような音が背後から聞こえて――やがて、地面を揺らしていく。
じわ、じわ、と、何か、足元が濡れていくように感じて。
「――サクヤっ!!」
「振り返らないでっ!! 走って!!」
明らかに何かが、ただならぬ何かが背後に現れたのだと悟った私達は、そのまま、確認する事無く走り出す。
極度の緊張に胸は急速に高鳴り、身体がかっと熱くなっていく。
足元が少しずつ滑ってくる。
つい、見てしまう。足元が、さっきまで普通の芝生だったはずの地面が、黒へと染まってきていた。
「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!!!」
「うわぁぁぁぁぁぁぁっ」
二人、絶叫しながら走る。もう何も考えられない。
幸い身体は軽い、羽のように軽い。粘りつくような地面の中、足が簡単に上がって、まるで跳ぶように走り続けることができる。
息は切れるけれど、それでも今は駆けないといけない。駆けないと。逃げないと――!!
だって、だって、なんか背中が熱い。体が熱く感じたのは緊張の所為だと思っていた。でも、違うのだ。
背中が焼けるように熱い。さっきから、黒いしずくみたいなのが上からぽたぽたと落ちてきている。
――やだ、怖い。逃げたい。逃げないと――逃げないと、死んじゃう!!
本能が身体を突き動かす。
「決して後ろを見るな」と、「絶対に足を止めるな」と、私の身体に全力で命令する。
息も出来ない。むせそうになる。でも、走るのを止められない。
黒いしずくが私のフードを黒に染めていく。
――やめて、髪は汚さないで!
こんな状況なのに、髪の心配なんてしてしまう。私は能天気なのかもしれない。
いいや違う、現実逃避したいだけ。怖い。怖すぎる。だって、こんなの現実じゃ知らない。
今度は首筋が、頭が熱い。ううん違う、全身が熱い!!
汗だくになる。それでも走り続ける。
逃げたいと、逃げなければいけないと、死んでも逃げるべきだと身体が訳の解らない命令を下し続ける。
――だけど、私の身体、そんなに走り回れる訳がなかった。
「――あっ」
ぬめった地面に足を取られ、いつしか疲労に重くなった私の足は、ぐしゃ、と滑ってしまい。
「あぐっ――」
気がつけば、顔から黒の地面へとダイブしていた。
べちゃりという情けない音。地面がぬめっているからか、そんなに痛くはないけれど。
「サクヤっ!?」
エミリオさんも私に気付いてか、足を止めしまう。
ああ、エミリオさん、せめてエミリオさんだけでも逃げてくれれば、と。
必死に声を絞り出そうと、エミリオさんを見ようとして――そして、とうとう見てしまった。
――私達の頭上で、にやにやと笑いながら私達を見ている、真っ黒な太陽の顔を。
最悪な気分だった。泣く気すら起きない。
熱く感じた訳だった。さっきまで空になかった太陽が、さんさんと黒く輝いていた。
その黒い太陽光線は私達へと容赦なく降り注ぎ、今も尚、焦がすように熱を送り続ける。
あれはそう、『黒の太陽』と呼ばれたこのマップのボス『マタ・ハリ』。
丁度こういう見た目なんだと、ドクさんに聞いた通り。
そのまんま、真っ黒な太陽に顔がついた、悪趣味なモンスターだった。
「さ、サクヤっ、立てる!?」
あんまりな絶望で立ち上がることすら忘れていた私はエミリオさんの声で我に返った。
「あ……え、エミリオさん……に、逃げてくださいっ」
なんとか声を絞り出しながら、泣きそうになりながら、なんとか立ち上がろうとする。
だけど、足元がぬめって踏ん張れない。ずるずると、足が埋もれていくのを感じる。
あの湖はきっと、そう……マタ・ハリが、大地を黒へと変貌させた慣れの果てだったのだ。
「何言ってんの! 早く掴って! 逃げるなら一緒だよ!!」
「あれはボスなんです! マタ・ハリって言って……私達じゃ絶対に叶わない敵でっ!!」
――何考えてるのこの子。なんで近づいてくるの。早く逃げないとダメなのに。いますぐ逃げれば助かるかもしれないのに。
「でも攻撃してこないじゃんっ、今のうちだよっ、早くっ!!」
――なんで私のところまできちゃうの。ああ、エミリオさんまで足が埋もれていく。早く、早く離れないと。でも……でも、助かりたい! 助けて欲しい!!
「……くぅっ」
情けない自分に歯を食いしばりながら、エミリオさんの手を掴む。
理性が本能に負けた瞬間だった。ううん違う。信頼が、安っぽいプライドに勝った瞬間。そう思いたい。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
私が手を掴んだ瞬間、エミリオさんは思いっきり私の腕を引っ張る。
私自身、埋もれた泥から抜け出そうと必死にもがく。
地面は、後ろほど柔らかく液状化していて、前ほど堅さを残している。
前に、前にと進めば、少しずつでも進むことが出来れば、きっとこの泥からは抜け出せるはず。そう思いながら、必死にエミリオさんの腕を離さないようにしながら、体重を前へとかける。
這い蹲るように、真っ黒になりながら――ようやく抜け出せた!!
「走れぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!!」
「けほっ――は、はいっ!!」
感動のシーンなんかじゃない。敵はまだ頭上にいる。
そして本能は告げるのだ。「あれは私たちが対峙していい相手じゃない」と。
そもそも、はるか頭上にいる敵に対しての攻撃手段なんて私達は持ち合わせていない。最初から逃げるしかないのだ。
『kihiっ!! キヒヒヒヒッ!! キヒャハハハハハハハハハッ!!!!』
そんな私達を、マタ・ハリは頭上から嘲笑う。その狂った笑い声が耳にキンキンと響き、抑えたくなるほど痛くなる。
だけど、そんな痛みがどうでもよくなるような光景が、目の前に広がっていった。
『kuruekurue狂え狂え狂えぇぇぇぇぇぇっ!! アステロイド・レイン!!』
黒い太陽が、何かを発動させたのはわかった。
空のいたる所に展開されていく巨大な魔法陣。
そこから、魔法陣に見合った巨大な岩石が次々と現れ、そして――落ちてきたのだから。
「うひぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!」
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
必死になって二人、走る。走るけれど、走ってどうにかなるのかは解らない。
マタ・ハリの言っていた『狂え』という言葉の通り、私達は、狂ったように走っていた。
自分の身体の限界なんてとっくに振り切って。
どうせ死ぬなら、走りながら死ぬほうを選んでいたのだ。
だけど、そんな頑張りは所詮、悪あがきでしかなかった。
――私達の背後で起きた巨大なインパクト。
地表が波打ち、地響きのショックにバランスを崩してしまう。
ふらふらになっていた私達の足には耐えられるはずもない。
「エミリオさんっ」
「わぁっ」
なんとか、前でふらふらしていたエミリオさんを庇おうと、押し倒してしまう。
だって、そのまま立っていたら、遅れてきた衝撃波が。
そう、衝撃波が、私の背中を激しく抉って――
「う……うく……」
気がつけば、私は地べたに寝転がっていた。
空の上には、あのいやらしい笑顔の太陽。
首が動かない。視界が段々と、赤く染まっていくのが感じられた。
不思議と痛みはそんなになくて、案外なんでもないかのように思えたのだけれど。動かないのだ。
(えみ……りお、さん……?)
私が庇ったエミリオさんはどうなったのか。
自分は何とか生きているらしいけれど、エミリオさんは、私の友達のエミリオさんは無事なのか。
それだけが、気になってしまう。儚い現実逃避だった。
「――大丈夫かっ!!」
衝撃が走ったのは、そんな一瞬の合間だった。
声。声が聞こえたのだ。真っ赤になりかけていた視界が、ちょっとだけ元の色を取り戻す。
顔。人の顔。ああ、これは……さっきすれ違った、逆毛の剣士さんだ。
「おいっ、大丈夫かよっ!!」
「あ……」
――なんとか、返事しないと。
そう思いながら、口を開く。
声が声にならない。だけど、逆毛さんは頷いてくれた。
「良かった、まだ生きてる! ミズーリ、そっちの子は!?」
「大丈夫よ、息があるもの……女神よ、どうかこの者に温かな慈悲を――!!」
他の人たちの声も聞こえてきて、どうやらエミリオさんも生きてるらしいのが解ると、途端に身体中、痛みが走り始める。
「ひ……ぐっ――」
軋むような痛み。特に背中が痛くて、だけど、叫び声をあげられるほどに喉に力が入らない。
「もうちょっとだぞ、耐えろよ、ちょっと苦しいかもしれないけど、上手く飲むんだぞ!!」
逆毛さんが何か言っているのが聞こえて、それから、口に硬いものが押し当てられる。
そして流れ込んでくる冷たい液体。だけど、私の喉はそれを飲み下せない。
もう、力が入らないのだ。口の端からこぼれていってしまう。
「――くそっ、ダメだ、こぼすなよっ、こぼしたら助からんぞっ!!」
「バイアル、喉奥まで突っ込んじまえ!」
「解った!!」
男の人たちの話し声。そして、更に奥まで入ってくる硬いもの。
「えぐっ――」
ぐぐ、と、喉奥に無理矢理入り込まれて、途端にえずいてしまう。
「飲めっ! 苦しくても飲めっ!!」
身体が勝手にびくんびくんと痙攣するけれど、男の人の強い力で頭と顎を押さえ込まれていて、動けない。
そのまま無理矢理に喉奥に液体を注がれて――それがやがて、身体の奥で熱くなっていく。
「――はっ!?」
そして、ようやく私は自分の状況に気がついたのだ。
ぼやけていた視点がようやくはっきりとして、身体に力が入るようになって。
「ぐっ――えぐっ、けふっ」
そして同時に、強烈な吐き気が喉へと襲い掛かる。
異物は、まだ喉に入ったままだったのだ。
「あっ、すまんっ」
また視界がぼやけそうになっていたところで、ようやく口の中を占拠していた堅い物が引き抜かれる。
「けふっ……かはっ――」
反動でむせてしまう。なんとか、なんとか呼吸して、死にそうな位に苦しいソレに耐えた。
「ああ、良かった……生きてて良かったなあ」
見ると、泣きそうな顔をしている逆毛の人、と、その手に納まっている、ねっとりと唾液のついたポーション瓶が目に入った。
「……あ、あのっ」
それが、なんか、すごく恥ずかしい。
状況に関係無しに、すごくいやらしいもののように見えてしまったのだ。
「あの、助けていただいて……」
「いや、礼を言ってるところすまんが、まだ助かってないんだ。マタ・ハリはまだ居る。それより、動けるか?」
困ったように苦笑しながら、逆毛さんは空を指差す。
ああ、そう、確かに空にはあれがいるのだ。マタ・ハリが。
「その、なんとか、動けると……」
幸い、身体の痛みは大分薄れている。手を貸してもらいながらだけど、なんとか立ち上がれた。
「バイアル、こっちの子は意識が戻らないから背負って!!」
「解った! カルッセルは後ろに! ミズーリはこの子のフォロー頼む!!」
「オッケー!!」
「任せて頂戴!!」
――ああ、なんか、すごい勢いで連携が組まれていく。かっこいいなあ。
いつか私達もこうなりたいなあ、なんて、のんきな事を思いながら。
今度は逆毛さん達も巻き込んでの逃走が始まった。
-Tips-
マタ・ハリ(ボスモンスター)
漆黒の丘のボスモンスター。
空に浮かぶ巨大な黒い太陽に人の顔が描かれたような姿をしたモンスターで、常にいやらしい笑みを浮かべている。通称『黒の太陽』。
基本的に本体が直接物理攻撃を仕掛けてくる事はなく、呪いの雨『ブラックレイン』によって大地を黒で染めて対象の移動・転移妨害を駆使し、
『アステロイド・レイン』や『ダルクフレア』、『サンライトレイ』などの強力な範囲魔法によって広範囲の標的を皆殺しにしてゆく。
極めて高度な戦闘判断が可能で、前衛が魔法を防ぐようならばフェイントを用いた上で精神系魔法などを利用して前衛を崩そうとしたり、後衛を狙い撃ちにしようとしたりするなどいやらしい行動をとる事も多い。
初級マップのボスとして攻撃性能が非常に高いこのボスがいる事は初見殺し以外の何物でもなく、よほどの実力者でもなければ遭遇したら迷わず逃げを選択しなくてはならないが、マタ・ハリは出現直後以外は常時上空に浮かんでいる為、基本的に人間の足では走って逃げ切ることが困難である。
幸い攻撃と攻撃との間隔は非常にゆったりとしており、嗜虐的な快楽を得る為に意図的に走らせる事もある為、運さえ良ければ逃げ切ることは可能である。
ただし、一度でもダメージを与えると途端に攻撃ルーチンを切り替え複数魔法を連射してくる発狂モードに移行する為、半端な反撃は厳禁である。
攻略するためには魔法を防ぎ切るだけの防御要員と弓以上の射程を持つ魔法攻撃要員が必須であるが、それさえ整えば耐久が低く、少数、極まれば単独でも攻略可能なボスである。
種族:悪魔 属性:闇
危険度(星が多いほど危険):★★★★
能力(星が多いほど高い)
体力:★★★★
筋力:★★★★
魔力:★★★★★★
特殊:★★★★★
備考:闇耐性120%(吸収)、炎耐性40%、水耐性40%、地耐性40%
呪い『ブラックレイン』




