#8-2.生態観察、それから
(……こんなところかしら、ね)
一通りの準備が整い、最後に水辺を見渡す。
ぱっと見ただけでは解り難いけれど、ここは浅瀬になっていて、少し離れた場所にはアイアンニーソの群れが潜んでいる。
ヒレのついた小型の蛇を思わせるアイアンニーソは、相手の大小を問わず自分の縄張りに近づいた生物に襲い掛かり、噛みついてくる。
牙には毒が含まれていて、ワイルドベアなどの大型でも幾度も噛まれれば身動きが取れなくなるほど強力。
群れで襲い掛かるので、一匹二匹倒したところで逃れる事は出来ず、中々に厄介な生物だった。
このアイアンニーソは、水辺近くまで縄張りとして見ている場合と、そうじゃない場合がある。
水辺近くまで縄張りにしている場合は、水を飲みに来た生物に問答無用で襲い掛かってくるのだけれど、試しに私が水辺に立った時には襲ってくる様子が無かったので、恐らく浅瀬を突っ切りでもしない限りは私の障害にはならない。
普段はあまり気にしないところだけれど、状況次第ではこれも役に立つかもしれない。
最後に、隠れる場所を考えなくてはならないのだけれど。
準備しながらに最適な場所を探し、水辺か森の中か木の上か迷い……水辺を選んだ。
茂みがいくらかあるので人間一人すっぽり入れるポイントはあるし、プレイヤーが使っている泉などと違い、この辺りの水はいくらか臭いがあるので、それが上手いところ人間の臭いを消してくれるかもしれない、というのが理由。
必要なら獣が警戒しないように獣臭くなる香水なんかを使わなくてはいけないのだけれど、今回はその辺りの理由から必要なさそうだった。
弓矢で真っ正面から挑むならそんな細かい事を考えず、現れたらすぐ狙い撃ちにすればいいのだけれど、私は罠師。私の存在に気づかれるのは、罠にかかった後でなくては困る。
潜伏するにあたって、居心地の良さなんかは考えない。
これと決めた場所がいかに不快な場所であろうと、辛い場所であろうと関係ないのだ。
そう、関係ない。私個人がどう思いどう感じようが、そんなものは狩りの上では無関係なのだから。
手に持つのはナイフ一本。それと、私と同じように寝そべらせている罠が一つ。
これは攻撃性能皆無のものなのでこれ一つで倒す事はできないけれど、これはこれで大切な保険の一つだった。
待つ。ひたすら待つ。
寝そべり腕を立て、森の方をひたすら見続ける。
姿勢のおかげで疲労は蓄積しにくいけれど、時折虫が頬を這ったり眼元に寄ってきたりして鬱陶しい。
ただのレジャーや小物狙いなら虫よけスプレーの一つも使うけれど、流石にそんな臭いが近くから漂えば大物以上の動物は気づいて警戒するので、今回は使えないのだ。
虫にたかられるのは初めてではないしもう慣れたけれど、何度目であっても好きにはなれない。
(……きた)
陽が傾き始めた頃。
ようやくにして、動きが見えた。
いや、感じられたのだ。
視界に入ってくるより前に、あの重圧が私に襲い掛かって来た。
目に見えぬ恐怖、とでもいうべきか。
それが視覚化されるより前に、私の身体をぞわぞわと這い廻ってくるのだ。
恐ろしい。なんて恐ろしいのだろう。
ただ寝そべって見ているだけで、森の奥から恐怖が具現化されたような生物が歩いてくるのが解ってしまったのだ。
そしてそれは、人間の本能からみれば逃げなくてはならない、決して対峙してはいけないような化け物のはずで。
それが解っているというのに、私という人間は、逃げる事が出来なかったのだから。
今度は、私が見ている番だった。
知性を感じさせる赤い眼。血まみれのようにも見える赤い角。
大木をも圧し折れるその巨大な姿は、ゆったりとした動作で雑草を踏みならし、水辺へと近づいてくる。
時折鼻を鳴らし、辺りを見渡し。
一瞬私の方を見ようともしたけれど、それはしなかった。
私と彼との距離は、ざっと50メートル。
彼の方が風上なので、恐らくは気づかれていないはず。
胸が高鳴る。まるで初めて恋した男性を遠巻きに眺めているかのような……話に聞いた限り、そんな感じの気持ちになるのが、初恋というものなのではないだろうか。
ヘヴィラムは、やがて水辺で渇望を満たす。
ぴちゃぴちゃと、頻繁に舌を出して水を舐め、飲み下す。
そのシーンだけ見れば他の狩猟対象動物と変わらない、極めて動物的な姿だった。
遠巻きに観察して初めてわかる、当たり前のような事実。
やはり、彼らも動物で、動物として生きる以上は動物としての行動を取るのだ。
……その力が、影響力が、極めて人知を超えている事を除いて。
(え……?)
舌先の渇きを癒やしたかに見えたヘヴィラムは、今度は躊躇なく水の中に入っていき……そして、再び顔を水に近づけた。
舌先が届くばかりだった先ほどと比べ、より深くまで顔が届くようになり……そして、ためらいもなく顔を水の中に入れた。
何をしたいのか解らない、と思った瞬間、ずぞ、と、水面が渦巻く。
まるで水辺そのものが飲み込まれていくかのように、大量の水が一息のままに吸い込まれていくのだ。
ポンプか何かで機械的に吸い上げられていくかのようにその巨体の中に収まっていく様は、圧巻だった。
(水位が随分下がったわね……)
見れば、先ほどまで縄張りで腹を上にして浮かんで休んでいたアイアンニーソたちが、何事かとざわめき始めていた。
犯人は特定できているのだろうが、それがヘヴィラムだと解り、騒ぐにも騒ぎきれず、そのまま身動きも取れなくなっていたようだけれど。
今の一息で、ヘヴィラムは水の何割かを飲みつくした。
これは水棲生物にとって中々に大きなダメージに成り得る。
一応自然環境扱いだから水位は自然に回復するのだろうか。
そうでなければ、この森にヘヴィラムが居つくだけで、何割かの水棲生物は死滅しかねない。
水をたらふく飲み下し、ブフ、と大きく鼻を鳴らして満足げに休息地へと振り向く。
やはり私に気づいた様子もなく、ヘヴィラムは休息地で臭いを嗅ぎ、異常がない事を確認して四肢を折り始める。
やがて横倒れに寝転び、ずぅ、と大きく息を吸い込み……そのまま動かなくなった。
幸い、ベグレルの影響下にある事にはまだ気づいていないらしい。
温かな陽射しを受け、幸せそうに赤い眼を細め……やがて閉じてしまった。
しばらくの間、様子を見ていた。
こんな化け物が寝そべっているというのに、とても平和そうな光景が続く。
小鳥が格好の陽当たり場所を見つけたとばかりにその巨体の上に降り立ち、チーチーと愛らしい鳴き声を聞かせる。
ヘヴィラムはその後ろについている耳をぶる、と震わせるけれど、それきり。
自分を足場代わりにする小鳥たちを振り落とそうとはしない。
だけれど、そうかからず小鳥たちは羽ばたいてしまう。
丁度、同じ水場を使おうと、別の大物が現れたのだ。
その場に居合わせたのはワイルドベア。
それもかなりの大物で、この間私が狩ったものより二回りも三つ回りも大きい。
左目に傷がついていて、いかにも歴戦を思わせる巨熊だった。
ずしり、ずしりと近寄ってくる黒熊の姿に、ヘヴィラムもやがてのっそりと、面倒くさげに身を起こし、立ち上がってしまう。
想定外ではあった。このまま眠り続けてくれれば、訳もなく弱体化してくれるというのに。
ただ、まあ、上に乗っていた小鳥たちもあのままだと衰弱していくはずなので、それによってベグレルの存在に気づかれるよりはマシかもしれない。
獣たちは、自身が衰弱する事には気づきにくくとも、他者が衰弱していく様を見ればそれと気づける程度には賢いのだから。
『グオォォォォォォォォォッ!!!』
かくして、戦いが始まった。
片や歴戦のワイルドベア。
片や自然そのものと比喩しても違和感がない超大物。
戦いの先手は、駆け出したワイルドベアからであった。
『……ブゥゥ』
ヘヴィラムは鼻を鳴らしながら頭を垂れる。
ワイルドベアの正面からの突進を、頭頂の角で受け止める姿勢。
それでいて、片足を踏み鳴らし、後ろ脚に力を込めてもいた。
『グベァッ!』
『ヴギャァォォォォォォォォォァァァァァァァァァッ!!!』
ワイルドベアの猛進が、止まる。止まってしまった。
身の毛もよだついななき声。
巨大な角で受け止められたその巨体が、それでも尚押し進もうとして、しかし角の一押しでぱたりと追い返されてしまう。
無防備になった腹に向け、今度はヘヴィラムの突進が見舞われる。
木々をも圧し折り叩き壊す暴進。
いかに鋼の如き筋肉を持つワイルドベアでも、腹部へ突き刺さるその一撃は致命的だった。
『グ、グゥゥ……ヴォォォォォッ!!』
呻き声を上げ、一歩、二歩とよろめいてしまう。
しかし、彼もまた剛の者。退かない。
態勢を整えるや鋭い爪を振り回し、更に地ならししていたヘヴィラムへと襲い掛かった。
『ォォォ……ヴギァォォォォォォォォォッ!!!』
次なる突進が繰り出される直前、一撃が頭部へと加えられる。
ぐちゃりと、ヘヴィラムの角の付け根に突き刺さったその一撃は、突進の威力を緩めるのに十分すぎる激痛をヘヴィラムに与えたらしい。
即座に振りほどこうと頭を振り回そうとするも、ワイルドベアは離れようとしない。
爪を更に深く食い込ませ、そのまま脳髄を握りつぶそうとしているかのよう。
だけれど、腹部にまともな一撃を受けた後ではそれも長くは続かず。
『……ブルッ』
『ギャウン!?』
膠着状態に陥った後の持久戦に耐え切れず、逆に冷静になったヘヴィラムによってその巨体ごとぐぐ、と持ち上げられ……そのまま地べたへと叩き付けられてしまった。
いかに巨体と言えど、いいや、巨体だからこそ、自身の重量によるダメージは大きい。
それでもワイルドベアはいくらか呻いていたけれど、トドメとばかりに前足のスタンプを腹に受け、今度こそ動かなくなってしまう。
やがて消え去り、勝者が確定した。
(面白い戦いだったわね)
もし最初にあのワイルドベアが爪を突き立てる事が出来たなら、あるいはもう少しダメージを与えられたかもしれない。
だけれど、それは起きなかった。
圧倒的な強さを誇る格上相手に逃げの手を打たなかったのは無謀だったようにも見えたけれど、その実力差が読めなかったというよりは、逃げても無意味だと悟っていたからなのでは、なんて思ってしまう。
勝者となったヘヴィラムが何をしたかと言えば、それ以上は何もせず。
先程までと同じようにその場に座り、倒れ、まどろみ始める。
戦いなどなかったかのように、また平穏が訪れる。
(弓矢が扱えたなら、角の付け根が弱点らしいのも有効に突けるのだけれど、ね)
戦闘観察の結果気づけたのは、ヘヴィラムが頭部の角の付け根にダメージを受けた事、そしてそれによって一時的に冷静さを失っていたように見えた事だった。
そこを狙えば、一時的にでも混乱させることができるかもしれない。
それは同時に予測不可能な動きをされるリスクを背負う事にもなるけれど、的確に狙いをつけられ突進されれば、人間では対処が不可能な速度である、回避の仕様もない。
それをどうにかできるなら、多少の危険を負ってでも利用しない手はない。
……つくづく、弓矢が扱えない自分の腕が忌まわしかった。
ブチン、と、何かが切れたような音がして、意識がブレる。
「……う、ん?」
じ、とヘヴィラムを眺めていたはずの私は、気が付くと見知らぬ暗い場所にいた。
-Tips-
アイアンニーソ(動物)
森林地形の水辺や湖畔、渓流水域などに生息している水棲生物。
ひょろっとした体型で、ヒレがついている為一見すると魚類のように見えるが、実際には水棲爬虫類の一種である。
鱗はなく、蛇に見えなくもないが蛇や海蛇などとは全くの別種で、どちらかというとワニに近い。
アイアンニーソは非常に頑丈な鋭い牙とその牙から分泌される麻痺毒を武器に、テリトリーに入り込んだ存在に襲い掛かる性質を持つ。
とても獰猛で、縄張りに入り込んだ相手がいかに強大であろうと果敢に挑む。
水棲爬虫類としては珍しく群れを作る為、この群れに入り込んだ場合、複数のアイアンニーソに襲われる事となる為注意が必要である。
ハンターの狩猟対象生物にもなっており、この生物から剥ぎ取れる水蛇皮は軽量の耐水装備を作る際に役に立つ。




