#9-1.虚しき対峙
道中は、イベント中だというのに異常な静けさを保っていた。
ずっと見えていた幻覚は立ち消え、今やただの校舎でしかないというのに。
校内の窓から見える光景は、他の空間から隔絶されたかのように暗闇。
当たり前のように見えていたはずの外の世界が、全く見えなくなっている。
(……外と、隔離されているのかしら。そういう結界が……?)
パンドラの箱の力は底が知れない。
レクト一人の力では無理でも、箱の力を以てすれば、あるいは――そう思えばこそ、駆ける脚は止まる事が無かった。
「――ふふふ、そこまでだ」
「……っ」
学長室までもう間もなく。
そう思った矢先、曲がり角で人影が立ちはだかる。
見慣れた眼鏡の、やつれた男。紛う事無くレクトだった。
「随分と焦っているようだが。この先には私の執務室しかないぞ?」
クク、と、何が楽しいのか笑いを抑えるように口元を抑えながら、眼鏡のズレを直すレクト。
「貴方に用事があって来たのよ、レクト」
対し、私は杖を構えながらに睨みつける。
当然だ。私にとって彼は、もはや協力者でもなんでもないのだから。
「……どうやら正気に戻ったようだ。ふん、そのままでは絶対に元に戻れないと思っていだがな……思いのほか、パンドラの箱の力はあてにはならぬという事か――」
「人の想いの力がそれだけ強固だったという事でしょう」
「想いの力が……ねえ?」
何がおかしいのか、私の言葉を聞き、レクトはあざ笑うように口角を吊り上げる。
その表情、かつて私が知った、『学長であったレクト』とは似ても似つかないものだった。
同じ顔なのに、まるで違う人のように感じたのだ。
「……貴方は、一体」
「私は私さ。君がそう言ったようにね。ああいや、もう消え去った『もう一人の君』が言った、だったかな?」
「……彼女は貴方を愛していたわ」
消え去っていった、別人格を思う。
私の望まない行動ばかりとっていた人だったけれど、本心からレクトの事を愛し、彼の為になるような行動だけを取ろうとしていた。
その最後とて、彼の為に死ぬ事を選んだはずだったのに。
「当然だ。そうなるように設定したからね。パンドラの箱を介しての人類の意識データを操作しての洗脳。これ自体は一定の成果が見込めると思っていたのだが……失敗に終わってしまったようだ」
そのレクトは、何でもない事のように笑うのだ。
実に残念ながら、と、さほど残念でもなさそうに。
まるで無意味な死であったように思えて、苛立ちが募る。
「そんな顔をしないでくれたまえ。美しい顔が台無しだ。いや、そういう顔も悪くはないと思うが……ね?」
「最初の約束と話が違うわ。私は誰かが――NPCであっても傷つかない、そういう前提で協力すると言ったはずよ。そもそも校内に張り巡らされていた結界も、そして今の状況すら――貴方は何を考えているの? 何故、こんな事をしたの?」
巻き込まれた以上、何も知らないまま倒すのは避けたかった。
今すぐにでも攻撃してしまいたい。けれど、知りたかったのだ。
何故こんな事をしたのか。なぜいろんな人を巻き込み、苦しめてまで、こんな方法をとったのか。
笑っていたレクトは、その問いかけに真顔になり、また眼鏡のズレを直す。
「知りたいかね……?」
恐ろしげな眼力。
ただ見つめているだけで頭がおかしくなってしまいそうな、そんな気がして、思わず視線を逸らしてしまう。
それが愉快だとばかりに、レクトはまた笑うのだ。
それから「よかろう」と、尊大な口調で口を開く。
「――簡単な話だ。箱の力を使い、どこまで好き勝手出来るかを知りたかった。NPCの存在定義を弄り、PC化させたりモンスター化させたりデリートしてみたり……そういったところまではNPCを使った一連の実験で可能なのは解っていたが。では、それをPCに転用できるのか否か。できないとして、どの程度PCに対し影響を与えることができるのか……それを知る事が、まず第一の目的だ」
「第一、の……? では貴方は、この後更に、何か企んでいたという訳?」
「そうなるね」
驚きは、ここに留まらなかった。
レクトは止まらずに、そのまま話を進めるのだ。
「第二の目的として、この世界をどの程度まで操作できるのか……つまり、システムそのものへの介入がどの程度可能なのかを知りたかった。パンドラの箱は、一種のシステム介入ツールだからね。これを介すれば、本来ならPCの身では知る事も触れる事もできない隠しデータを閲覧し、外部から操作する為に必要なセキュリティの穴を……傷をつけることができるのだよ」
「……人の身に、それは無理なはずよ。そもそもそんな事をしたら、運営サイドがどんな行動に出るか――」
少なくとも、死刑では済まない。
こんな事をしたら、リアルサイドにまで影響のあるデリート処置がとられるのは目に見えている。
そうまでしてこんなチキンレースをする事に、意味があるとは到底思えなかった。
けれど、レクトは笑っている。
まるで私が言う事なんて想像がついていたかのように。
そして、それに対しての回答が容易であるとばかりに。
「だが、事実運営サイドはまだ本格的には動けていない。確かに一部、そういった動きはみられるが……即座にデリート、といった行動には出られないだろう? つまり、私は今、それができない空間にいるのだ」
「運営サイドが手出しできない空間……?」
「くくく、この大学の外がどうなっているか見たかね? そう、今この校舎は、データ的に二つに分かれている。一つは多くの外部プレイヤーにとってそう見える『普通のメイジ大学』。こちらはいつも通りの校舎にしか見えていないし、中に入っても同じように講師やNPCがいる空間となっている」
指を立てながらに、レクトは講釈を続ける。
一歩たりとも寄ってはこないけれど、その場にいて尚伝わる、異常な威圧感。
「もう一つは、今のこの校舎さ。私が造った隔離世界に存在している。当然、向こうの運営サイドがどうこうしようと思っても、こちらの世界には直接の手出しはできない、という事さ」
「……そもそものルールが適用されない世界を、自分で作ったというの……?」
「そうとも。パンドラの箱の力は実に素晴らしい! 造物の身には決して得られぬ知識がどんどんと溢れてくる! そうして、それを行使できる力すら与えてくれるのだよ!」
こんなに素晴らしいことはない、と、レクトは大仰に手を広げ、空間を仰ぎ見る。
まるで私の事など眼中にないかの如く。
それでいて、私に語って聞かせるように存在に話すのだ。
「いいかねセシリア? 人間などというものは所詮、使うか使われるかでしか繋がっておらん。ただの道具に成り下がるか、道具に成り下がった奴を使う側になるか、それを考えねば、奴隷にも人形にもなってしまうのだよ?」
「それが貴方の本音な訳ね? 運営サイドに対しての反発ではなく、単に自身が好き放題したいだけ――」
「いいや違うね。私は無能な運営サイドから、このゲームを奪い取りたかった。プレイヤー同士で好き放題できる、そんなルール無用の世界が欲しかったのだ」
「狂ってるわ。貴方、それは明らかに人の道から外れてる。そんな世界、誰だって楽しめない」
「かもしれんね。だが、どうでもいい。もはやどうでもいいのだよ、セシリア?」
彼の視線からは異常な力を感じる。
そしてその存在は、明らかにかつての彼とは違う異質なもののように思えて。
ただ近づいてくるだけの彼は、とても大きな、全く違う存在のように見えて、後ずさってしまった。
「……私のギルメンが貴方を倒しに来たはずよ。彼らは?」
「無論、戦っているだろうさ。倒そうとした私を相手にね」
さも愉快であるかのように、レクトは笑う。
そうして、彼は私を見て、首を傾げるようにして問うのだ。
「どうするねセシリア? また私の手を取るか? それとも、彼らと同じように私と戦うかね?」
「……ギトゥス=レクト。貴方は大きな勘違いをしているわ」
差し出された手を見つめながら、溜息を吐き、緊張を和らげる。
構えていた武器を一度下げ、今度は視線を逸らさずに、じ、と、その瞳を見据えた。
「私の仲間は、決して弱くないわ。貴方程度なら容易に倒せる」
「ほう」
「そして、私は……私は、そう何度も貴方に操られる程、弱い女じゃない」
「……ほう!」
彼の瞳は、明らかに普段と異なる色彩。赤色。
だけれど、私もそれを正面から見据え、睨みつける。
レクトは感心したように口元を歪め、「これは恐れ入った」と、その場で恐縮したようなポーズをとる。
そうかと思えば姿を消し――離れた場所に転移していた。
「――レクト」
「まさか君が私と同等の『魔眼』を持っていたとは思いもしなかった。いやはや、これは予想外――こんな遠く離れた世界で同胞と見える事になるとは、なあ」
「同胞、ですって……?」
「くくく、まあ、細かいことはもういい――このまま操れればと思ったが、やはりもう無理なようだからな」
「……」
「セシリアよ、私を倒せねば、お前のギルメンは死ぬぞ? 何せ私は強いからなあ。魂を二分割しても、お前達を全滅させる事など実に容易い!」
「そう……なら、私の取る行動は一つだけだわ」
「最初からそのつもりだったのだろう? なぜ話など聞いていた? 問答無用で撃ってもよかったのだぞ?」
「……貴方も操られてるんじゃないかと思っただけよ。誰か黒幕のようなモノが居て、それが全て裏で糸を引いていたというなら、無理に貴方を殺す必要なんてないもの」
「そうか、それは残念だ」
この問答でもう、全てが決まってしまっていた。
戦う。そして倒す。
解っていたことながら、一時は協力していたプレイヤーを、倒さなくてはならない。
無力化させればいいという話ではなく、完全に、倒す必要があると思えた。
「だけど、一つだけ最後に教えて頂戴」
「何かね?」
「私は、いつから貴方と知り合っていたのかしら……? 私の記憶には、貴方との出会い、そもそもその記憶がないのよ」
「つまり君は、最初から居もしなかった男に協力し、そんな男を倒そうとしていた、という事だろう?」
「……最初から居ない男」
「くくくく……長話はもうここまでだ。ここからはただ、互いの魔法とがぶつかり合い、互いの血が、悲鳴が、絶望が言語となる」
そうであろう? と、レクトは何もない空間に手をかざした。
瞬時に転送された武器――それは、フクロウの頭が付いた杖。
「さあ。愉しくて辛い殺し合いの時間だ――精々頑張るがいい。想いの力、仲間への愛情。それらを糧に、我を倒してみるがいい――参るぞ?」
おどけたような飄々とした口調で語りながら、レクトは杖を私に向け……戦闘は始まった。
-Tips-
ディメンション・ワールド(スキル)
運営さんや運営サイドが扱う事の出来る特殊魔法
空間コピーを行う事によって疑似的な「もう一つの同じ世界」を構築する事が出来る。
本来元の世界に存在する事物に対し、一切影響を与えることなく同じ空間を活用する為に開発されたもので、空間接続スキル『ディメンション』の派生型スキルである。
主にはイベント会場として用意された、新規実装される予定のシステムをテストする為用意されるスキルで、この空間の中でならばルールや事象の条件などを自在に改ざんする事が可能となっている。
運営さんや運営サイドではいわゆる『デバッグステージ』『イベントステージ』と言われる空間を用意する為のスキルという認識ではあるが、実際にはこれを用いて自在な『現実と似て異なる異世界』を構築する事も可能で、範囲こそ狭いものの、生み出した世界でできる行動の自由度はとても高い。
尚、現実世界において重複した世界を発生させる古代魔法『コールドスリープ』とは異なり、これを用いる事による弊害は今のところ確認されていない。




