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中編

 翌朝である。あの後大滝中学卓球部員たちの配慮により、顧問教師に悟られることなく帰還することに成功した。床についた後も敗北感や劣等感が(せめ)ぎ合って、俺は眠れぬ夜を過ごすこととなった。

「小川さんに感謝しろよお前」

「はあ」

「あんなことがあったのにそれを問題にしなかったばかりか、内密に宿へ戻る手伝いまでしてくれたんだ」

「はあ」

 言葉が頭に入ってこなかった。

「その小川ってのは誰だっけ」

 チームメイトは呆れたふうに溜息をついた。他のチームメイトたちも“よお、強姦未遂”などと、謂れない誤解を招きそうな冷やかしを捨てて行き過ぎる。

「お前が飛び掛かった女子の名前だよ。知り合いみたいだったのに、知らなかったのか」

「まあな。小川か……」

 遠く空を眺めて途方に暮れる。昨夜は何度も何度も頭に血が上っていたその反面、なんだか今は自分の身体に血が通っていないかのような感覚であった。

「いやあ、でも、えらい美人だったよな。二歳年上というのも僕的にはポイント高いのよお」

 理由もなく小突いてしまった。そいつは困惑している。

「女に見惚れていると俺みたいな笑い者になるぞ」

「ははは、納得」

 今日の練習はいつにも増して過酷であった。どうやら顧問も、先日の敗戦を気にかけていなかったわけではないらしい。実際俺たちが負けること自体は想定の範囲内であったみたいだが、問題は試合内容である。特に無得点ストレート負けの俺は、他の誰よりも厳しく監視され指導されている感じであった。

「おい佐土原。もう息が上がってるぞ」

 顧問がこちらに歩み寄ってきた。

「はい。今日の練習きついので──」

「よし、休憩していいぞ。外周走ってこい」

 言葉の意味が理解出来なかった。矛盾しているだろう。あくまでも卓球の練習を休憩して良いというだけで、だからと言って身体を休めることは許さない。その解釈で間違いないだろうか。ひどい話である。

 指示に逆らうと(むし)ろそちらの方が面倒だと割り切って、俺は急いで練習場を後にした。このまま逃げ出してしまおうか。そんなことを考えた。親には小遣いを五千円ほど渡されていたから、だからこれを使えば家へと帰れない事もないだろう。

「おーい、走ってるか佐土原」

 後ろから上級生の声。三~四人の先輩たちが俺の後を追って駆けて来た。見張り役の登場により逃亡作戦は早くも潰えることとなった。

「監督様から見張ってこいとのお達しやで」

 お見通しであった。

「ほらほら、はよ走らんか」

「うっす」

 それから日が暮れるまでは、逃げ出すことなど考える間もなく延々と走り続けたのであった。もうたくさんだ。当てのない努力ほど嫌いなものはない。半日走り続けて、一体俺の手元に何が残ったのだろうか。この合宿が終わったら退部してしまおう。そんなことを本気で考え始めた。


「いいか。若き喉の平穏を守るために、僕達は飲料獲得ミッションに臨むのだ」

 チームメイトの一人が大げさに言って見せた。ようは皆で宿を抜け出し冷たい飲料を買いに行こうと言うのである。皆様ご存じの通り、この宿には自販機もなければ、そもそも宿泊客が自由に使える冷蔵庫もない。温くて薄い麦茶により田舎の蒸し暑さを紛らわすことは、俺たちにはとても困難であった。

「何だか昨夜も同じこと言ってなかったか」

「いやいや、過去の失敗を踏まえて本日は大変な妥協を余儀なくされている」

 そいつは苦い表情で語った後こちらをギロリと睨みつける。

「目的地は大滝中学の宿泊施設だけど、くれぐれも今日は問題を起こすなよ」

「ああ、わかってるって──」

 昨夜あの女、小川さんに襲い掛かった一件により俺の信用は失墜したと言っても良い。奇異の目で見るやつはいたが、しかし幸いなことに、仲間外れになるまでには至っていなかった。

 今夜も、暗闇に浮かぶ青白い灯りが俺たちを導いてくれた。昨夜と違いいとも簡単に目的地へとたどり着いた。

「着いたあ。僕は絶対レモンティー飲むよ」

「おい、こっち来てみろよ。アイスクリームの自販機まであるぞ──」

「マジかよ」

 皆は子供のように無邪気に自販機を眺めている。どうも光に群がる蛾のように見えて仕方がない。俺はシンプルなバニラ味アイスクリームを購入し、しばらく何も考えずに舐めていた。身体の芯から冷気が広がりそれは、まるで昨日からずっと失っていた感覚が蘇ったようであった。こんなにも甘くて冷んやりとしたものが、この世界の当り前であるということをすっかり忘れていた。大げさな表現だろうか。いいや。日中の過酷な練習を考えると、これぐらいの“大げさ”は許されてしかるべきだろう。

──カン、カン

 妙な音がした。誰かが卓球をしているのか。しかし、時刻は二十時過ぎ。一体こんな時間に誰が練習なんてしているのか。自然と俺の足は音の鳴る方へと動いていた。何となくだが予感がしていた。音の主はあの女ではないかと──

「あら、また妙なところで会う」

 やはりそれは小川であった。彼女はこんな時間にも関わらず体育着姿で、ラケット片手に汗を流していた。見かけこそ小奇麗な彼女であったがラケットの柄は俺たちと同様──いや、程度に関しては比べものにならないぐらい黒く汚れていた。ラケットの柄が黒く汚れるのは手垢が付着するためであり、そして何より汗が染み込むためであった。それは素直に練習量の違いを表していた。

「どうしたの。今日は襲わないの」

 彼女がからかうように尋ねる。こうして冷静に対すると、体操着が汗で湿っていて随分色気を感じるものである。一度頭に浮かんだそんな想いを俺は急いで打ち消した。

「お前卓球やったの中学入ってからか」

「そうだけど」

 俺は真剣な面持ちで小川に尋ねる。今夜は頭に血が上ることはなかった。何だか不思議と冷静でいられる。アイスクリームを食べたからだろうか。

「お前、俺に卓球で負けたら悔しいか」

「そりゃあ勿論」

「ほえ面かくか」

「さあ、かくかもね」

 俺はラケットを取出し彼女の前に立ちはだかる。

「じゃあ、戦って勝つしかないじゃあねえか」

「良いよ。無得点が恥ずかしくないなら何度でも──」

 時計の秒針がチッチッと声を上げる。二十一時が迫っていた。男女は黙々と打ち合いを始める。普段の部活ではお目にかかれない鋭い回転のかかったサーブが俺を襲う。スマッシュにドライブ、応戦しようとしても俺のようなへたれは、いざという時に踏み切れないのだ。攻撃が決まらない。その反面目前の女はまるで獣のような猛々しさを見せていた。

──カン、カン

──キュッキュッ

 会話はない。打球音と、靴と床とが擦れる音のみが延々と響きあう。

「第三セット私。これでまた私のストレート勝ちね」

「はぁ、はぁ」

 結果は惨敗。予想通りの、当然の帰結であった。唯一の救いは無得点ではなかったことだ。彼女が不適な笑みを浮かべているのに対して俺は疲労困憊、満身創痍といった感じで、負け犬の遠吠えを上げる余力さえも残されてはいなかった。

「一か月必死に努力してみたらいいんじゃあない。何度でも受けて立つよ」

 それだけを言い残すと、小川はそそくさとその場を後にした。俺は当然勝負には勝てなかったし、勝ち誇って背を向けるあの女に言葉を返すことも出来なかった。

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