前編
朝の空気は爽やかであった。しかし、長い間バスに揺られて気分は最悪である。座席間の通路にひょっこり顔を出してみると、皆の疲れ果てた表情が目についた。気持ちは同じようだ。これでは卓球の練習どころではない。遊び半分でクラブに所属している者にとっては、特にモチベーションの下がる時間であった。前を見てみると細く山道が続いていた。木々が生い茂っているから先は見えない。皆の不満を留めたままバスはスピードを上げた。
「あと一時間ほど到着までかかるぞ。今のうちに用を足しておきなさい」
休憩所にて顧問の声であった。眠気に襲われていた俺の耳には、それ以上の言葉は届かなかった。
「いっちゃん、連中の数が倍に増えたぞ。もう勝ち目がねえ。逃げようぜ」
なんだか妙に懐かしい声、顔であった。俺のことを“いっちゃん”と呼ぶこいつとは、かれこれ五年は会っていない。久々の再会である。そして、もう一人──
「まずいよ。自転車が奴らに抑えられてる。逃げられないよ」
ふと違和感を覚えた。二人の見た目はどういうわけか、俺の知る五年前のままであった。そして見渡せば、以前よく遊んだ公園の遊具たちが目についた。俺は遊具のトンネルの中に身を潜めている。
かつてのままの五年前の友達。ようやくこの異様に対して理解が追いついてきた。これは夢なのだ。それも五年前に起きた忌まわしい公園闘争の夢であった。
小学二年生の頃のことである。近所の公園、その遊び場を巡る俺たちと小学四年生との対立を指して、人々は公園闘争と呼んでいた。当時の俺は、二年生の代表として担ぎ上げられたことで大層良い気分になっていた。つまりは調子に乗っていたのである。
「もうここまでよ。この公園は、私たち四年生による合唱の練習に使わせてもらいます」
女子生徒の声。忌々しい四年生連中の親玉であった。
「ふざけるな。俺たちはここでサッカーしてえんだよ」
「うるさい。あなたたちみたいなチビスケがちょこまかしていると気が散るわ。邪魔なのよ」
どちらが悪いかは明白な気はするが、その威圧感を前に皆は黙りこくってしまう。だが俺だけは違った。
「うるせえ、合唱馬鹿。ここは俺たちのもんだ。文句あっか。こ、このブス」
俺の言葉に、女子生徒の表情は彫刻のように凍りついた。冷たくも美しい彼女に対して皆戦慄した。
「良い度胸ね。痛い目にあわせてやる」
彼女の細腕に、俺の身体はいとも容易く持ち上げられてしまった。引く血の気と同様に、その情景は遠く薄く消えていった──
「おい、起きろ。お世話になる宿に着いたぞ」
夕陽の眩い光とともに、現代が帰ってきた。中学の同級生、顧問の教師。間違いなく最近知り合った卓球部の面々であった。
「大丈夫か。ずっと魘されてたぞ」
隣席の友人が、俺の様子を覗き込んで尋ねた。いらぬ心配を周囲にかけたくはないが、声を出す気力もない。だから愛想笑いを縦に振って、ただそれだけで、陰鬱とした今の心情を誤魔化そうとした。友人は、腑に落ちないという表情を見せたもののそれ以上の詮索はしなかった。
図らずも夢見たのは、五年前の忌まわしい記憶であった。皆を率いた大喧嘩の最中、俺はあの横暴な年上女に為す術もなくやられた。女に喧嘩を仕掛けた挙句に敗北した俺は、学校における良い笑い者となった。また、それから一年間、あの女がよそに転校していくまでは、俺たちが公園で遊ぶことは叶わなかった。
顧問の教師に連れられ俺たちは、眼前に小ぢんまりと建った宿泊施設へと足を進める。それは旅館とは言い難い規模であり、どちらかと言うと民宿に分類されるであろう。淡い黴臭さに、寡黙な女将、そして軋む床板。これから一か月もの間お世話になる宿ではあったが、いやだからこそ、悪いことばかりが目についた。第一印象は最悪であった。
「自動販売機はありませんか。それと冷蔵庫とかは……」
女将は何も言わず、湿気でよれよれになった一枚の紙を差し出した。A3用紙に記されたそれは、宿周辺の地図のようであった。随分古いが、まあ大して問題はないだろう。
「信じらんねえ、この宿には冷蔵庫がないみたいだぞ」
誰かが言った言葉。皆がざわつき始める。
「自販機まで、歩きで片道二十分かかるみたいだ。コンビニに関しては、地図上には見当たらない始末だぜ」
「マジかよお」
苦悶の表情、不平不満の嵐であった。俺たちの住む地元の当り前がここには一切ないのだ。一か月もの間俺たちは耐えられるだろうか。歩き去る女将の背を眺めながら、温室育ちの現代っ子たちは途方に暮れる。蝉の声が聞こえる。それも聞きなれたものとはどこか違っていた。ああ、俺たちは田舎に来たのだ。
心を落ち着ける間もなく、顧問によって他校との練習試合が提案された。宿泊施設が密集しているこの辺りには、俺たち以外にも合宿を実施しているクラブがあるらしいのだ。
「また負けるよな、俺たち」
「何をいまさら──」
切ない会話であったが、見栄を張ったところで俺たちが弱小卓球部であるという事実に変わりはないのだ。弱小卓球部にとって、或いはそこに所属する一人ひとりにとっては練習試合というものが苦痛でしかなかった。
「よぉーしゅう、おねがいしゃああっす」
練習場にむさ苦しい声が響く。そして、その後に──
「よろしくお願いします」
俺たちのチームとは対照的に、随分華やかであった。相手チーム側の顔ぶれその羅列を眺めると、多くが女子生徒により構成されていることが容易に確認できた。納得は出来まい。俺たちの卓球部には、一輪の華さえ咲いていないのだ。
「ああいうのを見るといじけちゃうよねえ」
「俺たちの楽しみと言えば、同じ体育館で練習している女子バスケ部員を観察することぐらいだもんなあ」
醜い嫉妬をよそに、男女は和気藹々と作戦会議に勤しむのであった。
「きぃぃ、許せねえ。僕たちはいっつも“女バス”に煙たがられてるんだぞお」
「なあ、せめて試合では勝とうぜ。女といちゃついてたら勝てるものも勝てないって、連中に教えてやるんだ」
不平不満によって結束は未だかつてなく、最高潮であった。今ならどんな強敵にだって負ける気がしない。薄汚れたラケットを手に、蓄積した鬱憤を胸にして各々の試合に臨むのであった。
「ハッ、サァア、ヨォォオ」
声が響く。俺たちではなく連中のものであった。
「五対〇で、大滝中学の勝利。いやあ、ありがとうございました。強者の胸をお借りすることが出来て光栄であります。うちの生徒も大変励みになることでしょう」
俺たちの顧問が、こちらの敗北を告げるとともにペコペコ頭を下げる。当人たちは意気消沈していた。胸を借りたり励みにしたり、そんな器量が俺たちにあるわけがない。
「おい、佐土原。お前の試合が一番酷いんじゃあないか」
なんとかやり過ごそうと思ったが見つかってしまった。俺と相手とのスコアを何度も見比べて、そいつは得意げに笑う。
「お前以外の誰もが、例えセットはとれなかったにしても無得点ではないんだぜ」
言われた通りである。俺の試合成績は最も悲惨だ。セットを一つも取れないままのストレート負け、おまけにいずれのセットも無得点であった。ただ言い訳をさせて欲しい。何だかおかしいのだ。練習場に着いて“大滝中”と顔合わせして、卓球台を隔てた向う、あの対戦相手の顔を見たときから寒気が止まらない。
「おほ、対戦相手中々の美人じゃん。年上かなあ」
「さあ、知らねえよ」
俺の対戦相手は、そいつの見た通り中々の美人である。確かに俺もそう思っていた。
「そろそろ反省会やるみたいだぜえ」
他のチームメイトが俺たちに呼びかける。気づけば、既に俺たち三人を除いた皆が練習場を後にしていた。置いて行かれまいと、急いでラケットを片付け駆け出す。
「監督さんお待ちかね。お前ら急ぎなよ」
「おうよ。こいつが女に見惚れて惨敗したって、さっさと報告せねばなあ……いてえっ」
口が過ぎるので小突いてやった。見惚れたのとは違う。そうではない。そのはずだ。なんだかあの女とは過去にどこかで会ったことがあるような気がする。年上なら、友人のお姉さんか誰かだろうか。思い出せない。思い出させまいと思考を邪魔されているような、妙な感覚があった。
「運動神経が悪いのは相変わらずだけど、何だか性格が暗くなったんじゃあないかな」
その声を聞いた瞬間、未だかつてないほど心臓が跳ね上がった。ついさっき氷を融かしたような冷たい水分が額に滲んだ。他には言葉を残さず女は去って行った。
しばらく俺は彼女の正体について考える。ふと一人の女の子の姿が脳裏をよぎった。いやいや、まさか、そんな偶然は起こり得ないだろう。過去に出会った一人の女の子と、今通り過ぎた女を一度は重ね合わせておいて、俺はすぐに否定する。
「いいか。若き胃袋の平穏を守るために、僕達は食糧獲得ミッションに臨むのだ」
チームメイトの一人が大げさに言って見せた。ようは皆で宿を抜け出し夜食を買いに行こうと言うのである。皆様ご存じの通り、この宿には自販機もなければ、そもそも宿泊客が自由に使える冷蔵庫もない。温くて薄い麦茶により田舎の蒸し暑さを紛らわすことは、俺たちにはとても困難であった。また夕食は、普段より二~三時間は早かった。夜中になると酷く腹が減る。現代っ子たちは早くも根を上げた。
「二十分ほど歩いたところにあるこの自販機をチェックポイントにして、そんでそこからさらに一時間」
女将から貰った周辺地図を広げて、ある一点を指さした。
「コンビニこそなかったが、この地点に蕎麦屋があるという情報を独自ルートより入手した。僕たちはそこを目指す」
独自ルートって何だと思ったが、この空腹感を満たすことが出来るのなら今は万々歳である。親から僅かに与えられている小遣いを手に、そして長袖のジャージを羽織って俺たちは夜の闇へと飛び出した。
「夏とは言え夜になると、この辺りは少し冷えるんだよなあ」
人も車も通らない真暗な一本道を、夜食を求めし雄の群れが行脚する。街灯が設けられていないことも覚悟していたが、田舎とは言えさすがに二十一世紀である。僅かではあったが、暗闇に浮かぶ青白い灯りが俺たちを導いてくれた。
歩き始めてから三十分が経った。地図を手に、指示を出していた者の困惑を感じ取った俺たちは、疑念の目を向ける。予定ではもう例の自販機に辿り着いているはずなのだが。
「俺もう喉からからだぜ。道を間違えてんじゃあねえの」
「いやあ、そんなはずは──」
しかし、自信はありそうになかった。
「引き返そう。一本道だしやり直しは利くだろうよ」
またしばらく歩いた。しかし、眼前に構えるのは俺たちの宿ではない。形こそ似ているが、全く別の宿であった。
「仕方がないからこの宿の人に道を教えてもらうか」
「このことが監督さんに知れたら大目玉だろうねえ」
俺たちは心身ともに重い足取りで宿の中へと進む。
「まあ、諦めようぜ。このまま宿に戻れなくなるよかマシじゃない」
その宿は、俺たちが利用している施設とよく似た構造ではあるが、一つだけ決定的な違いがあった。眩いスポットライトに照らされるのは色とりどりのアルミ缶にスチール缶、そしてペットボトル。夢見ていたショーケースがそこにはあった。炭酸飲料にコーヒー、紅茶。スター勢揃いという感じだ。
「なにやってるの」
女の声。俺たちの部に女子生徒はいない。ということは──
「出たな。怪力女。合唱馬鹿」
「あら思い出したんだ」
周りのチームメイトは状況を理解できず呆けてしまっている。構わず俺は因縁の女との対峙を続ける。切迫している俺に対して女の方は随分毅然としていた。それを見て、そんなことに腹を立てたのがいけなかった。
「くたばれえ」
俺は女の胸倉を掴んで殴りかかる。先手必勝である。
「おいおい、何やってるんだよ佐土原」
チームメイト数人が俺の行動を妨げ女から引き離す。瞬く間に羽交い絞めになり取り押さえられてしまった。俺の行動に対して女はよろけて、また動揺を見せてはいたが余裕は失っていないように見えた。頭に血が上っていた。全く俺はどうかしていた。
「リベンジマッチってわけ。女々しいわね、いつまでも」
言い放つ。相変わらず毅然とした態度であった。
「ああ、そうだ。だから応戦しろよ。前みたいに俺なんか投げ飛ばしちまえば良かっただろ」
「何だ。お前ら知り合いなのかあ」
各々の言葉が飛び交い、そこはもう大変な混乱状態であった。
「君が重くなったのよ。それに女の私の腕力も、いつまでも強くはいられないでしょう。もう私がどんなに頑張っても勝てないかもね」
なんだか達観したような口ぶりであった。それを見ていると無性に腹が立って、また頭に血が上った。しかし、身体はしっかりと、チームメイトの面々に固定されたままであった。鼻息だけが荒く、荒ぶ嵐のようであった。
「だから、勝てないから、卓球なんて遊びに本気になってるって──」
「結局私に勝てていない君がそれを言うと惨めね」
言葉を遮られる。俺はバタバタと手足だけを動かして意思を示す。
「一か月もあるんだ。お前なんてすぐに追い越して、そんで跪かせてやるわあ」




