愛してると言えなくて
こんにちは、碓氷優姫と申します。
まず初めに、この小説に興味を持っていただき、また、この小説のページを開いていただき、本当にありがとうございます。
有りがちなお話ですが、穏やかな気分になれることを保証します。
このお話に込められたメッセージが少しでも皆様に伝わり、少しでも心に響かせることが出来たなら、喜ばしい限りです。
俺には大切な妻がいる。
小学生の時からずっと一緒で、高校の時に恋人同士になった。
そして、3年前、夫婦になった。
息子もひとり産まれた。
しかし、彼女はガンで余命半年を告げられた。
そんな彼女を俺は何よりも愛している。
だが、彼女に『愛してる』と言ったことはない。
そういう言葉は何度も言うものじゃないからだ。
彼女の命が尽きる、その直前に、心を込めて一度だけ伝えると、そう決めている。
「ねぇ翔也、私なんて放っておいて、遊びに行っていいよ?」
休日はいつも彼女に合わせて、一緒にゆっくりしていた。
延命治療を受けず、半年間家で過ごすことを決めていた。
「何言ってんだよ」
「だって、いつも私に付き合わせちゃって悪いから……」
「そうだな……、じゃあ優弥と3人で出かけるか」
俺は車を運転し、とあるチューリップ園に向かった。
「……わぁ、綺麗」
ここは、俺が彼女にプロポーズした場所だ。
「もう、3年経つのね……」
優弥ははしゃいでチューリップの間を駆け回っている。
俺は、彼女の肩を優しく抱いた。
「……千鶴を幸せにするって言ったのに、してやれなかったな……」
「貴方こそ何言ってるの。翔也がいてくれるから、私幸せよ?」
「ずっとそばにいるから……。最後の最後まで、お前のそばにいるから……」
それからまた、少し月日が経った。
彼女の余命はあと2ヶ月。
それまでは、彼女には笑顔しか見せないと決めた。
会社の帰り、トイレの中、風呂場……彼女がいないところで涙を流した。
……どうして彼女なんだ。
どうして彼女が死ななきゃならないんだ。
あんなに純粋で穢れのない高貴な笑顔を、神は消し去ると言うのか。
本当は悔しくてたまらない。
でも、彼女が自分の運命を正面から受け止めているのに、俺が悩んでいてはいけない。
だから俺はいつも笑顔でいる。
そんなある日、俺は仕事で10日間、県外への出張に行かなければならなくなった。
上司に事情を説明したが、会社にとって重要な取引をしなければならないのだと、訴えを蹴られてしまった。
俺はその日、初めて彼女の前で笑顔を見せられなかった。
でも彼女はいつもと同じ笑顔でこう言った。
「いってらっしゃい。翔也の帰りをどこにもいかずに待ってるから」
彼女を抱きしめられずにはいられなかった。
やっぱり彼女は強い。
俺なんかより、ずっとずっと。
しかし、彼女は家で俺の帰りを待ってはいなかった。
出張先で、彼女の容体が急変したという知らせを受けた。
すぐに帰れば、間に合ったかもしれない。
だが、帰宅の許可が出るはずもなく。
出張期間が終わり、急いで病院へ向かったが、そこに彼女のいつもの笑顔はなかった。
俺は涙すら出ないまま、彼女のそばに立ち尽くした。
「千鶴……、千鶴……!!」
何度彼女の名前を呼んでも、返事はない。
……あの言葉は言えなかった。
そればかりか、そばにさえいてやれなかった。
彼女への愛を証明できなかったことが悔しくてたまらなかった。
「パパ……」
気付くと、後ろに優弥が立っていた。
「……ママ、いつまで寝てるの……?」
俺は泣きながら優弥を抱きしめた。
「ママはな……もう、起きないんだよ……」
彼女のいない日々は物足りなさ過ぎた。
人生がこんなにつまらないものだと初めて知った。
いっそ、優弥と一緒に彼女のところへ行こうか、とも考えた。
でも、優弥の笑顔が彼女と似ていて……、もう二度とこの笑顔を失ってはいけないと思った。
彼女が生きていた証として、この子を大切に育てなければならない。
「父さん、チューリップ園に連れてって」
小学生になった優弥が、ある日突然そんなことを言った。
優弥がチューリップ園に行ったのは3歳の時だから、記憶にはあまり残っていないはずだった。
俺は、優弥をチューリップ園に連れて行った。
優弥は黙って、どこまでも絨毯ののように続いているチューリップを眺めていた。
俺は優弥の目線までしゃがんだ。
「お前にいつか、大切に思うひとが現れたら、ちゃんと『愛してる』って言ってやるんだぞ。軽い気持ちでじゃなく、一回一回に心を込めて」
優弥は大きく頷いた。
「父さんは、母さんに言ってあげたの?」
俺は目を伏せて、首を横に振った。
「俺は、言えなかった」
風がすぅっと通り抜けて、色鮮やかな絨毯を揺らした。
「……母さん」
ぽつりと呟いた優弥に反応し、彼の視線の先を見る。
俺は思わず息を呑んだ。
煌めくチューリップの中に、愛しい彼女の笑顔があった。
「……千鶴」
俺は立ち上がって彼女を見つめた。
半透明なその姿に不思議と恐怖心はなかった。
「……やっと、会えた」
俺は彼女に近付いて優しく抱きしめた。
それは空気のように俺の腕をすり抜けたが、温もりは腕の中に残った。
「……千鶴、愛してるよ」
「私も愛してる……翔也……」
胸元で彼女の懐かしい声がした。
再び優しく心地好い風が吹くと、彼女の温もりも姿もなくなった。
でも、満足そうな彼女の笑顔が見えた気がして、虚しさはなかった。
彼女が俺たちをここに呼び寄せたのではないかと、そんな気がした。
まるで、俺が紡ぐ『愛してる』の言葉を聴きにきたかのように……。
20歳を超えた優弥は、女の人を連れてきた。
「俺、この人と結婚する」
その女性の笑顔は、どことなく彼女に似ていた。
「お前も、母さんみたいな人を好きになったんだな……。幸せにしてあげなさい」
優弥は照れ臭そうに笑った。
「……ちゃんと、父さんの言いつけ守ってるよ」
大切な時にだけ、『愛してる』という言葉を口にしているらしい。
想いを伝えられる喜び。
想いを伝えられない切なさ。
その両方を知って俺は、少しだけ強くなった。
そして毎日、心から思う。
想いを言葉にして伝えられる幸せを、どうか忘れないでほしい、と。
愛してるよ、千鶴……
お粗末様でした。
皆様も大切な人に想いを伝えられますように、お祈りいたします。
碓氷優姫