歌うように笑ってた/下
俺が部屋を飛び出てから五秒後には、もう何も聞こえなくなっていた。
俺は恐る恐る扉を開き、再度部屋の中に入る。
そこに残っていたのは、少し焦げついた空っぽの空間と、ベッドの上で放心しているワイト。瞳孔を開き、床の一点を見つめている。見つめ続けている。痺れたようにまったく動かない。動こうとしない。
……見たところ、外傷はないようだ。
イヴの言葉は本当だったのだろう。その白い肌には傷一つついていない。髪も純白のまま。まるで何事もなかったかのような外見である。しかし――――その左手首の下の空間には、もはや空気しかなかった。さっきまでそこにあったはずのものが、ぽっかりと消えていた。
その切断面からは、ぽつぽつと血がこぼれている。
刻々とシーツを染め上げている。
そしてその紅色の周囲には――――それが数秒前まで何であったのか、何と呼称されていたのか、どのような機能を持っていたのか、どのような動作をしていたのか、どのような使命を持っていたのか、どのような意思を持っていたのか、そんなことはもはや関係なく、ただ単純に黒い消し炭としか言いようがないものが付着していた。少し記憶をたどればそこには確か誰かが立っていたはずだと思う位置に、点々と黒が落ちている。ただ――――ただそれだけだった。
すでに俺とワイトしか存在しないこの部屋。一瞬のような永遠のような静寂が辺りを包み込んだ後、
「……あ……あ……ああ……あ……」
うめき声。
「……あああ……あ…………ああ…………」
ため息。
「……ああ……あ……あ……ああああああああ……」
感嘆。
「……あ……あ……あ……あ……あ……ああ……ああああ……」
涙。
「……ち……ちがう……そんな……こ……こんな……ちがう……ちがうちがう……そんな……そんな……つもりじゃ……あ……あああ……ああああああ……ちがう……ちがうちがうち……がうちがうちがう……ちがうの……わたし……そんなんじゃ……ちがう……ち……がう……」
ワイトはゆっくり首を回し、俺を見上げながら、
「……ちがうの……わたし……そんなつもりじゃ……こんなはずじゃ……ご……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさいごめんなさい……ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
目を見開いた表情のままで、
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……ゆるしてください……ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」
全身をかたかたと震わせて、
「もう……もうしませんから……もう……もうにどとしませんから……だから……だからだからだから……おねがい……おねがいします……あなたは……あなただけは……わたしを……みすて……ないで――
――わたしを……みかぎらない……で」
その白い頬を伝う涙に、ほんの少し気をとられる。
そして思う。
思ってしまう。
……別にいいじゃないか。
ここにいた連中なんて、人殺しを何とも思ってない、人の道を外れた奴らばかりだったんだ。人でなしの人でなしの人でなしの人でなしでしかない奴らしかいなかったんだ。
そんな奴ら、殺されたって文句は言えないだろう。
殺された時点で、何も言えないわけだけど。
だから、ワイトが気に病む必要なんてない。
後悔する理由なんてない。
――と、思ってしまうのは、俺だからか?
生まれた時からそういう道の上にいた俺だからなんだろうか?
ふと、思い返す。
いつだか、ワイトが俺に言った言葉。
『私とあなたは……似ている』
あの時の俺は首をかしげるだけだったが、今なら結論を出せる。
完全に否定できる。
こんなことで涙を流すなんて、俺とワイトは違う。違いすぎる。
たかだか数人の存在が消えただけで、ワイトの心は折れてしまった。砕けてしまった。破綻してしまった。自分の〈性能〉によって人間が消えてしまったという、ただそれだけの理由で。
それを意図したのはあいつなのに。
ワイト自身ではないのに。
ワイトに責任なんてあるはずもないのに。
そんなに人が消えるのが怖いのだろうか?
目の前で人が絶えるのが恐ろしいのだろうか?
それとも、何かしらのトラウマでもあるのだろうか?
そういう過去があるのだろうか?
何かを抱えているのだろうか?
……いや、それにしても――あるいは、だからこそ――俺とワイトは違う。まったく違う。似ているけど違う。似ているだけで違う。似ているから違う。
――何だ、そういうことか。
俺はようやく思い至った。
確かに、俺とワイトは至極近い場所に立っている。近い内面を持っている。しかし、肝心のボーダーラインは俺とワイトの間に描かれているのだ。俺とワイトを分断しているのだ。俺とワイトを分け隔てているのだ。
だから、俺とワイトは違う。
似ているけど違う。
つまりは、そういう結論なんだ。
俺はふうと息を吐いた。
そしてワイトに近づいていき――――そのうなだれた白い髪を優しく撫でる。
「……大丈夫だ。たとえお前がデッドラインを踏み越えたとしても、俺はお前を見限らない。見誤らない。見捨てない。むしろ、お前のことを抱き寄せてやる。抱きかかえてやる。抱きしめてやる。……それに、もしお前がそのラインを飛び越えなかったとしても、その場合はきっとウェリィやギーン、ロットやルーがお前の傍にいてくれる。お前と一緒に生きてくれる。お前のことを大切にしてくれる。どちらに転ぼうとも、お前は決して一人きりにはならない。だから気に病むな。怖がるな。後悔するな――
――安心しろ」
ワイトの髪をくしゃりと包みながら――
――歌うように、
――謡うように、
――詠うように、
――唄うように、
――謳うように、
――ウタウように、
俺はそう言った。
そう言って、笑った。
――ワイトは赤く染まったシーツの上に涙をこぼしながら、こくりと、一つだけ頷いた。
〈『闇鳥のナキカタ』に続く〉
後書き
というわけで、『闇鳥のウタイカタ』でした。お読みいただき、ありがとうございました。
本作を書き始める時点で、このシリーズを三部作にすることは決めていた(というか、三つに分けないと話がまとまらない)ので、真ん中である本作は短編集のようなテイで書かせていただきました(時系列順ではありますが)。
まだ次作の話がまとまりきっていないので、今後時間が空いたり、更新が遅れてしまうかもしれませんが、何卒ご容赦の上お付き合いくださればと思います。
よろしくお願いします。
式織 檻