Act・3
【Act・3】
「トンボはよく泣き、よく怒り、そしてよく笑う男だった」
アキツの話を聞きながら、線路の上の旅路は続く。
「俺の故障は三日目にはほとんど直っていた」
アキツが言って、クナイは自分を助けたときの、アキツの“オイル漏れ”を思い出す。
「故障……ね」
◆◆◆◆◆
今では木よりも手に入りやすい、人工物である固形燃料を燃やす暖炉。その火がはぜる暖かな部屋で、トンボは茶を入れるためにヤカンを火にかけた。
「なあ……自分が誰か分からねぇって、どんな感じだ?」
起き上がることを許可され、テーブルについている少年はいつもの口調でトンボの疑問に答える。
「別に。ただ真っ白な辞書を読んでいるようなものだ。探してもそこに答えがない」
「ふうん……」
分かったような分からないような。
「お前になんか名前考えないとな」
唐突に言ったトンボに、少年は首を傾げる。
「名前?」
「そ、名前」
「別にいらない」
興味の無さそうな少年に、トンボは眉を吊り上げる。
「あほぅ。名前ってのは大切なんだぞ! 例えば……お前のこと誰かに話したいとき、どうしたらいいんだよ。遠くからお前のこと呼びたいとき、どうしたらいいんだよ。名前はそれが、それだっていう証だ」
テーブルに手をついて力説するトンボに、少年は感心するでも呆れるでもない。
「あんたの名前はトンボだったな」
「そう、トンボ。いかにも風来坊って感じで、俺にぴったりだろ?」
ヤカンが音を立て、トンボは二つのカップに茶を入れると、その一つを少年の前に置いた。
そして思いつく。
「そうだ、お前に俺の名前分けてやるよ。蜻蛉の別名で、秋津ってんだ。なかなかだろ?」
そこにドアのノックの音が割り込んだ。
「……タキだな。開いてるぞ」
言うとドアが開いてトンボの言葉の通り、タキがひんやりとした空気を連れて中に入ってきた。
「外は寒いだろ」
「まあな。どうだ具合は」
簡単に答えてタキは少年を見た。
知らないからな、などと言っていたくせに、こうして毎日様子を見に来るところがタキらしいと、トンボは思う。
「もう平気だよな、アキツ」
昨日からどこも痛くないとしか言わないアキツ。
代わりに答えたトンボの言葉に、タキが小さく驚いたような顔をする。
「アキツ? 名前を思い出したのか」
「いんや、俺が今つけた」
それを聞いて、いつも冷静なタキが珍しく声を荒げた。
「何をしているんだ」
「名前がないと不便だろ?」
なにをそんなに怒っているのかトンボには分からない。
「他人に構いすぎるのは、お前の悪い癖だトンボ。あの時だってそうだ。いつまで引きずる気だ」
言ったタキは殺風景な部屋の中、壁に不自然に飾られている勲章に顔を歪める。
実はトンボは軍の部隊では隊長として、小さくはあるが一つの部隊を指揮していた。普段のトンボからは想像しがたいが、部下からの信頼も厚く、軍人としては優秀な男だったのだ。
そして戦争が大嫌いだった。
「戦場から離れたお前が、いつまでもこうやって目立つところに勲章なんか飾っているのは、自分に対しての戒めのつもりか!」
「そんなんじゃねぇって……」
タキの強い言葉からトンボは目を逸らす。
「こんなものは――」
タキが勲章を乱暴に壁から剥ぎ取った。
「何すんだよ!」
「暖炉にくべちまえっ」
「タキ!!」
勲章は火の粉を舞い上がらせ、暖炉の中へと消えた。
「いい加減忘れろ」
「お前に何が分かるんだよ!」
トンボはタキの胸倉を掴む。
「ああ、分からないな。あの時、あの子供は――」
反論しかけたタキがトンボの後方に視線をやり、驚愕に表情を強張らせるのをトンボは見た。
「……どうしたタキ」
「これは大切なものなのか」
背後からアキツの声がした。
「え?」
トンボが振り返ると、アキツが暖炉に投げ込まれたはずの勲章を、片手の上に乗せ差し出している。
「別に燃えてはいない。煤がついただけだ」
アキツは言いながら、勲章についた煤をもう片方の手で払う。
一瞬、何が起こったか分からなかった。
「アキツ! 何やってんだっ。タキ、水!!」
トンボはアキツの手首を掴んでその手を見た。勲章がアキツの手から床へと落ち転がる。もう勲章なんてどうでも良かった。アキツの手の平は触ることが躊躇われるほど焼けただれてしまっている。
「バカヤロォ! 火の中に手を突っ込むなんて」
取り乱すトンボをアキツは小さく首を傾げながら見る。
「何を怒っているんだ」
トンボは平然としたその顔を見て、愕然とした。
「アキツ……お前……熱くないのか……?」
◆◆◆◆◆
苛つきながら部屋を行ったり来たりしていたトンボは、テーブルを拳で叩き、治療を終えたアキツを部屋に連れて行き戻ってきたタキを睨みつけた。
「どうなってんだよ、タキ!」
「初めから、おかしいとは思っていたんだ。あの怪我で痛くないなんて」
「だから、どうなってんだ!」
「あいつは感じないんだよ。痛みも熱さも」
静かに答えるタキ。
「感じない?」
「それに、おそらくだが、あいつには感情もない」
「な、なんでだよ」
感覚がないというのは百歩譲って、いや、千歩譲ってまだ分かるとしよう。しかしなぜ感情まで。
「お前なら、たとえ熱くないと分かっていても、平気で火の中に手を突っ込めるか。そこに恐怖心があれば出来ないことだ。正直俺は、平気で火の中を探っているあいつを見て、ぞっとした」
まるでただの赤い光の中を探しているかのように、自分の手が焼けていくのを気にもせず、火の中から勲章を拾い上げた、眉一つ動かさなかったアキツの顔を思い出す。
「もうひとつ聞いていいか、タキ。あいつの……手の平のバーコードみたいの、なんだよ」
トンボの質問にタキは、やはりという顔をした。
「お前が気にすると思って言わなかったが、胸の辺りにも同じものがあった」
怪我の治療をしているときに見た焼き押されたようなその模様は、胸と右手の平に付けられていた。
「何なんだよ、あれ」
「俺にも分からない。手の平のは今回の火傷で消えると思うが……」
誰かが何かの識別のために付けた模様。そんなことを言えば、またトンボは荒れるだろう。
「なあ……タキ。何も感じないって、どんなだろな」
すっかり力をなくしたトンボの声。
「何も感じないんだろ」
そんなこと分かるはずがない。
「それってさ……寂しいな」
「だから『寂しい』なんてのも、ないんだろうが」
「ああ……だからそれって、寂しいよな」
寂しいという感情すらないそのことが、とても寂しいと思う。
「……そうだな」
珍しくタキはトンボの言葉に同意した。
そんな二人のやり取りを、アキツは隣の部屋で聞いていた。
痛みがないということ、感情がないということがどういうことなのか、アキツには理解できなかったが、二人の会話の内容からどうやら自分が他とは違うのだということは理解ができた。