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視えない王女は、美しい化け物たちの国で踊る

作者: キュラス
掲載日:2026/06/28

「お前のような『役立たずの盲目』でも、ついに国のために尽くす時が来たぞ、アリシア」


王座の間。冷たい大理石の床に膝をつく私――アリシアの頭上から、ねっとりとした、まるで腐肉をすり潰したような醜悪な声が降り注いだ。

声の主は、私の実の父親であるこの国(人間国)の王だ。


「はっ……。ありがたき幸せに存じます、お父様」


私は固く目を閉じたまま、床に額を擦り付けて恭しく答えた。

表情を変えず、ただの従順な、何も見えない哀れな王女を演じ切る。それが、私がこの城で生き延びるための唯一の処世術だったからだ。


「西の果てに巣食う恐ろしき魔族ども。奴らを束ねる『魔王』が、人間との不可侵条約を結ぶ代償として、王家の血を引く娘を花嫁として差し出せと要求してきたのだ」


王の声には、隠しきれない嘲笑と安堵が入り混じっていた。

西の魔族。彼らは鋭い牙と爪を持ち、全身を鱗や獣の毛に覆われた、血も涙もない化け物たちだと伝えられている。そんな野蛮な生き物の元へ嫁がされれば、最後には骨の髄までしゃぶり尽くされて食べられてしまうだろう。

美しい姉妹たちをそんな場所に送るわけにはいかない。だからこそ、生まれつき目が見えず、王宮の奥で存在を隠されるように生きてきたこの私が、『生贄』として選ばれたのだ。


「化け物どもに食い殺される前に、せめて一年。いや、半年でもいい。条約の盾となって時間を稼げ。その間に、我々は魔族を根絶やしにするための聖戦の準備を整える。……お前の死は、人類の輝かしい未来への礎となるのだ」

「……はい。身に余る光栄でございます」


私が淡々と答えると、周囲を取り囲んでいた貴族たちから、ヒソヒソと嘲るような声が漏れ聞こえてきた。

『哀れなこと。目が見えないから、自分の運命の恐ろしさも理解できないのね』

『化け物の元へ送られる化け物王女。ちょうどいいお似合いの夫婦ではありませんか』

『あの薄気味悪い顔を見ずに済むようになるだけで、王宮の空気も清浄になるというものだ』


彼らの悪意に満ちた言葉の数々。

だが、私の心は全く傷ついてなどいなかった。むしろ、この吐き気のするような王宮から、ようやく抜け出せるのだという安堵感で胸がいっぱいだった。


私は、生まれつき目が見えなかったわけではない。

私の瞳は、正常に機能している。光も、色も、形も、全てを認識することができる。

ただ、私の目は『普通の人間の目』とは、決定的に異なっていた。


私の目には、この世界に生きる者たちの『魂の真実の姿』が視えてしまうのだ。


幼い頃、一度だけ王座の間で目を開けた時のことを、私は今でも鮮明に覚えている。

玉座に座っていたのは、威厳ある父王などではなかった。そこにあったのは、欲望と傲慢で丸々と膨れ上がった、醜悪な肉塊のような巨大なヒキガエルの化け物だった。

周囲に立つ美しく着飾った貴族たちは、嫉妬と悪意の粘液を滴らせるヘビであり、他者の血肉をすする巨大なヒルであり、腐臭を放つ亡者の群れだった。


彼らは「人間」の皮を被っているだけで、その魂は紛れもなくおぞましい怪物そのものだった。

私は恐怖のあまり発狂しそうになり、両手で目を覆って泣き叫んだ。

『見ないで! 化け物、来ないで! 助けて!』と。

しかし、化け物たち(人間)には、私の言葉の意味が理解できなかった。彼らは私が突然正気を失い、目が見えなくなったのだと勘違いした。


それ以来、私は決して他人の前で目を開けることをやめた。

光を遮断する分厚い絹の布で目を覆い、常に盲目のふりをして、手探りで歩くおとなしい王女を演じ続けた。

あの醜悪な肉塊どもの姿を直視すれば、今度こそ私の精神は完全に崩壊してしまうと分かっていたからだ。


(化け物の国、か……)


私は心の中で自嘲気味に呟いた。

人間の国に蔓延るこのおぞましい肉塊たちよりも恐ろしい化け物など、想像もつかない。もし魔族が噂通りの残虐な獣なのだとしたら、彼らの手で一思いに殺される方が、この吐き気のする城で一生を終えるよりずっとマシだった。


「出発は明日だ。身支度を整えよ」

「承知いたしました」


私は、白杖を頼りにゆっくりと立ち上がり、腐肉の匂いが立ち込める(ように私には感じられる)王座の間を後にした。

私の足取りは、死地へ向かう者のそれとは思えないほど、軽やかだった。


*****


馬車は、石畳の道を抜け、徐々に険しい山道へと入っていった。

人間の領土と、魔族の領土を隔てる『死の谷』。

その境界線に辿り着いた時、護衛として同行していた人間の騎士たちは、私一人を馬車から降ろすと、逃げるように踵を返した。


「王女殿下、我々の任務はここまでです。これより先は魔族の領域。……ご武運を」


言葉とは裏腹に、騎士の足音は恐怖で震え、我先にと逃げ出していくのが分かった。

彼らの魂の形を見るまでもない。恐怖に怯える、小さなネズミたちの足音だ。


深い森の静寂の中、私はただ一人、残された。

目隠し用の絹の布越しに、冷たい夜風が肌を撫でる。

森の奥から、木々が擦れる音や、名も知らぬ獣たちの遠吠えが聞こえてくる。


(……来る)


微かな、しかし確かな『重い足音』が、森の奥から私に向かって近づいてくるのを感じた。

ズシン、ズシンと大地を揺らすような足音ではない。とても静かで、洗練された、しかし圧倒的な威圧感を放つ足音。

それは一人ではなく、複数人いるようだった。


「……人間が差し出してきた花嫁というのは、これか」


頭上から、深く、よく通る声が降ってきた。

それは、野獣の唸り声などではなかった。チェロの低音のように静かで、どこかひどく『悲しげな響き』を持った声だった。


「はい。私は、人間の国より参りました、アリシアと申します。魔王様にお見えするため、こうして参上いたしました」


私は背筋を伸ばし、声のした方向へ向かって、完璧なカーテシー(淑女の礼)をしてみせた。


「……俺がその魔王だ。名は、ゼクスという」


魔王ゼクス。

彼が一歩近づく気配がした。


「ずいぶんと……小さく、脆いのだな、人間の娘は。それに、その目はどうした。布で覆っているようだが」

「私は、生まれつき目が見えません。光も、あなた様のお姿も、何も視ることは叶いません。……このような不完全な身ではございますが、どうか、煮るなり焼くなり、お好きになさってくださいませ」


私が淡々とそう告げると、周囲にいた魔族たちから、驚いたようなざわめきが起きた。

魔王ゼクスは、しばらくの間沈黙していた。


そして。

「……食い殺されると分かっていて、なぜそんなに震えずにいられる?」


「私が今まで生きてきた場所より、恐ろしい場所などないからです」


私の率直な言葉に、ゼクスは小さく息を吐き出した。

それは、嘲笑ではなく、深い嘆息のようだった。


「……そうか」


直後。

私の視界を覆っていた絹の布の隙間から、フワリと、とても不思議な香りが鼻をかすめた。

それは、人間の王宮で嗅ぎ続けてきた、腐肉や汚泥の匂いを隠すためのキツい香水の匂いではない。

朝露に濡れた若葉と、澄み切った清流、そして微かな日差しの匂い。

驚くほど清浄で、優しい香り。


そして、私の冷え切っていた右手に、そっと何かが触れた。


「え……?」


私は思わず声を漏らした。

伝承によれば、魔族の手は鋭い刃のような爪と、硬い鱗に覆われているはずだ。

しかし、今私の手を包み込んでいるのは、ひどく大きくて、剣ダコのある硬い手のひらではあったものの……間違いなく、『温かな人間の指の感触』だったのだ。


「……歩けるか。城まで案内しよう。足元が悪いから、俺に捕まっているといい」

「あ……はい」


ゼクスの手は、私を力任せに引きずることなく、私の歩幅に合わせてゆっくりとエスコートしてくれた。

温かい。

これほどまでに純粋な温もりに触れたのは、生まれて初めてだった。


私の心の中に、強烈な好奇心が芽生え始めていた。

彼らは、本当に『化け物』なのだろうか?

この温かな手、優しい声、清らかな匂い。それが、血も涙もない魔族のものだとは、どうしても思えなかった。


(……少しだけなら。少しだけ、見てみようか)


人間の城では絶対に開けなかった目を。

私はほんのわずかだけ、覆っている布の隙間から、薄目をあけて視線を上げてみた。


私の目の前に広がっていたのは、深い夜の森の景色。

そして、私の手を引いて前を歩く、魔王ゼクスの『魂の真実の姿』。


「――――あ」


私は、あまりの衝撃に、思わず立ち止まってしまった。

ゼクスが不思議そうに振り返る。


彼が、恐ろしい獣の姿をしていたからではない。

異形の化け物だったからでもない。


私の瞳に映った魔王ゼクスは。

銀色の月光を吸い込んだような輝く白銀の髪に、宝石のように澄み切った瑠璃色の瞳を持った、息を呑むほどに『美しい人間の青年』だったのだ。


彼の周囲に控えている魔族たちも同様だった。

背中に黒い翼を持っている者、額に角が生えている者など、確かに人間とは異なる特徴を持っている。しかし、その根源的な魂の姿は、ひび割れ一つない、純粋で気高い光を放つ『完璧な人間』そのものだったのだ。


人間の城にいた者たちが、人間の皮を被った醜悪な怪物だったとすれば。

彼らは、怪物の烙印を押されながらも、その魂の奥底に、最も純粋な人間の美しさを保ち続けている存在だった。


「どうした、アリシア。足が痛むか?」

ゼクスが、心底心配そうな瑠璃色の瞳で私を覗き込んでくる。


(ああ……)

私は、自分の手が微かに震えているのを感じた。

恐怖ではない。圧倒的な感動と、救済の喜びに。


私は盲目ではない。真実が見える目を持ちながら、ずっと醜いものばかりを見せられて、世界に絶望していた。

でも、ここには。

この、化け物たちの国には。


私がずっと探していた、本当の『美しい魂』が、こんなにも溢れている。


「……いいえ、なんでもありません、ゼクス様。ただ……」


私は、彼の温かい手を両手でぎゅっと握り返し、この十年間で初めて、心からの笑みを浮かべた。


「ここが、とても素敵な場所だと……そう感じただけです」


ゼクスは私の言葉に一瞬だけ目を丸くし、それから、困ったように、けれどひどく優しく微笑んだ。


「変わった娘だ。……ようこそ、我ら魔族の国へ」


私は、固く閉ざしていた心の扉が、ゆっくりと開いていくのを感じていた。

もう、この真実を映す目を、無理に閉じておく必要はないのかもしれない。

盲目の王女を演じるのは、やめよう。

これからは、この美しい化け物たちの国で、彼らと共に、私の本当の瞳を開いて生きていくのだ。


*****


魔王ゼクスに手を引かれ、深い森を抜けた先にそびえ立っていたのは、人間の国で噂されていたようなおぞましい骨と血でできた魔窟などではなかった。


冷たい夜気の中に静かに佇むその城は、黒曜石のように滑らかな石材で組まれた、質実剛健で美しい古城だった。

周囲を囲む茨の結界や、月明かりを遮るほどの巨大な影こそ不気味に見えるかもしれないが、私の『魂を視る目』には、この城自体が長い年月を経て穏やかな意志を持った、揺り籠のように温かな光を放っているのが分かった。


「段差がある。気をつけて」


ゼクスの低い声とともに、彼の手が私の腰をそっと支える。

その手つきは、まるで壊れやすい硝子細工を扱うかのように慎重で、優しいものだった。


城の大広間に足を踏み入れると、ざわめきが波のように広がった。

ゼクスの帰還を待っていた魔族たちだ。

気配の数からして数十人はいるだろうか。彼らは私という『人間の生贄』を見て、値踏みするように息を潜めている。


「……ゼクス様、お帰りなさいませ。その娘が、人間どもがよこした花嫁ですか」


静寂を破ったのは、かすれた、しかしどこか母性を感じさせる声だった。

声の主が近づいてくる。私の魂の視界には、ふくよかで人の良さそうな、エプロンを着た中年の女性の姿が映っていた。

だが、私が目隠しの布越しに物理的な気配を探ると、彼女の足音は『衣擦れ』ではなく『無数の硬い何かが床を這う音』だった。噂に聞く、下半身が巨大な蜘蛛になっているという怪女・アラクネだろうか。


「ああ。彼女はアリシア。生まれつき目が視えないそうだ。……長旅で疲れているはずだ。客室へ案内し、食事と湯浴みの支度をしてやってくれ」


ゼクスがそう命じると、アラクネの女性――おそらく侍女長のような立場なのだろう――は、驚いたように息を呑んだ。


「目が……。なんてことでしょう、あんな人間の王は、こんなに小さく愛らしい、しかも目の視えないお嬢さんを、我々への生贄(時間稼ぎ)として一人で放り出してきたというのですか! なんて非道な……ッ!」


彼女の声には、確かな怒りと、私に対する深い同情がこめられていた。

人間の城で、私が「役立たずの盲目」と罵られ、貴族たちから嘲笑されていた時とは、正反対の反応。

彼らは魔族でありながら、人間の私を哀れみ、悲しんでくれている。

その魂の光が、あまりにも清らかで温かくて、私は泣き出しそうになるのを必死にこらえた。


「さあ、アリシア様。こちらへ。恐がらなくて大丈夫ですよ、我々はあなたを取って食ったりはいたしませんからね」


彼女の複数の節足がカシャカシャと鳴る音が近づき、私の背中にそっと手が添えられた。

その手は少しひんやりとしていたが、驚くほど柔らかく、人間のお母さんのように優しかった。


「……ありがとうございます。ええと……」

「マーサとお呼びください。この城でメイド長をしております」

「マーサ様。どうか、よろしくお願いいたします」


私が微笑んで一礼すると、マーサは「まあ!」と嬉しそうに声を上げ、周囲の魔族たちからも「なんて礼儀正しいんだ」「人間の王族はもっと傲慢なものだと思っていたが」と、好意的なざわめきが漏れた。


ゼクスは、そんな様子を静かに見守っていた。

「アリシア。今日はもう休むといい。……俺たちの『結婚』についての話し合いは、明日、君が落ち着いてからにしよう」

「はい、ゼクス様。おやすみなさいませ」


*****


案内された客室は、人間の王宮で私に与えられていた冷たくて狭い塔の小部屋とは比べ物にならないほど、広くて豪奢な部屋だった。


「さあ、温かいスープですよ。お口に合うと良いのですが……我々も、人間の食べるものを急いで用意させたもので、お肉が少し硬いかもしれません」


マーサがテーブルに置いてくれたのは、とろけるようなポタージュスープと、ふかふかに焼かれた柔らかいパン、そして香草で丁寧に臭みを消したローストポ肉だった。

生肉や血の滴る臓物が出てくるなどという人間の噂は、やはり全くのデタラメだった。


「とても美味しいです。マーサ様、ありがとうございます」

「ああ、よかった……! 本当に、なんていい子なんでしょう。いっぱいお食べなさいね」


食後には、ラベンダーの香りがする温かいお湯で身体を清めさせてもらい、私は上質な絹の寝巻きに着替えて、天蓋付きのふかふかのベッドに潜り込んだ。


(……温かい)


シーツは清潔で、太陽の匂いがした。

部屋の暖炉ではパチパチと薪がはぜる音がして、部屋中を優しい温度で満たしている。

私は、十年間顔に巻き続けていた絹の目隠しを、そっと外した。


誰もいない部屋で、一人きりで目を開ける。

暗闇に慣れた瞳に、暖炉の炎がチカチカと映る。


人間の城では、一人でいる時でさえ、壁や床に染み付いた『人間の欲望の残滓』がどす黒い染みのように視えてしまい、目を開けることが苦痛だった。

でも、ここは違う。

城のどこを見渡しても、醜い肉塊の幻影も、悪意の粘液も視えない。

ただ、静謐な夜の空気が流れているだけだ。


「……やっぱり、ここは良い国ね」


私は、毛布を胸まで引き上げながら、安堵の溜息をついた。

もしこれが夢だとしても、この温かい場所で目を覚まさずにいられたらどんなに幸せだろう。


そんなことを考えていると、コンコン、と控えめなノックの音がした。


「アリシア。起きているか?」

ゼクスの声だった。


私は慌てて手元の絹の布を手に取り、再び両目をしっかりと覆ってから、「はい、起きております」と答えた。


「夜分にすまない。少しだけ、話をしてもいいだろうか」


「もちろんです。どうぞお入りください」


静かに扉が開き、ゼクスの気配が部屋の中に入ってくる。

彼は私のベッドから少し離れた窓際の椅子に腰を下ろしたようだった。私の魂の視界には、月光を背に受けた、白銀の髪の美しい青年の姿がはっきりと視えている。


「……不自由はないか? ベッドは硬くないだろうか」

「はい。人間の城にいた頃よりも、ずっと素晴らしいお部屋です。お食事も、とても美味しくいただきました。マーサ様にも、よろしくお伝えください」


私が心からのお礼を述べると、ゼクスは少しだけ沈黙し、それから低く息を吐いた。


「……君は、不思議な娘だ。魔王の寝所に一人でいるというのに、微塵も恐怖を感じていない。それとも、絶望のあまり感情が麻痺してしまっているのか?」

「いいえ、ゼクス様。私は本当に、ここに来られて嬉しいのです」


私はベッドの上に正座し、布越しの視線を彼に向けた。


「人間の国では、私はただの『穢れ』でした。見えない目は呪いの証だとされ、部屋の隅に追いやられて生きてきました。……でも、ここでは誰も私を蔑みません。温かいスープを与え、優しい言葉をかけてくださる。これ以上、何を恐れる必要があるのでしょうか」


私の言葉に、ゼクスは痛みを堪えるように眉間を寄せた。


「……人間の王は、狂っているのか。お前のように純粋な魂を持った娘を、ただ目が見えないというだけで虐げ、あまつさえ敵国への生贄にするとは」

「人間の国では、それが当たり前のことなのです」


「……アリシア。よく聞いてくれ」


ゼクスは椅子から立ち上がり、私のベッドの傍らまで歩み寄ってきた。

そして、膝をつき、私の視線の高さに顔を合わせるようにして、ゆっくりと語り始めた。


「俺たちは、君に危害を加えるつもりは一切ない。……君の父親である人間の王は、俺たち魔族が君を花嫁として要求したと言っただろう。だが、それは嘘だ」


「嘘……ですか?」


「ああ。俺たちが要求したのは、『人間の王族との不可侵条約の締結』だけだ。花嫁など要求していない。……だが、君の父親は、言葉だけの条約では俺たちが攻め込んでくるのではないかと怯え、勝手に君を『人質』として送りつけてきたのだ。俺たちが君を食い殺す残虐な魔族だと信じ込んで、俺たちに罪をなすりつけるためにな」


なんという卑劣さだろう。

自分たちの保身のために私を捨てただけでなく、それを魔族の要求であったと嘘をついていたなんて。

人間の王(あの醜悪な肉塊)のやりそうなことだ。


「アリシア。君は自由だ。もし君が望むなら、いつでも人間の国へ送り返そう。俺の魔力で守りを固めれば、君の父親もおいそれとは手出しできないはずだ。……こんな化け物たちの城に、君のような美しい人間の娘を閉じ込めておくわけにはいかない」


ゼクスの声には、深い悲哀と、自らを卑下するような響きが含まれていた。

彼は、自分たちを『化け物』だと深く呪っているのだ。

その魂が、これほどまでに気高く美しい人間の姿をしているというのに。


「ゼクス様」


私は、ベッドの端から身を乗り出し、空間を手探りするふりをしながら、彼に向けて両手を伸ばした。


「……アリシア?」

「あなたのお顔に、触れてみてもよろしいですか?」


私の唐突な申し出に、ゼクスは少し戸惑ったように息を呑んだ。


「……やめたほうがいい。俺の顔には、鋭い鱗と、悪魔のような角がある。目が見えない君が触れれば、きっとその醜い感触に恐怖してしまうだろう」

「恐くなんてありません。……どうか、お願いです」


私が食い下がると、ゼクスは観念したように短く息を吐き、「……傷つけないように、気をつけてくれ」と囁いて、私の手が届く位置まで顔を近づけてくれた。


私は震える指先を伸ばし、彼の顔にそっと触れた。


物理的な感触として、私の指先は確かに硬い鱗のようなものや、冷たい角の感触を捉えていた。

でも、それは私にとって何の意味も持たなかった。

私の魂の視界には、私が触れているのは、温かい人間の肌であり、彼を悩ませている角などどこにも存在しないのだから。


「……ゼクス様は、とても温かいですね」


私は、彼の頬を両手で優しく包み込んだ。

鱗の感触の奥にある、彼自身の本当の体温。トクン、トクンと規則正しく打つ、力強い命の鼓動。


「あなたの魂は、こんなにも静かで、綺麗に透き通っている。……少し悲しそうな色をしていますが、私は、ゼクス様のこの温もりがとても好きです」


「……っ」


ゼクスの肩が、ビクッと大きく震えた。


「アリシア……君は……」

「私は、ここがいいです。人間の国になんて、絶対に帰りたくありません。……どうか私を、あなたの花嫁にしてください」


私の本心からの言葉に。

ゼクスは、まるで雷に打たれたように硬直したまま、しばらくの間、何も言えずにいた。

やがて、私の手を包み込むように彼自身の大きな手が重ねられた。

その手は、かすかに震えていた。


「……後悔、するかもしれないぞ。俺たちは、人間の敵だ。……君は、人間の裏切り者になってしまう」

「私はもう、人間の国の王女ではありません。……今日から、私は魔族の国の人間です」


私が微笑んで答えると、ゼクスは深く、深く息を吸い込み、そして、私の手のひらに、誓いのようにそっと口付けを落とした。


「……わかった。アリシア、君を俺の妻として迎えよう。……俺の命に代えても、君を必ず守り抜くと誓う」


こうして、私は魔王ゼクスの花嫁となった。

恐ろしい化け物の国での生活は、私が今まで生きてきたどんな日々よりも、幸福で、愛に満ちた日々の始まりだった。


*****


魔王ゼクスの花嫁としての生活は、穏やかで光に満ちていた。


私が人間の国で与えられていたのは、カビ臭い地下室のような塔の一室と、冷え切った固いパンだけだった。しかし、この魔王城での私は、城の住人たちからこれ以上ないほどの愛情と敬意をもって扱われていた。


「アリシア様、お庭の散歩に行かれませんか? 今日は日差しが暖かくて、風が気持ちいいですよ」


朝食を終えると、いつもマーサが声をかけてくれる。

彼女の足音は相変わらずカシャカシャと無数の節足が鳴る異様な音だったが、私の魂の視界には、ふくよかな人間の女性が優しく微笑んでいる姿がはっきりと視えていた。


「はい、マーサ。ぜひ行きたいわ」


私が白杖を手にとると、庭師のガロが迎えに来てくれる。

ガロは、城の者たちの話によれば、全身がゴツゴツとした岩でできた巨大なガーゴイル(石像鬼)なのだという。彼が歩くとズシン、ズシンと地面が揺れ、その手は丸太のように太く硬い。

けれど、私の目に映るガロは、そばかすのある十歳くらいの恥ずかしがり屋な人間の男の子だった。


「アリシアしゃま、これ、あげる。お庭で一番綺麗に咲いてた、赤いお花」

「ありがとう、ガロ。とっても良い香りがするわ」


私が花を受け取って微笑むと、ガロ(ガーゴイルの肉体)はゴロゴロと岩が擦れるような照れくさそうな音を立てて、私の魂の視界の中では、男の子が顔を真っ赤にして走り去っていくのが見えた。


この城にいる『化け物』たちは、誰もが皆、驚くほど純粋で美しい人間の魂を持っていた。

頭のない首無し騎士デュラハンの近衛隊長は、凛とした誇り高い人間の女性剣士の魂を。

炎を纏った地獄の番犬ケルベロスは、人懐っこい三つ子の子供たちの魂を。


彼らは、私が目が見えないことを気遣い、段差を教えてくれたり、料理の熱さを確認してくれたりと、まるで本物の家族のように私を大切にしてくれた。

人間の国にいた頃、あんなにも恐ろしく醜悪な肉塊たちに囲まれ、息を潜めて生きていた日々が嘘のようだった。


そして何より。

私の夫となった魔王ゼクスは、誰よりも優しく、不器用な人だった。


「アリシア。……すまない、政務が長引いてしまった。退屈させていないだろうか」


夕暮れ時になると、ゼクスは必ず私の部屋を訪れ、一緒にティータイムを過ごしてくれた。

彼の身体は、噂によれば漆黒の鱗と鋭い爪、そしてコウモリのような巨大な翼を持っているという。私が手探りで彼に触れる時、確かにその硬く冷たい感触が指先に伝わってくる。

しかし、私の目の前で紅茶のカップを傾ける彼は、どこまでも透き通った瑠璃色の瞳と白銀の髪を持つ、息を呑むほど美しい人間の青年なのだ。


「いいえ、ゼクス様。ガロがお庭を案内してくれたので、とても楽しかったです。……ゼクス様こそ、お疲れではないですか?」


私が尋ねると、ゼクスは少しだけ苦笑するような気配を見せた。


「俺は魔族だからな。人間のように、少しの労働で疲れたりはしないさ」


彼はそう言って自らを『魔族』と呼ぶ時、いつも微かに悲しそうな色を魂に浮かべる。

自分たちの恐ろしい姿を忌み嫌い、私という『か弱い人間の娘』を傷つけてしまうのではないかと、常に恐れているのだ。

だから彼は、私の手を取る時も、夜に同じベッドで眠る時も、決して必要以上に私に触れようとはしなかった。鋭い爪や鱗で私の肌を傷つけないようにと、彼なりの最大限の配慮なのだと分かっていた。


(……ゼクス様は、本当はとても温かいのに)


私は目隠しの布越しに、彼の美しい魂の姿を見つめながら、もどかしい思いを抱えていた。

私が「魂の真実の姿を視る目」を持っていると伝えれば、彼はどう思うだろうか。

人間の国では、この力は呪いだとされ、私は狂人扱いされた。もしゼクスにこの力を打ち明けたら、彼は『化け物の姿を見透かされている』と傷ついてしまうのではないか。

あるいは、私がずっと盲目のふりをして彼らを騙していたと、怒らせてしまうのではないか。


その恐怖から、私はどうしても真実を打ち明けることができず、ただの「目が見えないアリシア」として彼に甘え続けていた。


*****


魔王城での穏やかな生活が半年を過ぎた、ある冬の夜のことだった。


激しい吹雪が城の外で吹き荒れていた夜。

ゼクスが、いつものように私の部屋を訪れなかった。

夕食の席にも姿を見せず、マーサに尋ねても「ゼクス様は少しご気分が優れないようで、執務室でお休みになっています。心配はいりませんよ」と、どこか誤魔化すような口調で言われただけだった。


(気分が優れない……? 魔族は病気にはならないはずなのに)


胸騒ぎがした。

私は皆が寝静まった深夜、そっとベッドを抜け出し、白杖を手にしてゼクスの執務室へと向かった。

私の目には暗闇の中でも魂の光が視えるため、灯りがなくても迷うことはない。


執務室の重厚な扉の前に立つと、中から苦しげな、獣の唸り声のような低い呻き声が聞こえてきた。


「ゼクス、様……?」


私は躊躇うことなく扉を開けた。


「……ッ!? アリシアか!? 来るな!! 部屋に入ってはいけないッ!!」


ゼクスの怒鳴り声が飛んできた。

しかし、私はその場に立ち尽くし、息を呑んだ。


私の魂の視界に映るゼクスの姿が、異変を起こしていたのだ。

いつもは透き通るような白銀の光を放っている彼の魂が、今はどす黒い『呪いの瘴気』のようなものに侵食され、美しい青年の姿がひび割れ、ノイズのようにブレていた。

その黒い瘴気は、私が人間の城で見ていた、あの醜悪な肉塊ども(人間たち)から発せられていた悪意の色と全く同じものだった。


「ゼクス様! 一体どうしたのですか、その黒い靄は……!」


私が思わず駆け寄ろうとすると、ゼクスはガシャン!と大きな音を立てて壁際に後ずさった。

物理的な視界で見えなくても、彼が自らの鋭い爪を壁に立て、苦痛に耐えながら私を遠ざけようとしているのが分かった。


「近づくな、アリシア……! 今の俺は……理性を保つのがやっとだ。血の渇きと、破壊衝動が……抑えきれない。君を、傷つけてしまうッ!」


「血の渇き……?」


「俺たち魔族は……かつて、人間にかけられた『呪い』によってこの姿に変えられた。人間の悪意や絶望を喰らい、獣として生きる呪いだ……ッ」


ゼクスは、荒い息を吐きながら、絞り出すように真実を語り始めた。


「俺たちの祖先は、元々は人間の国の人間だった。だが、数百年前、当時の強欲な人間の王によって、反逆の罪を着せられ……醜い化け物の姿に変えられる呪いをかけられ、この死の谷に追放されたのだ。……俺たちが化け物になったのではない。人間たちの醜い悪意が、俺たちの肉体を化け物へと作り変えたんだ」


(やっぱり……)


私の目に視えていた真実は、正しかったのだ。

彼らは元々人間であり、その魂は今でも人間のままなのだ。

人間の国にいるあの怪物たちこそが、彼らに呪いをかけ、自分たちの罪を隠蔽して「人間」の皮を被り続けている本物の化け物だったのだ。


「呪いは、俺たちの魂を少しずつ侵食する。……俺たちは、互いに思いやり、純粋な心(人間性)を保つことで呪いに抗ってきた。だが、定期的にこうして……呪いの瘴気が溢れ出し、魂を獣へと引きずり下ろそうとする発作が起きる。……だから、アリシア。頼む、俺から離れてくれ。俺が完全に化け物になって、君を殺してしまう前に……!」


ゼクスは、自らの頭を抱え、獣のように苦しげに吠えた。

彼の魂の光が、どす黒い瘴気に完全に飲み込まれそうになっている。


このままでは、彼は本当に心を壊し、理性を失った獣になってしまう。


私は、手から白杖を投げ捨てた。

そして、彼が止めるのも聞かず、一直線に彼のもとへ駆け寄り、その冷たく硬い鱗に覆われた身体を、強く、強く抱きしめたのだ。


「アリシアッ!! ダメだ、離れろ!!」

「離れません!! ゼクス様は、化け物なんかじゃない!」


ゼクスの鋭い爪が私の腕を掠め、痛みが走る。

しかし、私は構わず、彼を抱きしめる腕に力を込めた。


「目を開けて、私を見てください、ゼクス様! 呪いなんかに負けないで!!」


私は、十年間、決して他人の前では外すことのなかった絹の目隠しを、自らの手で引き剥がした。


暗闇の中。

私は、真っ直ぐに、ゼクスの魂の瞳――苦痛に歪む、あの瑠璃色の瞳を見つめ返した。


「……ア、リシア……? 君の、目は……」


ゼクスは、私の突然の行動に驚き、動きを止めた。

彼には、私が盲目であるはずの目を見開き、彼を真っ直ぐに『見据えている』ことが信じられないようだった。


「私は、盲目ではありません。……人間の国にいた頃から、私の目には、光も形も視えていました」


私は、彼の冷たい頬に手を添え、ゆっくりと、しかしはっきりとした声で真実を告げた。


「私の目には、『魂の真実の姿』が視えるのです。……人間の国にいた王や貴族たちは、私の目には、醜悪な肉塊や蛇のような恐ろしい化け物にしか視えませんでした。だから私は、彼らを見るのが恐ろしくて、目が見えないふりをしていたのです」

「魂の、姿……?」


「ええ。……だから私は、あの日、死の谷の森でゼクス様にお会いした時、初めてこの目を開くことができたのです」


私は、涙をこぼしながら微笑んだ。

私の手のひらから、私自身の『魂の光(純粋な祈り)』が、ゼクスの中に流れ込んでいくのが分かった。


「私の目に映るゼクス様は、恐ろしい獣なんかじゃありません。……白銀の髪を持った、優しくて、気高くて、息を呑むほど美しい、人間の青年です。マーサも、ガロも、この城にいる皆が、誰よりも美しい人間の魂を持っています」

「俺が……美しい、人間……?」


「はい。だから、思い出してください。あなたの魂は、そんな呪いの瘴気なんかに染まったりしない。あなたは、私の愛する、気高い王です」


私がそう言って、ゼクスの魂の額にそっと口付けをした瞬間だった。


フワァッ……と。

私の魂から溢れ出した純白の光が、ゼクスを覆っていたどす黒い瘴気を、まるで朝日に溶ける霜のように浄化していったのだ。

私自身も知らなかった。真実を視る私の瞳と、彼らを信じる私の祈りが、この国を覆う『呪い』を打ち払う浄化の力を持っていたなんて。


「……痛みが、消えていく……。瘴気が、消えて……」


ゼクスは、信じられないというように自分自身の手を見つめた。

物理的な彼の姿は、依然として鱗と爪に覆われた魔族のままだろう。しかし、彼の魂を蝕んでいた狂気と苦痛は、完全に消え去っていた。


「アリシア……君は、俺の本当の姿を……ずっと、知っていたのか……」


ゼクスは、震える手で私の頬に触れた。

今度は、恐る恐るではなく、私の温もりを確かめるように、しっかりと。


「はい。隠していてごめんなさい。……ゼクス様が、私に化け物の姿を見透かされていると知ったら、傷ついてしまうのではないかと恐かったのです」

「……馬鹿だな、君は。傷つくはずがないだろう。……君が、俺たちを化け物ではなく、人間として見てくれていた。それだけで……俺の、俺たちの数百年の絶望が、どれほど救われたか……」


ゼクスの瑠璃色の瞳から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。

物理的な彼の獣の瞳からも、きっと同じように涙が流れているのだろう。

彼は、私をその大きな腕で力強く抱きしめ、私の肩に顔を埋めて、子供のように声を上げて泣いた。


「ありがとう……ありがとう、アリシア。俺の光。俺の、愛しい妻……」


私も、彼の背中に腕を回し、一緒に泣いた。

秘密はもう何もない。

彼は私が全てを視ていることを受け入れてくれた。私は彼の全てを愛している。

呪われた魔王と、視えない王女。

私たちは、この暗闇の執務室で、ようやく本当の意味で結ばれたのだ。


*****


私が真実を視る目を持っていること、そして私の祈りが呪いの瘴気を浄化する力を持っていることは、翌日にはゼクスの口から城の魔族たち全員に伝えられた。


「まあ、アリシア様! あなた様は、神が我々に遣わしてくださった真の聖女様だったのですね!」

「俺たちの本当の姿が見えるのか! いやあ、照れくさいな!」


マーサもガロも、他の魔族たちも、私を恐れるどころか、泣いて喜んでくれた。

私が瘴気を払うことができるようになり、彼らが定期的に苦しめられていた『呪いの発作』は劇的に治まることとなった。

魔王城は、かつてないほどの明るい希望と活気に満ち溢れていた。


しかし。

その平穏と幸福を、人間の国の『本物の化け物』たちが許すはずがなかった。


春の足音が近づき始めたある日のこと。

国境の偵察に出ていた魔族の斥候が、血相を変えて城に飛び込んできた。


「ゼクス様! 大変です! 人間の国の軍勢が、死の谷の境界を越え、こちらへ向かって進軍を開始しました!」

「なんだと……!? 不可侵条約はどうした!」

「人間の王は、『我らが愛する王女アリシアを魔族の生贄から救い出し、忌まわしき化け物どもを浄化する聖戦である』と大義名分を掲げているとのことです! その数、およそ五万!!」


謁見の間に、凍りつくような緊張が走った。


「あの外道ども……ッ! 初めから、アリシアを口実にして我々を滅ぼすつもりだったのだ!」

デュラハンの近衛隊長が、激しい怒りに剣の柄を叩いた。


五万の大軍。

対する魔族の数は、この城の住人と近隣の村の者を合わせても、数百人に満たない。

呪いによって屈強な肉体を得ているとはいえ、数の暴力の前ではあまりにも無力だ。


ゼクスは、ギリッと奥歯を噛み締め、そして私を振り返った。


「アリシア。……すぐに荷物をまとめろ。ガロと数名の護衛をつけて、君を北の隠れ里へ逃がす」

「ゼクス様!? 何を言っているのですか!」

「これは戦争だ。人間の王は、君を救うふりをして、俺たちごと君を戦火で焼き殺すつもりだ。……俺は、魔王としてこの城に残り、仲間たちと共に人間どもを迎え撃つ」


ゼクスの魂の瞳には、死を覚悟した壮絶な決意の光が宿っていた。


「ダメです! 私も残ります! ここは私の国です、あなたたちを見捨てて逃げるなんて絶対に嫌です!!」

「アリシア、我が儘を言うな! 君の浄化の力は戦闘には使えない。ここにいれば君は死ぬんだぞ!」


ゼクスが声を荒げた、その時だった。


「……いいえ、ゼクス様。私の『真実を視る目』と『浄化の祈り』は、呪いの瘴気を払うだけではありません」


私は、彼の前に真っ直ぐに立ち、その瞳を見据えて言った。


「人間の王が、なぜ私たちを攻めてきたのか。それは、彼らが『人間の皮を被った化け物』であるという真実を、力で隠蔽し続けるためです。……ならば、彼らのその『偽りの皮』を剥がしてしまえばいいのです」

「皮を、剥がす……?」


「はい。数百年前、彼らがあなたたちにかけた『姿を変える呪い』。その呪いの源は、人間の王族の血脈の中に今も流れる、どす黒い悪意そのものです。……私の力で、彼らの魂の真実の姿を、物理的な肉体へと『反転(強制露見)』させます」


私の言葉に、謁見の間の魔族たちは息を呑んだ。


「そんなことができるのか……? しかし、そのためには莫大な魔力が必要になるはずだ。アリシア、君の身体が持たないぞ!」

「ゼクス様が、私と共に祈ってくだされば大丈夫です。……私たちは夫婦でしょう? 命も、運命も、半分こです」


私が微笑んで彼の手を握ると、ゼクスは目を見開き、やがて、深く、力強く頷いた。


「……わかった。俺の魔力、俺の命、その全てを君に預ける。共に戦おう、アリシア」


*****


翌朝。

人間国と魔族の領土を隔てる『死の谷』には、地鳴りのような軍靴の音が響き渡っていた。


見渡す限りの荒野を埋め尽くす、白銀の甲冑に身を包んだ五万の人間軍。

王家の紋章が描かれた巨大な軍旗が風に翻り、太陽の光を反射して剣や槍がギラギラと威圧的な輝きを放っている。

軍の最後尾には、巨大な天蓋付きの豪奢な馬車が陣取り、そこから人間の王――私の実の父親が、安全な場所からこの「狩り」を見物していた。


対する魔族の軍勢は、谷を挟んだ崖の上に横一列に並んでいる。

その数はわずか三百。

黒曜石のような鱗を持つゼクスを筆頭に、ガーゴイルのガロ、デュラハンの近衛隊長、そして様々な異形の姿をした魔族たちが、一歩も引かずに武器を構えていた。


そして私は、魔王ゼクスのすぐ隣、魔族軍の最前列に立っていた。

いつも顔を覆っていた絹の目隠しは、もうない。

私の『真実を視る目』は、眼下の谷を埋め尽くす五万の人間軍の姿を、はっきりと捉えていた。


(……なんて、おぞましい光景)


白銀の美しい甲冑の下に隠された、彼らの魂の姿。

ある者は他者の血を啜る巨大なヒル。ある者は強欲に膨れ上がった豚。ある者は嫉妬の粘液を撒き散らす大蛇。

五万の軍勢は、五万の『醜悪な化け物の群れ』そのものだった。

王の乗る馬車からは、ひと際巨大な、腐臭を放つヒキガエルの肉塊がドロドロと瘴気を放っているのが視える。

彼らから立ち上るどす黒い悪意の靄が、谷の空を黒く濁らせていた。


「――忌まわしき化け物どもよ! 我が愛しき娘、アリシアを今すぐ返還しろ!」


魔法で増幅された王の傲慢な声が、谷に響き渡った。


「貴様らが王女を人質にとり、我ら人間に仇なそうとしていることは明白! アリシアを無傷で引き渡すなら、苦しまずに殺してやろう! だが逆らうというなら、その醜い死骸を聖火で焼き尽くしてくれるわ!!」


その言葉に、五万の軍勢が一斉に武器を掲げ、野獣のような雄叫びを上げた。

正義を騙りながら、彼らの魂は「殺戮」と「略奪」への歓喜にドス黒く沸き立っている。


「……反吐が出るな」

ゼクスが、鋭い爪を持つ手で大剣を握り締めながら低く唸った。


「あのような醜悪な悪意を、アリシアはずっとたった一人で見せられ続けていたのか」

「ええ。でも、もう恐くありません。私には、ゼクス様たちがついていますから」


私は、彼の空いているもう片方の手に、自らの手をそっと重ねた。

鱗越しに伝わってくる、力強く温かい命の鼓動。

私の目に視える彼の魂は、数万の悪意の靄の中でも決して曇ることのない、眩いほどの白銀の光を放っていた。


「ゼクス様。私の視界ビジョンを、あなたの魔力でこの谷全体に投影してください。……そして、私たちの祈りで、彼らの『被っている皮』を引き剥がします」

「ああ。俺の命の全てを、君の目に託そう」


ゼクスが私と繋いだ手に、莫大な魔力を注ぎ込んだ。

ドクン、と私の心臓が大きく跳ね、全身の血管を熱い魔力の奔流が駆け巡る。


私は崖の縁へと一歩踏み出し、魔法で増幅された声を谷中に響かせた。


「――お父様。そして人間の国の皆様」


澄み切った私の声が響いた瞬間、人間軍の怒号がピタリと止んだ。

盲目で、か弱く、怯えているはずの王女が、目隠しを外し、魔王と手を繋いで堂々と崖の上に立っている姿に、彼らは一様に困惑したのだ。


「私は人質ではありません。私は自らの意志で、この魔族の国を……魔王ゼクス様の花嫁となることを選びました」

『なっ……!? なにを馬鹿なことを! アリシア、貴様、化け物に洗脳されたか!』

王のヒキガエルのような悲鳴が響く。


「洗脳などされていません。私の目は、全てを正しく視ています」


私は、両手でゼクスの手を固く握り締め、祈るように目を閉じた。


「人間の国で、私は『役立たずの盲目』と呼ばれました。……ええ、私はあなたたちの『見せかけの美しい姿』を見ることができなかった。私の目には、あなたたちの『魂の真実の姿』しか視えなかったからです」


私はカッと目を見開き、五万の軍勢を真っ直ぐに睨み下ろした。

私とゼクスの魔力が共鳴し合い、私の瞳から、強烈な『白銀の光』がレーザーのように放たれ、谷全体をドーム状に包み込んでいく。


「真の化け物とは、自らの醜い悪意に蓋をし、弱者を虐げ、正義の皮を被って他者を殺戮する者たちのこと! ……今こそ、あなたたちの隠し続けてきた『本当の姿』を、世界に晒しなさい!!」


『真実の開眼トゥルー・リベレーション』。


私とゼクスの魔力が臨界点に達し、白銀の光が弾け飛んだ。

光は谷全体を包み込み、人間軍と魔族軍、その場にいる全ての者の肉体と魂の位相を『強制的に同調』させた。


「な、なんだこの光は……!?」

「目が……ぐぁぁぁっ!?」


人間軍から、次々と悲鳴が上がり始めた。

光を浴びた人間の兵士たちの身体が、ドロドロと溶けるように形を崩し始めたのだ。

彼らの魂の姿――私がずっと視てきた醜悪な化け物の姿が、物理的な肉体として現実世界に引きずり出されていく。


美しい白銀の甲冑が弾け飛び、ある者の身体は巨大なヒルに、ある者の顔は醜い豚に、ある者の腕は毒蛇へと変異していく。

『ぎゃあああっ!? 俺の、俺の腕が!!』

『ヒィィッ! バケモノだ! 隣にバケモノがいるぞ!!』

『違う、俺だ! 助けてくれ、顔が、顔が溶けるゥゥッ!!』


五万の軍勢は、瞬く間に阿鼻叫喚の地獄へと変貌した。

隣にいる戦友が恐ろしい化け物になり、自分自身もまたおぞましい怪物へと姿を変えていく。彼らはパニックに陥り、剣を振り回して同士討ちを始め、あるいは恐怖のあまり武器を捨てて逃げ惑った。


「ひ、ヒィィィィィッ!! な、なんだこれは!! 私の美しい身体が!!」

馬車の中にいた王も例外ではなかった。

彼の肥え太った身体はブクブクと膨張し、皮膚は緑色の粘液に覆われ、巨大で醜悪なヒキガエルの化け物そのものへと完全に変異した。

「わ、私は王だぞ! このような醜い姿など、嘘だ! 夢だ!!」


王は自らの姿に絶望し、馬車から転げ落ちて泥の中を這いずり回った。


一方で。

白銀の光を浴びた崖の上の魔族たちにも、劇的な変化が起きていた。


「……ゼクス様」

私が振り返ると、私の手を握っていた漆黒の鱗を持つ魔族の姿は、そこにはなかった。

光の中で、鱗が砕け、角が砂となって消え去っていく。


その下から現れたのは、私がずっと『魂の姿』として視てきた通りの――。

月光を紡いだような白銀の髪と、息を呑むほど美しい瑠璃色の瞳を持つ、完璧な人間の青年の姿だった。


「俺の……呪いが……解けた……?」


ゼクスは、自らの白く滑らかな人間の手を見つめ、震える声で呟いた。

彼だけではない。

ガーゴイルのガロは、そばかすのある可愛らしい人間の少年に。

デュラハンの近衛隊長は、凛々しい美貌の女騎士に。

マーサは、ふくよかで優しい笑顔の人間の女性に。

城の魔族たちが皆、彼らにかけられていた数百年の呪いから完全に解放され、本来の『美しい人間の姿』を取り戻していたのだ。


「おお……おおお……!」

「人間の姿だ! 俺たち、人間に戻れたんだ!!」

「アリシア様! アリシア様の祈りが、俺たちの呪いを解いてくださったんだ!!」


彼らは、自らの手や顔を撫で回し、互いの姿を確認し合って、抱き合いながら歓喜の涙を流した。


「ゼクス様」


私が微笑みかけると、人間の姿に戻ったゼクスは、瑠璃色の瞳から大粒の涙をこぼし、私を力強く抱きしめた。

硬い鱗の感触はない。温かく、柔らかい、人間の確かな温もりだけがそこにあった。


「アリシア……! 君が、俺たちを救ってくれた……っ。この数百年の絶望から、俺たちを光の当たる世界へと引き上げてくれたんだ……!」

「いいえ。私が救われたのです。ゼクス様たちの美しい魂が、盲目だった私に本当の光を教えてくれたのですから」


私は、彼の広い胸に顔を埋め、彼の温かい鼓動の音を聞きながら、幸福の涙を流した。


眼下の谷では、五万の「真の化け物たち」が、自らの醜い姿に絶望し、戦意を完全に喪失して人間の国へと逃げ帰っていくところだった。

醜悪なヒキガエルとなった王は、誰にも助けられることなく、泥に塗れながら這って逃げていく。

もはや、人間の国が魔族の国を攻め滅ぼすことなど不可能だ。彼らは自らの醜い姿を隠すことに必死になり、国は内側から完全に崩壊していくことになるだろう。


真実は、白日の下に晒された。

私たちを縛っていた全ての鎖は、今、完全に断ち切られたのだ。


*****


【エピローグ】


あの日から、三年が経った。


かつて『死の谷』と呼ばれていた国境は、今では美しい緑に覆われ、色とりどりの花が咲き乱れる穏やかな草原となっている。


人間の国は、自らの本性が露呈したことで大混乱に陥り、醜い化け物となった貴族や王族たちは民衆によって追放された。現在の人間の国は、まだ純粋な魂を残していた平民の代表たちによって、細々と、しかし平和的に再建されつつある。


そして、かつて『魔族の国』と呼ばれていた私たちの国は。

『白銀のアルジェント』という新たな名を与えられ、世界で最も美しく、平和な国として栄えていた。


「アリシア、あまり走ると転ぶぞ」

「大丈夫ですよ、ゼクス様。この庭の道は、もう完全に覚えましたから」


王城の広大な庭園。

私は、春の陽射しを浴びながら、ゼクスの腕に手を回してゆっくりと散歩を楽しんでいた。

彼は美しい人間の姿のまま、今では白銀の国の王として、立派にこの国を治めている。


私の目は、今もこの世界の『魂の形』を視続けている。

しかし、人間の国にいた頃のように、目を覆い隠す布はもう必要なかった。

すれ違う城の住人たち、新しく生まれた子供たち。彼らの魂は皆、温かく、純粋な光を放っているからだ。


「そういえば、人間の国からまた『移住希望者』の申請が来ているそうですね」

「ああ。だが、入国の審査は厳重にやらせてもらう。……この国の美しさを守るためにも、彼らの『魂の形』を、君に見極めてもらわなければならないからな」

「ええ、任せてください。私の目は、もう何からも逃げませんから」


私が自信満々に胸を張ると、ゼクスは愛おしそうに目を細め、私の額にそっと口付けを落とした。


「……君のその美しい瞳に、もう二度と、醜く悲しいものを映させないと誓おう。俺が、君の視るこの世界を、永遠に守り抜く」


「ゼクス様……」


私は背伸びをして、彼の首に腕を回した。

彼の瑠璃色の瞳の中には、世界で一番幸せな女の顔をした、私自身の姿がくっきりと映っている。


「私、今とっても幸せです。あの時、勇気を出してこの目を開いて、本当によかった」

「俺もだ、アリシア。君に見つけてもらえなければ、俺はずっと暗闇の中で獣として生きていた。……愛している。俺の、たった一人の光」


温かな春の風が吹き抜け、庭園の花びらが私たちの周囲を祝福するように舞い踊る。


視えない王女と呼ばれた私は、もう何も恐れない。

この美しく優しい人々と共に、光に満ちたこの国で、永遠に愛のステップを踏み続けるのだ。

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