三年間『つまらない』と言われ続けた地味な俺を捨てた元カノがざまぁされる一方、隣室のギャルが『ずっと好きだった』と泣きながら告白してきた件
「ソウちゃんといても、つまんないの」
三年間の恋愛が、たった一言で終わった。
金曜日の夜。いつものように美羽を迎えに行った駅前のカフェ。彼女が選んだ一杯二千円のフルーツティーを前に、俺は動けなくなっていた。
「……え?」
「だから、別れよって言ってるの」
美羽はスマホをいじりながら言った。視線すら寄越さない。指先がせわしなく画面をスクロールしている。きっと次の男とでもLINEしているのだろう。
「もっと刺激のある人がいいの。ソウちゃんって、なんていうか……地味じゃん?」
地味。
まあ、知ってた。鏡を見れば分かる。量販店のスーツ、無造作な黒髪、特徴のない顔。中堅メーカーの経理部勤務、年収は平均かそれ以下。
「三年間、ありがとね」
美羽は立ち上がり、当然のように伝票を俺の前に置いた。
「あ、最後だしこれくらい出してよ。……じゃあね」
去っていく背中。揺れるハイブランドのバッグ。あれは先月、ボーナスをはたいてプレゼントしたやつだ。
返せとは言わない。言う気力もない。
俺はただ、冷めていくフルーツティーを見つめていた。
(……いや、いいんだ)
俺は元から『普通』だ。特別になれると思った方が間違いだった。
会計を済ませ、終電でマンションに帰る。金曜の夜だというのに、街は俺を置き去りにして賑わっている。カップルが手を繋いで歩いているのが視界に入るたび、胸の奥がちくりと痛んだ。
エレベーターに乗り、自分の階のボタンを押す。
無機質な電子音が、やけに大きく響いた。
扉が開いた瞬間。
「——っ!」
隣室の前で、派手な女が転んでいた。
ハイトーンの髪、ミニスカート、高いヒール。うちのマンションで浮きまくっている『隣のギャルの子』だ。名前は確か、白河さん。挨拶はするけど、まともに話したことはほとんどない。
「だ、大丈夫ですか」
反射的に手を差し伸べる。彼女は顔を上げ——なぜか真っ赤になって固まった。
「ふっ、藤崎……さん……」
「あ、お隣の白河さん? 怪我は」
「な、なな何でこんな時間にいるのまだ会社じゃないのっていうか何で手を差し伸べてくるのカッコつけすぎじゃない!?」
早口すぎて何も聞き取れない。
「えっと……とりあえず立てます?」
「立てるしむしろ立ったまま寝れるし!」
意味が分からない。
彼女は俺の手を振り払い——その勢いで再び転んだ。
「っ痛……」
「……ほら」
もう一度、手を差し出す。今度は彼女も観念したのか、おずおずとその手を取った。
細くて、冷たい指だった。
華奢な体を引き起こす。ヒールが高いせいか、立ち上がると意外と背が高い。それでも俺より少し低いくらいだ。
「……別に、感謝とかしないから」
「してくれって言ってないですけど」
「うっさい! っていうか最近元気なさそうだけど何かあったの別に心配してないけど!」
……元気ない、分かるんだ。
「いや……別に普通ですよ」
「嘘。目が死んでる」
図星すぎて言葉に詰まる。
彼女は俺の顔をじっと見て——不意に、ぷいっと顔を逸らした。
「……明日、弁当」
「え?」
「明日の昼に弁当届けるから! 別にあんたのためじゃなくて作りすぎただけだから! 勘違いしないでよね!!」
言うだけ言って、彼女は自分の部屋に逃げ込んだ。
バタン、とドアが閉まる。
「……何だったんだ」
がらんとした廊下に、俺だけが取り残される。
振られた夜。最悪の金曜日。
なのに——さっき握った指先の温度が、妙に忘れられなかった。
◇ ◇ ◇
翌朝。土曜日。休日の昼前にインターホンが鳴った。
モニターを見ると、白河さんがいた。
ただし、昨日と全然違う。
「……えっ」
ハイトーンの髪は一つに結ばれ、メイクは薄く——というか、ほぼすっぴんに近い。パーカーにジャージ。覇気のない目。
昨日のギャルはどこへ消えた。
『……開けて』
インターホン越しの声も、なんかボソボソしている。
玄関を開けると、彼女は大きな紙袋を抱えていた。
「これ」
「……弁当?」
「作りすぎた」
紙袋を受け取る。重い。めちゃくちゃ重い。
「白河さん、これ何人分——」
「いいから中見て」
言われるまま、袋を開ける。
二段重ねの弁当箱が、三つ。サンドイッチ。おにぎり。タッパーに入った煮物。あと味噌汁用のスープジャー。
「……白河さん」
「何」
「俺、一人暮らしなんですけど」
「知ってる」
「これ、三日分くらいあるんですけど」
「……冷凍すれば一週間もつ」
真顔で言われた。
改めて彼女を見る。ギャルメイクの下の素顔は——驚くほど童顔だった。目が大きくて、頬がふっくらしていて、どこか幼い印象。派手な見た目からは想像もできない。
「……何見てんの」
「いや、すっぴん初めて見たなと」
瞬間、彼女の顔が爆発したみたいに赤くなった。
「見んなっ!!」
「見るなって言われても目の前にいるし」
「だから見んなって言ってんの!! あーもう帰る!! 弁当の感想は後でLINEして!! ……で、できれば三行以上で!!」
「三行以上?」
「う、うるさいっ!!」
彼女は再び逃げるように去っていった。
ドアが閉まる音。廊下に静寂が戻る。
俺は手の中の紙袋を見下ろした。ずっしりと重い。愛情の重量、とでも言うのだろうか。
(……なんで、俺にここまで)
正直、接点らしい接点はない。マンションの隣人というだけ。挨拶はするけど、会話なんてほとんど——
「……あ」
一つだけ、思い出した。
三年前。このマンションに引っ越してきた直後。終電を逃して困っていた派手な女の子に、タクシー代を貸したことがある。
深夜の駅前で、途方に暮れていた子だった。財布を落としたとかで、帰る手段がないと泣きそうな顔をしていて。俺は持っていた現金を全部渡して、タクシーに乗せた。
(あの時の子……か?)
確証はない。でも、もしそうだとしたら。
たった一度の、些細な親切。
彼女はそれを、三年も覚えていた——?
「……いや、まさかな」
俺は首を振り、弁当を食卓に並べた。
一口食べる。
「……うま」
出汁がしっかり効いた卵焼き。甘辛い照り焼き。彩り豊かな野菜。どれも丁寧で、手間暇かけて作られているのが分かる。
愛情が——
(待て待て待て)
愛情とか何考えてるんだ俺は。作りすぎただけだ、本人がそう言ってた。
……でも。
三日分の弁当を『作りすぎた』で済ませる人間、普通いないだろ。
スマホを取り出す。LINEを開く。白河さんのトーク画面。
『弁当、美味しかったです。ごちそうさまでした』
送信。
三秒後、既読がついた。
三十秒後。
三分後。
返信がこない。
既読から十分後、ようやくメッセージが届いた。
『べつに ふつうだから そんなおいしくないから つくりすぎただけだし 勘違いしないでよね(白河)』
……句読点がない。絵文字もない。改行だけが異様に多い。
これ、相当推敲してこれなんじゃないか。
なぜか、少し笑ってしまった。
失恋した翌日。最悪なはずの週末。
——なのに、気づけば胸の奥が温かい。
俺はきっと、まだ何も分かっていなかった。
彼女の『作りすぎた』に込められた、本当の意味を。
◇ ◇ ◇
月曜日。会社の昼休み。
「で、隣のギャルの子から弁当もらったわけ?」
同期の日向が、にやにや笑いながら聞いてきた。
日向翔真。営業部のエース。チャラそうな金髪にピアス、陽キャ全開の見た目だが、なぜか俺と仲がいい。入社以来、数少ない友人と言える存在だ。
「……なんで知ってるんだよ」
「お前の机の上見りゃ分かる。その弁当箱、明らかに女物だろ」
俺は白河さんが持ってきた弁当の一つを開いていた。確かに、花柄の弁当箱は俺のセンスじゃない。
「作りすぎたんだって」
「作りすぎて隣人にあげる女がどこにいんだよ」
「いや、でも本人がそう言って——」
「だから言っただろ?」
日向は呆れたように天を仰いだ。
「お前さ、自分のこと過小評価しすぎ。あの子、絶対お前のこと好きだって」
「……いや、それはない」
「何で分かんの」
「だって俺、地味だし」
「地味だと恋愛対象にならないって誰が決めた?」
返す言葉がない。
日向は弁当を一瞥し、続けた。
「つーかお前、一昨日振られたばっかだろ。あの美羽って女に」
「……うん」
「俺は最初から言ってた。あの女やめとけって」
「……うん」
「お前の金で美容代もブランド品も賄って、感謝の一つもなかっただろ」
「……まあ」
「隣のギャルの子の弁当食べてみろ。味の差で分かるから、お前を大事にする女とそうじゃない女」
俺は箸を動かした。卵焼きを口に入れる。
優しい甘さが、舌に広がった。
「……美羽、料理したことなかったな」
「だろ」
「いつも外食で、高いもんばっか食わされてた」
「だろ?」
「この卵焼き、なんか……あったかい」
「当たり前だ。気持ち込もってんだよ」
日向は俺の肩を叩いた。
「いいか蒼太。お前は普通じゃない。誰よりも早く出社して後輩のミスをフォローして、残業続きの同僚に差し入れして。お前がいなきゃこの部署回んねえの、分かってないのお前だけだよ」
「……それは仕事だし」
「仕事だから偉くないと? 馬鹿言え。隣のギャルの子は、きっとそういうとこ見てんだよ」
「……見てない、と思う」
「見てるって。重い女だけど、お前にはちょうどいい」
「重い女って何だよ」
「好きになったら一直線、些細な優しさを何年も覚えてるタイプ」
——三年前の、タクシー代。
俺の脳裏に、あの夜のことがよぎった。
「……お前、会ったことあるの? 白河さんに」
「ねえよ。でも分かる。女の勘ならぬ、日向の勘だ」
「勘って」
「だから言っただろ? 俺の勘は当たるって」
そう言いながら、日向はスマホを取り出した。
「……何してんの」
「お前のLINE、白河さんとのやり取り見せろ」
「は? なんで」
「いいから」
強引にスマホを奪われ、トーク画面を開かれる。
「『弁当、美味しかったです。ごちそうさまでした』……これだけ?」
「十分だろ」
「十分なわけあるか。お前、女心分かってないにも程があるぞ」
日向は勝手にスマホを操作し始めた。
「ちょっ、何書いてんの」
「『今度お礼させてください。夕飯、一緒にどうですか? 俺の手料理ですが』——送信」
「は!? 待っ——」
「送った」
「お前……!」
俺はスマホを取り返した。確かに、送信済みになっている。
「何してくれてんの!」
「いいから見てろ」
三秒後。既読がついた。
五秒後。「入力中...」の表示。
十秒後。表示が消えた。
三十秒後。また「入力中...」。
一分後。消えた。
それから五分間、「入力中...」が現れては消えを繰り返した。
「……何これ」
「推敲してんだよ。どう返信するか必死に考えてんの」
日向はニヤニヤしている。
七分後。ようやくメッセージが届いた。
『べつに いいけど ひまだし ごはんはすき だから いってあげる かんしゃしなさいよね(白河)』
句読点がない。改行だけが多い。でも——
「OK出てんじゃん」
日向が笑った。
俺は画面を見つめた。
「……これ、デートになるのか?」
「なるに決まってんだろ。つーか、向こうは完全にそのつもりだと思うぞ」
「……マジで?」
「マジで。だから言っただろ?」
日向は立ち上がり、去り際に言った。
「お前が幸せになれる女は、美羽みたいな奴じゃない。白河さんみたいな、お前の普通を特別だと思ってくれる奴だよ」
——俺の普通を、特別だと思ってくれる奴。
意味が分からなかった。
でも、なぜか胸が熱くなった。
◇ ◇ ◇
土曜日の夕方。
俺は自分の部屋のキッチンで、料理を作っていた。
メニューは和食中心。肉じゃが、だし巻き卵、鮭の塩焼き、ほうれん草のお浸し。あとは炊き込みご飯と味噌汁。
(……作りすぎた)
いつもの癖だ。一人暮らしなのに、二人分を超える量を作ってしまう。
十八時。インターホンが鳴った。
モニターを見る。白河さんだ。今日は——昨日よりメイクが濃い。気合いが入っている。
華やかなワンピースに、高いヒール。髪も綺麗に巻いてある。アパレルのプレス担当という肩書きに相応しい、完璧なコーディネートだった。
「……どうぞ」
玄関を開けると、彼女は硬直していた。
「……なに、その格好」
「え? 普通の部屋着だけど」
俺はTシャツにジャージ。いつも通りだ。
「……私、一時間かけてメイクしたんだけど」
「そうなんだ。似合ってるよ」
「っ——!」
彼女は顔を真っ赤にして俯いた。
「……入っていい?」
「どうぞ。スリッパそこに」
ぎこちなくリビングに入ってくる白河さん。キョロキョロと部屋を見回している。
「……綺麗にしてんね」
「一人暮らし長いから」
「料理するんだ」
「まあ、それくらいしか取り柄ないし」
「……取り柄、他にもあるでしょ」
小さな声だった。聞き返す前に、彼女はダイニングテーブルに座った。
「で、何作ったの」
「肉じゃがとか、和食系。口に合うか分かんないけど」
「……食べてみないと分かんない」
並べた料理を、彼女はじっと見つめた。どの皿も湯気が立っている。温かい食卓。誰かと一緒に囲むのは、いつぶりだろう。
そして、一口。肉じゃがを口に入れた。
「——」
「どう?」
「……普通」
「そっか」
「普通に……美味しい」
小さく、呟くように言った。
「……よかった」
「っ、べ、別に褒めてないから! 普通に美味しいって言っただけで!」
「普通に美味しいなら十分だよ」
「……うるさい」
彼女は箸を進めた。だし巻き卵、鮭、お浸し、炊き込みご飯。全部、綺麗に食べていく。
その様子を見ていると、不思議と胸が温かくなった。誰かに料理を作って、美味しいと言ってもらえる。それだけのことが、こんなにも嬉しいなんて。
美羽は一度も、俺の料理を食べてくれなかった。
「……ねえ」
「ん?」
「前に私を助けてくれたの、覚えてる?」
「……助けた?」
「三年前。終電逃して困ってた時、タクシー代貸してくれた」
——やっぱり、あの時の子だったのか。
「覚えてるよ。返してもらった時、すごい丁寧にお礼言われた」
「……当たり前でしょ。あの時、本当に助かったんだから」
彼女は味噌汁を啜り、続けた。
「それから、ずっと……」
「ずっと?」
「——なんでもない」
言いかけて、止めた。顔が赤い。
「白河さん」
「なに」
「俺、先週彼女に振られたんだ」
唐突に言った。我ながら脈絡がない。
「……知ってる」
「え?」
「壁薄いから。玄関先で電話してたの聞こえた」
「……マジか」
恥ずかしい。あの夜、美羽からの追撃LINEに返信してたの、全部聞こえてたのか。
「三年付き合ってた人に、『つまらない』って言われた」
「……」
「地味だって。刺激がないって」
「……その女、バカじゃないの」
白河さんは、静かに言った。
「藤崎さんのどこが地味なの。誰よりも早く出社して、後輩のミスをフォローして、残業続きの同僚に差し入れして——」
「……なんでそんな細かいこと知ってるの」
「っ——」
彼女は口を押さえた。しまった、という顔をしている。
「……た、たまたま聞いただけだから! あんたの同僚が話してたの、電車で!」
「俺の同僚、電車で何話してんの」
「知らない! とにかく! あんたは地味じゃないし、つまらなくないし、その女が見る目ないだけ!」
強い口調だった。真っ直ぐに、俺を見ている。
「私は——」
「……白河さん?」
「私は、三年前からずっと、あんたのこと——」
言いかけて、彼女は止まった。
目が潤んでいる。
「……ごめん、今日は帰る」
「え、まだデザート——」
「帰るって言ってんの!」
彼女は立ち上がり、玄関に向かった。
「白河さん!」
追いかける。でも、彼女は振り返らなかった。
ドアが閉まる直前、小さな声が聞こえた。
「……ちゃんと言うから。次は、ちゃんと」
——次は?
俺はドアの前で立ち尽くした。
彼女の言葉の意味を、理解するのに時間がかかった。
◇ ◇ ◇
日曜日の昼。
見知らぬ番号から電話がかかってきた。
『ソウちゃん? 私だけど』
——美羽だった。
「……なんで番号知ってるの」
『友達に聞いた。ねえ、今から会えない?』
「……何の用?」
『話したいことがあるの。カフェで待ってるから』
一方的に場所を告げて、電話は切れた。
(……行く必要あるか?)
正直、会いたくない。でも、何か言い残したこともある気がして——結局、俺は指定されたカフェに向かった。
駅前のチェーン店。美羽は窓際の席にいた。
一週間前より、少しやつれて見える。メイクも服も相変わらず派手だけど、どこか元気がない。目の下にクマができている。
「来てくれたんだ」
「……何の話?」
単刀直入に聞く。美羽は潤んだ目で俺を見上げた。
「ソウちゃん、私たちやり直せると思うの」
「——は?」
「あの後付き合った人、最低だったの。見栄っ張りで、借金持ちで、私のこと全然大事にしてくれなくて——」
「それで?」
「だから、やり直したいの。ソウちゃんは優しいから、きっと許してくれるでしょ?」
甘えた声。三年前、この声に何度も騙された。
でも、今は違う。
「美羽」
「なに?」
「俺のこと、『つまらない』って言ったよな」
「……それは、言い過ぎたかなって——」
「『地味』とも言った」
「だから、反省して——」
「三年間、俺の金で美容代もブランド品も賄って、感謝の一つもなかった」
「……それは」
「別れる時、会計を俺に押し付けて、あのバッグ持って帰っただろ」
「……」
美羽は黙った。言い訳が見つからないらしい。
「やり直す気はないよ」
「——っ」
「俺は確かに地味だし、つまらないかもしれない。でも、そんな俺を『特別だ』と思ってくれる人がいる」
言いながら、白河さんの顔が浮かんだ。
あの童顔。すっぴんの、照れた顔。俺の料理を美味しそうに食べる姿。
「お前には見えなかったものを、見てくれる人がいるんだ」
「……誰よ、それ」
「関係ない」
「関係あるわよ! 私を振るの!? 三年も付き合ったのに!?」
「振ったのはお前の方だろ」
「——っ」
俺は立ち上がった。
「会計は——今回は自分で払ってくれ」
「ちょっと、待ってよ! ソウちゃん!」
振り返らなかった。
店を出る。冬の冷たい風が、頬を撫でた。
——すっきりした。
三年間のもやもやが、やっと晴れた気がする。
そして、俺には今、会いたい人がいる。
スマホを取り出す。LINEを開く。
『白河さん、今から会えますか? 話したいことがあります』
送信。
三秒後、既読。
五秒後、返信。
『いいけど どこ(白河)』
『マンションの前で待ってます』
『わかった すぐいく(白河)』
——推敲する暇もないくらい、早い返信だった。
俺は走り始めた。
◇ ◇ ◇
マンションの前。冬の夕暮れ。
息を切らして戻ると、白河さんがもう待っていた。
今日はナチュラルメイク。髪も下ろしている。コートの下はシンプルなニットワンピース。昨日の華やかさとはまた違う、柔らかな雰囲気だった。
「……べ、別に待ってたわけじゃないから。たまたま外に出ようとしたら、あんたが走ってきただけで」
「息切れてるの俺だけじゃないだろ。凛音も肩で息してる」
「っ……うるさい、寒いから震えてるだけ!」
「……中、入ろう」
「……うん」
俺の部屋に案内する。リビングのソファに向かい合って座った。
沈黙。
何から言えばいいか、分からない。暖房の音だけが、静かに響いている。
「……俺さ」
「……うん」
「さっき、元カノに会ってきた」
白河さんの表情が、一瞬強張った。
「……そう」
「復縁したいって言われた」
「……へえ」
声が冷たい。でも、俺は続けた。
「断った」
「——え?」
「断ったんだ。俺のこと『つまらない』って言った奴と、もう一回やり直す気にはなれなかった」
「……」
「でも、それだけじゃない。俺には——」
言葉を選ぶ。
「俺の普通を、特別だと思ってくれる人がいるって、気づいたから」
白河さんは、目を見開いた。
「三年前、終電を逃した女の子にタクシー代を貸した。たったそれだけのことを、三年も覚えてくれていた人がいた」
「……」
「毎日、俺のこと見ていてくれた人がいた。元気がなければ心配して、弁当まで作ってくれた」
「……別に、作りすぎただけ——」
「嘘だろ」
「っ——」
俺はまっすぐ、彼女を見た。
「白河さん。俺のこと、好きなの?」
「——っっ!!」
彼女は真っ赤になって立ち上がった。
「な、なな何言ってんの!? 急に!? そんな、好きとか、別に、私は——」
「昨日、言いかけてたよな。『三年前からずっと』って」
「あ、あれは言い間違いで——」
「言い間違いで三年は出てこないだろ」
「——っ」
彼女は俯いた。肩が震えている。
「……ずるい」
「え?」
「ずるいよ、藤崎さん。そうやって、全部分かった顔して」
「……ごめん」
「謝んないでよ……」
彼女は顔を上げた。目が潤んでいる。涙が、今にも零れ落ちそうだった。
「……三年前から、ずっと好きだった」
「……うん」
「タクシー代貸してくれた時、絶対返すって決めた。それで、あんたのこと調べて、同じマンションに引っ越して」
「え、引っ越してきたの俺のためなの」
「う、うるさい! たまたま空いてただけ!」
「隣の部屋がたまたま空いてたんだ」
「……う」
反論できないらしい。
「毎朝、あんたが出勤する時間に合わせて起きてた。帰ってくる時間に合わせて買い物行ってた。挨拶できる回数を、一日一日数えてた」
「……そこまでしてくれてたんだ」
「き、気持ち悪いって思った?」
「思わない」
即答した。
「むしろ——嬉しい」
「……っ」
彼女の目から、涙がこぼれた。
「ずるい……そんな風に言われたら、我慢できないじゃん……」
「我慢しなくていい」
俺は立ち上がり、彼女の前に立った。
「白河さん——いや、凛音さん」
「っ——名前……」
「俺と、付き合ってください」
真っ直ぐに、言った。
凛音さんは泣きながら、それでも笑った。その顔が、今まで見たどんな笑顔より綺麗だった。
「……遅いんだよ、バカ」
「ごめん」
「三年も待たせて」
「ごめん」
「これから、たくさん埋め合わせしてよね」
「……するよ。一生かけて」
「——っ」
彼女は俺の胸に飛び込んできた。
細い体。温かい温度。ほのかに甘い香り。
「……私の方こそ、よろしくお願いします」
「うん」
「……好き。ずっと、ずっと好きだった」
「俺も——これから、好きになる」
「……『なる』じゃなくて今すぐ好きになってよ」
「……善処する」
「何その返事!」
怒ったように言いながら、彼女はもっと強く抱きついてきた。
——ああ、これが幸せか。
三年間、『つまらない』と言われ続けた俺を、三年間待っていてくれた人がいた。
俺の普通を、特別だと思ってくれる人がいた。
「……凛音さん」
「なに」
「明日から、毎日弁当作ってくれる?」
「……作りすぎたら、ね」
「絶対作りすぎるだろ」
「う、うるさい!」
窓の外は、もう夜になっていた。
冬の星空が、やけに綺麗だった。
◇ ◇ ◇
——三ヶ月後。
「ソウちゃん、久しぶり!」
休日の駅前。偶然、美羽に遭遇した。
隣には凛音がいる。俺たちは手を繋いでいた。
「……美羽か」
「元気そうじゃん! 彼女できたの?」
「まあ」
美羽は凛音を値踏みするように見た。上から下まで、じろじろと。失礼な視線だった。
「へえ……派手な子じゃん。私より若い?」
「同い年だけど」
「ふーん。まあ、私の方が——」
「あんた、美羽さん?」
凛音が口を開いた。声が低い。
「そうだけど。あなたは?」
「蒼太の彼女。白河凛音」
「へえ。いつから付き合ってるの?」
「三ヶ月前から。——でも、好きになったのは三年前」
「……三年?」
「あんたが『つまらない』って言った人を、私は三年間ずっと見てた」
凛音は一歩前に出た。美羽より背が高い。ヒールのせいもあるけれど、存在感が違った。
「誰よりも早く出社して、後輩のミスをフォローして、残業続きの同僚に差し入れして。そういうの、全部見てた」
「……」
「あんたには見えなかっただけでしょ。蒼太の良さが」
「ちょっと、何——」
「蒼太は地味じゃない。つまらなくない。あんたに見る目がなかっただけ」
凛音の目は、真っ直ぐだった。揺るぎない、強い意志が宿っている。
「だから——感謝してる」
「……感謝?」
「あんたが捨ててくれたから、私が拾えた」
美羽は絶句した。
「じゃあね。もう関わらないで」
凛音は俺の手を引いて、歩き出した。
「ちょっと、待って——」
「待たない」
振り返らなかった。
駅を離れ、人混みを抜け、静かな路地に入ってから——凛音は立ち止まった。
「……言いすぎた?」
「いや」
俺は彼女の肩を抱いた。
「かっこよかった」
「っ——」
顔が赤くなる。
「べ、別にあんたのために言ったんじゃないから。私が言いたかっただけで——」
「知ってる」
「っ——なんでそういうこと言うの……」
「事実だから」
凛音は俯いた。耳まで赤い。
「……帰ったら、褒めて」
「何を?」
「私のこと。今日のこと。全部」
「……分かった」
「あと、弁当作ってきたから。昼はうちで食べて」
「また作りすぎたの?」
「……うるさい」
俺たちは手を繋いで、マンションに向かった。
隣同士の部屋。でも、今はほとんど俺の部屋で過ごしている。いつの間にか、彼女の荷物も増えてきた。
「……ねえ」
「ん?」
「好き」
「……うん」
「好き」
「……聞こえてる」
「好きって言って」
「……好きだよ」
「——っ」
凛音は嬉しそうに笑った。その顔が、眩しい。
俺は確かに普通だ。地味で、目立たなくて、特別な才能もない。
でも——
「俺の普通を、特別だと思ってくれてありがとう」
「——っっ!」
凛音は顔を真っ赤にして、俺の胸に顔を埋めた。
「ずるい……ずるいよ……」
「何が?」
「そんなこと言われたら……もっと好きになるじゃん……」
「なればいい」
「……バカ」
——これが、俺の幸せの形だ。
捨てられて、見つけてもらって、愛された。
それだけで、十分だった。
「……ずっと一緒にいて」
「いるよ」
「ずっとだからね」
「分かってる」
「……約束」
「約束」
冬の陽だまりの中、俺たちは笑い合った。
——三年越しの恋は、こうして実を結んだ。
〈了〉




