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春待ちのキャンバス ―二度目の恋は、急がない―  作者: 久遠 睦


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夜のさざ波と、銀の糸

第6章:夜のさざ波と、銀の糸


 三月の半ば、プロジェクト完遂を祝う合同打ち上げは、駅前の活気ある大型居酒屋で開催された。  フロア全体が貸し切り状態となり、ビールジョッキがぶつかり合う音と、解放感に満ちた社員たちの笑い声が天井に跳ね返っている。香織の所属する営業事務も、佐々木のいる制作部も、この数ヶ月間は不眠不休に近い状態だった。


「波多野さん、今日はお祝いなんだから飲んで!」  部長が上機嫌でビールを注ぎに来る。香織は愛想笑いを浮かべながら、少しだけ口をつけた。  周囲を見渡すと、真由美たちは若い社員を捕まえて、相変わらずアプリでの「最新の戦果」を武勇伝のように語っている。


「……賑やかですね」  不意に隣から、穏やかな声がした。  見ると、いつの間にか佐々木が隣の席に座っていた。彼はジョッキではなく、ウーロン茶の入ったグラスを手に、少しだけ窮屈そうにネクタイを緩めている。


「佐々木さん。お疲れさまでした。今日は飲まないんですか?」 「ええ、僕は体質的にあまり受け付けなくて。それに、こういう席では誰かがシラフでいないと、収拾がつかなくなりますから」  彼はそう言って、酔っ払って絡み合っている部下たちを苦笑いしながら眺めた。


 香織は、目の前の枝豆に手を伸ばしながら、ふと気になっていたことを口にした。 「あの……この前の焼き菓子、皆さんに配っていただけましたか?」 「ああ、もちろんです。制作部の連中、『こんなに上品な味は久しぶりだ』って、あっという間に完食していましたよ。……僕も、ガレットを一ついただきました。本当に、美味しかったです」


 彼はグラスを置き、少しだけ香織の方へ体をごく自然に寄せた。 「波多野さん。実は僕、あの時、少しだけ自分を恥じたんです」 「え? どうしてですか?」 「僕は、仕事で誰かを助けることを『当たり前』だと思っていました。でも、あなたのあの丁寧なお礼を受けて、自分がいかに冷淡な考え方をしていたかに気づかされた。誰かのために動くことは、本来、あんなに温かなやり取りを生むものだったんだな、と」


 居酒屋の安っぽい照明の下で、佐々木の瞳が静かに光った。  香織は、胸の奥が熱くなるのを感じた。タカシがくれた高級なディナーよりも、ケンジが繰り返した表面的な賛辞よりも、今の佐々木の一言の方が、ずっと深く心に染み入る。


「……私の方こそ」  香織は、自分のグラスを見つめながら、せきを切ったように話し始めた。 「佐々木さんに助けていただいたあの夜、私は自分が本当に情けなかったんです。仕事も完璧にできない、娘のサポートも中途半端。あんなに惨めな気持ちになったのは、離婚した時以来でした」


 佐々木は黙って聞いていた。周囲の喧騒が、まるで遠い世界の出来事のように遠のいていく。


「前の主人は、私が失敗するたびにそれを責める人でした。お前は無能だ、俺がいなきゃ何もできないって。……だから、あの日ミスをした時、私はまたあの呪いにかかっていたんです。でも、佐々木さんが『娘さんの代わりはいない』って言ってくれた。あの言葉で、私は自分を許してもいいんだって、初めて思えたんです」


 香織の声が、微かに震えた。  佐々木は、ゆっくりと頷いた。彼は決して「それは大変でしたね」といった安易な同情を口にしなかった。ただ、彼女の痛みを、そのままの形でそこに置いておくことを許してくれているようだった。


「……僕の離婚は、波多野さんのような激しいものではありませんでした」  佐々木が、自分の過去を語り始めた。 「お互いに仕事に没頭しすぎていたんです。家はただの寝る場所になり、会話は事務連絡だけになった。ある時、妻から『もう、あなたと何の話をしていいか分からない』と言われました。憎しみ合ったわけじゃない。ただ、二人でいることの意味が、霧のように消えてしまったんです」


 彼は自嘲気味に笑った。 「お互いを思いやる余裕さえあれば、何かが変わっていたのかもしれない。だから、今の僕の独り身は、いわばその時の報いです。……でも、後悔はしていません。あの経験があったから、僕は今、隣で働いている人がどんな顔をしてキーボードを叩いているのか、少しだけ気を配れるようになった気がするんです」


「前向きな、お別れだったんですね」 「そう言ってもらえると、救われます」


 宴もたけなわとなり、お開きのアナウンスが流れた。  店の出口で、社員たちが次々と夜の街へ散っていく中、香織と佐々木は自然と最後に残った。


「波多野さん」  佐々木が、夜風に吹かれながらスマートフォンを取り出した。 「もしよろしければ、LINEを交換しませんか? プロジェクトは終わりましたが……また、困ったことがあったら、遠慮なく呼んでほしいんです。今度は、ミスをした時じゃなくてもいいですから」


 香織は、震える指で自分のスマートフォンを取り出した。  かつて、アプリの通知に怯え、期待し、絶望したその端末。  けれど今、画面に表示された佐々木のQRコードは、どこか銀色の糸のように見えた。絡まり合った過去を解き、新しい未来へと繋がる、細く、けれど強い糸。


「……ありがとうございます。よろしくお願いします」


 その日から、二人の「短いやり取り」が始まった。


 朝、通勤電車の中でスマートフォンが短く震える。 『おはようございます。今日は昨日より少し冷えるみたいですよ。暖かくして出かけてくださいね』  昼休み、ふとした瞬間に届くメッセージ。 『給湯室の電子レンジ、新しくなっていましたよ。使い方が少し複雑なので気をつけて(笑)』  夜、美月が寝静まった後の静寂の中で。 『娘さん、大学の準備は順調ですか? 波多野さんも、たまには自分の好きな本でも読んで、ゆっくりしてください』


 それは、アプリの時のような過剰な「好き」という言葉の応酬ではなかった。  互いの体調を気遣い、日常の些細な発見を共有する。  かつて、香織が結婚生活で最も欲していた「何気ない対話」が、そこにはあった。


 メッセージの履歴を見返すと、そこには派手な絵文字も、熱烈なラブコールもない。  けれど、佐々木の言葉には、常に香織への「敬意」が宿っていた。  彼は、彼女が「母」であることを尊重し、「一人の社員」であることを信頼し、そして「一人の女性」であることを、ゆっくりと、大切に守ろうとしているのが分かった。


 三月も終わりに近づいた、ある木曜日。  会社からの帰り道、佐々木から一通のメッセージが届いた。


『波多野さん。もし、お時間が許すようであれば……今度の週末、ランチでもいかがですか? 美味しい和食のお店を見つけたんです。娘さんの入学式前の、最後の休息にでもなればと思って』


 香織は、駅のホームで立ち止まり、その文字を何度も読み返した。  胸の奥で、小さな、けれど確かな花が綻ぶ音がした。  アプリで会った誰かとの約束とは、全く違う種類の高揚感。    香織は、微笑みを浮かべながら返信を打った。 『はい、ぜひ。楽しみにしています』


 それは、二人が「同僚」という枠組みを超えて、初めて「個」として向き合う日の約束だった。  波多野香織、四十三歳。  彼女の本当の物語は、この三月の終わりの、柔らかな光の中から始まろうとしていた。



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