静かなる祝祭
第5章:静かなる祝祭
季節が、ゆっくりと、けれど確実な足取りで冬を脱ぎ捨てようとしていた。
二月の凍てつくような夜、美月の第一志望校の合格発表があった。スマートフォンの画面に並んだ「合格」の二文字を見た瞬間、母娘はリビングで抱き合って泣いた。 「ママ、ありがとう。私、頑張ってよかった」 美月の涙で肩を濡らしながら、香織は不意に、あの十九時の静かなオフィスを思い出していた。絶望の中で一人キーボードを叩いていた自分を救ってくれたのは、紛れもなく佐々木だった。彼が「娘さんの代わりはいない」と言って背中を押してくれなかったら、自分はあのミスに押し潰され、今日という日を笑顔で迎えることなどできなかっただろう。
翌朝、香織は出社前に、銀座に本店を構える老舗の洋菓子店に立ち寄った。 選んだのは、丁寧に焼き上げられたガレットとクッキーが詰まった、小ぶりだが気品のある箱。派手すぎず、かといって感謝の重みを損なわない、今の彼女にできる精一杯の「誠実さ」の形だった。
オフィスに着くと、香織は自分のデスクに荷物を置くのももどかしく、隣の部署へと向かった。 佐々木は、相変わらず実直そうな横顔でパソコンに向かっていた。少し古びた眼鏡をかけ、淡々とキーボードを叩くその姿は、半年前に絶望の淵にいた香織に手を差し伸べてくれた時と、何一つ変わっていない。
「佐々木さん、あの、お忙しいところすみません」 声をかけると、佐々木は少し驚いたように顔を上げ、香織の顔を見るなり眼鏡の奥の目を細めた。 「波多野さん。……もしかして、良い報告ですか?」
「はい。おかげさまで、昨日、娘が第一志望に合格しました。あの夜、佐々木さんが助けてくださったから……本当に、ありがとうございました」 香織は深々と頭を下げ、持ってきた箱を両手で差し出した。 「これ、ささやかですが、お礼です。受け取っていただけますか?」
佐々木は一瞬、戸惑ったようにその箱と香織の顔を交互に見たが、やがて困ったような、けれど柔らかな微笑みを浮かべて、ゆっくりとその箱を受け取った。 「……それは、本当におめでとうございます。娘さんの努力が報われて、本当によかった。でも、お礼なんて、そんなに気を使わなくても」
彼は箱のラベルを眺め、少しだけ照れくさそうに呟いた。 「ここのクッキー、実は僕も好きなんです。でも、僕の功績じゃありませんよ。僕はただ、正しい場所にあるべき人を、そこへ帰しただけですから」
正しい場所。 その言葉が、香織の胸に深く染み渡った。彼は、自分が「恩人」として扱われることさえも望まず、ただ香織が母親として娘のそばにいたことを「正しいこと」だと肯定してくれたのだ。
「いただきますね。今日はいいお茶を淹れて、職場の皆で分けさせてもらいます。波多野さんの娘さんの、輝かしい門出を祝って」 彼はそう言って、大切そうに箱をデスクの引き出しに仕舞った。その所作の一つひとつに、アプリの男たちが決して持っていなかった、他人への深い敬意と静かな情熱が宿っていた。
それからの数週間、二人の間には、以前よりも柔らかな空気が流れるようになった。 給湯室で会えば「娘さん、入学準備は進んでいますか?」と声をかけ合い、残業で遅くなった夜には、佐々木がそっとコーヒーを差し入れてくれることもあった。 かつてアプリで経験した、焦燥感に満ちた駆け引きや、無理に自分を飾り立てる苦しさはそこにはなかった。ただ、同じ職場で働く仲間として、そして同じ「痛み」を知る大人として、静かに信頼の橋を架け直していくような時間。
そんな中、三月の半ばに、二人の部署が合同で進めていた大きなプロジェクトが完遂した。 成功を祝う打ち上げの席。それが、香織と佐々木の距離を決定的に変える舞台となることを、この時の香織はまだ予感さえしていなかった。




