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春待ちのキャンバス ―二度目の恋は、急がない―  作者: 久遠 睦


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十九時の救世主

第4章:十九時の救世主


 あの日から、半年が過ぎた。


 香織のスマートフォンのホーム画面から、あの鮮やかなアイコンが消えて久しい。通知に一喜一憂し、鏡の前で何度も口紅を塗り直した日々は、遠い昔の熱病のように思えた。  今の彼女にとっての正義は、仕事と、そして何より娘の美月だった。


 高校三年生になった美月は、いよいよ本格的な受験シーズンに突入していた。 「ママ、今日のご飯、夜食っぽく軽めでいいよ。塾から帰るの二十二時過ぎるから」  朝、そう言い残して家を出る美月の背中は、春に比べて一回り小さくなったように見えた。その細い肩にかかる重圧を、少しでも分かち合いたい。香織は、母親としての自分にすべてのエネルギーを注ぎ込むことで、心に空いた穴を必死に埋めていた。


「これが一番。これが私の、正しい場所」


 会社のデスクで、香織は自分に言い聞かせるように呟いた。  あんなに惨めな思いをしてまで、誰かに愛されたいと願う必要なんてない。不倫の片棒を担がされそうになったあの夜の屈辱を思い出せば、孤独なんて、贅沢なほどの静寂に過ぎなかった。


 しかし、そんな「凪」の生活を揺るがす嵐は、予期せぬ方向からやってきた。


 その日の午後、香織の部署は蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。  香織が担当していた、新製品のプロモーション用発注データ。その入力数値に、致命的なミスが発覚したのだ。


「波多野さん、どういうことだ! 桁が一つ違うじゃないか!」


 部長の怒号がオフィスに響く。香織は青ざめた顔で立ち尽くした。  何度も確認したはずだった。けれど、その時期の彼女は、美月の模擬試験の結果や体調管理に気を取られ、仕事の細部に対する集中力が、無意識のうちに削がれていたのかもしれない。


「申し訳ありません……すぐに修正します」 「当たり前だ! 今日中にすべての修正を終えて、隣の制作部にもデータを渡さないと、明日の印刷に間に合わない。これは君だけの問題じゃないんだぞ!」


 部長の言葉は正論だった。正論だからこそ、香織の心に深く突き刺さる。  時刻はすでに十七時を回っていた。  普段なら定時で上がり、スーパーに寄って美月の好きなスープの材料を買うはずの時間。    追い打ちをかけるように、美月からメッセージが入る。 『ママ、今日から三日間、大学入試の直前模試なんだけど……明日の朝、お弁当と一緒に、あの「お守りおにぎり」作ってくれる? 食べると落ち着くから』


 香織はスマートフォンの画面を握りしめた。  明日は、美月にとって精神的な正念場となる模試の日だ。早く帰って、彼女を温かく迎え、万全の体勢で送り出してあげなければならない。  それなのに、自分のミスが、そのすべてを邪魔しようとしている。


「どうして……どうしてこんな時に」


 焦れば焦るほど、画面の数字が歪んで見える。  修正作業は膨大だった。一つを直せば、それに関連する項目もすべて見直さなければならない。オフィスからは一人、また一人と人が減っていく。十九時を過ぎた頃、フロアの明かりは半分以上が落とされていた。


 静まり返ったフロアで、香織は一人、キーボードを叩き続けた。  目頭が熱くなる。  あんなに「仕事と娘のことだけが一番」だなんて強がっていたのに、結局、自分はどちらも完璧にこなせない無能な人間なのではないか。  涙がキーボードにこぼれそうになった、その時。


「……まだ、終わらないんですか?」


 不意に背後から声をかけられ、香織は肩を震わせた。  そこに立っていたのは、隣の部署の佐々木だった。    佐々木は、香織と同じ四十三歳。物静かな印象で、プロジェクトの会議などで顔を合わせたことはあるが、個人的に親しく話したことは一度もなかった。いつも少し古びた眼鏡をかけ、淡々と実直に仕事をこなす、目立たない存在の男性だ。


「あ……佐々木さん。すみません、私のミスで、制作部の方にもご迷惑を……」  香織が慌てて立ち上がると、佐々木は手にしたマグカップをデスクに置き、彼女の画面を覗き込んだ。 「ああ、あのデータの件ですね。部長が騒いでいたのは聞こえていました。……でも、これ、一人で全部やるのは一晩かかりますよ」


「わかっています。でも、今日中にやらないと……」 「波多野さん、顔色が悪いですよ」  佐々木の声は、驚くほど穏やかだった。タカシのような艶っぽさも、ケンジのような卑屈さもない。ただ、そこにある事実を淡々と受け止める、温もりのある低音。


「実は、明日……娘の大事な試験があるんです。どうしても早く帰ってあげたかったのに、自業自得なんですけど、もう、どうしていいか……」  堪えていた感情が決壊し、香織の声が震えた。


 佐々木は少しだけ驚いたように目を瞬かせたが、すぐに柔らかく微笑んだ。 「……事情は分かりました。じゃあ、これ、僕がやっておきますよ」


「え? でも、これは私のミスで、佐々木さんの仕事じゃ……」 「いいんです。僕は今日、特に急ぎの用事もないし、独り身ですからね。それに、このデータの構造、実は僕が組んだシステムとリンクしてるんです。僕が直したほうが早い」


 彼はそう言うと、香織が座っていた椅子を軽く引き、座るように促した。 「でも、そんな、申し訳なさすぎて……」 「波多野さん」  佐々木は、眼鏡の奥の穏やかな瞳で、まっすぐに香織を見た。 「仕事は、僕らでいくらでもリカバーできます。会社は明日も明後日もありますから。でも、娘さんの代わりはいないですよ。母親がそばにいてあげたい夜に、お母さんがいない。それだけは、僕にはどうしようもできないことなんです」


 その言葉は、アプリで投げかけられたどんな甘い愛の囁きよりも、香織の魂を激しく揺さぶった。  見返りを求めない、打算のない、純粋な「善意」。   「……いいんですか? 本当に」 「はい。その代わり、明日、娘さんが笑顔で試験に行けたって、一言教えてください。それが報酬です」  佐々木はそう言って、慣れた手つきでキーボードを叩き始めた。


 香織は何度も頭を下げ、逃げるように会社を出た。  駅までの道を走りながら、彼女の目からは涙が止まらなかった。  自分が信じようとしていた「恋愛」がいかに浅はかなものだったか。そして、世界にはまだ、こんなにも静かで深い優しさが存在していたのか。


 翌朝。  香織は、昨夜の佐々木の言葉を胸に、丁寧に「お守りおにぎり」を握った。 「ママ、ありがとう。昨日の帰り、遅かったんじゃない? 大丈夫?」  美月の心配そうな顔に、香織は力強く頷いた。 「大丈夫よ。会社の素敵な人が、助けてくれたの。だから、美月も大丈夫。信じて頑張っておいで」


 美月を送り出した後、香織は祈るような気持ちで会社へ向かった。  デスクに着くと、すでに部長が待っていた。 「波多野さん! 昨日のデータの件だが……」  香織は叱責を覚悟して背筋を伸ばした。


「完璧だったぞ。それどころか、今後のミスを防ぐためのマクロまで組んであった。制作部からも『今までで一番扱いやすいデータだ』と絶賛だ。よく短時間でここまで仕上げたな」


 部長は満足そうに頷き、去っていった。  香織は、隣の部署のデスクに視線を投げた。そこには、いつもと変わらぬ様子で、淡々とパソコンに向かう佐々木の背中があった。


 彼女はたまらず、彼のデスクへ歩み寄った。 「佐々木さん」  彼は顔を上げ、香織を見ると、少しだけ困ったように笑った。 「おはようございます。娘さん、行けましたか?」


「はい……。本当におかげさまで。お弁当も、おにぎりも持たせることができました。データも、部長がすごく喜んでいて……何てお礼を言えばいいか」 「よかった。……お礼なんていいんですよ。僕も昔、家族がいた頃、大事な日に仕事が終わらなくて、後悔したことがあったから。ただの罪滅ぼしみたいなものです」


 彼はそう言って、再び画面に目を戻した。  何も求めない。食事に誘うことも、連絡先を聞くこともしない。  ただ、困っている同僚を助ける。その「当たり前」のことが、今の香織には奇跡のように思えた。


 昼休み。  いつものメンバーとのランチ。話題は相変わらず、アプリで出会った男の愚痴だった。 「聞いてよ、昨日会った男、既婚隠しだったの! 最悪!」 「身体目当てばっかり。本当、この世にまともな男なんていないのかしら」


 彼女たちの怒声を聞きながら、香織はふと、窓の外に広がる青空を見上げた。  半年前なら、自分も一緒に憤っていた。  けれど、今の香織の心の中には、昨夜見た佐々木の、あの静かなタイピングの音が残っていた。


「……ねえ、みんな」  香織は、おにぎりを一口食べてから、穏やかに口を開いた。 「アプリで見つからないからって、まともな人がいないって決めるのは、まだ早いかもしれないよ」


「え? 何それ、香織さん、まさか誰か見つけたの?」  真由美が目を輝かせる。 「ううん。ただ……一番大切なものは、案外、画面の外にあるのかもなって。そう思っただけ」


 香織は、自分の心の中に小さな灯が点るのを感じていた。  それは、アプリで無理やり燃え上がらせた、いつか消えてしまう派手な焚き火ではない。  暗い冬の夜を、ずっと静かに照らし続けてくれるような、本物の灯火。


 彼女はまだ、これが恋だとは認めなかった。  けれど、佐々木の座る隣の部署の方向へ、彼女の視線が自然と向いてしまうことは、止められなかった。    二人の距離が動き出すのは、それから三ヶ月後のことだった。


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