甘美な罠と、深夜の残響
第3章:甘美な罠と、深夜の残響
マッチングアプリの世界は、一度足を踏み入れると、時間の流れが現実とは異なる速度で動き出す。 ケンジさんとの「音信不通」という洗礼を受けた翌日、香織はランチタイムの食堂で、真由美にそのことを報告した。
「一回会って返信なし? あー、よくあるよくある」 真由美はサラダを咀嚼しながら、事もなげに言った。 「男の人ってさ、会うまでは必死だけど、一度会って『自分の想像してたのと一ミリでも違う』って思うと、途端にシャッターを下ろすのよ。エネルギーの無駄遣いをしたくないのね。失礼な話だけど、それがアプリの作法だと思って割り切るしかないわ」
「作法、か……」 香織は、自分の中にある古い誠実さが、このデジタルな戦場では足枷になっていることを痛感した。メッセージ一通に一喜一憂し、相手の沈黙に傷つく。そんな繊細な神経は、ここではすぐに摩耗してしまう。
「それより、次よ。建設会社の社長さんだっけ? タカシさん。そっちに集中しなさい。経営者っていうのは、決断が早いしエスコートも手慣れてるから。香織さんみたいなタイプには、リードしてくれる人が合うと思うよ」
真由美の言葉に背中を押されるように、香織はタカシさんとの約束を交わした。 場所は、銀座の裏通りにある、看板のない和食店。 ケンジさんの時の「駅ビルのイタリアン」とは、格が違った。
約束の金曜日。香織は、美月に「今日は仕事の後に少し用事があるから、夕飯は適当に食べてね」とメールを送った。 美月からは『了解! ママ、デート? 頑張ってね(笑)』という茶化すような、けれど温かい返信が来た。娘の応援が、今の香織にとっては唯一の免罪符だった。
お店の前に立つと、すでにタカシさんが待っていた。 四十六歳。仕立ての良い濃紺のスーツを完璧に着こなし、手首には重厚な腕時計が光っている。プロフィール写真よりも、実物の方がずっと精悍で、何より「自信」を纏っていた。
「カオリさんですね。はじめまして、タカシです」 低く、落ち着いた声。彼は自然な動作で香織の肩に手を添えるわけでもなく、けれどエスコートするように店内に促した。
店内は、凛とした空気が漂うカウンター席。 出てくる料理はどれも芸術品のようで、器一つとっても香織の家にあるものとは次元が違った。 「ここは、大切な客人を接待するときによく使うんです。カオリさんにも、ぜひこの味を知ってほしくて」
タカシさんの会話は完璧だった。 仕事の苦労話も鼻につかない程度に織り交ぜ、こちらの話を促す間合いも絶妙だ。彼は、香織が六年間封印してきた「一人の女性としての自尊心」を、高級なワインで薄めるように、ゆっくりと満たしていった。
「バツイチで、お子さんが一人。大変だったでしょう。でも、その強さがカオリさんの凛とした美しさを作っているんですね」 そんな言葉を、彼は照れることもなく、まっすぐ目を見て言った。 香織は、自分が中学生のように赤面しているのを感じた。元夫からは「お前なんて俺がいなきゃ何もできない」「女として終わってる」と罵られ続けてきた。その呪いが、タカシさんの優しい言葉で上書きされていく。
「また、会ってくれますか?」 デザートを食べ終える頃、彼が静かに尋ねた。 「……はい。私でよければ」
その夜、帰り道のタクシー(彼は「女性を一人で電車に乗せるのは心配だから」と、カードで支払いを済ませてタクシーを呼んでくれた)の中で、香織は夢心地だった。 スマートフォンの画面を開くと、アプリにはまだ新しい通知が溜まっている。 『世界には、こんなに出会いがないと思っていたけれど……実は、みんなこうやってアプリの中で繋がっていたのね』
翌日からも、タカシさんとのやり取りは続いた。 彼は忙しい合間を縫って、朝の挨拶、昼の労い、夜の安らぎの言葉を欠かさなかった。 二回目、三回目のデート。 都内の夜景が見えるバー、隠れ家のようなビストロ。 香織は、自分がドラマのヒロインにでもなったような錯覚に陥っていた。
そして四回目のデートの夜。 食事を終えた後、車の中で彼は静かにハンドルを握ったまま、香織を見つめた。 「カオリさん。僕は、あなたを本気で大切にしたいと思っている。……今夜は、帰りたくないな」
心臓が喉から飛び出しそうだった。 四十を過ぎた大人の男女だ。その言葉が何を意味するかは分かっている。 でも、私たちはまだ「付き合おう」という明確な言葉を交わしていない。 けれど、これほどまでにマメに連絡をくれ、高価な店に連れて行ってくれ、優しい言葉をくれる彼が、遊びであるはずがない。 香織は、自分に言い聞かせた。 『もう、私たちは若くない。言葉よりも、行動が愛を語ることもあるはず』
「……私も、同じ気持ちです」
ホテルの一室。 窓の外には、宝石を撒き散らしたような東京の夜景が広がっていた。 香織は、久しぶりに他人に肌を触れられる緊張と、彼への信頼を天秤にかけ、震える手で彼のシャツのボタンに指をかけた。
それからの交際は、密度の濃いものになった。 二週間に一度、必ず会う。デートの最後は、決まってあのホテルだった。 香織は、完全に彼に溺れていた。 職場のランチタイムでも、真由美たちの話がどこか遠くに聞こえた。 「最近のアプリ男は、エネミー(敵)ばっかり」と嘆く彼女たちを尻目に、自分は「当たり」を引いたのだと確信していた。
けれど。 幸福の絶頂にいた香織の中に、小さな「違和感」という名の染みが広がり始めたのは、三ヶ月が過ぎた頃だった。
彼は「バツイチで子供はいない。今は都内のマンションで一人暮らしだ」と言っていた。 なのに、一度も彼の家に招かれたことがない。 「仕事の資料が散乱していて、とても女性を呼べる状態じゃないんだ」 そう言って、彼は笑って誤魔化す。
旅行に誘っても、 「今はプロジェクトの正念場なんだ。落ち着いたら、絶対にハワイにでも行こう」 そう言って、直近の週末さえも「急な仕事」でキャンセルされることが増えた。
そして、運命の夜がやってくる。
その日も、都内のホテル。 事が終わり、タカシさんは「少し汗を流してくる」とシャワー室へ消えた。 ベッドに残された香織は、サイドテーブルに置かれた彼のスマートフォンが、短く何度も振動するのに気づいた。
最初は無視しようと思った。けれど、深夜の十一時を過ぎている。 仕事の連絡にしては、あまりにも頻繁すぎる。 不意に、画面が点灯した。
【理恵:ねえ、いつ帰ってくるの? 娘が寝る前にパパとお話ししたいって言ってるよ】
時が止まった。 理恵。 娘。 パパ。
香織の全身から、血の気が引いていくのが分かった。 指が、勝手に彼のスマートフォンへ伸びていた。 ロックはかかっていない。……いや、彼女が来るから、あえて解除していたのか。自分を信じ込ませるために。
メッセージアプリの履歴が、無慈悲に並んでいる。 『明日の娘の誕生日プレゼント、忘れないでね。リカちゃんハウス、トイザらスで予約してあるから』 『今日も遅いの? 身体に気をつけてね。パパが頑張ってくれるから、私たち幸せだよ』
視界が歪む。 香織は、部屋の隅に置かれた彼の高級な革製の紙袋に目をやった。 今日、彼が「仕事の資料だ」と言って持っていたものだ。 中を覗くと、そこにはピンクのリボンでラッピングされた大きな箱が入っていた。
「……うそ」
シャワーの音が止まった。 ドアが開き、湯気を纏ったタカシさんが、タオルを腰に巻いて出てくる。 「お待たせ、カオリ。……どうしたの、そんな顔して」
香織は、震える手で彼のスマートフォンを掲げた。 「理恵さんって、誰? 誕生日の娘さんって、誰?」
タカシさんの顔から、一瞬にして「完璧な紳士」の仮面が剥がれ落ちた。 彼は立ち尽くし、それから低く溜息をついた。 「……見たのか」 「答えて。あなたは独身じゃないの? 離婚したって、あれは全部嘘だったの?」
「離婚するつもりなのは、本当だ。妻とはもう冷え切っている。ただ、子供がまだ小さいから、今はまだ籍を抜けないだけで……」 「嘘よ!」 香織は叫んだ。 「誕生日プレゼントを買って、家族が待っている家に帰る。あなたは、ただの『不倫』を楽しんでいただけじゃない。私を、何だと思ってるの? アプリで適当に釣った、暇つぶしの道具?」
「そんな風には思っていない。カオリさんといる時は、本当に癒やされていたんだ」 「癒やし? 自分の都合のいい時だけ会って、ホテルに来て、家族の元へ帰る。それを癒やしって呼ぶの?」
香織は、ベッドに散らばった自分の服を、なりふり構わずかき集めた。 涙が溢れて止まらない。情けなくて、悔しくて、自分が汚らわしい存在に思えた。 元夫から逃げ出し、やっと手に入れた平穏な生活。それを自ら壊し、誰かの家庭を壊す手伝いをしていた。
「じゃあ、明日の朝まで、私と一緒にいてくれる?」 香織は、最後の意地で聞いた。 「明日の朝、そのプレゼントを私と一緒に捨てて、ここに居てくれる? 家族を捨てて、私を選ぶ覚悟があるの?」
タカシさんは、黙り込んだ。 その沈黙が、すべての答えだった。
「……最低」
香織は、靴を履くのももどかしく、ホテルの部屋を飛び出した。 背後で彼が名前を呼ぶ声が聞こえた気がしたが、振り返らなかった。
エレベーターの中で、彼女は震える指でスマートフォンの画面を叩いた。 設定、アカウント消去、アプリのアンインストール。 一瞬で、何百人という男たちの顔と、甘いメッセージが消えた。 何も残らなかった。 手元に残ったのは、深夜の冷たい空気と、ボロボロになった自分の心だけ。
「やっぱり……男なんて、みんな同じだ」
夜の街へ駆け出すと、冷たい雨が降り始めていた。 彼女の「二度目の春」への挑戦は、最悪の形で幕を閉じた。 いや、これは、本当の再生への、長くて苦しい冬の始まりに過ぎなかった。




