選別の迷宮
第2章:選別の迷宮
オフィスに到着しても、スマートフォンのバイブレーションがポケットの中で微かに震え続けているような錯覚に陥っていた。 香織はデスクに座り、パソコンを起動させる。画面に並ぶ無機質な数字の羅列に目を凝らしながらも、意識の半分はバッグの底に沈めたスマートフォンに向いていた。
「香織さん、おはよう。……なんか、今日ちょっと顔色いいんじゃない?」
隣のデスクに座る後輩の梨沙が、コーヒーカップを片手に小首をかしげた。 「え? そう……? 多分、昨日しっかり寝たからかな」 咄嗟に嘘をつき、香織はキーボードを叩く指に力を込める。嘘をつくことへの後ろめたさよりも、自分の中に「秘密」があることの妙な高揚感が勝っていた。
午前中の仕事は、驚くほど手につかなかった。取引先からの電話を受けていても、書類を作成していても、頭の片隅では今朝見た「通知の山」がフラッシュバックする。 これほどまでに、世の中には「出会い」を求めている男たちがいるのか。そして、自分のような平凡な中年女性に、これほどまでの需要があるのか。 それは自信というよりは、得体の知れない恐怖に近い感覚だった。
待ちに待った昼休み。 いつものように真由美、佐藤先輩、梨沙とのランチの席。香織は席に着くなり、声を潜めて切り出した。
「あの……昨日、登録してみたの。そうしたら、朝起きたら通知が百件近く来てて……」 「おめでとう! 洗礼を受けたわね」 佐藤先輩が、我が事のように嬉しそうに手を叩いた。 「百件! さすが香織さん。やっぱりその『しっとり感』が受けるのよ。最近のアプリは、二十代の元気な子より、少し影のある美魔女系の方がウケがいいってデータもあるしね」
真由美がスマートフォンを覗き込もうとする。 「ちょっと見せて。どういう層から来てる? 年下? それともおじさま?」 香織はおそるおそる画面を差し出した。
「あー……これはダメ。この『はじめまして!一目惚れしました!』って二十五歳の男、絶対マルチ商法か勧誘よ。この『今夜会えませんか?』って人は論外、完全に身体目当て。あと、この『年収三千万』って自慢してるおじさんは、たいてい経歴詐称ね」
真由美の流れるような鑑定に、香織は目を丸くした。 「そんなに……偽物が多いの?」 「偽物っていうか、みんな『数撃ちゃ当たる』でやってるのよ。男なんて、とりあえず可愛いと思えば誰にでもコピペのメッセージを送る生き物。返信が来たらラッキー、くらいのギャンブル感覚ね」 梨沙も頷く。 「そうですよ。あと、既婚者も多いから気をつけてくださいね。遊び慣れてる人は、プロフィールの書き方がとにかく上手いですから」
香織の胸の鼓動が、急速に冷めていくのが分かった。 あんなに舞い上がっていた通知の嵐は、要するにダイレクトメールのようなものだったのだ。誰でもいいから開封してくれればいい、そんな無責任な欲望の束。
「でもね、香織さん」 佐藤先輩が、真剣な顔で香織の手を握った。 「その中には、砂金みたいに一粒か二粒、ちゃんと誠実な人も混じってる。それを見極めるのが、私たちの年代の『目利き』の見せどころなの」
「目利き……」 「そう。年齢が近くて、自分の境遇をちゃんと明かしていて、メッセージが丁寧な人。まずはそこだけに絞って見てみたら?」
その日の夜。 夕食の後、美月は塾へ出かけていった。 「行ってきます。ママ、お風呂ゆっくり入りなよ!」 玄関の閉まる音を聞いて、香織は深呼吸をした。
湯船に浸かり、立ち上る湯気の中でスマートフォンを取り出す。防水ケース越しの画面は少し曇っていたけれど、そこにある文字ははっきりと読み取れた。 彼女は、真由美たちの助言に従い、条件を絞ってメッセージを読み始めた。
二十代、三十代前半は除外。あまりにも若すぎる人は、自分の現状とは合わない。 年収自慢や、キラキラした海外旅行の写真ばかりの人も除外。 最後に残ったのは、数名の「落ち着いた雰囲気」の男性たちだった。
その中に、一通のメッセージがあった。
『はじめまして。プロフィールを拝見しました。高校生のお嬢様を育てていらっしゃるとのこと、毎日お疲れさまです。私も五年前に離婚しており、子供とは離れて暮らしていますが、カオリさんの「娘との時間を大切にしながら、自分の人生も歩みたい」という言葉に、深く共感しました』
アイコンの写真は、少し控えめに微笑む、グレーのセーターを着た男性。 年齢は四十三歳。同い年だ。 名前は「ケンジ」。 派手さはないが、言葉の端々に、人生の酸いも甘いも噛み締めてきたような穏やかさが滲んでいた。
「同い年、バツイチ……」 香織は、指先がわずかに震えるのを感じた。 もう一人、気になる人がいた。 四十六歳の「タカシ」。建設関係の会社を経営しているという。 『美味しいものを食べるのが好きです。いつかゆっくり、落ち着いた場所でお話しできれば嬉しいです。お互い、これからの人生を楽しめるパートナーを探せればいいですね』
どちらも、今までの香織の人生には登場しなかった種類の男性たち。 けれど、メッセージの向こう側に、確かに「人間」の温度を感じた。
「返信……してみようかな」
お風呂上がり。髪を乾かすのももどかしく、香織はベッドに潜り込んだ。 液晶の光が暗い部屋を照らす。 『はじめまして。メッセージありがとうございます。共感していただけて嬉しいです。私も、久しぶりのことなので少し緊張していますが、よろしくお願いします』
ケンジさんと、タカシさん。 二人に、ほぼ同じ内容の返信を送った。 送信ボタンを押した瞬間、スマートフォンを放り出し、シーツを被った。 顔が熱い。 四十三歳にもなって、こんなことで胸が騒ぐなんて、自分でも呆れてしまう。
翌朝。 いつものように、重い瞼をこすりながらスマートフォンをチェックする。
――返信が来ていた。二人ともだ。
ケンジさんからは、 『返信ありがとうございます! 朝から嬉しい気持ちになりました。今日もお仕事、頑張ってくださいね』 タカシさんからは、 『おはようございます。カオリさんからの返信を待っていました。素敵な一日になりますように』
その日から、香織の日常は一変した。 通勤の合間、昼休み、家事の合間。 誰かと繋がっているという感覚。 「今日のお昼はこんなものを食べました」「仕事で少し疲れたけれど、カオリさんのメッセージで癒やされました」 他愛もない言葉のキャッチボール。 それは、長年忘れていた「女としての呼吸」を取り戻す作業のようだった。
美月が塾で遅くなる日。香織は一人、キッチンで野菜を刻みながら、ふと鼻歌を歌っている自分に気づいた。 「何年ぶりだろう、こんな気持ち」 男の人とやり取りをすることが、これほどまでに生活に色彩を与えるなんて。
やり取りを始めて二週間。 先に動いたのは、同い年のケンジさんだった。
『カオリさん、もしよろしければ、一度お食事でもいかがですか? 娘さんのご予定が大丈夫な時に、一時間か二時間だけでも』
心臓が跳ねた。 画面を見つめたまま、香織は台所に立ち尽くした。 会う。 それは、アプリという仮想の世界から、現実の肉体を持つ世界へ踏み出すことを意味する。
美月の塾の日なら、夜の数時間は空く。 香織は迷った末、カレンダーを確認して返信を打った。 『はい、ぜひ。来週の火曜日なら、娘の塾があるので少しだけお会いできます』
当日。 香織は、会社を定時で飛び出した。 駅のトイレで、念入りに化粧を直す。ファンデーションのノリが悪い気がして、何度もパフを叩いた。 鏡の中の自分は、緊張で少し強張っている。 「大丈夫、ただの食事なんだから。合わなければすぐに帰ればいい」
約束の場所は、駅ビルのレストラン街にある、落ち着いた雰囲気のイタリアンだった。 入口付近でスマートフォンを片手に立っている男性。 グレーのジャケットを着た、プロフィール写真よりも少しだけふっくらとした印象の男性が、こちらを見て目を見開いた。
「……カオリさん、ですか?」 「はい、波多野です。はじめまして」
ケンジさんは、写真よりも少し年齢を感じさせた。けれど、その目は写真以上に優しげだった。 「よかった、来てくれて。……僕、写真より太ってるって思いましたよね? すみません、最近少し幸せ太りというか、仕事のストレスで食べてしまって」 照れくさそうに笑う彼を見て、香織の緊張がふっと解けた。 「いいえ。私こそ、写真よりもだいぶ老けてるって思われてないか心配で」 「そんなことないです。実物の方がずっと、綺麗だ」
食事は、穏やかに進んだ。 お互いの仕事の話。離婚の原因――彼は、元妻との価値観の相違だと言った。そして、娘の話。 彼は香織の話を、遮ることなく最後まで丁寧に聞いてくれた。 「カオリさんは、本当に娘さんを大切にされてきたんですね。尊敬します」
その言葉だけで、六年間の苦労が報われたような気がした。 けれど。 食事が終わる頃、香織の心の中には、ある「凪」が生じていた。 彼はいい人だ。誠実で、優しくて、文句の付け所がない。 でも、何かが足りない。 胸が締め付けられるような予感も、もっと知りたいと渇望するような情熱も、そこにはなかった。
お店を出ると、夜風が頬を撫でた。 「あの、もしよかったら、もう一軒だけ、近くに静かなバーがあるんですけど」 ケンジさんの誘いに、香織は時計を見た。 「すみません、そろそろ娘が帰ってくるので、これで失礼します」 「……そうですか。残念ですが、また誘ってもいいですか?」 「はい。今日はありがとうございました」
電車の中で、香織は丁寧にお礼のメッセージを送った。 『今日は楽しい時間をありがとうございました。ご馳走様でした』
しかし、その夜。そして翌朝になっても、彼からの返信はなかった。 既読はついている。けれど、沈黙。
「……あ」 香織は、不意に気づいた。 向こうだって、「目利き」をしていたのだ。 彼にとって、私は「二回目」を誘いたい相手ではなかったのかもしれない。あるいは、私が断ったことで、彼はプライドを傷つけられたのかもしれない。
アプリの世界の残酷さが、じわりと身に沁みた。 昨日まであんなに親密にメッセージを交わしていた相手が、一度会って「違う」と思われた瞬間に、ただの他人以下の存在になる。
「世の中、そう甘くないわね」
香織は自嘲気味に呟き、スマートフォンを置いた。 けれど、悲しんでいる暇はなかった。 画面には、もう一人の男性――タカシさんから、新しいメッセージが届いていたのだ。
『ケンジさんとの食事はどうでしたか?……なんて、聞いたら失礼ですよね。僕とも、一度会ってくれませんか? 美味しい和食のお店を予約します』
香織は、少し迷った後、再びキーボードを叩き始めた。 一度の失敗で、諦めるわけにはいかない。 彼女の中の「網」は、まだ投げられたばかりなのだから。




